石より固いイシ頭
空が白み始めた。
アグリオを取り囲むスーディアの山々の輪郭が、ほの白い光に浮かび上がる。早朝特有のみずみずしい空気が、肺の奥に沁みこんでいくようだ。
まだ雲が多い。それでも久しぶりに垣間見えた青空が、散らかった俺の頭の中からゴミを一掃してくれた。やるべきことがある。
人出が増える前に。俺は意を決して、立ち上がった。
「こんな朝早くから、どうしたの?」
「頼む。帰ってくれ」
目的地はノーラの部屋だった。
そこで俺は、開口一番、帰るように促した。
「またその話?」
「いくつか報告しなきゃいけない」
今の俺には余裕がない。
大股で部屋の中に立ち入って、向かい合わせになっている椅子の上にどっかと腰掛ける。すぐノーラも残った椅子に静かに座った。
「無駄かもしれないけど、一応、周囲を確認して欲しい」
「いいわ。ちょっと待って……誰もいないわ」
「気休めだけどな」
「どうしたの?」
アーウィンが、使徒が、こちらを見張っていたら。
ノーラが持つ能力で、彼らの監視を完全にシャットアウトすることはできないだろう。
俺は居住まいを正して、はっきり言った。
「これは罠だ」
「罠?」
「前に言いそびれた。実は、使徒が来てる」
言われても、ピンとこなかったようだ。俺は付け足した。
「グルービーに、あれだけの力を与えたらしい奴だ。実は、あの村に泊まった時、真夜中に会っていた」
「どうして今更、そんなこと」
「すぐに言おうか迷った。知らせたら、ノーラまで使徒に注目されるかもしれない。それが怖かった」
だが、もう、それどころではない。恐らく既に、ノーラは使徒に狙われている。
「じゃあ、もっと危ないことがあるということね」
「大きく二つ。一つ目は、前にも簡単に報告したけど、ゴーファトの暗殺には失敗した」
「それは覚えてるけど、どうして? 何かそれで困ったことになったの?」
前回は、ゴーファトの肉体を奪おうとして断念して、その足でそのままここまで飛んできたから、詳しく状況を説明する余裕もなかった。行方不明になるわけにもいかず、すぐにタシュカリダの宿に帰りたかったのもある。
「大丈夫、直接には気付かれてはいない。それ自体はね……遠くから見下ろしただけだから。でも、その……わかると思うけど、奪い取れなかった」
「それは、なぜ?」
「わからない。やると大変なことになるという警告が見えたんだ。でも、具体的に何が起こるのかは、わからない」
多分、実際にゴーファトから肉体を奪えば、あの警告の意味も明らかになるだろう。ただ、その代償がどれほど大きなものになるか……
「これに付随してもう一つ。多分、ゴーファトは気付いている」
「えっ」
「僕が国王陛下の回し者で、自分を殺しにきた可能性があることにも思い至っている」
「そんな、じゃあ、どうして捕まえないの? どうしてわざわざ呼んだのよ」
「そこがわからないんだ。でも、そうとしか考えられない」
暗殺の危険を冒してまで俺を呼びつけた理由。
だから、今、スーディアで起きている不穏な何かの中心には、多分、俺もいる。
「もう一つは」
「僕でもかなわない相手がいる。これも簡単には伝えたと思うけど」
アーウィンのことだ。
ピアシング・ハンドがなぜか機能しない上に、信じられないほど多くの魔術に精通している。魔術核のランクの高さも考え合わせると、彼一人で街一つを廃墟に変えるのも不可能ではない。
「多分、パッシャの幹部だ。戦ってはいない。でも、ちょっと剣で切りつけたくらいでは傷が治ってしまうし、この辺をあっという間に焼け野原にもできる。おまけに『千里眼』や『瞬間移動』の神通力まで持ってる。極端な話、後ろからいきなり出てきて、僕を丸焦げにすることもできてしまうんだ」
「火魔術なら、ファルスも使えるじゃない」
「威力が違う。試してみたくもないけど『消火』や『防熱』の術を使っても、彼の魔術を相殺することはできないと思う」
「そんなに」
俺に精神操作魔術を行使しようともしていた。あの時、詠唱も何もなかったということは、何らか魔道具を使用していたと考えるのが自然だ。となれば、他にもその手の装備があると判断すべきだろう。あれだけの魔術師が、たった一つの道具で満足するはずはないから。
「ノーラは自分の意志でここまで来たつもりなんだろうけど」
「つもりじゃなくて、自分で来たのよ」
「全部、使徒の目論見通りだ。誘い込まれたんだよ」
「どういうこと」
俺は呼吸を整え、今一度背凭れに体を預けて緊張をほぐした。
「おかしすぎるんだ。収容所時代の仲間がみんないる。タマリアもそうだけど、ほら、ドロル……覚えているか。ミルークの部屋から宝石を盗んで逃げようとした」
「そういえば、スード伯のところに送られたんだったわね」
「まだ生きている。この前、会った」
「それは、あってもおかしくないことだと思うけど」
「まだある」
俺は指折りしながら数えた。ノーラ、タマリア、ドロル……次は薬指。
「ルーク……コヴォルにも会った」
「どこで?」
「これも城の中だ。あとちょっとでゴーファトに売り飛ばされるところだった。今はタシュカリダにいる」
「他には?」
「ああ」
小指を折り曲げ、拳を作る。
「ウィストまでいた」
「どこに?」
「殺されそうになったよ」
さすがにノーラも絶句して、目を見開いている。
ドロルならともかく、俺とウィストは親しかったのだから。
「今はパッシャの一員だ」
「な、何が」
「片手の指では足りないな。それと、ディーもいたぞ。ゴーファトが一年前に結婚した男爵夫人のメイドとして、今も城の中にいる」
ここでノーラは黙り込んでしまった。
「わかるか。使徒は僕に興味がある。奴は『運命』だと言っていた」
「運命?」
「目を覚ませとも。僕が……周りにいる人を庇おうとする、それは無意味だからやめろと、そう言われた」
そのメッセージは、十分すぎるほどに伝わった。
数年の間、顔を見なかっただけの彼らと、どれほど遠く隔たってしまったのか。他人行儀なコヴォル、内気なメイドになったディー、そしてよりによってパッシャの手先になったウィスト。
僅かの間に、人はここまでうつろうのだ。ならば、わざわざ身を張って守ったところで、何の意味があるのだろう?
思えば、国と国との関係だって、短期間のうちに大きく変化する。前世日本は、最初の世界大戦ではイギリスと同盟したが、その二十年後には「鬼畜米英」などと国民に叫ばせていた。笑顔で肩を叩きあった間柄でも、成り行き次第で殺しあう。そういうものなのだ。
「奴が期待しているのはなんだ? 僕が、あいつらを見捨てることだ。顔見知りだ、友達だ……そう言っておきながら、目の前で死んでいくのをただ見送る。そういう場面を作り出したくて、あいつらを掻き集めたんだ。実は僕が……どんなに冷酷で、薄情な奴かを自覚させるために」
「ファルスは、そんな冷たい人じゃない」
「冷たい人だよ。見ただろう? 他人だから、自分の命を狙ったからという理由はあったにしても、あっさり殺した。正義のためでもなんでもない。自分と、そのすぐ近くのことしか考えられない、小さな人間だ」
俺には、世界を救うとか、正すとか、そんな高みからの視点なんてない。概念としては理解できる。だけどそこに感情が伴っていない。それこそウェルモルドみたいな、世界のありようそのものを変えたいという理想なんか、持っていないのだ。
「ということは、スーディアにいればいるほど、僕の知り合いであればこそ尚更、危険な目に遭う。狙われているんだ。だから、逃げてくれ」
「今、逃げたら、じゃあタマリアはどうするのよ」
「僕が助け出す。可能なら」
「可能ならって」
「わかるだろう。いいか、ここは燃えている建物の中と一緒だ。助かる人から逃げる。助からない人は助からない。そうやって欲張って足踏みしていたら、逃げれば助かる人まで焼け死んでしまう」
緊急事態の心得だ。逃げ方にこだわっていたら、誰も助からない。
最優先のものを一つだけ。自分の命だけを抱えて、全速力で走る。これが正解ではないか。
「それくらい危ない場所に、ファルスを一人残すの? 絶対にいや」
「四の五の言ってる場合じゃない。友情とか愛情とか、言ってる場合じゃないんだ。言うことを聞かないなら、ぶん殴ってでも送り返す」
「好きなだけ殴ればいい。それでも私は残る」
「与えた力も全部剥ぎ取る」
「すべてをなくしても、私は残る。ファルスを連れて帰るんじゃなかったら、どこにも行かない」
なんて頑固な娘なんだ。
路傍の石に頭をぶっつけても、砕けるのは石のほうなんじゃないか。手に負えない。
「いいか、全部僕のせいなんだぞ」
「どうしてそうなるのよ」
「僕を使いたいから、タンディラールはリンガ商会を人質にしている。僕を利用したいから、使徒もノーラ達をここに掻き集めた」
「だから何よ」
「でも僕は世界を救う勇者なんかじゃない。周りの人が不幸になるのを見ていられないだけ、自分のせいで大勢が犠牲になるのを見ていられないだけの、小さな小さなただの人間だ。だから、頼むから逃げてくれ」
脅してもダメ、そして懇願しても……
「一つ、大事なことを忘れてるわ」
ノーラの顔色に変化はなかった。
「私も同じただの人間で、英雄でもなければ特別下劣な人間でもない。自分の周りの人が傷つくのが怖いだけ。だったら、ここでファルスを見殺しにすることに耐えられると思う?」
溜息をつき、俺は首を振った。
「もし、僕まで助けたいというのなら、ピュリスに帰ってから、僕の知り合いを全員、海外に出国させてくれ。土地も全部売り払って、いや、間に合わなければ捨てていってもいい。地下室の財宝がどれだけ残っているかわからないけど、身内を守るためなら、全部使い切ってくれていい。そうすれば、僕もゴーファトを殺す前に、ここから逃げ出せる。誰も犠牲にならないなら、すべてを捨てて逃げたって構わないんだから」
「ファルスがいなくなるじゃない」
「いなくならないよ」
「うそ!」
確かに、俺は可能な限り、旅を続けようとしている。不死を得られるなら、永遠に眠り続けてもいいと思っているし、実際、次の目的地は『人形の迷宮』だ。あそこで永遠に封印され続けることを狙っている以上、俺はいなくなる見通しではある。
「だから、私は連れて帰らないといけないの」
「無茶苦茶を言わないでくれ。現実問題、戦えないだろう」
「戦う」
「人を殺せるのか」
だが、ノーラは躊躇しなかった。
「ファルスだって人殺しはいやがってるじゃない」
「もう何人も殺した」
「だったら、尚更ほっとけない」
だが、俺はあえて言い放った。
「じゃあ……パッシャとも戦えるのか。ウィストを殺せるのか」
さすがにこれを持ち出されると、ノーラといえども「うん」とは言えない。
一瞬、言葉に詰まった彼女は、それでも言い募った。
「ファルスだってできないくせに」
「……やる」
やるしかない。
ニドが貴族を憎むようになった経緯は、理解できる。どういう原因からそうなったのかはわからないが、とにかく日々、虐待を受けていたのだろう。焼けた何かを体に押し当てられる。俺も経験があるからわかるが、あれはたまらない。
しかも、どういう状況でそれをされたかという問題もある。誰だって火傷の一つや二つは覚えがあるだろう。火は怖いものだということを学ぶ。だが、それだけだ。しかし、自分に対して支配的な力を持った誰かが、強制的に何度も何度も焼き鏝を押し当ててきたらどうか。
身分差にゆえに、そうした理不尽にずっと耐えなければいけなかったのだとしたら、彼の怒りも無理はない。彼は正しい。
だが、それで世界を滅ぼしてもいいのか?
見境なく誰でも殺す、そういう組織に身を置くようになってしまった。彼をパッシャに追いやった世界は悪だ。だが、パッシャもまた、悪なのではないか。
「街に放火してまわっているのは、あいつなんだぞ」
「えっ?」
「怪盗ニド。それが今のあいつの名前だ。とんでもない神通力で、家一軒、燃やし尽くすことができる。もう、何人か死んでるはずだ」
「で、でも」
気持ちはわかる。
俺だって、説得できるなら、そうしたい。今からでもパッシャを抜けてくれるなら。だが……
「つまり、このままだと、ファルスがウィストを殺しかねないのね」
「だったらどうする」
「それも止める」
「バカが! 身の程を知れ!」
俺は立ち上がり、乱暴に彼女の襟を掴んで引き寄せた。
意志が強いのは結構なことだ。だが、世界はそんなに都合よくできてない。俺がゴーファトやアーウィンを軽々殺せるくらいに強ければ、我儘だって通せるだろう。だが、現実は違う。
「ちょっと力があるくらいじゃ、どうにもならないことだらけなんだよ。死ぬなって言ってるんだ。わからないのか!」
「意志を通せない命に何の値打ちがあるのよ。私はやめない」
俺は手を放した。
「そうか」
どちらにせよ、説得はもうした。隠している情報もない。これ以上は、彼女の意志の問題だ。
「一応、伝えておく。コヴォルはプルダヴァーツという商人の所有物だ。ディーは今、オルヴィータという名前で、奥方の付き人になっている。可能なら、助けて逃げてくれ。でも、難しそうなら、一人で逃げてもいい。僕に断りを入れる必要もない。恥ずかしいことでも情けないことでもない。自分の命が大事だ」
それに、これからは俺も忙しい。
ノーラがピュリスに帰ってみんなを逃がすといっても、それは簡単ではない。タンディラールも彼らの逃亡を阻止するかもしれない。だから、どうせやるしかない。
「やりたいようにやればいい。僕もそうする」
「わかったわ」
俺は背を向けた。
ゴーファトを殺す。
だがそれだけではない。このスーディアで何が起きているのか。それも見極める。
きっと回り道はできそうにないから。
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