夢を忘れた少年

 夜の闇に、白い壁がうっすらと浮かび上がる。空には雲がかかり、月の光も見えない。フリンガ城の客室の窓からは、鬱蒼と生い茂る暗緑色の森が見えるばかりだ。それは命溢れる場所とも思えないほど静まり返っている。鳥の鳴き声も、虫の声も聞こえない。

 命ある場所、それ即ち死の充満する空間ということでもある。そしてスーディアの夜の森には、一際濃密な殺意が渦巻いている。


 眠れない。


 人を、食べた。

 だが、吐き出したい気持ちをこらえてあの場をやり過ごした後、自室に一人篭ると、俺にはそうする資格などないとわかった。

 今まで、何人殺した? 無数の命を奪っておいて、食べもせずに捨てていったのではないか。そればかりではない。厨房に立ち、俺は何度も鶏を絞めてきた。食べるために命を奪うということを、繰り返してきた。人殺しもしていて、食べるために生き物を殺すこともしていて。たまたまそれが重なっただけに過ぎない。


 最初、俺はこの不快感を何かで洗い流したかった。それでシーラのゴブレットを開け、飲料を口に含もうとして、やめた。自分についた汚れを、他の誰かに拭ってもらうのか? 命を奪ってきたことについて、また女神の赦しを得ようというのか? どうせまた、これから殺人の罪を犯すのに?

 そうではない。なら、どうすればいいのだろうか。それで俺はじっくり考えた。


 受け入れることだ。俺がやったこと。そしてこれからも、生きるために命を絶つ。

 せめて、死んでいった少年を思うこと。面識も何もなかった。それでも、他にできることなんてない。

 だが、この連鎖はどこまで続くのだろう。殺し、殺され、また殺し……


 窓際に立てかけておいた剣に目をやる。俺は何の気なしにそれを拾い上げ、鞘から引き抜いた。

 窓の外からの幽かな光さえも吸い込んで、その刀身は銀色に輝いた。


 なんと美しいのだろう。

 この輝きを目にするだけで、いろんな悩みや苦しみが、薄らいでいくようだ。


 だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。誰かに見られているような気持ちになって、どことなくばつが悪くなり、俺はそそくさと剣を鞘に戻した。するとまた、陰鬱な気分が舞い戻ってきた。

 それに、眠れないのは好都合でもある。この後、ゴーファトが本懐を遂げにやってくるかもしれないからだ。二人きりであれば、彼を消し去る障害は限りなく小さい。疑われるかもしれないが、どこをどう探しても死体など見つからないから、俺はいくらでも嘘をつける。例えば、自分を抱きにはきたが、追い返したとか。着衣だけは現場に残ってしまうので、そう説明するしかない。

 考えてみれば、そうなってくれさえすれば、この憂鬱な任務も終わりにできるのだから、好都合ですらある。しかし、待てども待てども彼がやってくる様子はなかった。


 じっとしていられなくなってきた。

 それで俺は、少し迷ってから、出入口の扉をそっと押した。


 廊下に立つ。

 灯りはなく、微風もなかった。ずんと重い湿気、瓶の底に溜まった吐息のような空気の中、俺は左右を見回し、あてどもなく歩き出した。夜の散歩だ。構うまい。ゴーファト自身が言ったのだ。ファルスはスーディアの主となるのだと。ならば、勝手に歩き回るくらい、自由だろうから。

 何度か角を曲がったところで、遠くにぼんやりと白い光が見えた。なんだろう、と思って近付くと、どうもそれは屋外、テラスのある場所らしかった。

 どうせ外に出ても、この纏わりつくような湿った空気に違いはないのだろうが、それでも少しはサッパリするだろう。そう思って、俺はそちらを目指した。


 白いテラスの床を間近に見ながら、ようやく俺は外へと一歩、踏み出した。

 少しだけ、風がある。夜になって気温も下がっているので、多少の爽快感ならあった。


 ふう、と息をつこうとしたのだが、そこでテラスの隅に、異物が転がっているのに気付いた。

 まさか。


 真っ白な固い石の床の上に、同じく白衣だけの少年が横たわっている。動き出す様子はない。

 まったく、ここはホラーハウスか何かか? 次から次へと死体……いや。生きている。


「ん……」


 俺の気配に気付いたのか、彼はピクリと動いた。

 そしてもぞもぞと体を掻き毟り、それからのっそりと起き上がる。


「あっ」


 息を詰めて見守る俺と、目が合った。


 彼は、あの少年だ。昼間、プルダヴァーツなる商人が連れてきた、ルークという奴隷。

 どうしてこんなところで寝ている?


「なぜ」


 俺は、思わず問いを発していた。


「こんなところで?」

「んー……」


 まだ眠気から覚めないのか、彼は考えをまとめようとして、口篭った。


「あー……えっと」


 説明がすぐにはできないらしい。

 確かに、唐突過ぎたか。真夜中に熟睡していたのだろうし。


「寝ているところ、申し訳ない。僕はファルス、フォレスティア王タンディラールの騎士だ」

「ああ、存じております」


 そう言うと、彼はさっと立ち上がった。

 年齢は俺の一つ上だが、既に体ができている。特に胸板が分厚い。


「僕はルークといいます」


 彼は頭を下げた。


「それで、なぜこんなところに?」

「はい。主人のプルダヴァーツはいつも、ここの領主であるゴーファト様のところに、取引のためにやってくると、宿舎としてお部屋を貸していただいているのだそうです。昵懇の仲ですから」

「フリンガ城でお休みだと」

「はい」

「では、あなたはなぜここに? 主人の傍にいるべきでは」

「それは……」


 少し言いよどんで、視線を斜め下に向ける。


「僕の寝る場所がないからです」

「場所が? ない?」


 と口に出しておいてから、察した。

 そうだ。彼はゴーファトに売却される予定だった。買い取られていれば、今頃、彼の新たな奴隷として、どこかに寝床を与えられていたことだろう。しかし、そうならなかった。


「主人と同じ部屋に、奴隷が寝るなんて、あり得ませんから」


 ということ、か。

 しかも、売れ残りなんか。しかし、あのプルダヴァーツとやら、結構なクズらしい。今更か。まともな人物なら、ゴーファトに少年奴隷を用立てようなんて思わない。彼の非道な注文に応じるからこそ、ただの商人でありながら、厚遇を受けることができている。


「それでここに」

「はい。行く場所がありませんから」


 なるほど。

 では、彼の邪魔をしては悪い。同情から俺の寝床を貸してやっても構わないのだが、そういう親切は、むしろ彼にとって迷惑となるだろう。


「わかった。邪魔をして済まなかった」

「あ、あの」


 なんだ?

 助けを求めているのだろうか。俺に買い取ってもらおうとか。

 本来であれば、それくらいは構わないのだが、今はゴーファト暗殺という任務がある。これがうまく片付かないうちに、他人の世話を焼いている余裕は……


「ノ、ノール……ですか?」

「なに?」


 その呼び名に、俺は驚いて振り向いた。


「や、やっぱり……」

「どうしてそのことを……じゃあ」


 彼もミルークの収容所の出身なのか?

 ドロルがいたのは必然でも、これはかなりの偶然だ。


 彼は、おずおずと自分を指差しながら、自己紹介した。


「お……ぼ、僕だよ。その、ほら……コヴォル」

「えぇっ!?」


 俺は目を丸くした。

 これが? これがあの、コヴォル?


 確かに、言われてみれば面影がないでもない。今でも体は幅広で、がっしりしている。ただ、あれから目鼻立ちはきれいに通るようになって、男らしい顔になってきた。しかし、あまりにギャップがありすぎる。

 目が優しすぎるのだ。そこには、男性的な闘争心とか、そういうものが一切見て取れない。とっくに去勢済みといわれても信じるくらいに。


「コヴォル? 本当に」

「そう、そうだよ……いやっ、です」

「驚いた! こんなに変わるなんて!」


 見た目に共通点はあるが、振る舞いや言葉遣いが変わりすぎている。あのコヴォルが敬語? しかもこんな腰の低い、ナヨナヨした態度をとるなんて。


「今まで、どうしていた?」


 思いがけない再会に、俺は思わず詰め寄った。

 すると彼は、若干うろたえながら後ろに下がり、曖昧な笑みを浮かべて返事をした。


「別に、何も変わったことは……先代の持ち主は、僕に元の名前を名乗ってもいいと言ってくれて」

「それがルークだったんだ」

「そう……それで、いろいろよくしてもらったんです。故郷にも一度里帰りさせてくれて」

「へぇ、よかったじゃないか」


 売り飛ばされたとはいえ、親は親だ。顔を見たいという気持ちなら、あってもおかしくはない。

 しかし、そんな情のある先代が死去すると、状況も変わってしまった。


「じゃあ、今の主人になってから、ひどい扱いを受けるようになったのか」

「ひどいといっても……僕の立場からすれば、こんなものだと思うので」

「だけど」


 まったくの赤の他人だったのならともかく。

 これは、買い取ってノーラに預けるというのも手だ。


「コヴォル、大丈夫だ。ゴーファトが買わなかったのなら、僕が買い取ればいい」

「そんな、悪いよ」

「大丈夫、金には困ってない。ノーラ……ああ、ドナがいるから。聞いたことはあるか。ピュリスで商会をやってる」

「う……はい、それは少しは」


 何か引っかかる。

 話し方がおかしい。


「コヴォル、どうしたんだ。さっきから敬語で話そうとして。ここには誰もいない。人前ならともかく、変に気を遣う必要なんて、ないだろう?」

「だ、だって」


 彼は俯いてしまった。


「ファルス様は、もう立派な騎士になられたので……ぼ、僕はまだ奴隷でしかなくって」

「そんなの、今だけの話だ!」


 どうしてしまったんだ。

 まるで別人じゃないか。


「こうなったのは、ただ単に僕の運がよかっただけだ。でもコヴォル、お前の運も尽きたわけじゃない。僕に出会った。あとは買い取られて、まず奴隷をやめる。それからピュリスに行って頑張るんだ。そこで力をつければ、騎士にだってなれるさ」


 だが、彼はびしょ濡れの紙みたいに火付きが悪かった。


「ファルス様は……すごい人だったから」

「えっ?」

「ものすごく頭もよかったし、確かに僕とは違った。だから、こうなるのは当たり前で……」

「そんなことはない!」


 俺が賢く見えたのは、前世の知識があったからで、それ以上でもそれ以下でもない。みんな大人になる頃には、何がしか俺と変わらないだけの人生の知恵を身につけているだろう。最初のスタートダッシュで恵まれていたからといって、それがなんだというんだ。そもそも異能に頼ってやってきた俺より、限られた条件の中、今を必死に生きてきた普通の人の方が、ずっと尊いのではないか。


「聞いた……聞きましたよ」

「何を」

「この前、王都で、王宮で……騎士の叙任式を、陛下自ら」

「あ、ああ」


 すると彼は、力ない笑みを浮かべた。俯いたままで。


「すごいよなぁ……王様に取り仕切ってもらって、騎士になって……あれもやったんだろうし」

「あれ?」

「その……ほら、騎士の……我が骸は……ってやつ」


 騎士の誓いの言葉か。

 俺にとっては言わされただけの台詞だが、騎士を夢見る男にとっては、最高の瞬間に違いない。


「我が骸は荒野に、我が魂は天上に、か? あんなの、大したことない。形だけだよ。言うだけならタダだ」

「でも……」

「なんなら、この場でルークが言ったって、構いやしない」

「そんな、ダメ、ですよ、僕なんかが」


 俺は思わず掴みかかった。そして、彼の肩を揺さぶる。


「どうしたんだ、コヴォル! 前に言ってたじゃないか。騎士になるんだって」

「前は……うん……」

「俺と腕比べしろって言ったよな? どうして、こんな」


 だが、彼はやはり反応しなかった。寂しそうに俯くだけ。


「僕が……僕なんかが騎士にならなくても……もう、誰も困らないから」


 なんだって?


「この話はもう……その……」


 わからないが、わかった。

 この話を続けるのは、彼にとって古傷をえぐるようなものなのだ。


 俺は、そっと体を離した。


「じゃあ、僕にできることは? 何かあるか」


 すると彼は、涙を溜めた瞳で俺をみて、不器用な笑みを浮かべた。


「元気でいてくれれば」

「はぁ?」

「幸せになって……どこかで活躍していてくれれば、それで」


 俺は絶句した。

 まだ十二歳の若さで、ルークはまるで世捨て人のようになってしまっていた。

 何かあれば「俺は騎士になる」と言い張っていた、あのガキ大将が。老人よりも老け込んでしまった。いや、これでは死人も同然だ。


「そうか」


 いつの間にか、俺の声からも力が失われていた。

 一呼吸おいてから、別のことを尋ねた。


「じゃあ、スーディアにいる間は、ずっとこの城に? テラスで寝続けるのか?」

「あ、いいや……城で寝泊りするのは一、二日くらいで、あとはタシュカリダってところで過ごすって聞いてます」

「そうか。わかった」


 また会うこともあるかもしれない。

 ただ、それにどれだけ意味があるかはわからないが。


「邪魔した。そろそろ部屋に戻って寝るよ」

「はい、ゆっくりお休みください」


 それで俺は背を向けて、通路に戻った。


 ここに来る前は、ドロルの歪んだ笑顔と、犠牲者となった少年の死で頭がいっぱいだった。だが、今は、すっかり覇気をなくしたコヴォルのことで、余計に気落ちしてしまった。

 だが、俺に落胆する権利があるのだろうか。収容所を出てから、彼らがどうなったかを調べようとしただろうか。百歩譲って、俺の身分がまだ奴隷だった頃は仕方ない。自由人になってからはどうか。俺には金もあった。その気になれば、居場所を突き止めて、纏めて買い取って解放するのだって、できたはずだ。でも、しなかった。

 それでも、何か大事なものがなくなったような気がしていた。すっかり忘れかけていたはずの彼のことなのに。いつか再会したら、笑顔で力比べを挑んでくるのではないか。どこかそんな風に期待していたのかもしれない。


 通路には、ほとんど光がなかった。流れのない澱んだ空気の中へと分け入っていく。この空間は、目に見えない微細な触手で、俺を絡め取っていく。いつしか、自他の区別もないまどろみの中へと、沈み込んでいく。

 人生とは、この暗い穴の中に沈み込んでいくことではないか。そんな風に思わされた。

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