薄明、垣間見える
まだ窓の外は明るい。だが、そろそろ陽光が橙色を帯びてくる頃だ。
本来なら、この時間にゴーファトの使いの者がやってきて、俺をフリンガ城へと招待していたはずだ。しかし、今はそれどころではなかった。
二日前に拠点にした、今は無人の宿屋。意外にも、無駄にならずに済んだ。あの時、割高ながら、万一のためにと買い込んでおいた食糧も、役に立っている。俺だけならシーラのゴブレットでなんとかなるのだが、同行者がいる現状では、迂闊に取り出すわけにもいかないのだ。
カーテンの隙間を少しだけ指で広げながら、アドラットが外の様子を窺っている。
「ひどいことになってしまった」
重苦しい口調で首を振りながら、彼はそう呟いた。観察をやめ、こちらに向き直ってベッドに腰掛ける。
何が起きているかは、俺も把握はしている。自分達、というよりはこの俺、ファルスを狙った襲撃から逃げ延びたまではよかった。しかし、異変はそれだけではなかったのだ。市街地の至る所で、紛争が起きていた。商店街はみんな扉を閉ざしたまま。静まり返る中、白昼堂々、武器を手にした男達が慌しく駆けていく。そして、敵と見るや、一切に構わず殺しあう。
今、アドラットが確認した窓の向こうは、こうなっている。まるで蓋のない壷みたいに頭上だけ晴れ間が広がっているのだが、その青空に向けていく筋もの黒煙が上がっている。暴徒が街に火を放ったのだ。
「あなたのせいではないでしょう」
俺は静かにそう言ったが、彼はまたもや首を振った。
「いいえ、私のせいでもあるのです」
「なぜそう思うのですか? あなたはスーディアの……」
「いえ。最初に申し上げた通り、私は帝都の出身です。この地域とは、何の縁もゆかりもありません」
だったら、何を気に病むことがあるのだろうか。
「別にあなたはここの統治者でもない。それとも、タンディラール王から、何か密命でも受けていたのですか」
「そういうことではないのです」
彼は真剣な眼差しを向けた。
「目の前で人が傷ついている。気付けなければ、良いも悪いもありません。しかし、積極的に見つけようとすべきですし、見つけてしまったのなら、よりよく振舞うべきです。不幸を知った人には、知ったということそれ自体によって責任が生ずるものです」
なんとまぁ。
自分から苦労を背負い込みにいこうとするその姿勢の、なんと素晴らしいことか。
「私がもう少しうまく立ち回っていれば、或いはこの不幸も避けられたのかもしれなかった。後悔に意味はありませんが、罪悪感は拭い難い」
「あなたは何しにスーディアに来たのですか」
この質問に、彼は目を見開いた。
「特別なことは何もありません。一人でも多くの人を救うためですよ」
俺は肩をすくめた。
「まぁ、いいです。これからどうするかですが……アドラット、あなたには何か希望がありますか」
「そうですね……」
しかし、彼は考え込んでしまった。どうすれば自分の望みに達することができるのか、道筋を描けないのだろう。
「あなたに何も意見がないなら、僕の考えを述べてもいいですか」
「どうぞ」
「まず、ここで生きている僕らの安全を優先する。助けたい人がいても、やりたいことがあっても、すべて二の次です」
災害救助なんかでも、これは大前提だ。無理して救出に向かって二次災害、なんてのが一番、割に合わない。
それは理解できるのだろう。彼も反論はしなかった。ただ、悔しげに唇を噛みはしたが。
「ただ、僕としては助けたい、というか無事を確認したい人がいます」
「それはどなたですか」
「僕のことをご存知なら、こちらも知っているかもしれません。ピュリスのリンガ商会を取り仕切っている、ノーラという少女が、スーディアまで来ているのです」
彼女が万全の状態で警戒を欠かさなければだが、今、街を荒らしている雑兵どもの手にかかることはない。しかし、こういう修羅場に立ち会った経験がほとんどないノーラには、そうした気構えが足りていない可能性もある。覚悟と意志だけはあるにせよ、こういう緊急時における「やりくり」がわからないのだ。一人でいれば、睡眠や休息といった、どうにもならない弱点も生まれてしまう。そこをどう補うか。
「とはいえ、僕自身も追われる身です。彼女がいることを、あまりあちこちに知られたくもない」
「私が一人で行って、確認してきましょうか」
「それができればありがたいのですが、彼女はあなたのことをよく知りません。身を守ろうとして、余計に厄介なことになるでしょう」
「では」
「僕が自分で行こうと思います。こうなる前にスーディアを離れるよう、何度か説得したのですが……だから、見つかりにくい時間帯を選ぼうかと。夜明け前にここを出て、彼女の宿舎を目指そうという考えです」
本当は今すぐにでも行きたいのだが、俺自身が何者かのターゲットになってしまっている。だから、彼女が宿屋で安全を確保していた場合、かえって危険に巻き込むことにもなりかねない。
「わかりました。では、今からでも軽く何か食べて、仮眠をとっておいたほうがいいですね」
「そうなります」
「では、ファルス様は先にお休みください。目が覚めたら、私が休みますから」
俺を先に休ませる……というか、目覚めなければ、夜明けまで彼は徹夜するつもりなのかもしれない。なにやら不思議だが、本当に言葉通り、俺を守るつもりらしい。
俺は逆らわず、先に仮眠をとった。しかし、なんといってもこの一年、俺はセリパシアで一人旅を経験している。無様に朝まで眠りこける、なんてことはない。真夜中を少し過ぎた頃、俺は目を覚まして、彼と交替した。案の定、彼はもっと眠るように言ってきたが、味方ならなおのこと、アドラットは貴重な戦力だ。徹夜なんかで消耗させたくないので、説得して横になってもらった。
外の様子をそっと窺う。
紛争はいまだに続いている。昼間ほど激しい衝突はないようだが、今も市街地のあちこちで火の手がみえる。
ただ、誰であれ休養なしに動き続けることはできない。夜明け前には多少は沈静化するはずだ。紛争の初期はどちらも体力の限り動き回るかもしれないが、長期化するにつれ、組織的な戦いに移行していくだろうからだ。
そしてスーディアでは、三つの盆地に代表される地縁血縁の繋がりが、そうした集団戦闘の基礎となり得る。だんだんと紛争の原因や目的なども、自然と明らかになっていくのではないか。
俺はアドラットではないから、こうして争い始めた人々をどうにかしようとは思わない。ただ、それはそれとして、俺自身の課題がいくつかある。
『ゴーファトを討つ』
まずこれだ。
とにかく、これが片付けば、俺はスーディアから脱出できる。ただ、ヤシュルン達と計画した作戦は、きっと水泡に帰してしまった。
今は情報が少なすぎる。この紛争はゴーファトにとって、想定内のことなのか、そうでないのか。
想定内だとすると、状況はかなりややこしくなる。まず、俺を城に招くというのはフェイクだったことになる。あの襲撃者達はゴーファトが派遣したのだろうか? 何のために? 殺すため? じゃあ何しに俺を呼び寄せた? 今、このタイミングで俺を殺すことに何の意味がある? 或いは捕縛するためだった? それもおかしい。だったら普通に城に招けばいい。急いでいた? 理由にならない。馬車を走らせて「予定より早いけど登城してください」といえば済む。
どうにも論理的な説明ができないので、ではゴーファトの想定外の事件が起きた、と仮定する。しかし、その場合もすぐさま答えに詰まる。では誰が襲撃者を派遣したのか? ゴーファトではない。俺とヤシュルンの計画を察知したなら、正規兵を送るはずだから。パッシャでもない。あんな雑魚どもを動かすくらいなら、アーウィンを使えば済む。ヤシュルンにも可能だが、彼にとってはマイナスにしかならない。
他にプレイヤーはいるのか? ワノノマの魔物討伐隊? ばかばかしい。それなら彼ら自身が乗り込んでくる。第一、ホテルまで沈黙させたのだ。これはつまり、アグリオに地縁をもつ誰かが動いたということだ。
ともあれ、想定外の事件だとすると、次に何が起きる?
要するに、まだチャンスはある。
『ノーラを回収する』
俺がゴーファトを殺すそもそも理由は、ピュリスに暮らす知人を守るためだった。その中の代表ともいうべきノーラが、この紛争に巻き込まれて死んでしまったのでは、何のために戦うのかわからなくなる。
だから、可能な限りノーラを探す。彼女は今、どうしているだろうか?
俺が彼女なら、宿舎に留まって安全を確保する。ただ、ああ見えてノーラには妙にアグレッシブなところがあるから、状況の変化を見て、動き出すかもしれない。
具体的には、ドサクサに紛れてタマリアを救出する、とか。そもそも俺と密に連絡を取り合っているのでもない上、俺がゴーファト暗殺のために活動していることは知っているので、この城下の混乱をみて「ファルスが何かをした」と解釈する可能性もある。好機に動かなければタマリアを助けるなんてできないから、これはあり得る可能性だ。
問題は、どこまで手を伸ばしたか、だ。タマリアだけか、それとも欲張ってルーク、更にはオルヴィータ、ニドまで。今、名前を挙げたうち、後ろのほうになればなるほど、その救出のリスクが大きくなる。特にオルヴィータは城内にいるから、ゴーファトやその配下をやり過ごさなくてはいけない。ニドに至っては、そもそも彼自身を説得するという問題もあるのだが、パッシャの構成員との直接対決まで覚悟することになる。
不安だ。彼女がリスクとリターンを適切に秤にかけて、無理をせずにいてくれればいいのだが。
『碑文の謎を解く』
優先度がどれだけ高いか、判断できないが……
しかし、これを読めていないことが、じわじわと俺の首を絞めている。つまるところ、そのせいで俺は、ゴーファトやパッシャの目的を知り得ずにいる。だからこそ、あらゆる行動や選択で、どうしても後手に回らざるを得なくなっているのだ。
これは俺の失敗だ。今頃、使徒は嘲笑っていることだろう。使徒の要求を撥ねつけて、とにかくゴーファトを殺すだけでさっさと立ち去ろうと考えていた。だから、謎解きは後回しにしていた。そもそも先を急ぐ必要などなかったのだ。まず碑文を解読して、それからゆっくりアグリオに立ち入ればよかったのに。
しかも、この件に関しては、更に状況が悪化している。というのも、俺が持ち出した紙片は、全部ではないからだ。二、三枚は手元にあるが、残りはすべて、ホテルの自室に置きっぱなしにしてきたリュックの中だ。あの状況では取りに戻るわけにもいかず、仕方がなかった。
今から焦っても仕方がない。
一つずつ。まずはノーラを確保して、一人でも手の届く人を救う。そしてゴーファトを殺す。
幸か不幸か、心の中のざわめきは収まることがなく、よって眠気を感じることもなかった。時折、窓の外を確認しながら、騒ぎが落ち着くのを見守っていた。
窓の向こうが、うっすらと白んでくる。山の端の輪郭が見えてきた。
本当に、どうしたらいいんだろう。
俺は懐から、碑文の文字の書かれた紙を取り出し、何の気もなく目を落とした。
「なんですか、それは」
はっとして振り返る。
いつの間にかアドラットが目を覚ましていた。
「覗き見ですか」
「ちょうど起きたところです」
狸寝入りだったのかもしれない。
「で、その手紙はなんですか? 変ですね?」
「手紙じゃありません」
「では、なんですか」
「説明は」
「してください。隠し事をしている場合でもないでしょう。それに」
彼の眼光が鋭く俺を射抜いた。
「ファルス様は、それを読めていないのでは?」
「な、に?」
どういうことだ?
読めないのは当たり前だ。こんな文字、生まれてはじめて見るのだから。
「読めていれば、そうそう何度も取り出して目を通したりはしないでしょう。それこそ、素敵な恋文か何かでもない限りは」
「ええ、読めていませんよ」
開き直って、俺は紙片をベッドの上に投げ出した。
「どれ」
それを拾い上げたアドラットは目を細めて読もうとする。暗すぎると気付いてカーテンを開けようとして、逆にしっかりと閉じ直した。
それから床に置きっ放しにされていたランタンに灯りを点すと、今度こそ目を寄せて読み始めた。
「なんでこんな……」
「まさか」
嘘だ。
こんなすぐ身近に、これを読める人間がいた? しかし、それならなおのこと、読ませてよかったのか?
情報だけ抜いて、俺には嘘を告げるなんてことはないのか?
「読める、んですか」
「ええ、一応」
「それはいったい、どこの言葉なんですか」
「少々古風な、普通のフォレス語ですが」
何を言っている?
戸惑う俺に、彼は振り返ると、ベッドに腰掛けて、落ち着き払って説明した。
「古代のフォレス語の文字です」
「そんなものが……でも、なぜ読めるんですか。僕はこんなの、見たことない」
「説明致しましょう」
歴史が関係する話となると、だいたいあの英雄が顔を出すものなのだが、今回も例に漏れず、奴が関わっている。
ギシアン・チーレムの世界統一は、さまざまなものをもたらした。度量衡の統一、同じデザインの金貨、そして共通の言語だ。
さて、フォレスティアという地名は、かなりおかしなものらしい。というのも、古代のフォレス人は、自分をフォレス人とは呼んでいなかった。
もちろん、今となっては俺にも想像がつく。ターク・ルカオルジアをターク・ブッターにしたような英雄様だ。森ばっかりの国だから、フォレストにかけてそう命名したのだろう。その語源は……
『彼らは自分ではそう名乗ったけど、後から来たレハヤンナには、フィオレッチャと呼ばれていたわ』
歴史の証言者、それも一次情報の提供者であるシーラの言葉だ。
それぞれレジャヤン、フェレッチャなどと変化した発音が伝わっているが、とにかくフォレス人というのは、本来はレハヤンナのことだ。レハヤンナは、その名の通り、今のシモール=フォレスティア王国の領域に暮らしていた集団を指す。
しかし、それより東に住み着いていた何らかの民族集団も、やはりレハヤンナを名乗っていた。ただ、それはより西方からやってきた人々にとっては……
『この、フェレッチャというのは?』
『ああ、そちらはわかります。蛮族とか、混血とか、そういう……その、純粋ではない人々、というニュアンスなのですが』
教えてくれたのは、タリフ・オリムのサドカット師だ。
原フォレス人ともいうべきレハヤンナとの混血ではあるものの、ベースには異なる民族集団があったのだ。だから彼らはレハヤンナを自称しながら、フィオレッチャと呼ばれた。
このストーリーには説得力がある。そもそもシーラの民ウルンカも、徐々にレハヤンナ達と同化していったのだ。その意味では、彼らもまたフィオレッチャなのだ。
問題は、彼ら「フェレッチャ」は、厳密にはレハヤンナとは異民族だった、ということだ。つまり、異なる文化を持ち、また異なる文字体系を有していた。かなりのところ、レハヤンナと同化していたにしても、その痕跡は残っていたのだ。
そのうちの一つが、彼らフェレッチャの文字だったのだ。
「ということでですね、どうやら昔のフォレス人は、東西で別々の文字を使っていたらしいんです」
もちろん、アドラットはウルンカの真実を知らない。ただ、大昔のフォレス人には東西で別々の文字体系があった、ということしか知らなかった。
「それがなぜ、東方大陸に?」
「帝国のせいですよ」
セリパシア帝国が昔のレジャヤを属国にすると、その勢力は北方を迂回して、更なる東方へと伸びていった。アルデン帝に始まる東征の時代が始まったのだ。この時期にオロンキアはノヴィアルディニクと呼ばれるようになった。
当時からスーディアを含む東部フォレスティアでは、帝国軍による掃討と征服が繰り返されていた。レジャヤのように政治的交渉だけで片付く大勢力はなく、地元に居座る小集落をちまちまと攻め落とす、そんな時代だった。
そうした中の一勢力が、帝国の圧迫から逃れるために、故郷を捨てた。彼らは西方大陸の東端まで行き、更に海を渡ってチーレム島へ、更に逃げて東方大陸の北西端に辿り着いた。これが後のインセリア王国となった。
彼らは帝国の支配を受けなかったフォレス人だった。また、レジャヤと地理的に分断されたことで、今のフォレスティアとは文化的に隔離された。地元のハンファン人を征服したインセリア王国は、ギシアン・チーレムの世界統一まで存続する。その間に、古代フォレス語を刻んだ遺物が数多く作られた。
「フォレス語の統一がなされたんですよ。それで今のフォレスティアからは古代文字は消えうせました。しかし、東方大陸の公用語はハンファン語になりました。それで東方大陸の北西部では、古代の文字が引き続き用いられたりもしたのです」
「今は?」
「今はもう、ほとんどハンファン語ですよ。フォレス語も現代語になっています。ただ、あの地域には古い建造物が残っていまして、そこに古代フォレス語の文字で書かれた石碑なども残っていましたから……ほら、私はミッグ近辺に長く留まりましたからね。それで知っていたのです」
そういうことだったのか。
しかし、ではアドラットは使徒が招いた人材か? それとも、他でこの古代文字を読み解いてくれる人のあてがあったのだろうか。
いや、もうそれはどうでもいい。
「じゃあ、それには何と書いてあるんですか」
「スイスイ読めるわけではないですが」
そう言いながら、彼は紙片に目を向ける。
「き……清らなるおのこよ……い、泉、に集え……」
知っているというだけで、読み慣れているのでもないらしい。
「わかりました」
「はっ?」
「この件であなたを疑っても仕方ありません。信じて、後で読み上げてもらいます。でも、今は」
それで切り替えたらしい。
「そうですね、時間が惜しい」
「御礼はしますから、今は手伝ってください。まずはノーラを助け出します」
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