彼の愛する郷土料理

 ひしゃげた八角形の部屋。天井からはシャンデリアが吊り下げられ、足元の床はセリパシア風に三角形の木材がたくさん嵌め込まれている。ダイニングを囲む壁はいずれも真っ白だが、不自然に真新しく、そこにだけは何の装飾もなかった。華美であるべきこの空間には、なんとも似つかわしくない。

 この部屋一つとっても、スーディアの歴史が浮かび上がってくるというものだ。世界統一後に建設された城郭なので、もともとは女神教の影響が強かったはずだ。しかし、一度は廃墟になった場所でもある。その際に、ここの床が破壊されでもしたのだろう。

 また、周囲の壁に何の浮き彫りもないというのも変な感じがするが、これはゴーファトのせいではないか。他の部屋にもあるのに、食事をする場所だけ何もないなんておかしい。とすれば大方、以前にはここに女神達の姿が刻まれていたのだろうと推測することができる。

 それでも、部屋のあちこちに立てられた燭台、その蝋燭が音もなく燃えるさまは、それだけで場の空気を変えてくれる。食事という一つの儀式を、厳かなものにしてくれるのだ。


「お待ちかねの食事の時間だよ、ファルス君」

「陪席の栄誉を与えてくださり」

「それは私が言うべきことだ……さあ」


 ゴーファトは立ち上がった。そして、身振りで俺に席につくよう勧める。

 俺が入ってきた扉も大きかったが、その向かいには更に仰々しい扉が聳え立っていた。つまり、あの向こうは領主の私的領域なのだろう。そして左右にも扉がある。

 奇妙なのはテーブルだ。小学校の学習机を少しばかり立派にしたようなものが、俺とゴーファトの間に据え付けられているだけ。二人の間には、何もない空白の領域がある。


「変わった食卓だろう?」

「そうですね。貴族の食卓というと、普通は縦長で、家長が正面に陣取るものだと思うのですが」


 サフィスは例外的に一人の妻しか持たなかったから、セリパシア風の小さな食卓を用いていたが、本来はああではない。とにかく縦に長いテーブルを用意し、その端に家長が座る。そしてあとは妻子がその序列に従って、左右に並んで座るものなのだ。側室やその子供を含めれば、一族の数は多くなる。だからそういうスタイルになるものなのだ。


「スーディアの昔の流儀だ。昔、北東部の人々はこうして左右に並んで料理が運ばれてくるのを待った。さながら川が流れるように、それぞれに食の恵みに飛びついたものだという。それをまぁ、少し真似ている」


 流しソーメンみたいなものだろうか。そう考えると、親しみのわく風習だと思えなくもない。

 ただ、彼は結婚したはずだ。ならばここに妻を伴って……だが、それは普通のフォレス人貴族のやり方だ。毛嫌いしている女というものを、客人との食事に同席させるはずもないか。


 彼が手を打つと、俺から見て右手の扉が開いた。すると彼が今、宣言した通り、カーゴのようなものが転がされてきた。もちろん、速度はゆっくりとだが。

 どうやらそちらが本当の食卓で、真っ白なテーブルクロスもかけられている。しかし、その上に乗っているのは飲料ばかりだった。


「ははは、どうだ? なかなか便利だろう?」

「そうですね。大勢の召使が入れ替わり立ち代わり、左右から手を出さなくてもよくなります」

「もともとは、小川の魚をみんなして獲りにいったのが起源だといわれている。めいめいが勝手に手やザルを突っ込んで、片っ端から魚を捕まえて食べたのだ」


 いつの時代のことだろう。

 よくよく思い出してみると、ここに来るまで、俺はほとんど川なんか見かけていないのだが。


「ああ、今ではもう、そんな川は残っていない。ここ千年の間に、干上がってしまったというな」


 興味深い歴史だ。

 俺が話に聞き入っていると、ゴーファトは俺の後ろに立つドロルに声をかけた。


「ドロル、客人に……いや、未来の主人にお飲み物をお出しせよ」

「はい」


 へばりつく微笑を浮かべたまま、彼は腰を折った。

 そして運ばれてきたカーゴに近付くと、ガラスの容器から、淡い黄色の液体をグラスに注ぎ、そっと俺のテーブルに供した。


「あの、閣下」

「堅苦しいな。名前で呼んでくれ。ゴーファトと」

「では、ゴーファト様」

「様はやめろ、ははは」


 そんなことを言われたら、何も言えなくなってしまうのだが。


「まぁ、いい。何かな、ファルス君」

「はい、あの、こちらのドロルは、もしかして僕と同じ収容所にいた」

「そうだ。ミルーク・ネッキャメルも人が悪い」


 そう言いながら、彼は一口、その液体を飲んだ。


「君という極上の奴隷がいながら、物惜しみして彼を送りつけたのだからな、本当にみみっちい」

「そんなおっしゃり方は」

「ああ、もちろんドロルもなかなか悪くはなかったが、やはり物事、値打ちに差があるのが現実なのだから……そうだろう、ドロル」

「はい」


 ファルスより価値のない人間。そう言い切られても、彼は笑顔を浮かべ、恭しい態度を崩さなかった。

 逆にそれが不気味だった。抗弁できるような相手でないのは、百も承知なのだが。


「だが、焦らされ、待つ喜びというものもある。それにもし、あの頃に君と出会っていたら、私は愚かな失敗をするところだった」

「といいますと」

「花は散らすしかないと、そう思い込んでいたのだよ」


 ゾッと背筋に冷たいものが走る。つまり、デーテルやドロルと同じ運命が待っていたのだ。

 しかし、今は違うとでも?


「どれもこれも、美とは程遠いこの私の貪欲さゆえ……しかし、救済などどこにもないと……いや、つまらない話だな」

「そんなことは」

「いい。それより、せっかくだから一口飲んでくれたまえ。それもお国自慢の飲み物だ」


 毒? 強精剤? 媚薬? 眠り薬?

 だが、ここで飲まないという選択肢はない。覚悟を決めて、一気に口に運ぶ。


「これは……ものすごくさっぱりしていて、おいしいです」

「そうだろう」

「スモモですか? ほどよく酸味があって、それでいて甘みも……食欲が増すいい飲み物だと思います」


 俺の年齢を考慮して、食前酒ではなくジュースにしたのだろうが、これはなかなかだ。


「スモモには違いないのだが、それはスーディアでしか取れない種類のものだ。土地の人間はミュアッソと呼んでいる」


 また……

 コーシュティを買い付けろとか、ミュアッソを飲むとか、なんだ、それは?


「あの」

「なんだね」

「さっきも、出入りの商人に、コーシュティを買って帰れとか」

「言ったな」

「いったいどんなもののことですか?」

「んん? ただの材木だが」


 材木?

 それとミュアッソは果物?


「僕はこちらに来る途中に、とある村で昔話を聞いたのですが」

「ほう」

「ミュアッソというのは、人間の女を丸い塊に膨れ上がらせる怪物だと」

「ワッハハハ!」


 すると彼は、盛大に噴き出した。


「そうきたか! ああ、そうか、そうかそういう」

「僕は戸惑っているのですが」

「確かにそういう昔話はあるな。だが、今、ミュアッソといえば、スーディア特産のこのスモモのことだ。ただ、これは普通のスモモとは少し違って」


 腹を抱えながら彼は笑い、苦しげながらもなんとか説明を続けた。


「日持ちがしないんだ。収穫して、すぐ食べるのでないと、あっという間にシワシワになって、味も落ちる。まるで女だ。食えるのはもいでから一日だな。だからこの土地の外では見かけない」

「それはまた、変わっていますね」

「その代わり、完熟するのを待たなくても、最初からうまい。収穫できる時期も長いし、あまり世話をしなくてもたくさん採れる。虫もつきにくい。それに、食べていれば病気知らずになれるという」


 なかなか便利な果物もあったものだ。

 ただ、保存がきかないのは不便だが……


「干したり、何か加工したりというのは」

「まぁ、まずうまくいかないな。理由はわからないが、今でもそのまま食べるか、ジュースにするか、そんなものしかない」

「では、コーシュティというのは」

「君の足下にある」

「えっ?」


 すぐ足下にあるのは、黒ずんだ材木からなる寄木細工みたいな床だった。


「昼間に話したろう。こちらで取れる樫は、普通のものと違って黒ずんでいる。これを今ではコーシュティと呼んでいるのだ。だが、堅さ、丈夫さでは類がない。私の使う棍棒も、コーシュティにアダマンタイトの鋲を打ったものだ。城下の連中が何を作って売っているかって、これで作った木工品なのだよ」

「そうだったんですね」


 神話のバケモノではなく、地域の特産品というだけのことか。拍子抜けだ。


「じゃあ、シュプンツェというのは」

「それも聞いたのかね。一応、ここにもある……あるというより、今、実践しているというべきか」


 そう言いながら、ゴーファトは次のカーゴを呼ぶように身振りした。ミュアッソジュースが置かれたそれは運ばれ、次の前菜のが押されてやってくる。


「さっき話した、いわゆる川の流れのようなものをシュプンツェというのだ。ただ流れていればいいのではなく、この食事のように恵みが伴っているものを意味するのだが」

「そうだったんですね」

「それと、土地の名前でもある。スーディアの北西部をミュアッソ、北東部をシュプンツェ、南部をコーシュティと呼んでいるよ。確かに地元の人間でなければ、聞いたこともないだろう」


 古くからこの土地にあるモノとか概念でしかなかった、ということか。老婆からおとぎ話を聞かされたせいで、驚かされてしまった。

 それはそれとして……


 ドロルが俺の横に立ち、前菜を取り分けて供する。

 俺はその様子を複雑な気持ちで見守っていた。


「えっと……ゴーファト様」

「ふん、なにかね」

「いきなりの申し出で、驚かれるかもしれませんが」

「遠慮なく言いたまえ」


 笑顔で俺に仕えるドロルが今、どんな気持ちでいるか。それを思うと、こうして座っているのも落ち着かない。


「彼はまだ、奴隷の身分ですか」

「そうだとも」

「では、買い取ることはできますか」


 彼の恨みがどれほどのものかは、想像するしかない。では、どうする? 殺すのか?

 仮に奴隷から解放して、大金を与えて、あとは係わり合いをもたなければ、穏便に済ませることもできるのでは……


 だが、ゴーファトは肩をすくめた。


「そんな必要があるのかね?」

「えっ」

「言ったろう。フリンガ城も、スーディアも、無論、この私自身まで含めて、間もなくすべて君のものになる。だから、ドロルももう、君の所有物だよ」

「で、ですが」


 そんなことを言われても。


「目障りかね? 君が死ねといえば、ドロルは死ぬ」


 ……いや、それなら、俺がここで彼を解放しろと言ったら、ゴーファトはどうする?


「では、彼を今の身分から解放しても構いませんか」


 すると、その申し出に、ゴーファトは笑顔で了承を与えた。


「無論、問題などない。犯罪奴隷でもなし……まぁ、ほぼそんなようなものだがね……だとしても法そのものたる領主の私にとっては些細なことだし、いずれにせよ、ただの所有物でしかないのだから。ただ、私の一存では決められないな」


 そう言うと、彼は顎で指示した。


「本人がどう思っているか次第ではないか? なにしろ、今から自由人になるということなのだから。ドロル、望みを言え」

「はい、ご主人様。私は今のまま、ご主人様の下に留まりたいと思います」


 間をおかず、迷いもなく。ドロルは笑顔のまま、そう返事をした。


「なぜ? 解放後の仕事や生活なら、僕が手配できる。約束してもいい。そこらの平民よりずっといい暮らしができるのに」

「お仕事も日々の暮らしも、ここにございますから」

「でも……奴隷ではなくなる。前に、その、僕とのかかわりの中で、ここに送られることになった。それについては思うところもあるかもしれないが、もう新しい人生を始めてもいいんじゃないか」


 すると、彼は口元を歪めて言った。


「ファルス様は誤解しておいでのようです」

「誤解?」

「私はここでの暮らしに大変満足しております。経緯はどうあれ、今はこのままご主人様の傍で働き続けることが、心からの望みなのでございます」


 だが、言葉とは裏腹に、俺はまるで焼けたフライパンの上の米粒のような気持ちになった。

 本音なわけがないじゃないか。


「彼はそう言っている。まぁ、気になるのなら、君がスード伯になってから、好きに処分すればよいのではないかな」


 しかし、これではどうにもならない。

 まさかいきなり俺を毒殺……しないとも限らないが、どうなんだろうか。


 いや、変といえば、ゴーファトこそおかしい。

 ドロルが何をしでかして運ばれてきたのか、知らないのか? 知っていて、俺と同席させたのか? ほぼ犯罪奴隷のようなもの。彼はそう言った。つまり、ミルークの財宝を盗んで逃げようとしたことも、既に知っている。

 だったら、彼の犯行を未然に防いだノール、今のファルスは、ドロルにとって仇敵じゃないか。


「だが」


 テーブルに肘を載せ、身を乗り出して、ゴーファトは言った。


「ここスーディアでは、こんなのは日常茶飯事だ」

「こんなの、とは」

「小さな恨みつらみ、因縁……そんなものは、掃いて捨てるほどある。それを承知でいながら同じところで生きている。いちいち気にすることではないのだよ」


 そんなものなのか。

 しかし、その割に殺し合いも頻繁に起きているのに。俺も、ここに来る途中で出会った盗賊を全滅させた。あの村の連中は、俺がやったと気付いているかもしれない。


「要は力があればよい。なければ……」


 そう言いながら、彼はフォークを目の前のサラダに突き立てた。


「ここでは、強者しか生きられない。だからこそ、君なんだよ」


 カーゴが入れ替わり、温かいスープが供される。

 だが、その温もりも、まるで俺を落ち着かせてはくれなかった。


 しかし、ドロルが今すぐ俺に毒を盛ることはない気がする。もし、彼が俺を憎み抜いているのであれば、尚更だ。

 なぜならまだ、俺はゴーファトに抱かれていない。手術も受けていない。そんな状態であっさり殺すだろうか。苦しみぬいた末の死を望むのが復讐者というものだ。


「明日は、スーディアで最も美しい狩場に案内しよう」

「アグリオの高原のどこかですか?」

「ああ。このところ、ひどく蒸し暑い日が多いのだが、あそこは夏でも涼しい。美しい池があってね。獲物がいなくても、目を楽しませながら散策するだけでも、十分に満足できる」


 どこだろう?

 古い記憶を辿ってみる。あれだ、デーテルを縛り付けたあの場所。我が狩場の眼と呼んだあの場所だ。


「きっと君も気に入ると思う。それは素晴らしい場所だからな」

「楽しみです」

「散歩が終わったら、早速署名しよう。君こそスーディアの後継者だ。なに、誰にも文句は言わせない」


 俺が文句を言いたいのだが。

 では、散歩中に俺の貞操を奪うつもりなのか? いや、そう思わせておいて、今夜とか……


 いや。

 どうなんだろう? それどころじゃない。


 俺はずっと、ゴーファトの性癖と、それに対する生理的嫌悪感が頭にあった。しかし、仮に彼がパッシャと結んでいて、もっと重大な何かを目論んでいたとすればどうか。少年との愛は、彼の普段の生活において重要な部分かもしれないが、生涯の大事を決める時に、そんなことに囚われるだろうか?

 俺が明らかに辞退したがっているのに、それでも彼は、スーディアの統治権を俺に譲り渡そうとしている。最初はリップサービスみたいなものかと思ったが、どうも違うらしい。なぜだ? もちろん、彼に嫡男がいないという問題はある。彼が、最近娶ったという妻と性交渉を持ち、子を為すということは考えにくい。なら、誰が後継者になっても構わない。とはいえ、彼にとって何らかのメリットがなければ、こうまで俺に執着する理由がないではないか。


 スーディアを丸々引き渡せば、俺を従えることができると、そう思っているのか? まるで自分の扶持をすべて部下に与えて居候になった石田三成ではないか。しかし、俺の実績はといえば、内乱の際に敵将を傷つけ、或いは討ち取ったという程度。あとは西の果ての沼地で黒竜と戦ったと、それくらいしかない。この程度の少年を配下にするために、そこまでのコストを支払う?

 もし俺がゴーファトで、そこまでの代償を払う理由があるとしたら……それは、一つしか思いつかない。俺のピアシング・ハンドの秘密を知った場合だ。確かに、自分のためにこの異能を使ってくれるのなら、スーディア全土を差し出してもまだ安い買い物だ。なぜなら、彼は簡単にフォレスティア王になれるのだから。


 まさか。

 グルービーが秘密を知ったのは、ノーラが俺の変身に気付いていて、しかもその記憶を覗き見たからだ。ゴーファトには同じことができない。彼に精神操作魔術の知識や経験はないし、ドロルが俺の秘密を知り得たとも……だが、これらは絶対ではない。

 まず、ドロルは俺の友人ではない。表情には出さないが、激しく憎んでいる可能性が高い。だからノーラと違って、ゴーファトに俺の秘密を喋ることには何の抵抗もない。

 ではドロルはどこで秘密を知った? 収容所にいた時、何度か鳥に変身した。それに最初に虫けらになった時、俺は一週間も行方不明になっている。俺が不在だったことは、ドロルだって知らなかったはずはない。

 俺の奇妙な行動に気付いていた人は、何人かいた。ノーラはもちろんのこと、タマリアもそうだったし、ミルークも勘付いていた。ならドロルだって……

 いや、いや。では彼は、なぜ俺の秘密を知っていながら、俺を脅さなかった? 或いはミルークに告げ口しなかった? 或いは告げ口はしていたが、あえてミルークは聞き流すことにしたのか?

 しかし、デーテル殺害の手紙をタマリアに見せるくらいには、彼は思慮が足りなかった。今はどうか知らないが、少なくとも当時は、思いついてから実行に移すまでの距離は、かなり短かったはずなのだ。

 ミルークが相手にしてくれなければ、当時のドロルなら不満に思うことだろう。そうなれば、次の行動に出たはずだ。何事も起きずには済まなかったのではないか。


 考えすぎだ。

 あり得ない。


「あまり口には合わないかね?」

「い、いいえ、とんでもありません」

「そうかね? 夢中で食べているようには見えなかったのでな」


 料理には申し訳ないが、ほとんど味がわからなかった。


「だが、次の皿はスーディアならではの一品だ。よく味わってもらいたくてね」

「はい。どんなものでしょうか」

「食べてからのお楽しみだ」


 次のカーゴが流れ込んでくる。そこには小さな陶器の皿が、二つあるばかりだった。


「これは?」


 中には、なにやら香草か何かと一緒にじっくり煮たような肉片があった。


「恐らく、君にとっては未体験の味だと思う」

「そこまで言われては」


 見たところ、特別な調理をされたものとは思えない。小さな香草が添えられているところからしても、匂いにクセがありそうな肉かもしれないが、それだけだ。フォークで押さえ、ナイフで切ると、調理がよかったのか、スッと刃が通った。

 一切れを口に運び、じっくりと味を探ろうとする。これは、豚肉……にしては、ちょっと風味が違う。野生の猪も以前、チェギャラ村で食べたっけ。でも、ああいう生臭さではない。

 では、羊肉? 豚肉でなければ、こちらの味わい、風味に近い。しかし、それも格別に珍しい食材とはいえない。では、なんだろう。鹿? 違う気がする。それとも犬とか、何か肉食獣のものだろうか。

 あれか? 俺の記憶にない味となると、竜とか、ああいう希少性の高い……でも、ゴーファトはありふれた材料でもあると言っていたし、これは違うだろう。


 ただ、そう悪い味ではない。

 といって、ここぞという場面で出さなければいけないほどの貴重な肉、といえるほどのクオリティがあるかというと、これも疑問だ。調理の腕はいいからおいしいが、それだけだ。


「どうかね?」

「はい。おいしくいただける肉だと思います」

「それはよかった」


 ゴーファトは、裏表なく嬉しそうな顔をした。


「それで、どんな動物の肉かはわかったかね?」

「いいえ。豚かと思ったのですが、どうも違うような……かといって羊肉とも、近いのですが違う感じがしますし」

「そうだな。そんなありふれた食材を、こんなにもったいつけて出したのでは、私が恥をかく」


 そうだろう。

 しかし、では何の肉だろう?


「わかりません。降参です」

「ははは、いいだろう。じゃ、次のカーゴを出せ!」


 扉が開き、無表情の美少年が押すカーゴが目の前で止まる。他のカーゴと違って、やたらと縦長だ。そしてその上には、黄金の大皿があった。深さもかなりある、大きなものだ。

 そしてその中には……


「……はっ?」


 俺は思わず椅子を蹴って立ち上がった。

 すぐ後ろで、バランスを失って横倒しになるのが聞こえたが、まったくそれどころではなかった。


 大皿の中には……


「はっはっは! びっくりしたかね!」


 ゴーファトは無邪気に笑っている。

 ドロルも、ニタニタと笑顔だ。


「こっ、ここ、こ、これは」


 サル、だったらどんなによかっただろうか。

 火が通って変色していても、その顔の形はごまかせない。サルほど顎が出ていないし、その形も華奢だ。


 全体として、それはよく見慣れた色ではあった。茹でた鶏肉と同様、肌色に近い。ただ、皮膚の一部は赤みが差している。これは、血抜きが十分できていないからだ。体表近くの毛細血管すべてから完全に血液を抜き取るのは無理なので、こうなってしまう。

 彼は、仰向けになったまま、虚ろな表情を浮かべていた。着衣は何もない。ぐったりと皿に背中を預けて、天井のシャンデリアを見つめている。体のほとんどはきれいな状態だったが、喉から下腹部にかけて、切り裂かれた跡がある。内臓を抜いてから調理したのだ。それと、性器がなかった。

 右の太腿の一部が切り裂かれている。つまり、さっきの一切れは……


「うっ……」

「紹介しよう」


 なんてものを。

 これが郷土料理? 何をふざけたことを。俺を騙してからかっていたのか。


 黄金の大皿から、かすかに立ち昇る臭気。えぐみのようなものを感じさせる臭いだ。それが他の何にも増して、俺の神経を逆撫でする。


「ウフラス子爵の嫡男、ショダ君だ」


 興味ない。

 だが、これでわかった。なるほど、ありふれた素材であり、珍しい材料でもある。人間なんてその辺にいくらでもいるが、こうして食材にすることは稀だ。

 それとこの紹介も、まったくの無意味ではない。


「彼は素晴らしい少年だった。私の手に落ちてからも、決して希望を失わなかった。フリンガ城の地下牢に閉じ込められてから、確か二度……」

「三度です、ご主人様」

「そうそう、三度も脱出を試みた。まぁ、わざと隙をみせておいたのもあるのだがね。それでも諦めなかった。勇敢だったよ」


 貴族の嫡男。

 つまり、タンディラールが内乱時の報酬として与えた「美少年」の一人だ。それを今の今まで生かして嬲っていたのだ。


「それに夜も情熱的だった。押さえ込むのは一苦労だったが、その具合のよさといったら、ああ!」

「扉の外で声を耳にするだけで、ご主人様のご満足が伝わってくるようでした」

「特に最後の夜は最高だったよ。煮えたぎる釜、よく研がれた包丁、薄暗い調理場……わざわざそのすぐ近くに寝台を設置してことに及んだが、これはもう最高だった。これが最後とばかり、必死で……嬉しくも悲しいな。二度と彼に会えないなんて」

「ここにいらっしゃるではありませんか」

「そうとも。これが彼との最後の別れなのだ。まったく、喜びと悲しみとがないまぜになるこの瞬間こそ、人生というものの奥深さを実感するよ」


 つまり、わざわざ一日待たせたのは。

 俺が暢気にホテルのテラスに出て、紅茶を飲もうとしていたちょうどその頃。この少年は最後の陵辱を受け、そして生きたまま……


「何が素晴らしかったかって、彼が最後まで諦めなかったところだな。もちろん、粛々と運命を受け入れる姿にも惹かれるものがあるのだが、彼はそうではなかった」

「ご主人様、お言葉ですが、助からないとなれば、誰でも死力を尽くすものでは?」

「いやいや、これが案外、屈服してしまうものなのだ。考えてみたまえ。フリンガ城とこの街に何千人の兵士がいると思うかね。私を討ったとて、どうにかなるものではない。だから、どうせなら苦痛を小さくしようと、恐怖に身を縮めながらその時を待つ者も、決して少なくはないのだ」

「なるほど、では、彼はどんな抵抗を」

「見たまえ」


 ゴーファトは、白い上着の袖をめくりあげた。


「私の左腕に、力いっぱい噛み付いたのだよ。この傷跡はきっと残るだろう。そう、私と彼との愛の記憶とともに」

「なんと素敵なことでしょう」

「そうとも、そうとも。彼のように勇ましく気高い魂には、今までも、これからも、そうそう出会えるものではない。逆に一番つまらないのが、やはり命乞いだな。最後まで歯向かう勇ましさでもなく、悄然と死を受け入れる可憐さでもなく、ひたすらに見苦しい。こういうのは、どうしても興醒めになる」


 こいつらは、いったい何を話しているんだ。

 目的は? こんなことをする理由は?


「どうしたね、ファルス君……少々驚きすぎではないかね」

「閣……ゴーファト様、これは」

「だから、ショダ・ポルタ・ウフラス君、十歳だ。血筋よし、美貌よし、覚悟よしの言うことない最高の少年の一人だったよ」

「どこが郷土料理なんですか」


 俺は、極力感情を排してそう尋ねた。

 何を口にして、飲み込んだのか。それはなるべく考えない。ここで取り乱して嘔吐しようものなら、どうなるか。だから自制すべきだ。しかし、それだけではない。

 これだけの残虐行為を目にしながら、俺は怒りを感じていなかった。なぜなら……


「説明も何もないと、これが郷土料理とはわからないかもしれないな」


 ゴーファトは悠々と構えて、笑顔で話した。


「考えてもみたまえ。スーディアは昔から貧しい土地だった。しかも争いも絶えない場所だったのだ。一番手近な肉となると、これしかないのだ。嘘偽りなく、これはスーディアの伝統的な料理だとも」

「彼……この少年を料理にして出したのは、何のためですか」

「それは仕方ないことだ。彼自身には何の罪もないが、父親が反逆罪に問われ、処刑された。当然、子女も生かしておくわけにはいかない」


 ……思った通りだった。

 長子派の生き残りの始末というところが、ではない。そんな理由はわかりきっている。そこはどうでもいい。


 そうではなく、賓客に振舞う食事が、なぜ人肉だったのか。


 理由などない。ないのだ。

 少なくとも、常人が考えるような理由は。


「さっきから愛とか、いろいろおっしゃっていますが」

「ああ、もちろん。罪は罪だが、私は彼を愛していたし、彼もそのことはわかってくれていたと思う。私にとっては、今でも最上の宝物なのだよ。だからこそ、同じく最愛の君に振舞うには、これしかないと思ったのだ」


 ……これが、怒りをおぼえない理由だ。


 感じたのは、ひたすらに非人間的な気持ち悪さだ。

 これがまだ、この少年やその親族に対する恨みを晴らすため、相手を侮辱したいから、というような理由であれば、受け入れることもできる。或いは、あえて残虐行為を見せ付けることで俺を畏怖させようとしたとか。それも合理性がある。

 だが、恐らくそうではない。或いはそういった目的も含まれているのかもしれないが、それはあくまで付随的なものでしかない。

 これがゴーファトにとっての「普通」なのだ。人として、ネジが一つか二つは、とんでしまっている。


「今回のシュプンツェはよくできている。とりわけ材料がよかったからだろう。さあ、好きなだけ食べてくれないか。遠慮などいらない」

「せ、せっかくですが、前菜とスープでもう、お腹が」

「それは残念だな」


 俺の拒絶にも、彼は気を悪くしたようには見えなかった。


「これだけの量があると、さすがの私も一人では食べきれない。仕方ない……ドロル」

「はい」


 彼は満面の笑みで応えた。


「お前は運がいい。一口、どこでも好きなところを食べるがいい」

「では」


 すると彼は、カーゴの上に置かれた小皿とスプーンをとって、ショダの右目にそっとあてた。


「おやおや、どこでもとは言ったが、欲が深すぎやしないか」

「ご主人様、ご命令に従うのが下僕というものでございます」

「はっはっは、なるほど、その通りだ」


 そのままドロルは、彼の眼球をくり貫いた。ただ、かなり力を入れたらしく、スプーンが抉り取ったのは、更に奥の方にあった顔の肉の一部も含んでいた。


「ファルス君、君も料理人なら察しがつくだろうが、ドロルは一番いいところを選び取ったのだよ。眼球は大したことないが、その奥が、これが他にはない珍味でね……まぁ、片方だけなら譲ってあげるとしよう。だが、本当に食べなくていいのかね?」


 確かに、動物の肉などでも、顔の一部が最上の部位となることはある。だが、人肉についてそんな知識は欲しくなかった。


「結構です」

「ではドロル、口に入れてもよろしい」

「ありがとうございます」


 彼は、さも最高のご馳走を口に入れるかのように、夢見る瞳で眼球と、付着した肉とを頬張った。耳障りな咀嚼が繰り返され、最後に嚥下するのがはっきり聞こえた。


「どうだったかね」

「まさにこれこそご主人様のお恵みでございます」


 ドロルの顔は、愉悦に染まっていた。演技ではない。それがわかってしまった。

 奴隷が、貴族の子女を食べるのだ。その意味自体が、彼にとっては何よりの快楽だった。


「ああ、まったく、なんという夜だろう。喜びと悲しみと、それがまた喜びに挟まれて、私はどうしたらいいか、わからなくなってしまいそうだ!」

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