日陰の花嫁

 行軍すれば丸一日の距離でも、鳥にとってはあっという間だ。ただ早朝一番を狙う以上、周囲が暗いうちから飛び立たなくてはいけなかったので、最初は少し迷いそうになった。


 起伏あるスーディアを上空から見下ろすと、なかなかに眺めがいい。

 自然豊かな土地を目にすると、草や木を見て「生きている」と感じるものだが、ここでは大地そのものが脈打ち、生命力を発しているような気がする。三つの大きな盆地を中心に、皺が寄ったみたいに小刻みな空間ができている。それが道になったり、集落になったり、農地になったりしているのだ。

 だから、夜明けと黄昏は、きっとこの土地ではもっともダイナミックな時間帯だろう。長く尾を引く影が大地にコントラストを生み出すからだ。


 しかし、今日はこの地の雄大な眺めを楽しむために飛んでいるのではない。

 程なく、南のコーシュティ盆地の南端に、小屋とテントが密集する場所を見つけた。赤茶けた大地の一部は剥き出しになっているが、それ以外は暗い色の樹木がそそり立っている。そして、普段は木こりが使っている小屋の数々を、兵士達が占拠しているのだ。とりわけ大きな場所が、ゴーファトの宿舎に充てられている。

 なお、やはりというか、無血での解決はならなかったらしい。少し離れた広場には木の杭が立てられていて、そこに二つばかり、生首が晒されていた。


 あとは上空を旋回しながら、彼が外に出た瞬間を狙うだけだ。

 既に下っ端の兵士達は起き出して、出発の準備を整えているようだ。ゴーファトが身を預ける予定の馬車はまだ空っぽだったから、今回の標的はまだ、宿舎の中にいる。


 彼を殺しても、パッシャの暗躍は止まらないのではないか。本当にこれでいいのか。

 知ったこっちゃない。それでも、これで終わりにする。


 扉が開いた。

 あの、見覚えのあるボリューミーな焦げ茶色の髪が見える。当たり前だが、誰もこちらを警戒していない。完璧なシチュエーションだ。


 よし、肉体を奪う……


 その瞬間、何かのイメージが脳裏に浮かんだ。

 ヌルヌルした粘液が、眼下の盆地すべてを埋め尽くす。そこに、白い管のような何かが無数に絡み合って、のたうっている。アグリオの市街地に、生きている人はいない。誰もがその白い管に飲み込まれてしまった。空は掻き曇り、汚れた粘液はいつまでもどこまでも、けじめなく広がっていく……


 ハッとした。

 一瞬、意識をもっていかれるかと思った。


 今のは何なのか。

 ゴーファトは既に、宿舎とした小屋を出て、配下の兵士達に何事かを命じている。兵士達も直立して、その言葉に耳を傾けている。


 この感覚には、覚えがある。

 最初に感じたのは、ヘミュービのディバインコアを奪おうとした時だ。果てのない虚空に投げ出され、全身が風の中に溶け込んでいくような光景を幻視した。次はアルジャラードだ。今度は逆に、狭く暗いどこかに閉じ込められるようなイメージを見た。

 今回のも、それに近い。ただ、微妙な相違点がある。特にヘミュービの時に感じたのは、強烈な浮遊感だった。初めてピアシング・ハンドを使用しようとした時にも、何か体が浮くような、落ちていくような不安感があったが、それが何倍も大きかった。しかし、ゴーファトの肉体に関しては、それはほぼなかった。それでいて、イメージのほうはというと、より生々しく見えたのだ。


 何が起きた?

 わからない。ただ、これはピアシング・ハンドの警告のような気がする。いつも説明不足の能力だが、それをすると何が起きるのかを事前に知らせてくれているようなのだ。

 しかし、それも断言できない。昨日遭遇したアーウィンなる怪物に対しては、そういった反応はなかった。ただ、肉体らしきものを奪おうとした時、そもそもピアシング・ハンドが動作する時に感じるものが何もなかった。要するに発動すらしなかったのだ。

 つまり、この能力自体が動作不良を起こしている可能性もある。ただ、そこもはっきりしない。今まで、ちゃんと機能しなかったことなどない。ただ、それにしては。ゴーファトは神や悪魔じゃない。悪魔みたいな奴ではあっても、人間じゃないか。


 上空を旋回しながら、俺は散々に悩んだ。

 だが、危険が大きすぎると判断して、この機会を見送ることにした。問題ない。肉体を奪うだけなら……他のタイミングを待つこともできるのだから。


 昼前には、俺は割り当てられた宿舎に引き返していた。

 今日も今日とて、テラスに一人、力なく椅子にもたれるばかり。今後をどうするか、まるで考えがまとまらない。


 一応、できること、というかすべきことはした。鳥の姿のまま、ノーラの宿を訪ね、そこで簡単に事情は説明した。そんなことはしないと思うが、ゴーファト殺害成功を確認せずに先走ってタマリア救出なんかされたら、大変なことになりかねなかったからだ。

 それと、要注意人物としてのアーウィンについても、伝えておいた。見かけたら近付かないこと。絶対に勝てる相手ではないし、ピアシング・ハンドも通用しなかったことを言っておいた。


 だが、それならどうするか。

 自分の側に問題があるのか、相手が特殊なのか。それすら不明な状況だ。そしてゴーファト暗殺にピアシング・ハンドを利用できないとなると、難易度は格段に跳ね上がる。

 何が何でも殺すとなれば、やれなくはないと思う。ゴーファトも強者ではあるが、一対一の戦いで、正面から挑むのであれば、今の俺なら後れをとることはない。ただ、彼は領主だ。近くにはあのナイザをはじめ、多くの護衛や家臣が控えている。彼らを振り切ってなおゴーファトを討ち取れるかと言われれば、それすらできるかもしれないが、彼らをきれいに全滅させられるかと言われると、これは難しいとせざるを得ない。

 目撃者が残る状況で殺せば、俺は貴族殺しの大罪人となる。タンディラールは形ばかりとはいえ、俺の罪状を並べ立てて追討命令を下すだろう。面倒なこと、この上ない。

 しかも、そこまでのリスクを取ってゴーファトを襲うのに、まだ不確定要素が残っている。パッシャだ。昨夜遭遇した、あのアーウィンが割って入ったらどうなる? 奴にとって、距離など意味をなさない。瞬間移動の神通力でどこにでも現れて、いつでも俺の行動を妨害できるのだ。奴が俺を殺しにかかったら、逆にこっちが狩られる側になる。


 困った……


 思い悩む俺のところに、初老のウェイターがそっと近付いてくる。

 顔をあげると、一枚の書状を恭しく差し出してきた。そして無言で一礼して、去っていく。なんだ?


 封筒には、差出人の名前が書いてなかった。しかし、かなり上質なものと見受けられる。その場で中を検めた。


『王の騎士ファルス殿


 不躾ながら、ご縁も面識もないながらにご挨拶させていただきたく……

 あなたの名声を耳にし、ぜひともご尊顔を拝したく、筆を取りました。

 私はダヒア、スクートゥ男爵の娘にしてスード伯ゴーファトの正夫人です。


 王都に生まれ、王都に育った私ですが、この一年あまりもの間、峰々の間に暮らす日々を送りました。

 スーディアの大地はまことに雄々しく素晴らしいものではありますが、時折、山の向こうの景色を懐かしく思うのです。

 都よりいらしたあなたに、華やぎの名残を見出したく、切に面会を願うものです。


 ご多忙とは存じますが、本日の黄玉の刻にご訪問いただくことはかないますでしょうか。

 フリンガ城の裏、西の門よりお越しください。

 香り高い紅茶をご用意してお待ち申し上げます』


 ゴーファトの妻、か。彼が不在の間に……

 まぁ、そうでもなければ勝手な社交などできないだろう。また、差出人がこれだから、ウェイターもなるべく係わり合いになりたくなくて、さりとて無視もできず、ああいう態度をとったのだ。

 会う値打ちがあるかどうかは、わからない。想像ならつく。彼が妻に優しくするはずはないから、ここから助け出して欲しいみたいなことを言われるだけだろう。だが、この行き詰まった状況を打破するのに、役に立つ可能性もある。予定もない。


 季節柄、まだ日も高いうちに、俺は西門に向かった。といっても、空は相変わらず雲に覆われていたが。

 位置関係として、フリンガ城の真南に旧市街、イチカリダがある。その北西方向にタシュカリダ区がある。だから俺は、街区の北端に出て、そこから東側に出る道を探した。なかなか見つからなかったが、それも無理はない。どこかのお宅の裏庭といってもいいくらい、デコボコで貧相な小道があっただけだったからだ。フリンガ城はちょっとした岩場の上にある。掘りぬいた南の大門を別とすれば、あとは登っていくしかない。

 ほとんど土がなく、岩ばかりの場所なので、生えている草もどこかいじけている。丈が低く、水気も生気もない。そんな草を横に見ながら、足下に気をつけつつ、磨耗した階段を登っていく。普段はろくに使われていないのだろうか。


 辿り着いてみて、溜息が出た。西門が何に使われている場所か、わかってしまったからだ。

 城の規模の割には小さな扉。そのすぐ外には、大きな空っぽの木桶が転がされている。どれもほのかな腐臭に包まれている。残飯でも詰め込まれていたのだろう。ここは、ゴミの搬出口なのだ。

 裏を返せば、それほどまでに人目を忍んでの面会なのか、とも思ったが……


 俺が裏口の前に立つと、ややあって、内側から扉が開いた。

 明るい亜麻色の髪を重たげに下ろした少女だ。顔が半分隠れてしまっている。この蒸し暑い季節に、モコモコの分厚いメイド服だ。色合いもどんよりと気の滅入る暗い紺色。彼女は何も言わず、ただ扉を開けると、すぐ背を向け、先に立って歩き始めた。

 非礼とは言うまい。それほどまでに目立ちたくないのかもしれない。だいたい、フリンガ城で女の使用人なんて、初めて見た。ここでは、どれほど肩身が狭いことか。


 廊下を少し進むたび、彼女は立ち止まって左右を確認した。その表情には切迫したものがあった。

 幸い、目的の部屋は遠くもなく、彼女は控えめなノックをした。


「お入りください」


 中から若い女性の声が聞こえてきた。生命感のない、か細い声だ。

 少女は無言で扉を開け、俺も続いた。


 立ち入ってわかった。ここが彼女に割り当てられた普段の居室なのだと。

 それなりの広さがあり、入ってすぐのその部屋は、応接室のようだった。丈の低いテーブルを挟んでソファが置かれてあり、足下にはペラペラのカーペットが敷かれている。そのどれもが古ぼけている。床も修繕の跡がみられず、埃っぽい。

 違和感があるのは、入口の正面にある壁、そこの暖炉の横に飾られた絵画だ。貴族の一家の肖像画だが、これだけが奇妙にこの場所では浮いて見える。この部屋の女主人が実家から持ち込んだものだろうか。

 花嫁を冷遇するにもほどがある。西向きの一階、湿気の篭りやすい日陰で、しかもゴミ捨て場に近いこの一角を割り当てるとは。構造上、建築物の下の階層になればなるほど、窓も小さくなりがちで、ここにも小さな窓が上のほうにあるだけだ。冬は寒く、夏は湿気が篭り、しかも西日が入るという、最悪のポジションだ。

 この応接室の脇から、奥へと通じる暗い通路がある。俺を案内した少女は、そのまま無言でそちらに引っ込んだ。


 ソファに腰掛けていた女主人が身を起こそうとする。

 だが、こちらの身分を考えれば、先に挨拶するべきだ。


「お招きにあずかりましたファルスです。お会いできて光栄です」

「ダヒアです。さあ、おかけになって」


 時間も余裕もないのだろう。彼女の夫は今日、帰宅する予定なのだ。

 それなら昨日とかに声をかけてくれれば、と思ったのだが、それも無理かもしれない。彼女らに行動予定を知らせてやるほど、ゴーファトは親切ではない。


「今、オルヴィータが紅茶をお持ちします。お寛ぎになってください」

「お気遣いありがとうございます」


 線の細そうな女性だった。肌は白く、体格は華奢。体も小さく、肉付きもよくはない。今は作った微笑を浮かべているが、俺には今にも泣き出しそうに見える。


「遠いところからいらしたのですよね。ファルス殿はピュリスにお住まいでしたとか」

「自宅はピュリスにあります」

「せっかく陛下から銀の腕輪を賜ったのに……でも、そうですわね。学園は十五になってからというのが普通ですものね……あら?」


 そういうことか。

 ほぼ、彼女は外部の情報から遮断されている。もともとスーディア自体がド田舎なので、西の彼方で起きた事件もそうそうは伝わってこない。それでも、街中の商人達であれば、黒竜を討った少年のことを、聞きかじってはいるだろう。もちろん、それがこの俺だとすぐわかるかといえば、別だろうが。

 つまり、ダヒアは俺について、一年前までの情報しか知らない。それを確かめるために、俺は今、黙って袖をめくった。やっぱりだ。金の腕輪を見て、彼女は軽く驚いていた。


「ダヒア様」


 俺は雑談を切り上げることにした。

 相手の信用がどうとか、仲良くなるプロセスとか、あれこれ考えている場合ではない。俺も彼女も、余裕がないはずだ。


「本日はどのようなご用件で」

「ああ……」


 その一言に、目元が定まらず、うろたえてしまった。

 けれども、本題を切り出さないことには、何も始まらない。やがて、真剣な表情で俺を見据えて、言った。


「……お助けください」

「と言いますと?」

「ここは恐ろしい場所です、ファルス様。日夜少年達が殺され、夫はそれを食らっているのです」


 まったく予想通りの要求だった。


「それだけではありません。城下に住まう領民達も、ちょっとしたことですぐ犠牲になっているのです」

「それは見ました」

「私は妻ですが、名ばかりです。ここに閉じ込められたまま、できることもなく」


 そこへさっきの少女が戻ってきて、黙ってティーカップを置いた。


「しかしダヒア様、こう申し上げてはなんですが、常識的に考えて、あなたはゴーファト様の正夫人です」

「ええ」

「それを僕か、それ以外の誰かが連れ去っていったとなれば、大問題となりましょう。というのも、ゴーファト様には妻に対する当然の権利がおありだからです」

「ああ、恐ろしいこと」


 彼女はスカートの裾を掴んで身震いした。


「あけすけに申しますと、夫が私の寝所を訪れたことなどありません。すべては名ばかり、形ばかりです。ですがそれを申し立てたところで、何になりましょうか」


 ダヒアを救い出す方法がまったくないわけではない。だが、それは彼女には難しすぎるだろう。俺の近況すら知らなかったのだから。

 だが、無理だろうとは思いながらも話を持ちかけてみる。


「もし、大手を振ってスーディアを出られるとすれば、それはただ、ダヒア様に正義がある場合に限られます」

「正義、ですか?」

「仮にもし、あなたがここを逃れて王都に向かったとしても、あなたのスクートゥ男爵夫人としての身分は、夫の家父長権の下におかれるべきものでしかなく、ゆえにあなたが被る悪名は、夫をないがしろにした淫婦にしかなりません。ですが、たとえば、たとえばですよ……」


 言葉を選ばないと大変なことになるので、俺は少し考える。


「仮にもし、ゴーファト様に逆意がおありだったとして、もちろんこれは仮にというお話ですが、その証拠をもって王宮に駆け込むならば、陛下もその身分を保証し、かつ正式な離婚を承認して、あなたは何一つ失うことがないでしょう」

「おお、恐ろしいこと」


 やっぱり、無理だ。

 デキる奴なら、これでもう察する。


「ですがファルス殿、私がどうしてそのようなことを知り得ましょうか。嫁いだその日から、たった一人の従者とともにこの部屋に押し込められ、何一つ外のことを知らずにいるというのに」


 度胸もあり、機転も利く人物なら「ないなら作ればいいじゃない」と考える。

 彼女がフリンガ城の片隅に軟禁状態だなんてことは、ゴーファトやその近しい人しか知らない事実だ。普通なら、ダヒアはその身分に相応しく、それなりの行動の自由を与えられていると誰もが考える。それこそ、サフィスにとってのエレイアラのように、社交の一部を担うことだってあるのが、貴族の正夫人の役割なのだから。

 よって、そうした交際の中で、ゴーファトの反逆の証拠を掴んだ、ということにしてしまえばいい。


 そうすることに何のメリットがあるかって?

 俺が動ける。反逆罪により、あなたを逮捕し王都に送ります、と言える。日の光の差す表舞台でこれをする場合、ゴーファトの側近や家臣とは交戦状態になるだろうが、パッシャは首を突っ込まないだろう。現実には、あのアーウィンが見境なく襲い掛かってきた場合には、何もかもがご破算になるのだが……それをするくらいだったら、先の内乱の時にも、彼が出てきてすべてをひっくり返していただろうからだ。


 もちろん、それが嘘だった、ということになれば、また問題は出てくる。出てくるが、そこはタンディラールに期待するしかない。彼としても、自分にとって都合のいい証言は、うまいこと利用したいだろうから。

 それに、仮に責任追及しようとしても、その嘘の出所は俺ではなく、ダヒアだ。トカゲの尻尾切りみたいな話で申し訳なくはあるが、そのリスクあってこその対等な取引ではないか。なんといっても俺は、奴と戦わなくてはいけないのだから。

 そして、この捏造は、ダヒアがやるしかない。俺ではダメだ。証言能力が低すぎるから。


 しかし、そんなことを求めるのも酷かもしれない。

 まだダヒアは二十一歳、日本でいえばまだ大学生だ。世に出ていないという意味では、それよりもっと世間知らずなのだ。それに目端の利く女性であれば、今、こんな境遇にもないだろう。


「では、せめて……オルヴィータだけでも連れ出してはいただけないでしょうか」

「さっきの」

「ええ」


 俺を案内した少女か。

 そういえば、唯一の従者とか言っていたが……


「五年前、私が帝都に留学するときに、父が預けてくれたのが彼女です。私の入学より少し遅れて、ちょうど今頃、初夏の季節にパドマにやってきました」


 懐かしむように彼女は目を細めた。

 帝都入学は十五歳が原則だが、立場や都合によって、一、二年前後するのはよくあることだ。多分、ベルノストなんかはグラーブと一緒に入学するから、十七歳になってから行くことになるんじゃないか。


「父は、召使の教育の練習だと言っていました。大人になる準備をするのが留学の目的なのだから、貴族の家の女主人として、下僕の扱いを学ぶべきだと……けれども、私にとっては、小さな妹ができたみたいで、本当にありがたい贈り物でした」

「彼女は、奴隷ですか?」

「もとはそうでした。今はもう、解放しています」


 胸の前で手を合わせながら、彼女は楽しかった頃の思い出に耽った。

 だいたい飲み込めてきた。貴族にはたいてい、相方がいる。しかし、彼女は宮廷貴族の娘で、しかも男爵だ。懐事情が厳しいと、そういう身近な家臣を用意できない。そのポジションに、まだ幼かったオルヴィータが据えられたのだ。


「あの三年間は、とても素敵な日々でした。自由で、華やかで……いつも隣にオルヴィータがいてくれたのです」

「あなたにとって、ただの下僕ではないというのはわかりました」

「ですが、その後に悪夢がやってきたのです」


 説明されるまでもなく、これはわかった。

 帝都での留学から帰国し、これからは結婚という大一番が控えている。ギリギリ貴族という家柄、下手をすれば相手は富裕な騎士階級ということもあり得たが、だからこそ、父スクートゥ男爵は、相手を選び抜こうとしたはずだ。だが、それが仇になったのかもしれない。

 彼女が帰国したその年の秋に、あの内紛が起きたのだ。長子派でなく、どちらかというとスード伯派だった男爵家は、取り潰しの対象とはされなかった。しかしそれが慰めになるかというと、まったくそんなことはなかった。


「あの混乱で……父も兄も亡くなりました。私は望んでもいないのに、スクートゥ男爵家の家督を引き継ぐことになったのです。ですが、召使の多くもあの時殺され、家財の多くも略奪を受けました。手元に残ったのは僅かな宝石とこの家族の肖像、それと……あの子だけでした」


 領地があるわけでもなく、タンディラールはこの手の穀潰し年金貴族に対しては冷淡だから、貧窮しても助けたりはしない。現代日本的にいうと、つい昨日大学を卒業した女の子が、いきなり戦後の焼け跡から自力で這い上がろうとするようなものだ。

 そこに援助の申し出があれば、誰だって飛びついてしまうだろう。それも、父が親しくしていたらしい大貴族からとなれば。


「それが、やってきてみればこの有様……ですが、運命はどうにもならないものです。私は貴族の娘で、責任から逃れることはできません。ですけれど、オルヴィータはただの平民の娘です。自由にしてあげていただけませんか」

「しかし……」


 ゴーファトの目的は、秘密の漏洩の防止。スクートゥ男爵家がスード伯と手を結び、いろいろ便宜を図っていた、その証拠を握りつぶすことにある。とすれば、ただの召使であっても、外に出していいとは考えないのではないか。


「お願いします。ぜひ、オルヴィータだけでも」

「といっても」

「彼女は……あなたのお知り合いではありませんか」


 なに?


「お気付きではありませんでしたか」


 そう言うと、ダヒアは手を打って唯一の侍女を呼びつけた。

 奥に引っ込んだ彼女が、ノロノロと出てくる。なんとも生気がない。


「オルヴィータ、あなたはこのファルス……かつてノールと呼ばれた少年のことを、知っていますね?」


 彼女は、ゆっくりと頷いた。

 俺は、記憶をまさぐる。この顔……


「もしかして、ディー!?」

「……なのです」


 蚊の鳴くようなか細い声が返ってきた。


 そんな。

 またここに一人。俺の昔の……収容所の時代の知り合いが。


 これは偶然か? わからない。使徒のせいかもしれない。だが、偶然だと考えたほうが辻褄は合う。

 もしこれが意図したものだとすると、使徒は少なくとも、一昨年の内乱の際には介入していなくてはいけない。つまり、スクートゥ男爵家の当主と跡継ぎを殺しておかなくてはいけない。でなければ、ディー……オルヴィータはスーディアにはいないことになる。

 だが、その時点では俺はまだ、不死を求める探索に出かけてさえいないのだ。それに、どちらに向かって進むかも明確ではなかった。たまたまサハリア行きの船がイフロースに押さえられて乗船できなかったから、セリパシア方面に向かったに過ぎない。

 だから、むしろこの事実、結果があったから、俺をこちらに誘導したとみるほうが適切なのだ。


「ファルス殿、どうか彼女だけでも」


 くそっ……

 奴は、使徒は、俺がこうして困り果てるのを見越していて、やったのだ。こんなの、どうしろっていうんだ。


「このまま、オルヴィータを私の傍においておくと、何が起きるかわかりません」


 だが、それは彼女も同じ気持ちだろう。藁にも縋る気持ちなのだ。


「私はまだ、仮にも領主の正室という立場があります。冷遇することはできても、それ以上は……ですが、オルヴィータはもう十二歳です。今まではなんとか庇ってきましたが、この土地では……夫は、女には触れるのも嫌がりますから、直接、手にかけることはありません。でも、部下達に女性を陵辱させるのは好んでいます」

「ええ」

「だから、オルヴィータ、髪を」


 すると、彼女は黙って顔を覆う前髪を左右に広げた。

 頬には打たれた跡があり、まだうっすらと腫れあがっている。


「表向きには、私が不自由な生活に対する苛立ちを、唯一の従者であるオルヴィータにぶつけていることになっているのです。特に人目がある時には、なるべく手をあげるようにしています」

「なぜ、そこまで」

「おお、私が大切にしていることを知ったら、この子は殺されてしまいます! そうでなくても」


 強姦一直線、か。

 主人と従者がいがみあっていればこそ、ゴーファトも彼らがそのままでいることを許すのだ。


「それでなくてもこの子は、つらい仕事にいつも回されているのです。便所の掃除、ゴミの運搬、そういう汚れ仕事ばかり。そうやって嘲笑を浴びるのが、今の身分なのです」


 それで、か。この内気な態度は。

 顔を髪で覆っているのも、陰気で醜い少女と印象付けるため。だが、度重なる虐待による結果でもある。

 昔、彼女はなんと言った?


『私は明日から、お城のメイドになるのです』


 貴族に買われたから、そうなると思ったのだろう。だが、実際には王都に引き取られ、またすぐ帝都に送られた。お城のメイドではなかったが、それなりに幸せな時間を過ごせたことだろう。

 しかしその後、想像もできなかった不運が襲いかかり、結果として本当にお城のメイドになってしまった。夢がかなった? 冗談のような、悪夢のような話だ。


「ファルス殿、だから、なんとかこの子を私から遠ざけて」


 バン! と背後で扉が弾ける音がした。

 立ち上がって振り返る。そこには、家来達を連れたゴーファトの姿があった。一見してわかる。怒気を含んでいた。


「あっ……ああっ……」

「まったく、これだから女は」


 なんてことだ。

 俺までとばっちり……いや、落ち着け。それでも最善を尽くせ。どうすればいいかを考えろ。剣を持たなくても、戦いと同じように、臨機応変に考えるんだ。


「本来なら、地下室で絞め殺さなくてはならないところだ。夫を持つ女が、隠れて他所の男を自室に誘い込むとは」

「おお、あなた、私はただ、遠方よりいらした客人のお顔を」

「黙れ」


 それはそうだろう。万一の情報漏洩を避けるために軟禁しておいた女が、勝手に外部の人間と接触したのだ。

 どうする? どう振舞うのが最適だ?


「ナイザ」

「はっ」

「この愚かな女に思い知らせろ。反省するまで打て」


 そんな。

 戦士の腕で殴られたら、こんな小枝みたいな女など、簡単にへし折れてしまう。


「ひっ」


 進み出たナイザは、ダヒアの二の腕を掴んだ。


「奥方様、ご覚悟を……主命なれば、ご容赦くだされ」

「ナイザ、余計なことは言わなくていい。そいつはただの淫婦だ」

「お言葉ながら、仮にも主君の正室にありますれば」


 どうする?

 黙ってみていたのでは。かといって割って入って戦うと言うのも。


「どういうことですか?」


 すっとぼけた声を出してみせた。肩をすくめて。

 俺だって、今まで何度も修羅場をくぐってきた。これくらい、乗り越えてみせなくては。


「何をお怒りなのですか、ゴーファト様?」

「おお、ファルス君、この女はだな、この売女は……君に懸想しておったのだ」

「違います」

「うるさい!」


 俺はわざと首をかしげた。


「ですが、王都の様子を知りたがっておいでで、それだけでしたよ? 別にベッドに誘われたりとか、そんなことはまったくありませんでしたが」

「それはこれからのつもりだったのだろう。ファルス君、もっと自覚したほうがいい。君の美貌ゆえに、この女は悪心を起こしていたのだ。私という夫がありながら……もちろん、誰であれ君の誘惑に抗える者などおるまいが、それにしても身の程を弁えぬ振る舞いではないか」


 要するに、俺を寝取られると、そう考えて怒っているのだ。或いは、そういう理由付けをしているだけか。


「ファルス君、この女は余計なことを言わなかったか」

「といいますと」

「女というものはなべて気性が荒く、また下品なものだが、特にこの女こそは幽冥魔境の奥底から這い出てきた怪物に違いないのだ。ことあるごとに、夫たる私の悪口ばかり。しかも、見るがいい。その侍女の顔を」


 オルヴィータを指差しながら、ゴーファトは言い放った。


「一昨年の内乱で、ともに生き残った身内同士だからと引き取ってやったのに、いつもいつも仲違いばかり。女主人の立場にものを言わせて、日々、手をあげているのだ」


 どうやら、体を張った演技は役に立っているようだ。


「わかるかね、ファルス君。これが女だ。これが女というものなのだ。口では暴力は野蛮だとか、優しい心が大切とか、きれいなことばかり口にするが、いざ、自分がその立場になると、私ですらおののくほどの残忍さを見せつける。いつでもどこでも自分、自分だ。だからこそ、女は卑しいと心得て、いつでも男の下に置くようにしなくてはいかん。でないとこのように、付け上がって害悪をなす」

「なるほど」


 異論、反論に意味はない。

 それより、この状況を利用できないか?


「だが、だからといってその少女に同情するのもよくない。その少女にしても、立場が変われば同じことをする」

「そうですね」

「わかるか、ファルス君。私は同情心もあって彼女らを引き取り、城の一角に棲家を与えたのだ。なのにそこは、あろうことか悪臭漂う家畜小屋になってしまった!」


 俺は大きく頷いてみせた。


「ゴーファト様には同情せざるを得ませんね。僕はてっきり、夫であるあなたの許可や命令があって、この僕を歓待するために招いたのだと思っていましたが、違うのですね」

「君、私がそんな馬鹿げたことを言い出すと一瞬でも思ったのか。どうして君を、空に浮かぶ白雲より清い君を、汚泥のような女達に近付けようなどと思うものか」

「おっしゃること、よくわかります。僕が剣を振るえば、こんな首などすぐ落ちますが……」


 じろりとダヒアをねめまわしてから、俺は振り返った。


「仮にもスード伯の正室です。そんな扱いはできません」

「無念この上ないな」

「では、こうしてはいかがでしょう」


 俺はたった今、名案を思いついたといわんばかりに、手を打ってみせた。


「どうせこの城から出ないのなら、もういっそ、下女のように扱うのです。炊事も洗濯も掃除も自分でやる。侍女も下僕もいない、平民のような扱いにするのです」

「ふむ?」

「たった今、ここが家畜小屋だとおっしゃったではないですか。豚同然に淫らな女だというのなら、いっそ家畜のように生きればよいのです」

「名案だが、具体的にはどのようにするのだ」

「ここにいるオルヴィータという侍女、これを除いてしまいましょう」

「なるほどな。よし、首を落とせ」


 この一言で、兵士が二人、駆け寄って彼女を羽交い絞めにした。


「お待ちください」


 俺は吟味するふうを装って、提案した。


「この少女、奴隷に落としてお譲りいただけませんか?」

「なに?」

「ゴーファト様は、先にこの城の持ち主は僕だとおっしゃいました。なら、こんな少女一人くらい、どうしたって構わないでしょう?」

「それはそうだ」

「ゴーファト様からすると、汚らわしいことこの上ないかもしれませんが」


 俺は値踏みするように、彼女の顔を覗きこみながら言った。


「ピュリスには、僕の商会があるのですよ。そこで春を鬻ぐ連中もいます」

「耳にはしている」

「そこにこの少女を送りつけてやろうかと思いましてね」

「それなら、スーディアでもいい場所があるが」

「それはそれで結構ですが」


 相槌を打ちながらも、内心はビクビクものだ。舵取りを間違って、もし本当にそんなことになったら。


「ピュリスで売ったほうが、お金になります」

「ふむ」

「あそこには、僕に愛されたいばかりに必死になって、勝手に娼館を経営し始めた馬鹿な女がいるんですよ。それでかなりの儲けもあげているようです。彼女に任せてしまえば、この程度の素材でも、それなりの利益にはなるでしょう」

「しかし、不潔ではないか」


 この「不潔」というのは、売春させて金をとることを意味するのではない。

 金なんかのために女という邪悪なものに近付くことを嫌っているのだ。


「もちろん僕は、彼女と交際したり、ましてや結婚するつもりなんて、これっぽっちもありません。ですが、黙っていれば勝手にやってくれるのです。ゴーファト様、残念ながらこの世には女がいます。なくすことはできません。であれば、せめて可能な限り、有効に活用して、使い捨てるべきではないですか」

「ほほう」

「なんなら奥様もお貸しいただけますか? ずっとではありません。ほんの二月か三月……いえ、どういうことかと申しますとですね、貴族の娘を汚したいというお客様もいるのです。器量はそこまででもないですが、この程度でも名前で売れますよ。もちろん、利益はゴーファト様のものですし、秘密は漏れません。再教育にもちょうどいいかと」


 そんな店なんかないが、そういう話をでっち上げる。

 あわよくば二人とも、最低の扱いをするという名目でスーディアから連れ出す。無理でも、せめてオルヴィータだけは。


「悪くない提案だな」

「でしょう?」

「だが、やめておこう」

「なぜですか?」


 すると、ゴーファトは俺の肩に手を置いた。


「普通なら、こんな女どもなど、兵士達に命じて強姦させて終わりだ。しかし、そういうことに君を使いたくはない……こういう穢れたものには、少しでも近付いて欲しくはないからな」


 すっと彼が手をあげる。

 兵士とナイザは、拘束を緩めた。


「今日は見逃してやろう。打ったら打ったで、聞き苦しい鳴き声をあげるからな」


 ダメだったか……

 しかし、罰を受けずに済んだのはよかった。


「それよりファルス君、今夜は私と食事をしてくれないかね。やはり君がいないと、どうにも寂しくてね……」


 本当に。

 どうしたらいいんだろう?

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