蒔かれ、芽吹き、育った悪意
「もったいないですよ、やっぱり。ね、返品しましょう」
「ごちゃごちゃ言わずに着替えてください。一緒にいるだけで恥ずかしいんですから」
市場を後にする前に、俺はアドラットの体に合う服一式を購入していた。というのも、連れ歩く上で、あまりにボロボロの格好をしていると、目立って仕方がないからだ。それにまた、タシュカリダの高級ホテルに出入りするのに、やっぱりあのままではまずい。形だけとはいえ、下僕にする以上、俺の私室に上がりこむことも増える。乞食のままでは、ホテルの側もいい顔をしないだろうから。
「贅沢は敵なんですよ、ファルス様。かの皇帝陛下の御言葉ですが、まさに至言です」
「贅沢というのは、無駄という意味です。必要ないところで遣うのも、必要なのに惜しんで余らせるのも贅沢です。あなたの服はとっくにボロボロ、これを取り替えずにいるのは贅沢です」
溜息一つ。
それで渋々、アドラットは服を手に、奥の部屋へと向かった。
心配しなくても、見た目はほとんど変わらないはずだ。黄土色のマントに帽子も用意してやった。パッと見た感じは、以前のままだろう。
「あとで散髪もしてもらいますからね」
扉の向こうに、そう声をかける。その直後、俺の背後でノックするのが聞こえた。
着替え中のアドラットを呼びつけるわけもなく、俺は自分で扉を開けた。すると、いつも給仕を引き受けてくれている初老の男が立っていた。
ああ、これは……
クレームかもしれない。それなりに上質な宿に、何度も何度も乞食が入り込む。それも、庭やテラスまでならいざ知らず、部屋の中までとなると。
どう言い訳しようかと俺があれこれ考えている最中に、彼は口を切った。
「お休み中のところ、申し訳ございません」
「はい」
「お客様がお見えです。お会いになられるかどうかを確認に参りました」
はて、誰だろう?
第一、変な言い方だ。今までも、俺に会いたいとやってきた人物には、制限をかけてこなかったのに。
「どなたですか」
「その、身分が……ですが、領主様の下僕で、ドロルと名乗っておりますが」
それで納得できた。
平民までなら、身元さえしっかりしていれば通しても問題ない。しかし、貴人の客が奴隷となると。前世の出来事に喩えるなら、一般のファンがアイドルにサインをねだるのは許されても、性犯罪者がアイドルと握手したがったら、周囲は止めるだろう。ただ、今回はそこに捻れた関係性がある。その奴隷の主人は領主だ。
そうなると、これはドロルが「個人」の立場でここまでやってきたということになる。ゴーファトの使いとして顔を出したのであれば、フリーパスだろうからだ。
「問題ありません。ここまで通してください」
「承知致しました」
ここでもう一つ、問題……いや、チャンスが追加されたのだろうか?
俺が現状抱えている悩みのいくつかについて、ドロルが解決方法を与えてくれるかもしれないからだ。
まずもってゴーファトの目的を、俺は知らない。危険分子たるファルスをわざわざ懐に呼び込んで、何を実現したいのか。残念ながら、彼との接点もそう多くはなく、俺にはまるで見当もつかない。しかし、数年間をともにしてきたドロルなら、正解を知っている可能性がある。そうでなくとも、仮にもし、俺の協力者になってくれるのであれば。ゴーファトのすぐ傍で情報収集して、俺に伝えてくれるのなら、大きなメリットになる。
反面、ドロルが信用できるかと言われれば、もちろんそれはない。俺に対して好意を抱いている可能性はゼロだ。確認したわけではないが、恐らく彼の男性のシンボルは失われてしまっているし、ゴーファトによって何度も性的に弄ばれてきたはずで、そんな地獄のような体験の原因たる俺には、憎しみしかないだろう。
ただ、そこは対応策もある。まず、俺を裏切るかどうかについては、ノーラの手を借りるなどすれば、ある程度のブレーキをかけるのは可能だ。ドロルの今の能力なら、ピュリスの魔法陣がなくても、最高水準の精神操作魔術を用いれば、ほとんどの抵抗を食い止めることができる。さすがにずっと『強制使役』を持続するのは難しいが、『読心』は素通りだし、『暗示』で直接的な反撃を封じることもできる。都合が悪くなれば『忘却』で後始末まで完璧だ。
それにまた、ドロルが失った数々のものを、俺はちゃんと弁償してやれる。別の肉体を奪って与えれば、身分も「男」も取り戻せる。かつ、そこに財産を付け加えてやってもいい。要するに、俺にどんな恨みがあるにせよ、なくした以上のものを俺から受け取ることができる。
なにより、ここにはゴーファトの目が届かない。彼が俺を訪問した事実は後々知られてしまうかもしれないが、今現在、ここで交わす会話が聞かれるわけではない。つまり、やっと彼の本音を聞けるのではないか。
ドロルは自分から俺に面会を求めた。つまり、したいことや言いたいことがあるはずなのだ。
しかし、だからといって警戒を解くわけにもいかない。
ドロルの面会希望にホテル側が確認をとったのは、彼が個人としてやってきたからだ。だが、本当のところはゴーファトの命令で動いているのかもしれない。とはいえ、そこは問題ないとも言える。何しろドロルだ。主人に対しても、絶対的な忠誠を誓っているとは思えない。
「よっ! と、着替えてきましたよ」
アドラットが奥の部屋から戻ってきた。
見た目があんまり変わっていない。上着のツギハギが消え、帽子が潰れていないだけだ。ヒゲとボサボサの髪が不潔感の原因になっている。
「ああ、じゃあ、そのまま散歩してきてください」
「はぁ?」
「これからお客と会うので」
「なんと! どなた様ですか」
首を振りながら、俺は言った。
「誰でもいいでしょう」
「そうはいきません! 不肖アドラット、主君の横にあってその身を守り、かつまた適切な助言をですね」
「会うのは、僕の昔馴染みです。奴隷だった頃の」
「おお! それはまた、なんと感動的な! ぜひとも立ち会いたく」
「散歩、いや、散髪が先です。っていうか、そのままだと見苦しいし、邪魔」
銀貨を無理やり握らせると、俺は彼の背中を押して、部屋の外へと押し出した。
「ふぅ」
ソファにもたれて、溜息をつく。
間もなく、再び扉をノックするのが聞こえた。
「よく来てくれた」
俺は手ずから紅茶を供して、彼の前に置いた。
既に案内を引き受けた使用人は追い返し、ドロルにも着席を勧めた後。俺は内心に渦巻く不安を押し殺して、旧友に会えた喜びを演じている。
「この前はフリンガ城の中だったから、ゆっくり話もできなかった。ここでなら、気兼ねなく語り合える」
差し向かいに腰を下ろして、俺は身振りで茶を勧めた。
ドロルの顔は、まるで作りものみたいだった。のっぺらぼうにへばりついた薄気味の悪い笑顔。そうとしか表現できない。
「それで今日は、どんな用事でここまで来てくれたのかな」
口元こそ笑っているものの、目がまったく笑っていない。俺の声に反応して、眼球がぎょろりと動く。じっとりした視線を向けられると、なんだか肌をまさぐられているような気分になる。
「はて、用事と言えるような用事はございませんが」
俺を値踏みしているのだ。
「ただお顔を拝見したくなっただけですよ」
「そ、そうか」
「ご迷惑でしたか? お忙しいのであれば」
「いや」
俺にはドロルを相手にする理由がある。しかし、ドロルの側からすればどうだろうか?
いや、ある。あるはずだ。俺がスーディアに来なければ、ドロルはずっとゴーファトの奴隷のまま。それも、まだ若く美しいうちはいいが、間もなく利用価値もなくなる。そうなれば、バッサリ殺されても不思議はない。
生き残るためには、誰かの手を借りる必要がある。たとえそれが、ノールという不愉快極まりない相手だったとしても、だ。
「ところで、最後に顔を見てから五年半くらいだったかな」
「そうですね」
「あれからどうしていた」
「どう……変わったことは何もありません。船でピュリスに運ばれてすぐ、王都を経由してスーディアに入りまして、あとはずっとアグリオから出たことはありませんから」
そして、早速に強姦、手術を受けて今に至る、か。
「そうなるとやっぱり、違った土地で暮らしてみたいと思うこともあるのかな。スーディアは盆地だから、冬は寒いだろうし」
「夏はこのように暑いですが、冬はびっくりするくらい冷えますね」
「ピュリスは、そこまででもなかった。海沿いの街は、気候もよく過ごしやすい。それに商売も盛んだ……」
俺は座り直して、身を乗り出した。
「前に話したかもしれないが、僕は今、陛下にかわいがってもらっている。それでピュリスには僕の名前の商会もあるんだ」
「存じております」
「商売はうまくいってるんだが、問題が少しあって……」
なるべく自然な形で話を誘導する。
「新しく着任した総督のムヴァク様が、どうにも仕事に不慣れなところがおありのようで、社交の分野でこちらの商会にまでお鉢がまわってきている」
「それはそれは」
「閣下はそれまで王都の年金貴族だったから、近習も数がいない。といってリンガ商会にも、その手のことがわかる人は少ししかいない。しかも悪いことに女性ばかりだ」
今もイーナ女史あたりがこめかみを押さえながら、子爵の無茶な要求に応えているのだろうか。
「貴族の家にいれば誰でも知っていることだが、来客へのもてなしには男がいたほうがいい。先の総督だったサフィス様も、そこでは見栄を張って、支払いが増えても給仕係には男性を用意していた」
「理解できます。正式な場では、そうしたほうが敬意を示していることになります」
「その通りだ。ドロルはこちら、スード伯の宮廷で五年間も仕事をしてきている。そういう人材なら、即採用したいくらいなんだ。よかったら、手を貸してくれないか」
俺の目的は、無論、ドロルに寝返ってくれと伝えるところにある。だが、はっきりそう告げるわけにはいかない。それ自体が弱みになってしまう。だから、まず先に俺の側につくことで得られるメリットを列挙する。
「しかし、私は閣下のおかげで今日まで暮らすことができたのですし、簡単には……」
「もちろん、ゴーファト様としても、身近に仕えてきた人材を手放すのは惜しいだろう。でも、こっちも正直、尻に火がついている。そうだな……もしピュリスで働いてくれるのなら、毎月、金貨百枚は出そう」
成人男性の普通の収入が、月二、三十枚くらいだから、これは破格だ。
ドロルは訝しげに目を細めた。
「過分です」
「大袈裟に聞こえるかもしれないが、それくらいは約束できる。それとも、先に一括で支払ったほうがいいかな? 今は旅先でそんなに持ち合わせがないが、ピュリスに来てくれれば、その日のうちに一年分の給与を前払いしよう」
「ははは」
乾いた笑い。
本気にしていないのだろうか。それとも……「足りない」のか。
「信じられないなら、証文を書いてもいい。それにもちろん、昇給が打ち止めということはない。さっきも言ったけど、僕は陛下のお気に入りになることができた。僕のところに来れば、奴隷でなくなるだけじゃない。ゆくゆくは、僕と同じく騎士身分を得ることも夢じゃないんだ」
「それはさすがに、行き過ぎでしょう」
「そんなことはない。原則として騎士の腕輪は、貴族など地域の支配権を行使する立場にある人なら、誰でも付与することができるものだ。これはフォレスティアだけでなく、世界中で認められていることだ。だから、例えば……王家の血を引く貴族で、ピュリスを治めるムヴァク様にも、腕輪を与える権利がある。ドロルがピュリスに来たら、閣下のお手伝いをすることになるんだから」
俺は紅茶を一口すすって呼吸を整えると、残りを一気に言った。
「必然的に、閣下ご自身の必要からいっても、近々与えざるを得なくなる。もし渋っても、商会のほうから強く要請すれば、実現してしまうものなんだよ」
「それはすごいですね」
「それだけの役目を果たしているからだよ。でも、それをこなしきるには、まだまだ人が必要なんだ」
だが、どうにもドロルはニタニタするばかりで、心動かされたようには見えない。
カネ、身分……
しかし、それだけでは動かないか。であれば、このカードはどうだ。
「ピュリスは華やかな街だ。王都にも負けない。いや、むしろ先をいっているね。道行く人は男も女もきれいに着飾っていて、他の地域とは比べものにならない。その、こんなことを訊いてはどうかとも思うけど……ドロルもゆくゆくは、美しい妻を持ちたいと思ったりはしないのかな」
俺はしらばっくれてそんなことを言ってやった。妻もクソもない。手術が済んでいるのなら、女など無意味だ。
彼の目の中に、暗い光が宿るのを期待して、じっと見据える。
「閣下に忠実な私がそのような望みを抱くとでも」
大したものだ。顔色一つ変えていない。だが、それが俺への恨みの深さを感じさせる。
金銭でも、地位でも、千切り取られたその部分を取り戻すことはできない。なればこそ、彼は俺を恨み続けるのだ。しかし、そんな様子はおくびにもださない。
「ゴーファト様は、美少年との愛を最優先のものと考えておいでだが、世の中には女性を好む男もいる。いや、間違いなくそちらのが多いだろう。また、そうでなければ子孫を得ることもできない。そこで仮にもし、ピュリスで高貴な人の傍で仕え、また多くの金銭を得るなら、好ましい妻を見つけるのも難しくはないわけだ」
「主人の教えによれば、それこそまさしく無用のものと心得るべきですが」
「仮にというお話だよ。それで、ここからが肝心なんだけど……」
俺は身をかがめて、小声で言った。
「ここだけの話だ。ドロル、いいか」
「なんでしょう」
「リンガ商会では、優れた医者を囲い込んでいる」
「それがそんなに大変なお話ですか」
「中には財産があるけれども、年老いてしまって、若い妻の相手ができないと嘆く人もいる。そこで商会は……」
耳を寄せるようにと手招きして、より一層、声を落としていった。
「……そんな金持ちのために、体を作り直してやっている」
「まさか?」
「そのまさかだ。ドロル、これは秘中の秘なんだ。だけど、その……だいたい見当はついている。ゴーファト様のところに引き取られたということは、そういうことだ。わかっている。その体はもう……だけど、僕のところに来れば、治せると言いたいんだ」
ここまで言ってしまってよかったのかどうか。
ピアシング・ハンドを使えば別人の肉体を与えることができる。しかし、ドロルはそこまで信用できる相手でもない。仮にもし、俺が能力を使って彼に新たな人生を与えた場合で、後から彼が裏切った場合、その被害は甚大なものとなる。
しかし、なくしたものをすべて取り返せるのでなければ、彼が俺に対するわだかまりを捨てるとも考えにくい。
だから、こういう嘘を拵える。何かで眠らせて、その間に肉体を差し替える。そうして「ハイ、作り直しましたよ、ただちょっともとの体とは違うけど、自分で慣れてね」ということにする。無論、これは俺が約束を守る場合に限っての、最終手段だ。
一瞬、真顔になったドロルだったが、すぐに仮面のような笑顔に戻った。
「それで」
ねとつく視線を向けながら、彼は俺に尋ねた。
「そうまでして、私に何をして欲しいのですか」
「言っただろう? こちらの人間になって欲しい。ピュリスにも来て欲しい。そういうつもりなら、僕としても最大限の協力はする」
ドロルは察している。
ファルスはおかしい。何か狙いがあるのだ。でなければ、いきなりこんな話はしない。
一方で、ゴーファトもおかしい。
自分の主人がこれまで、多くの美少年に対して何をしてきたか。何度も実例を目にしてきたのだ。なのにこいつに限っては、強姦もされなければ手術もされない。人肉パーティーの時には、間もなくこいつも餌食になるのだと期待していたのに、一向にそうなりそうな気配が見えてこない。それどころか、本当にスーディアを譲り渡す契約まで交わしてしまった。
俺も既に理解はしている。
ゴーファトは、自分の計画をドロルには伝えていない。ゴーファトは異常な性癖の持ち主ではあるが、愚かではない。ドロルのような、かつて短絡的な犯罪に走った少年を信用するほど間抜けではないのだ。
その上で、ドロルは自分の実現したい何かのために、単独で動いた。ファルスには何か目的がある。それを引き出したい。
問題は、俺の方がドロルの狙いを汲み取れないことだ。彼の主目的が俺への復讐にあるのか、それとも迫り来る殺処分を回避するところにあるのか。はたまた大きな利益を得たいのか。そこを無視して話をするとなれば、俺としてはもう、手を組むことで得られるメリットを列挙するしかなかった。
その破格の条件を耳にして、ドロルは考え直した。もともと、考え直してもらうための話だ。
しかし、その方向性は、必ずしも好ましいものとは言えなかった。彼はまたしても、俺を値踏みするポジションに戻ってしまったのだ。
「言っておくが、こんな機会はまたとないぞ。昔馴染みだから、声をかけているんだ。人生を変えるなら、今しかない」
「ふふふ」
しまった。
これは、賭けに負けたらしい。なんとなく、そんな気がした。
ドロルは、俺が並べ立てた好条件を信じる根拠がない。法螺話と受け取ってもいいのだ。いや、リンガ商会は実在するから、お金の話くらいは実現可能だろう。ただ、いずれにせよ、この俺の話には、重大な根拠が欠けている。
ファルスの側には、目的を果たした後、ドロルとの約束を守るメリットがない。
するとどうなるか。
ファルスは助けを必要としている。追い詰められている。そのこと自体が好ましい。一方でファルスが提供すると宣言している様々な恩恵は、不確かなものだ。
つまり……
「ファルス様、ご存知ですか」
白刃のような視線が突き刺さる。
「フリンガ城の片隅には、奥方様がお住まいですが、その傍仕えの少女がおりましてね」
息を飲んだ。
とぼけているが、ドロルは知っている。わざとだ。
「オルヴィータというのですが」
「知っている」
「おや」
俺は発言を遮った。
ドロルは、俺がディーをピュリスに引き取って売春させると宣言した件を、聞きかじっていたのだろう。
「もう一人、紹介したい人がいまして」
「誰だ」
「誰でしたっけ……ほら、金髪の……」
わざとらしく、思い出そうにも思い出せないとばかり、頭を押さえながら彼は言う。
「下町のほうにいるんですけどね、ご存知ありません?」
「それも知っている」
「ほっほう」
さも面白いと言わんばかりに彼は席を立ち、足をぶらぶらさせながら、テーブルの脇からこちらに歩み寄ってきた。
「どうして彼女には、そういう話をしてやらないんです?」
「ドロル」
「昔馴染みじゃありませんか」
ドロルは威圧するように身を乗り出し、俺に顔を近付けた。
「順序がおかしいでしょう。どうしてそんなに私のことを買ってくれるんですか」
「そっ、それは……わかった。正直に言う。遺恨をなくしたいんだ。わかるだろう?」
「わかりませんね」
湿った吐息が顔にかかる。
「私がスーディアに送り込まれたのは、主人の持ち物を盗んだからです。譲渡奴隷の立場で罪を犯した。それで遺恨? そういうのを逆恨みというのではないですか」
「逆恨みでも何でも、人から恨まれて平気な奴がいるもんか」
「恨んでいる? ねぇファルス様、私がいつ、恨んでるなんて言いました?」
そう言いながら、更に顔を近付ける。俺はソファの上で仰け反りながら、彼の顔を避けようとした。
「それだけじゃないでしょう」
ソファに片手を添えて上半身を支えつつ、残ったもう一方の手を俺の胸元に添える。
「何をして欲しいんです? 本当のことを言ってくれないと、わからないですよ」
「本当のことも何も、今言ったことが全部だ」
「遺恨を恐れるだけで……それも、スーディアから出られもしない奴隷の恨み一つが、そんなに怖いのですか」
「ドロル、僕はもう騎士の身分になった。どういうことかわかるか、陛下からも見初められて、それはもう貴族からも妬まれるほどだ。こうなると、僕にやましいところがなくても、どこで落とし穴に引っかかるかわからない……」
「私が恨んでるなんて、思い込みじゃないですか」
嘘だ。
恨んでなければ、こんな振る舞い、するものか。わかった。こいつを引き込むのは無理だ。
「お前がそう言うのなら、思い込みだ。ただ、やり過ぎたと思って」
「やり過ぎた? 何を? 未来に希望を持てない少年奴隷が、いちかばちかで宝物を盗んで逃げようとした。それを一方的に捕まえて、ご主人様に認めてもらって……さぞ愉快だったことでしょうね」
「そんなことは」
「聞きましたよ。みんなでおいしいケーキを囲んで食べたとか。さぞおいしかったことでしょう」
「ドロル」
「ねぇ、どんな味でした? おしえてくださいよどんな味でした? 私にも一口くださいよ」
「少し離れ」
言葉が途切れる。
一瞬、何が起きたのか、わからなかった。
視界を埋め尽くすのはドロルの顔。唇に軽い、柔らかな感触。湿り気を帯びた何かが這い回る……
「うっ!」
撥ね飛ばされたカップと皿が、短い悲鳴をあげて転がった。
反射的に蹴飛ばしたのだ。テーブルの上の紅茶と菓子は、それに巻き込まれた。
「ぐふっ、ふふふ」
胸を打って、軽く咳き込みながらも、床に転がったドロルの顔には、不気味な笑みが張り付いていた。
「何をす」
「やっぱり。甘い甘いチョコレートケーキの味がしました」
「馬鹿なことを」
「ああ、ご主人様に先立って、味わってしまいましたよ! 私はなんて悪い奴隷なのでしょう!」
だが、怒りは一瞬で冷めた。
その眼差しに宿る狂気ゆえに。
「遠くからわざわざ呼び寄せたとっておきの、最初の一口! ああ、ああ、あはははは、ははははっ!」
床に膝をついたまま、ドロルはヒステリックに笑った。
あまりの気持ち悪さに、背中から皮膚が剥がれていきそうな気さえした。
「ねぇ、ファルス様、スーディアは本当に素晴らしい場所ですよ! 祝福された土地です。何もかもを埋め合わせてくれますから!」
「なんだと」
「一年前には、ディーが来ました。今も毎日、兵士達にからかわれていますよ。汚い便所掃除とゴミ拾いが、彼女の仕事なんです。それにそれに、あの胸糞悪いタマリアは、今じゃ立派な売春婦です! ああ、残念、できることなら一度、結ばれてみたかったのに! どんなに汚いか、確かめたかったのに!」
そう言うと、彼はまた、ゆらりと立ち上がった。
「でも、それだけじゃあないんです」
「なに」
「もう三年になりますか。私の母と姉が、スーディアに来たんです」
家族が?
しかし、女とくれば、ゴーファトの思考回路からして、ろくなことにならなかったはずだ。
「朝から飲んだくれて、暴力ばかり振るう父は飲みすぎで死にました。私が売られた理由も、きっかけはそれなんですけどね……それで溜まった借金のせいで、母も姉も身売り。ははは、私を先に放り出して借金を返したのに、結局、元の木阿弥ってわけですよ!」
「そんなことが……」
「出会ったのは偶然です。でも、そしたらあいつら、なんて言ったと思います? 『領主様のお気に入りになったのなら、助けておくれ』ですって! あはっ、あははは!」
しかし、実母と姉を目にしたドロルの中には、憎悪しかなかった。
だいたいからして、姉と母に愛着を持つ時間もなかったに違いない。四歳、五歳の段階で身売りされて、十歳になるかどうかでスーディア行き。その二年後のことだから、奴隷としての人生のほうが、家族と過ごした時間より長いのだ。
ドロルが領主様の愛玩動物になったのは、そして取り返しのつかない傷を負ったのは、誰のせいか。ファルスもタマリアもゴーファトも憎いが、原点は家族だ。奪うばかりで何も与えなかった母のこの一言が、彼に火をつけてしまったのだ。
「だから、ゴーファト様にお願いしました」
「な、なにを」
「ぶら下がる二人……あー、今思い出しても、楽しくて涙が出ますよ」
お願いした、というのは「助けを求めた」という意味ではなかった。母と姉への復讐を願ったのだ。であればゴーファトも、快諾したに違いない。
同じ境遇に生まれた人が、みんな同じ道を辿るとは限らない。ただ、彼の場合は、絶望があまりに早く訪れた。
飲酒と暴力の家庭の中で、その悪意の種は蒔かれた。それが奴隷として売り飛ばされたことで芽吹き、日々先細っていく将来を感じる中で育ち、ついにはゴーファトの手によって花開いた。
悪意。それは、彼にとって世界のすべてなのだ。
「それからですよ。閣下は私を少しだけ大切にしてくれるようになりました。そんな中、次々と昔の知り合いが流れ着いてくるじゃないですか。ディーといい、タマリアといい……それで今度は、ノールまで!」
一歩ずつ近付き、また俺のソファに手を置いた。
「こういうのを、なんて言うか、知ってますか?」
「知るか」
「運命、っていうんですよ……」
そのまま、するっと顔を俺の首筋に擦り付け、耳朶に軽く歯を立てる。
繰り返される卑猥な振る舞いに、俺は身を起こしかけた。その耳に、短い警告が突き刺さる。
「動くな」
敬語を使うのをやめて、ドロルは俺に命令した。
「何しにスーディアに来た」
「閣下に招かれただけだ」
「嘘だ」
「信じろとは言わない」
「目的は」
「いい加減にしろ」
すると、ドロルは身を起こした。俺を見下ろしながら、ソファに両手をつけて俺を覆い包むようにしながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「手を貸してやってもいいぞ」
「なに……」
「何をくれる」
俺は、少し考えた。
「さっき言ったはずだ。金と身分と……その体も治してやる」
「ふうん、で、何をして欲しいんです?」
「それも……さっき言った」
「ふうん」
それで熱が冷めたのか、すっと背筋を伸ばして立ち上がった。
そのまま、すっと背を向け、出入口に立ってから、首だけこちらに向けた。
「わかりました。じゃあ、そういうことで」
「そういうことって」
「ファルス様への助力は惜しみません。私は味方ですよ。あなたは未来の主人なのですから」
協力者になった? まさか!
これは絶対、よくない何かだ。
だが、彼は俺の反応を待たなかった。
「今日はお話できて、楽しかったです。またお手紙を出しますね」
一方的に、なんら感情のこもっていない挨拶だけ残して、彼は去っていった。
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