布告という名の罠
「協力はできかねる」
ヤレルの一言は、率直にして簡潔だった。
薄暗い宿屋の一室。だが、広さはある。ここは、いわゆるドミトリー……安価な雑魚寝部屋だ。例によってスーディアの流儀に従い、窓は小さい。もっとも、時間が時間だ。外からの光など、期待できないが。
いつ何が起きても対処できるようにと、男達は誰もが甲冑を身につけたまま。刀も手放さない。彼らは部屋を取り巻くように配置した木箱の上に腰掛けていた。その中心に座しているのがヤレルだった。
彼の言葉は、はっきり聞こえた。ワノノマの武人は皆、身動ぎもせずに客と主人の会話に耳を傾けている。フォレス語を理解できなくても、意味を求めて嘴を突っ込んだりはしない。
「そんな」
予想していないわけではなかった。それでも、失望は小さくなかった。
「少なくとも、この地にパッシャがいるのは間違いないんですよ。このまま放置すれば、本当に大変なことになる」
「言われること、重々承知。さりながら、明らかならざること多く」
ヤレルは人差し指を立てて、俺とアドラットを説得した。
「パッシャと領主が内通している証拠はどこにあるか」
「目に見えるものは、まだ」
俺は、先ほど破り捨てられた紙片を取り出した。
「ですが、こちらに来る途中で見つけた神殿の址が」
「うむ」
ヤレルは頷いた。
「それがパッシャと領主との関係によるものとの証拠はおありか」
「……いえ」
腕組みして、彼は首を振った。
「察せられる通り、我らはワノノマの魔物討伐隊である。パッシャ、並びに邪悪な種族を討ち滅ぼすために旅をしておる」
「承知しております。では、なぜスーディアに」
「本来は秘中の秘であるが、やむを得ぬ」
座り直し、威儀を正してヤレルは言った。
「姫巫女より龍神の神託が下ったとのこと。この地の封印が解かれしゆえ、疾く駆けつけ、備えること」
封印? じゃあ、やっぱり、あの神殿のことを把握していたのだ。
それでモゥハは危機が迫っていると悟って、姫巫女を通じて魔物討伐隊に命令を下した。
「それなら! 僕がこの碑文の写しを持っていることが証拠じゃないですか!」
「それが領主の手によるものか、証拠は」
「何を言っているんですか。あれだけ多くの少年を連行して殺害できるのが、領主以外の誰だっていうんですか」
するとヤレルは、落ち着いて腕を突き出し、会話に間をおいた。
「承知しておる。ファルス殿の考えは正しい」
「では、どうして」
「それでも動けぬ」
彼の表情には変化がない。だから読み取りにくいのだが、発言からして、こちらに配慮していることは窺える。
「ゴーファトはフォレスティア王に任命された、正式な領主である」
「はい」
「それを外国の、ワノノマの豪族、その家臣の手勢が討ち取ったとなれば、道理が通らぬ」
正論ではある。
しかし、事態はそれどころでないというのも現実で。
「更に申せば、もともと君主ならば、家臣がそのような邪道に陥るのを防ぐ責務もござる。タンディラール王は何をしておられるのか」
だから俺がここにいる。ヤシュルン達も既に送っている。パッシャと繋がっているらしいことにも気付いている。
ただ、現実に存在する脅威が、想定より遥かに大きかった。しかも、そのことをタンディラールは知らず、またこちらから知らせる方法もない。
「……陛下も対策はしている……はずですが、手が足りていないのです」
言葉を選びながら、慎重に説明する。
「六大国の使命を思い起こすのであれば、フォレスティア王の窮状を援け、先んじて邪悪を討つのも不義ではないのでは」
この言葉に、ヤレルは深い溜息をついた。
「我らとて、座視しておればよいと思っておるのではない」
俺が突きつけた言葉は、彼を板挟みにしただけだった。
ヤレルとしては、できれば先陣切って戦いに赴きたいのだろう。パッシャは魔物も同然の敵だし、それと手を結んでいるとなれば、ゴーファトも捕縛したい。力ずくですべてを解決できるのなら。
しかし、実は彼には決定権がなかった。
「せめてこの場にヒジリ様がおいでであれば」
この遠征隊において、ヤレルは副官の身分だった。指揮官に相当するのが、そのヒジリという人らしい。
「ヒジリ様は、いつおいでに」
「わからぬが、遅くなるのではないか。別の隊士を率いて、北方に出発されたところであった。その後に神託が下ったのだ。急いで引き返してこちらに向かってはいると思うが、確たることは言えぬ」
「北方というのは、差し支えなければ、どちらを目指しておいでだったのですか」
「近くではない。タリフ・オリムに出向く予定であったと聞いている。我らはもともと、何かあった時のための留守居として、西方大陸の内海に留まっておった。それゆえ、すぐにスーディアに駆けつけることができたのだが」
要するに、決定権を持った上司が他の案件で出かけてしまい、やむなく予備隊だけで先行するも、状況が困難すぎて迂闊な真似ができないと。
タリフ・オリムを目指したとなると、時期にもよるが、かなりの遠方にいると考えたほうがいい。海路を活用して最短距離で向かったと想定すると、恐らく最寄の港はシモール=フォレスティア王国の西側にあるパラブワンだろう。そこから幹線道路を北上してレジャヤに出て、すぐ北にある山脈を時計回りに迂回して、リント平原の南端をかすめていくルートになるはずだ。
その途中のどこかで、何か魔法か神通力か、はたまた龍神が未知の手段で伝達したのか、とにかく知らせを受け取ったとする。まだパラブワン付近にいたのであれば、海路でルアール=スーディア近辺に移動することになる。ただ、あそこは軍港なので、実際にはスーディアに立ち入る道筋としては南西ルートではなく、少し回り込んだ南東ルートになるはずだ。それこそ、タンパット村みたいな小村落が点在する地域を突っ切って、大急ぎで山越えをすることになる。
この想定でも、数日はかかりそうな気がする。或いはもっと、か。ましてやレジャヤまで北上していたとすると、もうこれは悲惨としか言いようがない。パラブワンまでまた引き返すか、或いは陸路で国境越えをするかだが、どんなに順調でも十日、いや、二週間はかかる。完全に間に合わない。
「ヒジリ様というのは、どのようなお方ですか」
「本土の皇族であらせられる。また、姫巫女の見習いでもあり、ワノノマの民を導く立場にいらっしゃる」
すると、かなりの身分がありそうだ。
そういえば、どこかで聞いた名前でもある。姫巫女候補のヒジリ……
「では、女性で……武人でもある?」
ヤレルは大きく頷いた。
「比類ない」
そんな上司がいるのでは、独断専行は難しいか。といって、手を出さずに終わっても叱責されそうだが……それも承知なのだろう。わかっていて、動けない。確かな証拠を掴んでからなら、まだなんとかなるだろうが。
マペイジィは、この魔物討伐隊と接触したのだろう。それで彼らが動けずにいるのをわかっていた。
「では、仮にですが」
「うむ」
「パッシャとゴーファトの関係を証明できれば、お力を貸していただけるのですね?」
「約束致そう」
これ以上は無益だった。
俺とアドラットは、ヤレル達のいる宿を辞去した。
「ファルス様、まずは休養です。なぁに、ノーラさんもタマリアさんもきっと無事です。気楽に明るくいきましょうよ」
なんでもないさ、と言わんばかりの声色で、彼はあえて明るくそう言い放った。
結局のところ、今日の収穫はゼロに等しい。唯一、アドラットが碑文を解読してくれたのだけが進捗で、あとは誰の協力も得られず、何も発見できずに終わってしまった。
特に気がかりなのは、やはりノーラ達だ。行方知れずになって、ほぼ一日が経過したのだ。俺が心配しているだけで、実はとっくにアグリオから脱出済み……だったら、どんなにいいか。
だから、気持ちだけでいえば、夜通し探して歩き回りたいくらいなのだ。だが、それは悪手だ。
とりあえず、ノーラがいた部屋を見回ってから、また自分達の拠点に戻った。残念ながら、ノーラの部屋に変化はなく、ヤシュルン達のメモも追加されてはいなかった。よかったことを挙げるとすれば、市内の戦闘は夜間に入ってから、落ち着いてくれていたことくらいか。
この騒動の鎮静化は、しかし、領主の軍が市内で優位を保っているからなのではないか。となると、諸手を挙げて歓迎ともいかない。
ただ、アドラットの言う通りだ。
手がかりがない以上は、あれこれ心配するよりしっかり休養を取り、ここぞという場面で動けるように準備しておくこと。肩の力を抜き、俺はいつもの部屋に戻った。
「で、今夜の夕食は」
アドラットが神妙な面持ちで、固くなったパンと古びた干し肉を見比べている。
「残りはこれだけですか」
「どうしても野菜や果物は、残りませんよね」
野菜には水気もあり、季節柄、気温も湿度も高い。保存性に劣る食品から消費すれば、当然こうなる。
「明日あたり、食料の調達に出かけましょうか」
「それくらいは私がやりますよ。ファルス様は目立たないほうがいい」
「そうは言ってもですね……」
俺一人なら、シーラのゴブレットで飢餓を回避できる。だから、食料獲得は、ひとえにアドラットのためだ。
「なら、そこにあるのは全部、あなたが食べてください」
「どうしてそうなるんですか。半分、いや、三分の一で結構ですよ」
「お座り」
すると彼は、立ち上がりかけていたのに、そのまま床に胡坐をかいた。
「好き嫌いはいけません」
「ワン」
最悪の場合、彼に秘密を漏らすことになる、か。労力や戦力を、節約できるところにまわせる状況ではない。
やはり、なぜかはわからないが、彼のことは嫌いになれない。アドラットの中には、何かとても大切なものがあるように感じる。
「よーし、じゃあ、今、エサをやりますからねー」
固いパンをやっと引き千切って、一片を差し出す。
「はい……ヨシッ」
彼は犬の如くにパンに喰らいつき、そのまま咀嚼した。
飲み込んだのを確認して、俺は次は干し肉を千切って差し出した。
「はい……ダメッ」
フェイントに引っかかった彼は、干し肉に食いついてしまった。
「ムグ!?」
そのままどうしたらいいかわからず、硬直している。
その時、窓の向こうから、腹の奥に響く太鼓の音が聞こえてきた。
「布告! 布告ぅっ!」
若い男の声だ。布告、つまり、この地の領主の公式な命令を伝えるということだ。
ゴーファトが、今更何を? 市内がこの状況では、命令に従う住民もそうはおるまいに。
「明朝、紅玉の刻! フリンガ城前の広場において! 領主並びに国王への反逆罪により、右五名の者を処刑するっ!」
俺とアドラットは、身動ぎもせずに耳を傾けた。
「ピュリス市民、ノーラ・ネーク! 侍女、オルヴィータ・トゥーム! 譲渡奴隷、ルーク! 譲渡奴隷、ドロル! 犯罪奴隷、タマリア!」
馬鹿な!
なぜノーラが……やはりアーウィンが動いたのか。他はともかく、彼だけはノーラの精神操作魔術を防ぎきれるだけの能力がある。それさえ封じてしまえば、あとは多少鍛えただけの普通の少女だ。拉致なんて朝飯前だったろう。
これも、俺のせいかもしれない。俺は拠点を頻繁に入れ替えていた。もちろん、それはアーウィンの奇襲を回避するためだ。彼の千里眼の神通力では、たまたま俺のいる場所を確認した場合であればともかく、俺を直接指定して、周辺の映像を得ることはできないだろうから。
しかし、そんなことをされれば、当然、あちらも考える。ファルスは身をくらませているが、その行動基準は明らかだ。身内を守りたい……であれば、タマリアを保護するためにも動くはずだ、と。だから、パッシャとしては、あの牢獄の周辺を監視すれば、事足りた。
計算外だったのは、先にノーラがタマリアを救出してしまったことだ。いったいどの段階でアーウィンが追跡を開始したのかはわからない。ただ、タマリアが千里眼や探知の神通力を弾き返せるはずはないので、仮にノーラが即座に逃亡を選択していたとしても、発見から捕獲まで、パッシャには何の苦労もなかった。もちろん、奴らにとっては嬉しい誤算だろう。
これで人質が増えた。そして、二人が収容所時代の知人だとわかると、パッシャかゴーファトか、どちらが考えたかはわからないが、出自を同じくする人物を、片っ端からしょっぴいた。
まずい。最悪だ。
人質が一人だけであれば、あえて見殺しにするという賭けもできた。別に死んでもいいというのではなく、相手としても一人きりの人質なだけに、うっかり殺すわけにもいかなくなるからだ。しかし、二人以上いるのなら。一人ずつ見せしめに殺していくことも可能だ。
そして、俺がこれを最悪と認識することも、計算に入っている。だからこそ、わざわざオルヴィータやルーク、果てはドロルまで並べて、水増しを図ったのだから。
どうする? どうしよう? どうしようもない。
行けば、俺はゴーファトの餌食だ。ノーラを捕獲したのがアーウィンなら、あの場に居合わせるか、いなくてもどこかで監視しているはずだ。そして、奴が戦いに介入した場合、確実に俺は負ける。奇跡でも起きれば別だが、少なくとも今、彼を倒す手段はない。
せめてあと二日あれば、違ったかもしれない。アーウィンにピアシング・ハンドは通用しないが、二日あれば、二回は自分の能力を入れ替えられる。三日あればなお良かった。
時間があればどうしたか。黒竜の肉体に乗り換える。その上で、腐蝕魔術のスキルと魔術核を取り込む。そして、その外見のまま強襲を仕掛ける。黒竜の肉体があれば、いかに彼の強力な魔法があろうとも、そう簡単には殺されまい。加えて『腐蝕』の魔術を遠慮なく用いれば……彼には、俺の火魔術なんか通用しないが、腐蝕魔術は特別だ。あれは、あらゆるものを容赦なく破壊し、死滅させる。あの腐蝕ブレスを一度でも正面から浴びたら、さしもの奴も、肉体の修復など覚束ないだろう。
そんな強力な戦闘手段がありながら、どうして今まで準備しておかなかったのか。犠牲を恐れたからだ。腐蝕魔術は、範囲を絞り込めない。使えば無差別殺人になってしまう。それどころか、付近の建物や土地まで汚染され、その悪影響はずっと残るのだ。
黒竜になって戦うというアイディアも、しかし、万全ではない。
それでもなお、アーウィンは俺を殺せる。それだけの実力がある。しかも、腐蝕魔術の無差別攻撃は、本来の救出対象であるノーラ達まで巻き込む危険がある。事情をすべて説明して、アドラットに手伝いを頼んだとしても……それでも助からないかもしれない。
問題点は、まだある。どこかで俺を観察しているであろう使徒に、能力のほとんどすべてを見られてしまうことだ。いや、ここにはマペイジィも来ている。彼は俺に対して友好的ではなかった。つまり、ヘミュービにも知られる。もし、あれがもう一度、俺を始末しにきたら。
どちらにせよ、今となっては絵に描いた餅だ。
現実には……どうしようも、ない。
「アグッ」
いつの間にか、ベッドに腰掛けたまま、項垂れていた。その目の前で、ようやくアドラットが干し肉を嚥下した。
「ということらしいですね、ファルス様」
「……ですね」
「どうします?」
俺は、目を閉じた。
目蓋に浮かんで見える。あの使徒の高笑いだ。結局、俺は身の回りの人達を見殺しにする。不死に至るためなら、それが正解なのだと。
いいじゃないか。
ノーラがスーディアで殺されてしまったのなら、もうリンガ商会を守るも何もない。俺は一人、人形の迷宮に赴き、そこで永遠に眠るだけ。そうなったら、この世の一切の出来事など、なかったも同然になる。
感じる。胸の奥にある熱。あの、いつも俺を突き動かす怒りの炎だ。ただ、今はそれが、俺自身を焼き焦がしている。
「……行きます」
「正気ですか?」
額から、背中から、気持ちの悪い汗が止まらない。
行けば、死ぬ。恐らくだが。或いは死ぬよりもっとひどい運命が待っている。不死を追い求めたこれまでの努力も、何もかもが無になる。
俺は薪だ。殺したはずの正義は、死んでなどいなかった。なおも俺の罪を問い、激しく燃え盛っている。
俺はなんだ? 狂った化け物か? それとも、人か?
どれくらい時間が過ぎただろう。俺は、滲む汗と澱む空気の中で、なんとか絞り出した。
結局、それが俺の選んだ答えだったのだ。
「正気だから……俺は……俺は、人であるために……行く……」
口にしてはいけない。
そう思いながら、俺は。
「わかりました」
普段と変わらない落ち着き払った声で、アドラットはそう言った。
「最後までお供しましょう」
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