パッシャの起源

 貯め置かれた水で口をゆすぐ。吐き出し、また含んで吐き出す。タオルで乱暴に口元を拭う。


 最低の気分だったが、これでまた一つ、問題が片付いたとも言える。

 ドロルは、恐らく、もうどうしようもない。どこまでが本音かなど、心を読み取りでもしない限り、わかりはしない。だが、こんな人目につかない場所でわざわざ俺にキスまでした。そんなのはもう、奴にとっては慣れっこなのかもしれないが、相手がどう思うかくらい、わからないはずもないだろう。

 とすると、彼の優先順位は、あくまで「復讐」にあるのだ。金が欲しいのでもなく、命が惜しいのでもない。しかも、俺に対してだけではない。ゴーファトに対してもだ。取り寄せた最初の一口を横取りする。そのためにああいった振る舞いに出たのだから。


 言い換えると、その辺の憎悪をうまく利用すれば、途中までは操縦できるかもしれない。それと、死の恐怖があれば、また考え方を変えるかもしれない。精神操作魔術を用いれば、ある程度なら制御可能かもしれない。

 だが、いずれも安定はしないだろう。彼にもまた、明確な意思がある。


 要するに、奴は危険人物……


「やあ」


 さっきまでドロルと差し向かいで紅茶を飲んでいた部屋に、別の来客が訪れていた。

 彼は足下に散らばる陶器の破片など気にもならないかのように、悠然と腰を落ち着けていた。


「呼んだ覚えはないぞ、アーウィン」


 ……と物思いに耽っていたら、本当の危険人物がいた。


「ごめんごめん、でも、あんなの見ちゃったらねぇ」

「お前も俺とキスをしたいのか」

「悪いけど、そっちの興味はないんだ」


 軽口を叩き合っているが、前回、こいつが何をしでかしたか。


「じゃあ、今度こそ、お前自らの手で俺を殺しにきたか」

「いや、あれは計算外だった。私は話し合って欲しかったのだけど……だから一言謝りたくてね」

「それで俺を油断させて、更なる罠に嵌めようとしている、と」

「いやいや、むしろこっちから手の内を見せようと、そういうことになったんだ」


 冷静に考えれば、アーウィンの釈明は的外れでないとわかる。俺を殺害するつもりだったのなら、あんな中途半端なやり方はしない。仲間を揃えて、一気に襲えばいいはずだ。してみると、ニドが勝手に暴走したというのは、ありそうなことではある。あれだけの虐待を受けてきたのだから、貴族に尻尾を振るファルスに敵意を抱いたとしても不思議ではない。


「何をくれるんだ」

「代行者との面会を許可しよう」

「代行者?」

「外部の人間には通じない言い方だったね。要するに、組織の最高指導者のことだよ」


 じゃあ、パッシャのボスが、ここに来ている?

 これは大事件だ。顔も名前も知られていない闇の組織のトップが、こんなところにまで出張ってきているとは。


「なぜ代行者なんて呼び方なんだ?」

「それもあちらで説明する。それより、さっさと出発したい」

「なぜ」

「君が一人きりのところでないと、私としてもそうそう顔を出せない。他の誰かと鉢合わせはしたくないんだ」


 はて。となると、やはりアドラットはパッシャとは無関係なのだろうか。或いはそう思わせるための……いいや、きりがない。

 これから彼が面会させようとしている最高指導者とやらが本物という保証もない。ないが、既にアーウィン自体が異物であり、顔と名前を晒していい存在ではない。それがこうして、俺と対話している。

 どうすべきだろう? 断る? そうすべき理由は?


「警戒するのはわかるけど、君が何かしない限り、こちらからいきなり殺すつもりはない」

「どうやって信用しろと?」

「やるならとっくにやっている。それくらい、わかっていると思っていたけどね」


 その通りだ。

 逆に、ここで動かないと、情報収集の機会を失うだけではないか。もちろん、彼らに嘘を掴まされるのも前提とすべきだが。


「わかった。行こう」

「ああ、そっちじゃない。そう、私の手を取るんだ」


 彼の手が、俺の手に触れる。


「じゃあ、行こうか」

「どこ」


 その瞬間、視界が暗転した。


「うっ」

「慣れないと眩暈がするかもしれない。先に言っておくべきだった」


 まさか、瞬間移動で俺ごと連れていったのか。

 しかし、合理的ではある。さすがに今回は、歩いていくわけにはいかない。道筋を覚えた俺が、どこかに通報しないとも限らないのだから。パッシャの首領捕縛というニンジンがぶら下がっていれば、ひょんな気を起こさないとも限るまい。

 ここは地下だろうか。冷たく湿った空気が静かに流れている。照明はほとんどなく、ほぼ真っ暗だ。粗っぽい造りの石の通路が奥に続いており、その向こうに小さな光が見える。


「あちらで既に待っている。さあ、行こうか」


 正直、気持ちの準備も何もない。混乱している。いきなり面会? 敵のボスに?

 だからかもしれない。俺が戸惑っているうちに、準備もさせずに連れ込むのでなければ。考えさせないために、タイミングを図っていたのだろう。


「あ、見えるかい?」

「やっと目が慣れてきた」

「それはよかった。行こう」


 俺はアーウィンの後に続いて歩き出した。


 時間はない。だが、気持ちは整えろ。

 俺は以前からこういう状況が苦手だった。イフロースにも奇妙と評された。つまり、剣術の技量はあるのに、その精神は武人のものではない、と。磨き抜かれた武人は、即座に心を入れ替える術を身に備えている。

 だが、どうすれば……キースなら、ここでどんな風に振舞う? どう考える? 心の中に手本を作って、なぞってみる。まず、肩から力を抜いた。


 古びた木の扉が開かれる。

 四角い石の小部屋に、二本だけ燭台が佇んでいた。薄暗い中をそっと橙色に染めている。その間に、存在感ある黒い影が聳えていた。


 一見して、その高齢がわかる。皺だらけの顔、落ち窪んだ眼窩、真っ白になった眉毛。絵筆のように伸びる顎鬚も白かった。体つきはがっしりしており、やや大柄だった。身に纏っていたのは暗い緑色のローブで、お世辞にも値の張りそうな品とは言えなかった。事前情報がなければ、我の強そうな老人、というだけの印象しかなかっただろう。


「ようこそ、ファルス」


 彼は座ったまま声をかけ、それから立ち上がって手を差し伸べた。


「私がデクリオン・カーレ、組織の第一位階を占める代行者だ」


 俺は彼をじっと見返した。


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 デクリオン・カーレ (65)


・マテリアル マナ・コア・精神操作の魔力

 (ランク3)

・マテリアル マナ・コア・風の魔力

 (ランク3)

・マテリアル マナ・コア・力の魔力

 (ランク3)

・マテリアル マナ・コア・光の魔力

 (ランク4)

・マテリアル 神通力・魅了

 (ランク7)

・マテリアル 神通力・識別眼

 (ランク7)

・マテリアル 神通力・念話

 (ランク5)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、65歳)

・スキル フォレス語  5レベル

・スキル ルイン語   5レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル ハンファン語 6レベル

・スキル シュライ語  6レベル

・スキル ワノノマ語  5レベル

・スキル ルー語    4レベル

・スキル 魔力操作   6レベル

・スキル 精神操作魔術 6レベル

・スキル 風魔術    6レベル

・スキル 力魔術    6レベル

・スキル 光魔術    7レベル

・スキル 槍術     2レベル

・スキル 格闘術    2レベル

・スキル 医術     3レベル

・スキル 薬調合    3レベル

・スキル 指揮     5レベル

・スキル 管理     5レベル

・スキル 政治     6レベル


 空き(39)

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 あれっ……?


「どうしたね? 私の顔に何かついているのか?」

「いや」


 なんというか、普通だ。


 いや、普通といっては失礼だ。能力的には、人類の頂点に立っていると思う。この年齢まで自らを鍛え続けたからこそ、ここまでになったのだから。

 しかし、優秀かつ多芸とはいえ、そのほとんどは言語と魔術に偏っている。見た限りでは、ゴブリンの王のチュタンに似通った能力を有している。相手を眩惑し、念力で凶器その他を動かし、風魔術で遠距離攻撃を防ぐのが、デクリオンの戦い方なのかもしれない。その他の能力としては、指導者としての経験か。

 相手を魅了する神通力があるようだから、しっかりと意識を保つ必要がある。ただ、俺にはこの手の能力は通じにくい。警戒さえ怠らなければ、おかしなことにはならないだろう。


 それにしても、アーウィンがあれだから、パッシャの首領ともなれば、更にすごい、とんでもない力をもったバケモノなんじゃないかと思ったのだが、全然そうではなかった。

 ……これ、もしかして、ピアシング・ハンドが効く? アーウィンと違って、防御されていない? 首領なのに? どういうことだ。


「まぁ、かけたまえ」


 デクリオンの向かいに、俺のための椅子が用意されていた。アーウィンの席はないが、彼は俺の後ろに立つばかりだ。


「いったい、何の話だ」


 俺はあえて遠慮なく座り、そう言い放った。どんな交渉をしたいのかはわからないが、とにかく相手に呑まれてはいけない。

 だが、俺の物言いに、デクリオンは顔を顰めた。


「いささか無礼ではないかね」

「人殺しの集団に無礼も何もあったものか」

「敵意丸出しだな……これでどうやって話せばいい」

「本来、話し合いが通じる関係じゃないはずだ」


 本当は、こちらから頭を下げてでも情報を引き出したいのだが、だからこそ、あえて俺は「話してやるだけ」のことにプレミアをつけたかった。お前ら犯罪者は、普通なら対話の機会も与えられないのだと。

 だが、それがデクリオンには気に食わないらしい。


「随分な態度だな……ああ、唯一なるアーウィン、彼には」

「説明はした。ニドの件はこちらの手違いだったと」

「ならば謝罪は済んでいる。それとも賠償金が欲しいのか」

「そんなものが欲しいわけじゃない」


 どうも雲行きが怪しい。

 ここで思い至った。彼らはこの社会で「悪」とされている。だから、最初から敵意ある態度で接してくる相手など、珍しくもなんともない。


「話をしたいと、そう伝えたはずだが」

「その前に、パッシャがどれだけの悪事を働いてきたか。そのことをどう思っているんだ」

「ははぁ、なるほど」


 デクリオンは、凄みのある笑みを浮かべた。こんな追及など、彼にとってはいつものことなのだろうか。


「要するにファルス、君は我々組織が邪悪な存在であり、対等に話し合う資格などないと、そう言うのだね?」

「それが常識だろう」

「度胸だけは買ってもいいが、それならただお帰りいただくだけで済ませてもよいところだな。話し合いが成り立たないのなら、殺し合いしかないのだから。私は話し合おうといったのに、君が席を蹴ったのだ。ここまで、私の言うことに何かおかしなところはあるかね?」


 どうやらしくじったらしい。

 考えがまとまらないままに、弱気の交渉になってはならないと考えて身構えた結果がこれだ。


「……ない」

「ならば君は礼を失したことになる。だが、それについての謝罪は要求しないことにしよう。代わりに冷静に私の話を聞いてくれないか」


 なんと理性的な対応だろうか。

 しかしこれでは、いやとも言えない。構わない。もともと、彼らの言うことを一通りは聞きたかった。


「わかりました」

「よろしい。では、早速本題を切り出そう」


 満足げに息をつき、彼は背筋を伸ばした。


「結論を先に述べよう。ファルス、我々組織の一員になってくれないか」

「お断りします」

「確認するまでもないだろうが、なぜかね」

「人殺しの集団に身を置きたい人がいますか」


 すると彼は頷いた。


「まさしく道理だな。しかし、君だってその歳にしては大勢殺しているのではないかな」

「身を守るため、やむなく戦っただけです。一昨年の内乱の際には、問答無用で命を狙われました。やらなければ助からなかったのです」


 またもや彼は、大きく頷いた。


「自分の身を守るためであれば、殺人もやむを得ないと」

「他にどう言えばいいのですか」

「いや、それを責めるのは筋違いだ。森の獣だってそうする。自分自身でなくとも、雛鳥のいる巣を狙えば、親は猛然と突っかかってくるだろう。私としては、君の結論を全面的に肯定したい」


 なんだか持ってまわった言い回しをする奴だ。


「パッシャも同じだと言いたいのですか」

「君、その呼び方もやめてもらえるかね」

「僕は今、パッシャの一員ではありません。あなた方の組織に対する一般的な呼び名はパッシャです。何がいけないのですか」


 またデクリオンは頷いた。もう、それが癖なのかもしれない。


「そういう事情は理解しているが、表現として不正確だから、やめるべきだと言っているのだよ」

「不正確というのは」

「そろそろ、歴史の話をしてもよいかね」


 大きく息をつきながら、彼は体を広げた。


 女神の使徒であるギシアン・チーレムが魔王イーヴォ・ルーを滅ぼしたのが、およそ一千年前のこと。その際、当時の王族の一部が彼の側につき、姫の一人が妃妾となって後のポロルカ王家の祖となった。


「だが、すべての王族がギシアン・チーレムに靡いたのではない。いや、王族だけではない。一般の民衆も、それまでのイーヴォ・ルーの支配を受け入れており、何不自由なく暮らしていた」

「魔王が恐ろしくて逆らえずにいただけでは」

「女神神殿ではそう教えるようだが、そんなことはまったくなかった。その証拠が、君のいう『パッシャ』の呼び名に隠されているのだ」


 女神の支配に背いた人々が、南方大陸の各地を彷徨いながら、支持者を集めた。その際に旗印になったのが、王族だった。


「そもそもは、ポロルカの王はパーディーシャー、つまり王というよりは皇帝と称していたのだよ」

「皇帝?」

「そうだ。王とか皇帝とかいうと土地と民衆の所有権をもつ支配者のように思われるのだが、実態は違ったらしい。なにしろイーヴォ・ルーという神がすぐそこに実在して、その使徒達が大陸の各地に居座っていたのだ。人間に過ぎないパーディーシャーは、絶対的な支配者ではあり得なかった」

「言われてみれば、そうですね」

「あくまで皇帝は、各地に住まう人間の生活を管理するための指揮権を与えられていたに過ぎない。今でいうところの世俗の王とは、少し違っていた。どちらかというと、行政官かつイーヴォ・ルーの祭司といったほうが適切だろう」


 前世の人間社会とも違うし、こちらの世界の現代とも違う。

 前世では神と出会ったことなどないが、こちらで俺が見た神というと、シーラとヘミュービくらいなものだ。しかしシーラは人目に触れないよう隠れ住んでいた。ヘミュービは贖罪の民とは交流を保っていたが、その関係は冷たいものだった。年に一度の龍神の季節にしか姿をみせず、怪しげな人間とみるや吹雪を惹き起こして凍死させようとしてきた。

 聞いた限りでは、東の彼方、ワノノマの群島には龍神モゥハがいて、それが人間との繋がりを保っているらしいが、それにしたって一般人との付き合いがあるのでもなく、あくまで姫巫女を通じて関わりあっているだけという。

 だが、千年前までのイーヴォ・ルーは、人々の暮らすこの大陸にいた。ずっと身近な存在だったのだ。そんな中で、王様だからと乱暴な真似ができただろうか。すぐさま神の怒りが降りかかるだろう。


「当然ながら、神の支配の下で人々を導いてきたポロルカの王族は、民を虐げるようなことはできなかったし、してこなかった。尊敬され、感謝されることはあっても、滅多に恨まれるようなことはなかった。要するに、南方大陸の人々にとって、王とは、協調すべきよき指導者だった」

「なるほど、それで」

「ギシアン・チーレムと女神達が据えた後継者など王ではない。イーヴォ・ルーの命ずるところに従う我こそが真のパーディーシャーである。当時の組織は、それでパーディーシャーを自称して、人々に助けを求めたのだ」

「だからパッシャですか。でもそれなら、今でもそう呼んでいいのでは」


 するとデクリオンは首を横に振った。


「二つの理由でよくない。一つには、既に組織には王族の末裔がいない。長きに渡る逃亡と抵抗の歴史において、血筋を守りきることはできなかったし、またそれは組織の目的とも違った。王族がいることは手段であって、復権そのものが目的ではなかったからだ」

「では、仮に権力を握ったら、どうするんですか」

「無論、目的のために用いる。イーヴォ・ルーとその使徒たる黒き花嫁の遺志を実現することこそが、我々の究極目標といえる。さればこそ、組織の指導者は代行者と名乗るのだから」

「理由のもう一つは」

「女神神殿のせいだ。彼らが我々の先人をパッシャと呼ぶようにしたのだ。パーディーシャーなら皇帝だが、パッシャは虫けらだ……あの、食事を汚す不潔な羽虫のことだ。そういう表現を使わせることで、我々を不当に貶めることにしたのだよ」


 要するに、女神神殿と帝都のイメージ戦略だった。きっとすぐには効果が現れたりはしなかっただろう。しかし、何十年も経つと、じわじわと効いてくる。イーヴォ・ルーの時代も知らず、王族への尊敬の念もない世代が中心になると、組織への蔑視や偏見は強まっていったに違いない。


「世界統一から三百年間、我々は追われ続けた……神官戦士団が同胞を次々に殺し、我々の信仰の証拠を見つけては、焼き払っていった。だから、私が語ることのできる歴史も、今となっては虫食いだらけだ」

「そうまでして、なぜ組織はイーヴォ・ルーへの信仰を保とうとしたのですか」

「わからぬ」

「わからないって、そこが一番大事なところじゃないですか!」


 いきなり腰砕けになった。

 だってそうだ。イーヴォ・ルーが正義だというのなら、その理由や証拠がなければ始まらない。それがないと言っているのだ。


「仕方がなかろう。かつてを知る者はほとんど殺された。あの諸国戦争がなければ、組織は確実に滅ぼされていた。それまでも、女神神殿の追及を避けるため、重要な知識については書き残すこともできなかった。見つかれば魔王崇拝の証拠とされてしまう。だから、人が死ねばそれで知識が途絶える」

「でも、そんな状態ではもう、戦う理由なんてないでしょう」

「ある」


 また彼は頷き、目を見開いて言った。


「イーヴォ・ルーの正義を示す手段は失われた。だが、女神の悪を示す方法にはまったく困らない」

「それは例えば?」

「今の組織の人間の多くは、奴隷出身だ」


 いつの間にか真顔になっていたデクリオンは、熱を込めて言った。


「これだけでも証拠ではないか。イーヴォ・ルーの時代、南方大陸には奴隷などいなかった」

「そうなんですか!?」

「無論、罪人はいたし、刑罰もあった。だが、今よりずっと少なかったと言われている。それも我々の間に残された伝承に過ぎないから、根拠はないと思うかもしれないが。しかし、現に女神が支配する今の世界はなんだ?」


 大きな両腕を広げ、彼は力強く訴えた。


「六大国の王達は私腹を肥やすばかり。貧しい人々がいくらでもいる。君もそうだった。知っているとも、奴隷だったのだろう? 君に出会ったクー・クローマーもそうだった。女神は、こんなひどい世界を創るために我々の神を殺し、我々の先人達を迫害してきたのか? では、その正当性はどこにある?」


 俺には、答えられない。

 今になって、使徒が俺の中の道徳意識を、内なる神を殺そうとしていたことを思い出す。


「そこで君が最初に言ったことに戻るわけだよ」

「身を守るため、ですか」

「その通り。君の言ったように、確かに我々は殺人に手を染めてきた。しかし、殺さなければどうなっていた? 既に大勢が迫害され、命を落としている。では、これからは君が守ってくれるのかね? 我々が帝都パドマに出向いて身分を明かし、女神を崇拝するのはやめよ、イーヴォ・ルーを魔王と呼んではならぬ、真実を明らかにせよと声をあげたとして、無事でいられると思うのかね?」


 その問いに対する答えは、既に俺が与えている。

 俺は彼らに「本来、話し合いが通じる関係じゃない」と言い放った。これまでの殺人についてどう思うのかとも。しかし、元はといえば、問答無用で命を狙われたのは、彼らの側なのだ。

 そして残念なことに、彼らの主張を補強する材料を、俺は既に手にしてしまっている。一つには、マルトゥラターレだ。南方大陸の森の奥で、静かに暮らしていただけの水の民の集落を、ワノノマの魔物討伐隊が蹂躙した。彼らの中の村長が頭を下げて助命を願ったにもかかわらず。もう一つは、シーラだ。彼女は魔王だけでなく、龍神をも恐れていた。それに諸国戦争初期のティンティナブリアを訪れた神官戦士団の記録もある。当時のリンガ村の住民は、白銀の女神と関係することを禁じられていた。

 どうやら、この世界の女神は、言われているほどまともな存在でない可能性が高い。それはモーン・ナーだけに言えることではないのだ。


「我々もまた、我が身を守るために殺すのだ。同じ獣に過ぎない君らが、我々を非難できるのかね?」

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