思惑は十人十色

「ダサいといったら、ないな」


 ヤシュルンの悪態が路地裏に響く。誰もそれを咎めない。

 イチカリダの市街地の奥は、既に無人地帯と化している。以前、ここに暮らしていた人々は、どこの盆地の出身者だったのだろうか。或いはエディマみたいに、ここ旧市街が故郷という立場だったのか。だが、女子供は既に避難し、男達は武装して、それぞれ固まって行動している。

 早朝の決戦の後だから、曇り空とはいえ、屋外は明るい。しかも、今の俺達は二十人近くもいて、それなりに大所帯だ。黙っていようがいまいが、隠密性など、既にない。


「そこの宿だ」


 ヤレルが指差した。彼らの拠点だ。


 さすがに少々手狭だった。

 ヒシタギ一門の武人が十名ほど、そこへヤシュルンとその仲間が五名ほど。更にアドラットと俺、ノーラ、ルーク、そしてドロルまで。雑魚寝部屋とはいえ、魔物討伐隊の備品が木箱に詰まっているのもあり、それほど広さはなかった。


「して、ファルス殿、この者達は」

「タンディラール王が派遣した、暗殺部隊ですよ」


 ヤシュルンは苦々しげな表情を浮かべるが、文句は言わなかった。もう、いろんな意味で手遅れだ。あそこでゴーファトを始末できていれば。朝日に照らされる暗殺者。なんて間抜けなんだろう。


「お役目ご苦労である」

「そいつはどうも。で、ファルス、彼らは」

「ワノノマの魔物討伐隊です。パッシャを付け狙っている」

「ああ」


 これ以上の説明は不要らしい。

 しかし、いまや同じ敵を倒そうという、いわば目的を共有する仲間であるはずなのに……なんとも居心地の悪い空気が漂っていた。


「で、そこのオッサンは何なんだ」

「えっと、アドラットといって」

「個人の意志でゴーファトを討つために参りました」

「けっ」


 ヤシュルンは、吐き捨てた。


「トドメを刺せそうなところでもったいぶりやがって」

「ヤシュルンさん、それは違います」

「何がだ」

「どう転んでも、あのマバディとかいう黒尽くめの奴が庇っていたはずです」


 あれが影から出てくるのでもなければ、ゴーファトに逃れる術はなかった。アドラットが無意味に遊んでいたわけではない。それに、そこを指摘するなら、ヤシュルン達こそ遊んでいたのだ。

 魔物討伐隊や暗殺部隊の乱入は、予想外のものではなかった。俺とアドラットはそれを計算に含めていたわけではなかったが、彼らが動いてもおかしくはなかった。

 なぜなら、ゴーファトは前夜に、ノーラ達の処刑を触れ回っていたからだ。これでファルスが動く、となればそこにパッシャの関係者も顔を出すかもしれない。それでヤレル達は、広場の近くに陣取って、決定的な瞬間を待ち受けていた。ヤシュルン達も、その辺の事情は同じだ。

 ただ、ゴーファトの暗殺のほうが主目的であった彼らについていえば、アドラットが最初の一撃を見舞った時点で、既に戦闘に参加していてもよかったのだ。そうしなかったのは、自分達が発見されるのを極力避けたいという、隠密ならではの思考回路があったからだ。

 それが、うっかり標的に逃げられるとなって、仕方なく顔を出した。だが時既に遅く、ゴーファトはナイザに背負われて、あっさり城の中に引き取られてしまった。


「これで、僕の言っていたことを少しは信じていただけたでしょう。本当にパッシャの幹部には、物凄い力があるんです」


 影の中から這い出てきたマバディ。何度斬りつけられても力を増すばかりのハイウェジ。地中に潜み、爆裂する拳を叩きつけるモート。並外れた体術を誇るウァールに、一流の魔術師であるデクリオン。

 しかも、彼らすべてを凌駕するほどの力を有しているのが、あのアーウィンなのだ。


 ヤレルも頷いた。


「長年、武を練るために日々を過ごしてきた我らといえども、あれほどとなれば、正面から打ち破る自信はござらぬ」

「しかも、今は城の中ですから……」

「いい。それより、せめて情報を確認したい。こいつらは何なんだ」


 ヤシュルンの視線の先にいたのは、ノーラ達だった。


「そいつがノーラだな? あとは……ルークとドロル、か。一体何をしでかしたんだ」


 視線が集まったのを自覚して、ノーラが口を開いた。


「私は、タマリアを逃がしに行ったの」


 やっぱりそうだったか。


「あの横にいた娘の片方であろう」

「ゴーファトに捕まってひどい目にあっていたから、街中の牢獄から救い出して、逃げようとしたんだけど」


 じっと俺を見て、それからヤレルの方に向き直り、続きを言った。


「正直、何が起きたか、わからなかった。街の中を歩いて逃げようとしたら、何かが後ろからやってきて。でも、振り向く前に、意識が」


 それみたことか。

 千里眼、瞬間移動、至近距離からの一撃だ。一発で気絶して、それきりだったんだろう。


「あとは、牢屋の中で……」


 そこで彼女は言葉を濁した。

 自分の魔力については、ヤシュルンやヤレルには伝えないつもりらしい。賢明な判断だ。ただ、彼らは違った解釈をするだろうが。


「ふん」


 鼻を鳴らすと、ヤシュルンの関心はルークとドロルに移った。


「お前らは」

「僕は、ルークといいます」

「何をやらかした」

「何もしていません。主人のプルダヴァーツ様は、僕をゴーファト様に売るためにスーディアまでやってきたのですが、買っていただけず……それが昨夜、タシュカリダの主人の宿までいきなり兵士がやってきて、お金を払うでもなく、僕を連れ去ったんです。それだけです」


 なんとまぁ、なりふり構わずだ。


「じゃ、お前はドロルか」

「僕は……ゴーファト様の所有物です」


 不承不承といった様子で、彼はなんとか言葉を口にした。


「ルークとそんなに違いはありません。いつも通りの仕事をしていたら、いきなり呼び出されて拘束されました。それだけです」

「仕えていたのにか」

「寝耳に水でした」


 ともあれ、これでドロルは、ゴーファトからも切り捨てられたわけだ。本当に行く場所がなくなってしまった。

 そんな彼を、ヤシュルンはじっと見据えていた。本来なら、ゴーファト暗殺の犯人に仕立て上げるはずの人物。それが今更になって、手元にいる。俺は俺で、彼の顔をまっすぐ見られなかった。


「まぁ、いい。となると……」


 ヤシュルンは、ドロルに強い関心を示した。


「ファルス、彼の身柄は預かっていいか?」

「えっ」

「城内の間取りその他、詳しい情報を知っているはずだ。聞き出した上で、今後の作戦に役立てたい」


 そう説明してから、彼はドロルに向き直った。


「お前は主人に裏切られた。なら、こちらに手を貸しても、恥ではないぞ。どうだ?」


 ドロルは返事をせず、じっとヤシュルンを見つめた。


「心配するな。ことが片付いたら、それなりには報いてやるさ。損する話じゃない」


 俺はまったくその発言を信じていなかった。用済みになったら、冤罪を背負わせて始末するんじゃないか。それくらいはやりそうだ。


「……当面は、そのほうがいいかもしれません」

「よし、決まった」


 ヤレルが口を挟んだ。


「詳しいことがわかり次第、我々にも伝えて欲しい。ただ」

「わかってる。俺達がこのまま、ずっと固まっているのは、下策だ」


 ゴーファトの兵は、少なくとも四桁はいる。それに対して、ここにいるのはたった二十人。一網打尽にされたらおしまいだ。最悪の場合でも、このスーディアの現況について、外部に知らせる要員がいなくてはならない。全滅するわけにはいかないのだ。


 という論理的な理由ならあるのだが、どうもそれだけではない。ここにいる人間は、それぞれが互いに溶け合えない何かがある。

 まず、ヤシュルン達は、誰とも馴れ合えない。存在を秘匿されるべき隠密で、見えない場所で汚れ仕事をする立場だ。そして目指しているのは、究極的にはフォレスティア王家の勝利であり、また成果によって配分される自分達の利益だ。

 一方、魔物討伐隊はというと、こちらは一応、表の社会の人間だ。ワノノマの国是としての女神教、魔王との戦いという大義があり、そのため時に貧窮に耐えながら、各地を巡っている。しかし、本来ならヒシタギ家は豪族であり、貴族相当の身分もある。私欲のために、或いは俗世の党争のために、裏の仕事に手を染める隠密など、軽蔑の対象ではないか。

 そこへファルスやアドラットといった異分子までいる。立場がこれだけ違うと、なかなかに協調するのも難しい。


 分散して機を見計らおうという意見の一致は、互いの衝突を避けたい気持ちの表れでもあった。


「こちらは別の場所に潜伏する。定期的に連絡は取るが……ヤレル殿。ここを放棄した場合の居場所だけ、伝えておいて欲しい」

「あいわかった」


 解散した後、俺はアドラットとノーラ、ルークを連れて街の中を歩いていた。目指すは今朝の出撃前の俺の部屋だ。ノーラの居室はもう、場所が割れているとみるべきだろう。ただ、本当なら俺は一人で行動すべきだ。なぜなら、俺だけはアーウィンの千里眼から逃れることができるのだから。

 しかし、いくつか確認しておきたいことが、まだ残っていた。それに……ノーラやルークを放り出したら、今度こそ守れない。


「さ、お姫様、王子様。こちらがお部屋でございます」


 暗い空気を吹き飛ばしたいのか、アドラットは少しおどけて、二人を部屋に招いた。彼は二人をベッドに座らせた。一つしかない椅子も俺に譲り、自身は床の上に直に座った。

 時刻としてはまだ朝。日差しが雲に遮られているにもかかわらず、じわじわと蒸し暑くなってきている。湿気がかなりあるので、とにかく不快だ。


 腰を落ち着けると、ノーラはブカブカのローブの下から、あの小さなリュックを引っ張り出した。隠し持っていたらしい。常識的に考えて、牢獄に送り込まれた時点で荷物は没収されるから、これはその後、強姦のためにやってきた兵士の意識を支配して、奪い返したのだろう。


「それは?」

「いろいろ、荷物が入っていたから」


 開けると、中には金貨の詰まった革袋、それと僅かな干し肉と乾いたパン。下着の替えが一揃い。それはいいとして、小さな薄汚い壷が二つ。


「これは?」

「タマリアの荷物よ」


 蓋が閉じたままなのに、ほのかにいやな臭いがするんだが……

 片方を手にとって、開けてみる。すると、中には泥みたいな色の、ツンとくる臭いの粘液が詰まっていた。


「うえっ」

「仕事道具だって」


 そう言われて、遠い記憶が頭をかすめた。

 そうだ。リンガ村のクソババァが使っていた、あの薬剤。塗布すると、男性のあの部分が半自動的に使用可能になる。と同時に、女性の側の保護剤にもなるものだ。なにしろババァだったから、潤いも何もあったもんじゃなかった。タマリアも強制的に売春させられていたので、こういう薬がないと、身がもたなかったのだろう。


「もう一つは」


 そう言いながら開けてみる。すると中には、色とりどりのコインが詰まっていた。


「なにこれ」

「お金」

「見ればわかる」


 問題は、なぜそんなものがあるのかだ。

 タマリアは犯罪奴隷だ。だから、主人の許しがない場合、働いて得た金銭を自分のものにできない。いくら売春しても、収入はゴーファトのものになる。あの牢獄の外側に、小さな缶があった。あそこに客が銅貨を放り込む。彼女の手にはビタ一文渡らない仕組みだ。


「なんでこんなもの」

「お客がくれたものなんだって」


 それを聞いて、複雑な思いを抱いた。


 世界はなぜこうもややこしくできているのか。善悪きれいに二分できれば、どれだけ気が楽になるか。

 タマリアはかわいそうな犠牲者で、ゴーファトは悪人である? いやいや、タマリアは領主に暴行を加えようとした犯罪者で、ゴーファトこそ被害者である? いずれにせよ、牢獄に閉じ込められた彼女を、激安の売春婦として扱う男達は不潔な連中?

 だが、見るといい。この金貨、銀貨、銅貨の輝きを。もちろん、ほとんどは銅貨だ。銀貨がやや目立ち、金貨は数えるほどしかない。額としては決して大きくない。それでも、支払う義務のないお金が、どうしてこんなにあったのか?

 現実は、そう簡単には割り切れない。彼女のもとに通う男達もまた、アグリオの社会においては弱者だったのだ。そもそも十分にお金を持ち、妻や妾もいる男が、こんな不潔な牢獄で女を抱くはずがない。大半は憂さ晴らしのために、自分より弱い誰かを叩くために、彼女を襲った。

 とはいえ、一部には我に返る男達もいたのだ。相手は犯罪奴隷で、彼らはそれを痛めつける側。なのに、自分の素顔を埋める胸を他に見つけられなかった。相手が逃げられないから、誰よりも弱い立場だから、そうであればこそ、やっと肩の荷を降ろせる。楽になれる。唯一受け入れてくれる相手に、愛着すら抱いたのかもしれない。

 そんな彼らの善意、罪滅ぼし、ないし一方通行の愛情が、このお金なのだ。彼女が受け取ってくれたことで、確かに彼らは救われたに違いない。


「じゃあ、これはタマリアのものだ」


 壷を返しながら、俺は溜息をついた。


「それで、アドラット……いや、アドラットさん」

「いやいやご主人様、呼び捨てのままで結構ですよ?」

「お芝居してる場合じゃないんですよ」


 出発前に教えてもらったのは、彼もまたゴーファトを討つためにやってきたということ。女神の騎士だなんて、聞いてない。


「あなたは誰なんですか」

「ワン」


 保健所に送りつけてやろうか。


「まさか、おとぎ話の中にしか出てこないような『真なる騎士』が、まだ生き残っていたなんて、それだけでも驚きですが……」

「えっ、どこ? どこにいるんですか、そんな人は?」

「あなたです、あなた」


 話が進まない。

 俺は肝心のところを指摘することにした。


「気になっているのは、あの剣です」

「え? ああ、どこに消えたんでしょうね」

「ごまかせると思ってるんですか」


 隣でノーラも頷いている。

 何もないところから剣を取り出し、あまつさえ、水色のグリフォンまで召喚してみせた。


「それに、あの技もです」

「技?」

「ゴーファトを倒した、あの二段構えの技ですよ。どこで教わったんですか」


 どうして女神の騎士が、殺人狂の剣技を身につけていたのか。

 三人の視線を受けて、彼は諦めたように目を閉じ、息をついた。


「……私は『真なる騎士』と呼ばれる資格など、持ち合わせてはいない」


 その割には、自分でしっかりそう名乗っていたが。

 もちろん、理由ならわかる。邪悪な権力者を討った後は、女神の騎士として死ななければならないからだ。ただのテロリストで終わるわけにはいかないのだ。


「どういうことですか」


 すると彼は、懐から、古びた装身具を取り出した。燻し銀のネックレス。その先っぽに、小さなプレシャスオニキスが輝いている。


「これが千年前から伝わる、騎士の証だ」

「じゃあ、あなたはやっぱり真なる騎士なんじゃないですか」

「使命をまっとうできない騎士が、騎士と呼べるものか」


 証を握り締めると、彼はまた、懐に戻した。


「私が帝都の出身というのは、本当のことだ。それから、パドマと関係の深い東方大陸の北西部、インセリアで冒険者の真似事をしていたのも、事実ではある。そしてそこで、先代の『真なる騎士』と出会った。私は、彼の道を受け継ぎたいと願った」


 青年時代のアドラットは、貧しかった。両親は移民で、本人は市民権を得てはいたが、貧困からは抜け出せなかった。それで彼は冒険者となり、仕事の多いインセリアで狼を退治して、糊口をしのいでいた。

 だが、彼の中では、自分の境遇についての悩みが渦巻いていた。たまたま貧しい移民の家に生まれたから、今もこんなに苦労している。帝都は正義の都市であるはずだ。魔王を討ち滅ぼし、女神の平和をもたらした英雄の街だ。なのに、そこにいた自分は、正義に疑問を抱いている……

 彼は、自分が裕福になりさえすればいいとは考えられなかった。もともと心の清い人だったのだろう。自らの貧しさゆえに、また無力ゆえに、救えない人達がいるのを苦々しく思っていた。


 そんな彼の前に、先代の『真なる騎士』が現れた。アドラットの才能を見抜いた彼は、自分の後継者になってみないかと誘いをかけた。その時は優しげだった先代の騎士だったが、弟子入りしてからは過酷そのものだった。


「本当に、死ぬかと思ったよ。あの『神仙の山』での修業は」


 剣技だけでは、凡百の戦士と違いがない。神通力に魔術まで使いこなしてこそ、やっと一人前の騎士だと。高いハードルを設定されて、彼は四苦八苦した。

 なんでも、先代もここで修業させてもらったらしい。


「詳しい説明は省くが、あの消えた剣も、魔獣も、神通力によるものだ。それとこの首飾りも」


 小さな銀のネックレス。肌身離さず身につけていたらしく、今まで俺も気付かなかった。


「実は風魔術の触媒であり、魔術道具でもある。『神仙の山』には職人がいてね……それも、寿命を延ばして、その時間を修業にあてている」

「寿命を……伸ばす?」

「ああ、そういう神通力もあるらしい。普通の人間には寿命がある。生きているうちに技を究めつくすのは難しい。だから、ああして彼らは自分の命を延ばすんだ」


 やはり、東方大陸の北部、神仙の山には不死の手がかりがあったのか。


「アドラットさん、あなたはなぜ、その神通力を得ていないのですか?」

「私? まず、神通力の習得は、個々人の適性に大きく左右されるし、それに必要なかった」

「なぜ? 長生きすれば、その分強くもなれますし、長い間、一人でも多くの人を救うことができるじゃないですか」


 すると彼は首を振って苦笑した。


「騎士たるもの、どこで命を落としてもおかしくはない。三百年の寿命があっても、三年後には死んでいるかもしれない。意味がないよ」


 修業の果てに、彼は今の力を手に入れた。

 師匠となった先代の騎士とともに、彼は各地を旅しては、人々を救ってきた。やがて先代の騎士は、魔物との戦いの中で命を落とした。


「その時にこれを托された。それからは一人で旅をした」


 しかし、女神の騎士の本当の使命とは、腐敗した権力への対抗措置となることだ。この問題を見てみぬふりはできないと痛感し始めた。もともとそれは、若い頃の彼が感じていた不正そのものだったから。

 但し、正義を背負って戦う以上、中途半端な判断はできない。本当の本当に、それが悪であると断言できるほどの証拠がなければ、為政者を討つのは百害あって一利なしだ。その点、帝都も不正に満ちてはいたが、誰を討てばよいのかについては、はっきりとしたことが言えなかった。彼は使命を求めて、西に渡った。


 エキセー地方の小さな港町で下船して、北方の荒廃を噂に聞いた彼は、陸路を旅して事実を確かめた。

 彼が目の当たりにしたのは、まさに反乱を起こす直前の、あのオディウスが支配するティンティナブリアだった。そこでは、帝都の不正が問題にならないほどだった。ティック庄は荒れ果て、城下町は無人同然、バラック小屋が立ち並び、老いも若きも飢えている。俺も体験したが、アドラットも貧しい乞食や娼婦に、随分と纏わりつかれた。


「討つべし、と結論が決まった。私はシャーヒナに跨って夜空を舞い、城壁に降り立った」


 並みの相手であれば、アドラットに敵うはずもなかった。あとは一気に伯爵の居室を目指して、首級を挙げるだけでよかった。しかし、そこに思いもかけない強敵が立ちはだかったのだ。


「あのサハリア人の剣士は、並外れていた」

「アネロス・ククバンですね」

「彼がそうだったと知ったのは、ずっと後のことだがね」


 とはいえ、アネロスにとってもアドラットは、手の抜ける相手ではなかった。切り結ぶことしばらく、手強いとみたアネロスは、あの秘剣で決着をつけようとした。


「その時に受けた傷が、これだ」


 彼は服を引っ張り、首元を見せた。首に残った傷跡は、アネロスの一撃を浴びたときのものだったのだ。からくも命を拾ったのはよかったが、これで勝敗がついてしまった。


「私は、その一撃を浴びて、避けようとしてエキセー川に墜落しそうになった。シャーヒナを呼び出せなければ、あのまま死んでいただろう」


 それでも、この時点でアドラットは半死半生の状態だった。まさに命からがら逃げ延びた彼は、山中に潜伏して傷を癒した。真なる騎士たるもの、一度の敗北で屈服することはない。敗れようとも恥ではない。また戦えばいい。頭の中で、あの技を何度も反芻しながら、次の機会を待った。

 だが、その機会はついになかった。オディウスは王都に向かって出兵し、結局、大勢の犠牲が出てしまった。


「私は……ティンティナブリアを救えなかった」

「それは、あなたの責任ではないのでは」

「それを我がことと考えるのが、騎士ではないか」


 それからまた、冒険者の真似事をしながら、人々を救うために働いた。だが、そんな日々の中で、今度はスーディアの悲惨を耳にする。

 俺が出会ったエディマのような悲劇は、氷山の一角だった。アドラットは、大勢の人々がこの地で苦しんでいると知り、事実を確かめるべく旅立った。しかし、アグリオに辿り着いても、そこから先が難しかった。

 ゴーファトは大勢の兵士に取り巻かれている。また、彼自身が優れた武人でもある。前回、事を急いてしくじった経験から、今度は慎重に立ち回ることにした。だが、手がかりが掴めない。なんとか、せめてゴーファトの近くに立つことができれば。


「それで僕、ですか」

「賓客が招かれたと聞いて、どうにかしてお近付きに、と」


 最初から同じ目的をもっていたのだ。ただ、どちらも言い出すことはできなかった。

 それにどの道、アドラットは俺と「協力」なんてできなかっただろう。年端もいかない子供に殺人の手伝いを頼むなんて、騎士の道から外れている。俺がどうやら、王の回し者らしいと気付いてからも、その考えは変わらなかった。


「……これが、私の正体だよ」


 語り終えた彼は、長い息をついた。

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