ノーラの足取りを追って

「あの噴水の脇の」

「あの宿屋ですか。しかし、表の木戸が開けっ放しだ」


 運がよかったのか、ここまで裏路地をこっそり駆けてきたのだが、誰とも遭遇せずに済んだ。今更、雑兵の一人二人など恐ろしくないが、トラブルは避けたい。殺せば恨みも買うのだから。

 目の前には、古びた丸い噴水がある。アグリオに立ち入ってから、最初にノーラと落ち合った場所だ。雨や噴水自体の水流に削られて、まるで老人の肌みたいに薄汚れている。薄暗いこの夜明けにあっても、噴水は淡々と水を吐き出し続けていた。

 その向かい側、噴水を中心とした丸い広場の先に、ノーラが拠点にした宿屋があった。だが、この非常事態だというのに、表の玄関にあたる木戸は開かれたまま。ただ、周囲に荒れた形跡はない。死体や血痕、砕けた木片といった戦闘の副産物は、見当たらなかった。


「入りましょう」


 頷き合うと、俺とアドラットは小走りになって広場を一気に渡った。


 案の定というか、宿の中はほぼ無人だった。

 がらんとしていて、誰もいない。経営者も従業員も宿泊客も、みんな揃って逃げ出したらしい。それでも奇襲を受けてはたまらないので、ノーラの部屋に至るまでの扉すべてを蹴破っていった。三つ目の客室で、女の悲鳴にこっちがびっくりさせられた。誰かいるかとは思っていたが、なんて声で叫ぶんだ。

 どこかから逃げてきて、どうしようもなくここに転がり込んだらしいが、別にここに泊まっているのでもなく、親族や友人がいるのでもない。今回の紛争について何かを知っているのでもなく、かつ異様なほど怯えていて、会話が難しかった。アドラットは宥めようとしていたが、俺は興味をなくして先に進んだ。


 ノーラの部屋にも、鍵はかかっていなかった。

 そっと扉を押し開ける。


 室内に乱れはなかった。そもそも僅かな荷物で慌てて俺を追いかけてきたのだ。ここにある私物の多くは、必要に応じて現地で調達した衣類や食料が中心で、それも少ししかない。だから痕跡が残りにくいというのもあるが、それにしてもテーブルの上にはティーカップがあり、中にはまだ水も残っているし、足下に物が散乱していたりもしない。

 となると、ノーラは連れ去られたのではなさそうだ。絶対ではないが。アーウィンが彼女の存在を把握していれば、誘拐くらい難しくもない。


「おや」


 ティーカップの下に、一枚の紙が折り畳まれて挟まっていた。指で引っ張って、広げてみる。


『黒い毛並みの鹿へ

 あなたの連れ合いがどこに行ったのかはわからない

 恐ろしい主人があなたを探している

 あなたの姿が見えなければ、待ちきれずに家の外に出るのではないか

 コーザより』


 コーザとはヤシュルンのことだ。そして鹿、つまり、ここではこの俺、ファルスのことだ。

 連れ合いとは、この部屋にいたノーラを意味しているのだろう。してみるとノーラはヤシュルン達によって、既に居場所を特定されていたのだ。彼らは仕事の一環として、俺の身内の保護のためにここまで駆けつけてくれた。しかし、その時、既にノーラはここにはいなかった。

 恐ろしい主人とは、当然、ゴーファトを指している。しかし、奴が俺を探している? 城下の紛争の一部は、領主の兵が惹き起こしているのだろうか。ともあれ、これで可能性の一つが消えた。やはりゴーファトにとっても、あの襲撃者の存在と、その後のアグリオを掻き乱すこの争乱は、想定外だったのだ。

 また、もう一つの可能性、つまりヤシュルン達が手回しして俺を襲撃したというシナリオもなさそうだ。利益より損失のほうがずっと大きいだろうから、これには驚きも何もない。

 ヤシュルンとしては、準備を重ねた計画がフイになったのは残念だったろう。しかし、この状況を利用できないかと考えた。俺がフリンガ城に匿われない限り、ゴーファトとしてはファルスの捜索をやめられない。しかし見つからないとなれば、ついには彼自身が出張ってくる。分厚い城壁の内側にいる領主を殺すのは難しくても、市街地に彷徨い出てくれれば、或いは機会も巡ってくるのではないか。


 俺は彼の作戦に賛成すべきだろうか?

 とにかく、これはヤバいメモだ。今までに他の誰かが読まなかった保証はないが、これ以上、目にする人を増やしてはならない。急いで懐に収めた。


「いましたか」


 後ろからアドラットが踏み込んできた。


「いえ……ですが、最悪ではなさそうです」

「不在、しかし部屋は荒れていない」

「僕の他の知り合いを助けに行ったのでしょう」


 となれば、最優先はもちろんタマリアだ。なぜなら、今のように城下が混乱しているのでもなければ、人目につくからだ。


「行きましょう。時間が惜しい」


 俺達はノーラの宿を後にして、また裏路地に駆け戻った。


「ここにもいない」

「でも、鍵は開けられています。中には誰もいない」


 タマリアが押し込められていた、あの牢獄。やはりノーラはここを目指したのだ。そしてタマリアの救出には成功した。

 それにしても、ひどい空間だ。とにかく、湿気がすごい。それに臭気もかなりのものだ。天井は低くないが、頭上を覆う石組みには、圧迫感がある。奥行きもそれなりにあるが壁から伸びる鎖のせいで、タマリア自身が自由に動き回れる範囲は狭かったはずだ。

 部屋の真ん中にはボロボロになったクッションがあり、それが一際汚らしかった。彼女の寝床兼仕事場だったのだろう。痛々しいのは、薄汚れたコップと皿だ。こんな不潔なもので飲み食いをさせられていたのか。しかも、コップのほうはひび割れている。

 それと部屋の内側にあった、茶色の小さな小瓶はなくなっていた。何かの薬だったのか。持ち去ったらしい。


「次はどこに行きましょうか」

「タシュカリダに戻るしかない、です。順序からすると」


 ノーラが次に向かう先は、ルークの居場所だ。プルダヴァーツの奴隷という身分から解放する。今すぐ買い取れないにせよ、当面の身の安全を確保する必要がある。


「しかし、それは」

「ええ、昨日の襲撃者と鉢合わせるかも」

「では、近くまで行ったら、私が一人で様子見に出ます」

「頼めますか」


 彼は頷いた。

 だが、そこで首を傾げた。


「ファルス様」

「なんでしょう」

「少し引っかかるのですが」


 彼は薄暗い牢獄の中を見回しながら、続けた。


「その、ノーラという少女は、ここでタマリアという女性を助けたと、そのように想定しているんですよね?」

「他に助ける人がいるわけが……」


 そこでハッとした。

 いる。パッシャだ。


 彼らはタマリアの存在を知っていた。しかも、彼らの価値観では復讐即ち世界の修復で、組織にとっての至上の目的の一つだ。となると、ノーラに先立ってタマリアを奪取した可能性もある、か?


「……続けてください」

「はい。この牢獄でタマリアは手足を拘束されて、ろくなものも食べずに過ごしてきた。そんな状態の女性を助けたら、あなたならどうしますか」

「入浴させ、清潔な衣類を与え、食事や水を摂らせて、ゆっくりと休ませたい、です」

「なぜノーラはそうしないのですか?」


 確かにそうだ。

 市内の緊張状態からして、客が直前までいたとも思えない。だからヘトヘトになっているとは考えられないのだが、ここに食事を運んでくれる人もいなかったかもしれない。そもそも長期にわたる拘束、不衛生な環境などがタマリアを苛んでいた。このままルークの回収をするのに、消耗したタマリアを連れまわすのは、リスキーではないか?

 もちろん、拠点としていた宿屋が襲撃された後だったりとか、そういうトラブルでもあれば別だが、見た限りそんな状況ではなかった。入浴や食事はともかく、そもそも危険地帯と化したアグリオで、元気いっぱいとは程遠い、しかも人目を引く金髪の薄汚れた女を連れまわすなんて、実に馬鹿げた判断だ。


 しかし、これも説明はついてしまう。


「それくらい、先を急いでいたのかもしれません」


 本当の理由は別にある。精神操作魔術だ。

 あれで『人払い』をすれば、雑兵どもには見咎められない。タマリアが汚れていようが、金髪がキラキラ輝こうが、そんなのは関係ない。この場合、一番の安全地帯はノーラの傍だ。隠れ家にいたって、誰かに見咎められれば終わりだが、ノーラが人目を遮っているうちは、少なくとも一般人に発見される恐れはない。

 だから、最善のシナリオで考えるなら、彼女は強行突破を選んだとみることもできる。タマリアを牢獄から引きずり出し、その足でタシュカリダに向かう。プルダヴァーツからルークを買い取る? そんな面倒なことはしない。強引に眠らせ、記憶を改竄する。この騒ぎでルークが死んだと、そう思い込ませればいい。で、あとはそのまま、アグリオから脱出。

 ただ、それをアドラットに説明するのは、躊躇われる。


「では、私達も急いだほうが」

「ええ」


 だが、俺の中では焦りが大きくなるばかりだった。

 最善のシナリオが、ノーラによる迅速な救助活動だとすれば、最悪のシナリオは?

 それに、この最善のシナリオは、あまりに性急ではないか? なぜなら、ルークについては時間をかけてもいいからだ。この争乱の中で死ななければだが、後日、王都にいるプルダヴァーツの邸宅を訪ねて、堂々と買い取り交渉をしてもいいのだから。


 イチカリダの街区を北西方向に抜けて、タシュカリダに舞い戻った。自分達が投宿していた建物に近付く。

 まず、ほっとしたのは、あのホテルが焼けていないことだった。なら、俺の荷物もまだあそこに残っているかもしれない。中には、碑文の写しの残りがあるのだ。是非回収したい。

 しかし、問題がある。物陰から観察しているが、通りに兵士達が充満していた。兜も鎧もきっちり身につけている。形状は簡素だが、立派な金属製だ。武器も短槍に盾、腰に小剣と隙がない。どう見てもゴーファトの直属軍だ。


 見つからずに抜けるのは、かなり困難だ。

 ノーラみたいに精神操作魔術を行使できる状態であれば、なんとかなるのだが、それにはピアシング・ハンドの使用回数がネックとなる。スキルと魔術核と、両方取り込まなくては効果が不十分だ。


「これじゃあ近付けない」

「そんなことはないでしょう」

「あの兵士が見えないんですか」

「見た限り、伯爵の部下でしょう? ファルス様に襲いかかってきたりはしないはずです」


 そうだろう。

 しかし、それは俺がおとなしく奴らに捕まる場合に限ってだ。フリンガ城に帰りたいから連れて行け、と言えば、この兵士達は跪きさえする。だがもし、俺が逃げ去ろうとしたら……


 ここで俺が捕まってしまったら、ヤシュルン達は城の外にゴーファトを誘き出すという作戦をとれなくなる。俺としても、ここで捕まるわけにはいかない。ゴーファトには隠れた目的があり、それには俺が関係している。俺が行方不明であり続ける限り、ゴーファトは想定外の状況に振り回され続ける。

 このポジションは、手放したくない。何もわからず彷徨うばかりの俺が、唯一手にした優位なのだから。

 もちろん、確実にゴーファトを葬り去れるだけの勝算があれば、別にここで兵士達に連れていかれても構わないのだが、そうはいかない。城までいって、謁見の間でゴーファトと面会した時、その横にアーウィンが立っていないとは、誰にも保証できないのだ。


「ここはいったん、フリンガ城に避難する、というのも手かもしれませんよ」


 何が何でも城に立ち入りたいアドラットはそう言うが、俺は同意できない。


「今はその時ではありません」

「なぜ」

「……あなたが城に入りたい理由を口にできないのと同じくらい、説明が難しいです」


 アドラットが俺の味方をしているのは、城に立ち入って目的を達する機会を得るためだ。だから、離れられないのは彼の方であって、俺ではない。ただ、そういう力関係だけで、彼を無碍に扱うのも、自分の中では好ましくは思えなかった。

 思えば最初からそうだった。俺は、彼の中に卑しからぬものを見ていた。うまく説明できないのだが、どこかで彼は邪悪な人物ではないと、そう感じていたのかもしれない。だから今、お互いの本当の目的については語り合うことができないでいるのに、奇妙な協調関係が続いている。


「まだ信用していただけませんか」

「あなたは僕の味方だと、そうおっしゃいましたね」

「ええ」

「僕も、たぶんあなたの味方です」


 この一言に、彼は目を見開いた。


「でも、あと少しだけ、待ってください。きっとお力になりますから」


 当面、俺とアドラットは、拠点に引き返すことにした。

 頭上は薄曇りで、もはや人を見分けるのに十分なだけの明るさがある。俺を襲撃した連中のことは、まだ何一つわかっていないのだ。誰がどんな目的で俺を捕らえたいのか、それがわからない以上、アグリオ市内のあらゆる場所が危険地帯と想定すべき状況なのだ。

 但し、それは何も俺達だけに限った話ではなかった。


「うっ……うわぁーっ!」


 区画を一つ抜けるごとに、路地の物陰から周囲を窺う。その時に聞こえてきた悲鳴。

 いやなものを見てしまった。


 そこはいつか見た、無残な懲罰の跡地だった。一区画分が丸ごと焼かれて空き地になっている。黒焦げの地面の上、僅かに残った瓦や石材が砕け散って、足下を埋めている。

 いくつかの柱が立てられていた。もちろん、罪人を吊るすためのものだ。そこにはまだ、遺体が残されていた。連日の雨とその後の晴天のせいで、完全に腐っている。一部は肉が削げて、白い骨も見えている。

 そして、この場にいたのは死者だけではなかった。


「キャハッ、ハハハ」

「ウフフ」


 中年男の野太い悲鳴とは対照的に、まるでお花畑を散歩しているような女達の笑い声。だが……


「ぐっ、や、やめ……ああっ、あーっ!」


 思わず目を背けてしまった。

 五人もの女に取り押さえられた男。その下半身には、何も身につけていなかった。彼の両足の間にしゃがみこんで、金属光沢のある細長い道具を手にする女がいる。そいつがグッと何かを押し込んだ。


「ギーコギーコ」

「ひ、ひいっ、ひいいあがああ!」

「キャーッ!」


 ゴーファトの真似事だろうか。

 何の恨みがあってのことかはわからない。とにかく、女達は彼を去勢した。それも、どうやら鋸で。手元が血で汚れても、なんら意に介した様子はない。それどころか、楽しくてならないようだ。


「きったなーい! あはは!」

「だから今、汚いの、取ってあげたんじゃん、ほら」

「やめてよ、こっち投げないで! キャハ」


 もちろん、ここでお楽しみなのは女だけではない。男にもちゃんと相手がいる。

 少し離れた場所では、二人の男に前後から押さえ込まれた女性が、声すらあげられずに嬲られていた。辛うじて生きてはいるようだが、ぐったりしている。へたりこみそうになるが、男は彼女の髪の毛を引っ張って、無理やり中腰にさせていた。


「そっち譲れよ」

「やだよ」

「なんで俺がケツなんだよ」

「コイントスで負けたからだろ」

「チッ」


 スーディアは血縁主義の社会だ。とすれば、二人の男は、中年男を去勢した女達の親族だろう。もしかしたら夫かもしれない。だが、敵を犯し、殺すという重要なお仕事の最中であれば、これも浮気や淫行のうちに入らないのだろう。


「あーあ、俺もやりたかったな、歯なしババァ」

「次は譲ってやるよ」

「頼むぜ」


 道理で、女が抵抗しないわけだ。

 よく見ると、近くに血溜まりができている。口の中の歯を、ハンマーか何かですべて砕かれ、その後、その部分を快楽の道具に使われているのだ。総入れ歯も可能な前世でもあるまいし、こんな扱いを受けては、どの道長くは生きられまい。


 俺はアドラットに囁いた。


「連中はお楽しみに夢中なようです。このまま通りを渡りましょう」

「……耐え難いことだ」

「今は堪えてください。それにどうせ……」

「わかっています」


 小声でやり取りする。

 アドラットも承知はしている。確かに目の前では、この上ない残虐行為が繰り広げられている。しかし、どちらが善、どちらが悪というのでもない。

 傷つけている側は、どの盆地の人間だろうか? そして犠牲者の側は? けれども、勝った側が負けた側に虐待を加えているだけだ。市内の別の場所では、今、お楽しみの連中の仲間が同じ目に遭っているのかもしれない。

 ここで怒りに駆られて戦ったところで、何の意味もないのだ。むしろそのせいで、いずれかの集団の仲間と勝手に認定され、争いの渦中に巻き込まれてしまう。


 深い息を吐き出したアドラットは、目を見開き、口元を引き締めた。そして誰にともなく、小さく呟いた。


「だからこそ、私がやらねばならないのだ」

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