散華無惨
ゴーファトの予言通り、朝から空には厚く黒雲が垂れ込めていた。間もなく小雨が降り出し、やがてそれは締まりなく続くそぞろ雨となった。
フリンガ城前の広場から、放射状に街路の広がる旧市街に立ち入る。少ないながらも人通りはあった。みんな分厚い革のコートをかぶって、足早に去っていく。初夏というのに、先日までの蒸し暑さが嘘のように、やたらと肌寒かった。
不揃いな、暗い灰色の石で舗装された街路。あまり平らにはなっておらず、馬車が通り過ぎると、車輪と蹄鉄の音が耳につく。左右に建つ家々はどれも王都のものに似通っている。白い壁、黒い木の柱、そして色鮮やかな瓦屋根……だが、灰色の雨が、すべてのものから色を奪っていた。
俺は周囲に気を配る。
誰も後をつけてはいないはず。そうは思うが、確信はない。
ノーラの存在は、あまり知られたくない。俺の弱点になるからだ。ましてや、ここはあのゴーファトの支配する街だ。女嫌いの彼がノーラの存在を知ったら、どう扱うか。
気持ちのいい話題ではないが、ドロルや人肉料理の話もせざるを得ない。やはりここは危険な土地、狂った場所なのだ。一刻も早く彼女をピュリスに帰してしまわなくては。
目印の広場。旧市街の真ん中にあるものだ。そう広い空間ではなく、道路の交点に古い噴水があるだけだ。それが今でも水を噴き出し続けている。降りしきる雨の中、やけに水の音がはっきり聞こえた。
ここが約束の場所だ。そして、どこかからノーラは俺を見ている……
視界の隅に、黒い塊が見えた。
狭い路地の向こうで、手招きする少女。俺は何も言わず、ゆらりと一歩を踏み出した。
すぐ傍にやってきた俺に、彼女は暗い眼差しを向けた。そして、何も言わない。
それでも、先に立って歩き出したので、俺も黙って従った。
だんだんと足元の状態が悪くなってきた。古くなったまま、修繕されない地区に入ったのだろう。道路の敷石が古く、それが流れ続けた雨に浸食されて、溝ができてしまっている。そこだけ黒ずんでいて、へこんでいるのだ。
左右に並び立つ家々も、一層かすんだ色合いになっていった。もとは真っ赤に塗られていたであろう看板も、すっかり色が落ちてしまっている。そして、人気がなかった。
少し進んだ先に、急に開けた場所があった。俺は思わず呻き声をあげそうになった。
そこは、もともと広場だったのではない。どう見てもごく最近、焼き払われたのだ。黒く焦げた家の柱の残骸が散らばっている。砕かれた瓦、家の礎石も。そんな中、いくつもの柱が並び立っている。そこに縛り付けられていたのは、腐りかけた死骸の数々だった。
どんな理由があったのか。アドラットが話してくれていた。逆らう領民を鎮圧し、処刑したと。怪盗ニドなる人物が出没して、それが領民同士の揉め事を惹き起こしているとも。しかし、仮にも自分の領民に、ここまでつらく当たるのか。
だが、ノーラが見せたいと望んでいるのは、これではなかった。彼女は、この空き地の脇を通って、更に街の奥へと足を進める。
いつしか道幅は更に狭くなって、大人一人がなんとか通り抜けられる程度のものになった。やがて周囲には、形容し難い臭気が漂うようになる。香水と汚物を混ぜたような……それで察した。ここは、色町だ。
ある角で、彼女はやっと足を止めた。
「ノーラ」
「シッ」
何かを口に出そうとして、唇が震え、また止まってしまう。だが、意を決して彼女は口を切った。
「ファルス」
「なに」
「何を見ても驚かないで。あとで説明するから、早まったことはしないで」
「わかった」
俺の了承を確認して、彼女も頷いた。
そしてそっと角を曲がった向こうを指差した。
俺も、向こうにいるであろう何者かに気取られないよう、慎重に壁に身を寄せて、覗き見た。
そこは、行き止まりの場所だった。ただ、普通と違うのは、それが壁でなく、鉄格子になっていることだった。そこに上蓋の開いた缶のようなものが引っかけてある。小銭を放り込む場所だろうか。部屋の隅、鉄格子のすぐ下には、小さな壷が一つあった。何かの薬品らしい。また、鉄格子の内側には、鎖に繋がれた何者かがいた。
暗がりの中、その人物はほとんど動かなかった。降りしきる雨の向こうからでも、ここまでほのかな悪臭が漂ってくる。考え得る限り、最低の扱いを受けているのだ。身ぎれいにすることもできず、最低限の食料だけを与えられ。それでいて、自由に死ぬことすらできない。
これは、ピュリスの悪臭タワーと同じだ。束縛された女を強制的に売春させるための場所。こうして痛めつけて、尊厳を奪い去る。そこでは実利など問題とならない。彼女一人のためだけに、これだけ広い場所をとっておく無駄を考えれば、すぐわかることだ。
周囲には、俺達以外、誰もいない。
だが、小さな呟き声が聞こえる。
「……よくできたねぇ、いい子、いい子だよ……」
老婆のようにかすれた声。だが、声の主が年老いているのではない。ただ、どこか調子外れなところがあった。目の焦点があってないような異様さだ。
「大丈夫、コーザはしっかりしてるから、みんな大好きになるよ……そうしたらね、お大尽さまが目をかけてくれて、きれいな服も着せてくれるし、おいしいものも食べさせてくれる……」
知りたくない。
だが、その思いとは裏腹に、俺は釘付けになってしまった。
「フラウも、そうそう、ちゃんと字を書けるようになったね、いい子、えらいね……」
息を飲む。
気持ちの悪い熱が、腹の底からせり上がってくるようだった。
「……ノールみたいに賢くなれば、貴族さまだって、大事にしてくれるんだから……ミルークさんも厳しいけどね、本当はみんなのことを……」
聞きたくなかった。
これで確定してしまった。檻の中の彼女は……
「ごめんなさい、ごめんなさい、お父さま……私のせいで、こんな」
かと思えば、いきなり早口に謝罪の言葉を囁きだす。
正気かどうかも怪しい。たった一人きりで、獣のように繋がれて。昔の、あの収容所にいた頃の思い出に縋るばかり。子供達の世話を焼くお姉さん。それが彼女の人生において、最も幸せな時間だった。
今はただ、妄想の海の中を漂うのみ。それだけが救いなのだ。
だが、なぜ?
ミルークは、タマリアのことを気にかけていた。わざわざダングの店のケーキを取り寄せてまで、俺に彼女を力づけて欲しいと望んだくらいには。それがいくら娼婦にせざるを得ないとしても、スーディアなんかに送りつけるものだろうか? こんな不潔きわまる場末の女などにするはずがない。
理解が追いつかなかった。ただただ、胸が気持ち悪く脈打つばかりだった。
そこへ、道の反対側から一人の男がフラフラとやってきた。一瞬、俺と目が合ったが、首を傾げると、そのまま関心をなくして右に折れ、鉄格子の前に立った。銅貨を一枚、投げて缶に入れる。閂を軽く外すと、中へと立ち入った。
「グッ……キャアッ!」
小さな悲鳴が聞こえる。続いて、引っ叩く音。
「いやぁ!」
「汚ねぇ売女が! ハッハァ! あー、気分悪ぃときは、ここに限るぜ。なぁ?」
「うぐぅっ!」
「おら、さっさと銜えこめ! きったねぇ公衆便所が! そうそう、濡れてねぇのがいいんだよ……ズタズタにしてやんぜ!」
唖然とした。
だが、あんなクズを排除するくらいは……
その俺の袖を、そっとノーラが掴んだ。
「離せ」
「だめ」
「あのまま放っておけと」
「今は。死ぬことはないから」
衣擦れの音が聞こえる。
もう、タマリアは抵抗など諦めて、なすがままだ。男も、自分の行為に夢中らしい。もっとも、その様子は暗闇の中。はっきり見えるわけではない。
俺は、ノーラに袖を引かれて、その場を去った。
スラムになりかけている一角を抜け出て、俺達は城に近い街区に引き返した。そのまま、ノーラの借りている部屋に滑り込んだ。
彼女はちゃんと心得ていた。目立たず活動することの価値は計り知れない。陣取ったのは旧市街でも中級の宿屋で、お決まりの通り、一階には酒場、二階以上に寝室がある。いろいろな理由で雑魚寝するわけにはいかないので、三階の個室を確保してあった。
「水しかないけど」
「ああ、ありがとう」
濡れた外套を壁にかけ、椅子に身を投げた。
その後、コップを二つ手に、ノーラが俺の向かいに座った。
「あれからどうしていた」
俺より一日早く、ノーラはアグリオに入った。俺は兵舎で夜を過ごしたが、その日の夜、彼女はもうここまで辿り着いて、宿をとっていた。
ノーラからしてみれば、ファルスの目的はわからない。ただ、事前にアグリオ市内の情報を集めておくことは有益と考えられた。それで彼女は、周囲の人の意識を片っ端から読み取って、最近のニュースを掻き集めていった。
その結果は、まったくもって陰鬱そのものだった。次から次へと、ゴーファトの残虐行為が脳内に焼き付けられる。逆らった人間、いや、疑惑があるだけでも、当たり前のように串刺しにした。家ごと焼き払うのも珍しくはない。裁判もメチャメチャで、領主たる彼の目の前で殺し合いを命じたりすることもあった。勝った方が無罪、という条件で。
そんな中、およそ一年前に、珍しい事件が起きた。
その日もゴーファトは、いつもの暴力に耽っていた。いや、愛の行為といったほうがいいか。
フリンガ城の中にいた美少年の一人が、主人を裏切った。寵愛を受けていた少年は、ありあまる小遣いを与えられ、また城の外を出歩く自由を与えられていた。しかし、彼の目的はといえば、旧市街に住まう少女と逢引することだった。事実をゴーファトが知ったらどうなるか。
案の定、ことが発覚すると、彼は怒り狂った。これだから手術が必要なのだと……その少年は、フリンガ城前の広場に引き出された。もちろん、相手の少女も一緒だ。そして大勢の群衆が、この処刑を見届けるよう命じられて、集められた。
怒り狂ったゴーファトは、まず少年に少女を殺すよう命じた。だが、殺されるのが怖いにせよ、殺すのも怖いのが人というものだ。彼は愚かにも、それを実行しなかった。するとゴーファトは部下に命じて、少年を激しく殴打させた。苦痛と恐怖がついに彼を動かし、少年は少女を縊り殺した。
だが、そこで彼の怒りは収まらなかった。要するに、少年が非を悟って、女という汚物と付き合おうとした愚かさを反省するのであればこそ、免罪が与えられるべきなのだ。それがこのように、脅迫と懲罰に屈してやっと務めを果たすようでは、到底精神の改善は望めない。また、彼は怒りと悲しみに苛まれながら、残酷な行為に興奮していた。
少年は、羞恥心を感じる余裕もなかったに違いない。取り押さえられ、公開で「簡易的な手術」を受けることになった。激痛にのたうちまわり、嗄れるほどに悲鳴をあげ……しかしゴーファトは、この少年の将来に何の期待もしていなかった。せめてこの瞬間の快楽を最大にして、愛する彼との別れの思い出としようと考えた。部下達は針を用意し、それを一本ずつ、彼の指や腕、足などにゆっくりと刺し込んでいった。この少年にとって、残された人生とその肉体は、ただただ苦痛を与えるだけの無用なものとなった。
なお、アグリオの市民にとって、こうした残虐行為は、毎月一度は見られるような日常的なものでしかなかった。だから、「珍しい事件」とは、この後に起きたことをいう。
「……運が悪かったのよ」
その時、たまたまそこを、タマリアが居合わせたのだ。
「なんでわざわざスーディアなんかに」
「ミルークの善意が、仇になったみたい。タマリアには悪いけど、その、記憶を覗かせてもらったわ」
俺達がオークションで売れていなくなった後のこと。
ミルークは、目に見える場所では、タマリアにきつくあたった。この売れ残りめ、娼館に安売りするしかないじゃないか、どうしてくれる、無駄飯食らいが……だが、もちろんそれは彼の本音ではなかった。
三ヶ月後、彼は老齢の商人、サハリア人移民のサラハンに彼女を譲り渡した。完全にタダで。頭を下げて、まっとうな扱いをしてやってくださいと頼み込んだのだ。それを目にしたタマリアは、思いもかけなかった幸運に、涙を流した。
そして彼女は、彼とその妻の奴隷として、エキセー地方南部の田舎町で暮らすことになった。
この老夫婦は善良な人達だった。男子に恵まれず、娘達も全員、他所に嫁いだ後。引退したサラハンは、妻の故郷に家を建て、そこで静かに暮らしていたのだ。
最初はタマリアの本性がわからず、安心できなかったので奴隷の身分のままとし、その振る舞いを吟味していたが、次第に心根の優しさ、本来の陽気さなどを知るようになって、実の娘のように大切にするようになった。もちろん、奴隷の身分からも解放した。
ただ、今後の人生を考えてやる必要があった。タマリアはこの時点で十三歳、そして裁縫も料理も、まだまだ未熟だった。これでは嫁入りに差し障りがある。それで新しい義母は心を鬼にして、彼女を厳しく指導した。というのも、彼女は針仕事にかけては引けをとらない婦人だったのだ。タマリアも進んでこれを受け入れた。
この二年間は、それは幸せな時間だったに違いない。
だが、運命の歯車が軋み始める。
まず妻の方が、その高齢もあって、病気であっさりと世を去った。残された二人は深く悲しんだが、夫の方はまだ、足腰こそ弱りつつあったものの、元気だった。無論、タマリアは最後まで彼を看取る覚悟だった。
しかし、サラハンとしてはそんな選択など容認できないものだった。身寄りのない元奴隷が、女一人で世間に放り出されたらどうなるか。それもまだ若いうちであれば、或いは嫁にもらってくれるところもあるかもしれないが、これであと五年、十年と自分が生き延びたら、完全に「嫁き遅れ」になってしまう。老い先短い自分のために、若いタマリアの人生を犠牲にするなど、考えられないことだったのだ。
しかし、タマリアは奴隷から解放しただけの他人の娘だ。だから、既に嫁いだ実の娘達と同じ扱いにもできない。そんなのは娘達にしても、納得できるものではないだろうから。
本来の腹積もりとしては、妻が世を去る前に、タマリアをどこかまともな家に嫁入りさせてやるつもりだった。だが、こうなっては計画変更も避けられない。彼は、最後にもうひと踏ん張りすることにしたのだ。
まず、家と家財道具一式を売り払い、それを近所に暮らしていた娘達に生前相続させてから、タマリアのことも説明し、役目を果たすためにと住み慣れた土地を後にした。というと大事に聞こえるかもしれないが、フォレス人だった妻と違って、東部サハリア人の彼にとって、定住する土地がないのはまったく苦にならないことだった。
彼は商人だった。そして、ミルークから托されたタマリアという商品を安売りするつもりもなかった。
エキセー地方の自宅にいたままでは、タマリアの付加価値を高めることなどできない。元奴隷というだけで安く値踏みするのもいるだろうし、それでなくても彼女は一般的な女としての技能を得意とはしていなかった。サラハン自身が彼女に針仕事を教えるなどできそうにもなかったし、近所の主婦に頭を下げて頼むのも手ではあったが、それでは良くても平凡な結果しか得られない。
だが、タマリアは陽気で誰とでも仲良くできる性質だった。それに頭も悪くない。この資質を見て、彼は自分の知っていることを学ばせようと決心した。つまり、商人としての生き様だ。いろんな土地を旅してまわり、見識を深める。利害を見抜く目を養う。それは一生の宝になるはずだと、彼はそう考えたのだ。
二人はエキセー地方から船で南下し、ムスタムに入った。それからワディラム王国、シャハーマイト、パラブワンと、西方大陸の内海をぐるりと周回して、ピュリスに上陸した。緑玉の月だというから、ちょうど俺がそこを去った二ヶ月後のことだったらしい。
つまり、その当時ピュリスにいたノーラとはニアミスしていたことになる。しかし、この時点ではまだ、リンガ商会が街を支配していたのでもない。再開発が盛んに行われる中で、必死に土地の買占めをしていた頃だ。また、タマリアもまさかここに「ドナ」がいて、「ノール」のために帰る場所を作ろうとしていたとは知りもしなかった。黒髪の少年ファルスが武功をあげて王から賞賛されたのも前年の秋のことで、その時期、彼女とサラハンは内海を旅していたのだから、尚更だ。
ムヴァク子爵が着任して間もないピュリスはゴタゴタしていたので、せっかく二人が仕入れてきた南方産の品々を売り捌くのに、あまりいい状況とは言えなかった。せっかくだから王都まで出ようと話し合い、北上した。
王都では、旅で仕入れた品々が飛ぶように売れた。努力が実を結ぶ瞬間というのは、本当に喜ばしいものだ。この時、二人の気も緩んでしまったのかもしれない。自分もまだまだやれる、と自信を深めたサラハンのところに、昔馴染みの商人から、仕事の依頼が舞い込んだ。
特別な話ではなかった。アグリオの仲買人から売掛金を回収して欲しいというだけのことだった。スーディアの治安は悪いが、護衛を雇って旅をすればいい。二十年前にもスーディアを旅したことのあるサラハンは、快諾した。
サラハンは、デーテルが惨殺された話を知らなかった。ミルークも、あえて言わなかったのだ。これは、彼らがどちらもサハリア人だったからだ。
彼らは身内の人間に対する不当な扱いを決して忘れない。また、忘れてはならない。タマリアの気立てのよさを知れば、遠からずサラハンは彼女を義理の娘にするだろう。だが、そこに恨みが絡んでくるとどうなるか。
養父であっても、娘の復讐に付き合わねばならない……理屈の上ではそうなる。もちろん、そんなのは現実的ではない。ではどうなるかというと、その前にタマリアと距離を取るだろう。いざとなったら決して矛を収めないのがサハリア人だが、だからこそ、揉め事のタネを引き受けたいとは思わない。
それにサラハンは引退していた。余生を過ごすのに充分な財産だってあった。まさかミルークも、年老いた彼が今更もう一度行商の旅に出るなどとは思ってもみなかったのだ。
とにかく彼は、ゴーファトの評判がよくないのは知っていたが、まさかここまでとはわからない。彼が当地を見たのは、先代領主の時代だった。ただ行って帰ってくるだけ。これもタマリアの経験になるからと、あっさり請け負ったのだ。
事後報告を受けたタマリアは、少し躊躇した。行き先があのゴーファトの領地だからだ。しかし、サラハンを困らせたくなかったので、あえて何も言わなかった。
道中は問題なかった。二人は無事、アグリオの旧市街に立ち入り、そこで宿をとった。現地の仲買人を相手にするので、タシュカリダに陣取るよりこちらのほうが便利だったからだ。
しかし、そこで目の当たりにしてしまう。その時期から既に、ゴーファトはもともとあった残虐性を、更に苛烈なものにしていた。処刑に次ぐ処刑、粛清に続く粛清が繰り広げられ、市内の各所に罪人を吊り下げる柱が突き立っていた。この時、タマリアの心には、言葉にしがたい「ざわつき」のようなものが溢れていた。
それでも、見ざる聞かざるで、なんとかこの場をやり過ごそうとしていたのだ。しかし……
「領主の動員命令には、平民は従わないといけない。旅の商人でも、それは同じ」
「特等席で見物させられたってことか」
性器を切り落とされ、全身を鞭打たれ、そしていまや一本ずつ、針を打ち込まれる少年の姿。
努めて忘れようとしてきたデーテルの悲惨な最期が、脳裏に甦ってくる。それは、どこかに封印していた彼女自身の罪悪感でもあった。弟を守るために自ら進んで奴隷になったのに、それは果たせず。親切な商人に守られて、ぬくぬくと生きている。そして今、目の前でまた、誰かが惨殺されようとしているのに、それを黙って見過ごそうとしている……
理屈より先に、体が動いていた。
誰もが予測し得なかった。それは、この場を見張る兵士達でさえも。ゴーファトの恐ろしさは市民に知れ渡っており、あえて逆らうものがまだいようとは、想像もできなかったのだ。
駆け出したタマリアに作戦も何もあったものではなく、虐殺を笑って見物するゴーファトに肉薄するや、拳の一撃を見舞おうとした。だが、そこは武人のゴーファトだ。すぐさま反応して拳を受け止めた。だが、相手が女と知るや、またもや激怒した。触れるのさえ耐え難いのだ。乱暴に蹴倒すと、兵士達に命じて取り押さえさせた。
いきなりのことに、サラハンは驚き慌てて、まろびでた。そして平伏し、必死で非礼を詫びた。何が起きたのか、彼にはまるで理解できていなかった。
ゴーファトは、タマリアに理由を尋ねた。
激昂が収まらない彼女は、デーテルの恨みを口走った。すると、ゴーファトの口元には、不気味な微笑が浮かんだ。
さっきまでの遊びには、もう興味がなくなったらしい。無造作に処刑用の斧を拾い上げると、苦しむ少年に一撃を見舞った。これで広場は、水を打ったように静まり返った。タマリアの怒りにも、水が差された。やっとここで自分の死を意識したのだ。
ようやくに事情を悟ったサラハンの顔には、絶望の色が浮かんでいた。それでも彼は、自分のすべきことを見失ったりはしなかった。タマリアは養女であり、その責任は家長である自らにある、罰を引き受けるゆえここは何卒ご容赦を、愚かな娘は二度とお目にかけません……ただ、そんな嘆願が通じる相手ではなかったが。
一方、それを耳にしたタマリアも、まさか黙っているわけにもいかない。ゴーファトは、罰金や追放で済ませるほど甘い相手ではない。自らの愚行によって、親切な養父が死のうとしているのだ。父は関係ない、手を出すなと言い張ったのだ。それをゴーファトは悠々と見下ろしながら、静かに尋ねた。
『頼みごとをするのなら、礼儀というものがあるのではないか?』
この一言に、タマリアは目を見開き、それから下を向いて歯噛みした。
よりによって仇敵に、頭を下げて懇願しなければならないのだ。しかし、彼女は苦汁を飲み干した。
『すべては私の罪です。私だけをお裁きくださいますよう。養父サラハンは何も知りませんでした。お咎めなきよう、お願いします』
この屈服に、ゴーファトは大笑いした。
頷くと、彼は手を振って命じた。途端にサラハンの首が宙を舞った。
『あっ、ああああ! な……なぜっ!?』
『彼が自分で申し出ていたではないか。娘の不行跡は家長の責任だと』
『くっ……き、貴様……このっ』
『なんだ? その言葉遣いは? ああ、やはり反省などしていないということか! だが、無理もない、女とはそういうものだ』
身勝手な論理を振りかざしながら、ゴーファトは大仰に手を振って嘆いてみせた。
『だからこそ、女は幼いうちは父の指導を受け、長じては妻として家庭に入り、夫の管理下に置かれる必要があるのだが……これはしまったな』
肩をすくめて、彼は自嘲した。
『私としたことが、なんという間違いをしてしまったのか。その指導者たるべき父を死なせてしまった。これでは娘の将来が台無しではないか』
『か、勝手なことを! こ、殺してやる!』
『見るがいい。獣と変わらない。やはり父なり夫なりがいないと、女とは、自分だけでは人間になれないのだ。おお、哀れなこと』
顎に指をあて、考える素振りをして、ゴーファトは提案した。
『だが、私はこの地の領主だ。そして領民は誰しも我が子と変わらない。そこで私が父親代わりとなって、お前の面倒をみてやろう』
『誰が! 殺せ! お前なんかに……殺せっ!』
『悪い話ではないぞ? お前に夫をあてがってやろうというのだ』
さっと手を挙げる。その場にいた兵士達も、既に察していた。
『誰もが逞しい男ばかりだ。さあ、誰がいい? いや、だが待て、こういうのは女に選ばせるべきではない。まずは相性を確かめるべきだな。お前達、もっと彼女をよく知るといい』
タマリアを取り押さえていた兵士達は、役得だった。すぐさま彼女の襟を掴むと、力いっぱい引っ張った。それで布が裂け、ボタンが弾け飛んで、彼女の白い肌が露になった。
その場にいた百人を超える兵士達が、列をなし、彼女を取り囲んだ。但し、前と後ろには空間をあけておいた。彼らがすることを主人と領民達に見せ付けなくてはいけないからだ。
絶叫も、抵抗も、何の役にも立たなかった。あっという間に取り押さえられ、思いもよらないほどあっさりと、彼女の純潔は奪われた。しかも、次から次へと男達が入れ替わった。兵士達は彼女を犯すだけでなく、面白半分に殴打を浴びせた。纏わりつくようなゴーファトの哄笑が、いつまでも耳に残った。
いつしか限度を超えた激痛の中で、彼女は意識を手放した。
あとは見ての通りだ。
あの鉄格子の中に放り込まれ、最低の娼婦として扱われ続けている。領主に逆らう愚か者への見せしめとして、あえて生かしておかれた。
「そんなことに……」
俺も絶句するしかなかった。
愚かといえば愚か、自業自得ではある。だが、運が悪かった。愛する弟を奪われた少女が目の前の悪事を見過ごせなかったからといって、どうして責めることができようか。
「助けたい、ということか?」
「でも、犯罪奴隷の立場だから、買い取るのもできそうにないし」
「それ以前に、ノーラがゴーファトと接点なんか持ってはだめだ。相手が女というだけで、憎まれる」
窓の外には、相変わらず雨が降り続いていた。
いやな沈黙が室内を満たした。湿った空気が毒になって、肺の中に沈殿していくようだった。
「一時的に盗んで、連れ出すくらいなら難しくはない。でも、スーディアの山道を、あんなボロボロの状態のタマリアを連れて歩き通せるか? すぐに兵士に追いつかれる」
「そうね」
では、打つ手はない?
いいや。
「問題ない。すぐ解決するよ。だから、それまで待とう」
「どういうこと?」
「近くに人はいないか。調べて」
するとノーラは、座ったまま静かに詠唱を始めて……しばらくして、目を見開いた。
「大丈夫、近くには誰もいないわ」
「じゃあ言う。僕の仕事は、ゴーファトの暗殺だ」
はっきり殺人の仕事だと告げると、彼女は息を飲んだ。
「難しくはない。予定通りにいけば、明後日の朝には、奴はこの世からいなくなる」
「……殺すの?」
「やらなければ、タンディラールにリンガ商会を潰される。なくすのは金だけじゃない。あそこにいるみんながひどい目に遭う」
聞いてよかった。
奴を殺す理由がまた一つ、増えたから。
「奴を殺そう。そうしてアグリオが混乱している隙に救い出せば、追っ手もかからない」
「でも、ファルス、待って」
「なに」
「私、これ以上、ファルスに人を殺して欲しくない」
「そんなこと、言ってる場合か」
俺は席を立った。
だいたい、ゴーファトだけでもまずいのに、使徒やパッシャまで出張っているとしたら。
「ここに長居しないほうがいい。今のスーディアは……魔境も同然なんだから」
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