高原の城下町へ

 西の空はまだ淡い黄色。日没まで、いくらか余裕があるはずだ。それでも辺りは既に暗かった。盆地の夕暮れは早い。左右に立ち並ぶ木々の黒い影が、こちらに向かって倒れこんでくるかのように見える。

 長い坂道を登り切った向こうには、ちょっとした城壁と門があった。領都アグリオの入口となる関所だ。といっても、その高さは一般の家屋と変わらないくらいだし、石積みも心なしか雑に見える。

 まだ俺の前には、数人が並んでいた。すぐ下の盆地から領都に向かう用事のある人々が、身元を確認の上で通行を許可される。みんな背中に荷物を背負っている。引っ張ってきたロバに荷物を載せているのもいる。多分、中身は食料品だ。

 ここの検問を抜けても、しばらくは森と草原が続く。しかし、農耕地としては、あまり開発されていないという。起伏の激しい高原地帯の多くが伯爵の私有地で、そこはただの狩場として残されている。ただ、高原の中央部には一定の広さを有した平らな土地があり、そこが領都の市街地となっている。フリンガ城も、そこに聳え立っているらしい。


「通ってよし。次」


 俺は黙って真新しい黄金の腕輪を突き出した。粗末な城門の日陰の下で、それだけがくっきりと輝いた。


「これは……」


 兵士は、顔を寄せて腕輪の表面に刻まれた内容を確認する。

 フォレスティア王タンディラールが、騎士ファルス・リンガを認めて発行した身分証だ。これで俺のスーディア到着は、間違いなくゴーファトの知るところとなる。だが、それは承知の上だ。彼の近くに寄らなければ、暗殺の機会も何もあったものではない。もちろん、始末する時には別人の姿で、こっそりピアシング・ハンドで済ませるつもりだが、それはそれとして、彼の傍で行動予定など、さまざまな情報を入手しておくことで、実行もスムーズになる。

 兵士達は、俺から離れて、顔を寄せ合って何事か話し合っている。やはりというか、俺の訪問は織り込み済みだったのだ。


「ファルス様」


 兵士の指揮官らしき男が戻ってきて、俺に深々と頭を下げた。


「スーディアにお越しいただき光栄です。それで大変申し訳ありませんが、間もなく日没となり、街道も歩きにくくなります。明朝までに馬車を用意させますので、今夜は私どもの宿舎に一泊していただくということで構いませんでしょうか」


 このままフリンガ城に直行、か?

 予想通りだが、結果としてノーラを別行動にしておいてよかった。


「お手間をおかけして済みません。旅人の身としては、大変に助かります」


 そう返事をして、俺もまた、軽くだが頭を下げた。


 このすぐ下の盆地の集落で、俺はノーラと話し合っておいたのだ。ここから先は、行動を別にしたい。自分が先にアグリオに入るから、二、三日遅れてきてくれと言ったのだ。すると彼女は、数秒考えてから「私が先に行く」と言い張った。

 ゴーファトの女嫌い、そして少年趣味は、彼女もよく知るところだ。言うまでもなくノーラは美少女だが、ゴーファトにとっては汚物も同然だろう。だから、領主に会う予定の俺と同行させるのは都合が悪い。憧れの少年が不潔な女とベタベタしているのを目にしたら、奴が逆上するのは目に見えている。彼女も駄々をこねたりはしなかった。

 しかし、俺を先に行かせてしまうと、別のリスクがあると気付いてしまった。王命でスーディアまでやってきた俺だ。すぐにゴーファトと面会するのは目に見えている。すると、俺が猫なで声で、少年好きの領主様に耳打ちするかもしれないのだ。「僕の知り合いの女の子は、ピュリスに追い返して」と。

 実際、それでことが片付くなら、俺だってゴーファトに媚びるくらいはする。ノーラを巻き込むことなく暗殺を済ませ、そのまま旅の続きができるのだ。ただ、どこまで我慢できるだろう。その代償が「手術」だったら、さすがに無理だ。後ろの「貞操」もちょっと……「キス」くらいなら、我慢できる……かもしれない。


 あのゴツい顔とキス、か。でも、この先も、あり得ないことではない。

 想像して、身震いした。


 ゴーファトは、タンディラールが要求を受け入れる可能性をどの程度と見繕っていたのだろうか。というのも、案内された小屋は、古びてはいたものの清掃が行き届いていたからだ。いや、或いは既に、タンディラールからの使者がスーディアに送り込まれていたのかもしれない。依頼通り、ファルスまたは美少年を派遣します、と。

 そうでなければ辻褄が合わないからだ。タンディラールが、俺一人に依存するような間抜けであるはずがない。ファルスが「何が何でもイヤ」と言った場合にはどうするか? オプションなら、一応用意してあった。ベルノストだ。

 彼が密命について、詳しく知らされていたとは考えにくい。ただ、命懸けの任務がある、ファルスとその役目を取り合うことになる……それくらいは伝えられていたのではないか。でなければ、あの真剣を手にしての必死な戦いぶりが説明できない。


 翌朝、俺は馬車に乗せられると、一気に街道を通って高原地帯を走り抜けた。朝から地元の人々は関所を通って歩いていたが、みんな舗装された道の脇を歩いている。道路の真ん中は伯爵とその部下が使う場所、と弁えているのだ。

 高原地帯の周辺部分の風景は、一言で表現すると「小部屋の連続」だった。切り立つような岩のアーチや、鬱蒼と茂る森などが小刻みに現れて、その間に平坦な土地が広がっている。合間合間にか細い脇道が走っている。そんな中に、幹線道路としての街道が無理やり押し広げられている。そんな印象だった。

 だが、多少なりとも清冽な朝の空気が散り散りになって、スーディア特有の、あの吐息のような熱気が辺りを覆うようになる頃には、既に遮るもののない平原に出ていた。


 それは思ってもみなかった光景だった。

 遠くに青く霞むのは領都を囲むスーディアの山々。膨れ上がった雲が陰翳をなし、悠々と下界を見下ろしている。すぐ足下には、丈の低い草花が絨毯をなしている。この高地では夏は短く、だから碧玉の月も半ばを過ぎた今でも、葉の色は淡い緑色のままだ。

 盆地と森の間道を行く間は、その陰鬱さに気が滅入るばかりだった。だが、そこを抜けて上から見晴らすと、なんと気持ちのいいことか。この十日あまり、一度として感じることのなかった爽快感が突き抜けていった。


 とはいえ、空気は既にして生温くなりつつあった。多分、この高原がもっとも美しい季節は、もうちょっとだけ前なのだろう。


 しばらくすると、前方に城壁のない街と、尖塔とが見えてきた。


 馬車は、速度を落としながら舗装された大通りにそのまま乗り入れた。そこでやっと気付いたのだが、街の様子というか、区画割りが独特だった。

 今、俺が馬車に乗せられて走っているのは、それこそこれと同じ馬車が横に三台並んでも通れるくらいの広い道路だ。これらはどれも灰白色の石材で舗装されていて、整備も行き届いている。ところが、ここを歩く人はほとんどいない。

 その左右には当然、家があるのだが、それが大きな区画ごとに、丈の低い……大人の腰にも届かないくらいの塀に囲まれている。その内側には、それぞれ家々も立ち並び、小さな市場まである。そして、その区画の中では人が大勢歩いている。

 要するに、小さな街がいくつもある。縦横に走る公道がそれらを繋いでいる。喩えるなら、葡萄の房みたいなものだ。


 軽く聞き流しただけの話だったが、なんとか思い出す。アグリオの市民は、一部の例外を除き、それぞれの盆地や村の代表者だという。そして、同じ地域出身者でまとまって生活するのだとか。


 各地の住民がアグリオにコミュニティーを作るのには、いくつかの理由がある。まず、命じられているから。スーディアの兵は、民間から徴用される。村落の中の腕っ節の強い男達が、ここで軍役に就く。また、伯爵に仕えることで発言力を得るという目的もある。三つの盆地を中心に、いつも争いが絶えない土地なので、自分達の存在をアピールし続ける必要がある。弱みをみせれば、他の集落に押し潰されてもおかしくない。

 そんな彼らだが、アグリオとその周辺の土地は、許可なく開墾できない。スード伯の私有地だからだ。だから、あちこちにある関所を通って、自分達の出身集落からの支援を受けないと、生活できない。特に食料が不足する。

 つまり、領都で暮らす地方民は、元の集落からすれば人質でもある。彼らは、一部は伯爵の私兵として働き、他は商売や工芸で生きている。スーディアを目指す数少ない商人にとっても、取引が成り立つ場所としては、領都以外にない。


 少し進むと、今度は城壁と呼んで差し支えないような規模の、黄土色の壁が見えてきた。それをぐるりと回りこむと、壁に覆われていない道路の部分が垣間見えた。ここも街区だったらしい。ここは特に大きな区域だった。

 ということは、ここが旧市街……つまり、本来の城下町で、エディマの出身地区だ。ここに暮らす人々に限っては、周辺地域との繋がりを特に持たない。また、アグリオ周辺にある農地を耕すのも、彼らだけだ。彼女が兵士達に攫われたのも、この区画を出て、農地と行き来する途上だったという。


 そこを通り過ぎて間もなく、また別の街区に差し掛かると、馬車は足を緩めた。


「こちらでお降りください」


 使者を務めた初老の御者は、馬車の脇のドアを開けて手を差し伸べた。

 俺が降り立つと、彼は胸に手を置いて、その場に膝をついた。


「閣下はあなた様のご到着を心待ちにしておいででした。ただ、なにぶんにも、いついらしていただけるかもはっきりしておりませんでしたので、お迎えの準備が整っていないとのこと。非礼は承知ながら、明日の昼過ぎまでは、お待たせすることになるかと思います」

「僕は一介の騎士に過ぎません。一州を治める領主にお目にかかるのですから、伏してお声がけいただけるのを待つのが道理です」

「おお、とんでもないこと」


 彼の表情には、芝居がかったところがまったくなかった。

 慈悲を乞うかのように手をわななかせ、それからまた、思い出したように恭謙な態度に戻り、視線を俺の足下に向けた。


「私、このように申し付けられております。お迎えするにあたっては、君侯を遇するが如くにせよ。というのも、本来なら供のものどもを引き連れて自ら膝をついて迎えるべきところ、ただその年少と世俗の身分ゆえに、形ばかり並みの客人を招くかのようにせざるを得ないだけと心得よ、と。また、このようにもおっしゃいました。このゴーファトへの恥辱は宥恕されようとも、かの客人への無礼の報いは、その一身のみならず一族に及ぶものと知れ、と」


 なんという。

 要するに、自分と等しいか、それ以上の身分の人間と接するつもりで迎えろと。俺に対する奴の入れ込み具合を再確認して、鳥肌が立った。


「なればこそ、私の命はただ、あなた様の両の手の間にこそあります」

「お名前をお伺いしても」

「コーポル・ウヤットと申します」

「では、閣下には、コーポル殿は非の打ち所のない方だったとお伝えしましょう」

「おお、過分にございます」


 彼の顔色には、変わらず恐怖が滲んでいた。

 ああ、そうか。


「ご安心ください。あなたの不利益になることは何一つ申しません」


 どんな形であれ、名前が出るのがいやなのだ。

 まぁ、あのゴーファトだから、無理もないか。何かあったら簡単に首を飛ばされそうだ。


「では、今夜はこちらに宿をお借りするのでしょうか」

「はい」


 慌てて立ち上がると、彼は目の前の建物を指し示した。

 赤みを帯びた瓦屋根の三階建て。南向きのこの前面の部分が横に広く、カラッとした印象を与える。屋根の形が傾斜の小さい寄棟屋根になっていて、その下の壁面がクリーム色で、スーディアらしく窓も小さい。三階の窓の位置と、二階のベランダのせいで、なんだか人の顔に見えなくもない。


「ただいま、ポーターを……」


 彼が言いかけたところで、中から二人の若い男が駆けつけてきた。見るからに服装がラフで、ここで下働きをしている一般人とわかる。

 俺のことは、既に言い含められているらしい。


「こちら、閣下の賓客である。一切の不自由をさせてはならぬ」


 二人は黙って頷き、目を伏せた。


「ファルス様、もう一つだけ、ご承知おきください」

「なんでしょうか」

「申し訳ございませんが、明日のお昼に出迎えの者が参りますまで、こちらの街区より外へは出られませんよう」

「それは……わかりました」


 理由なら、尋ねるまでもないか。

 別の「村」には、俺のことは伝えられていない。そこでトラブルでも起こされたら、ということなのだろう。俺は別に罰されないが、俺に対して無礼を働いた慮外者は、厳しく断罪されることになる。

 しかし、ここはどんな「村」なんだろうか。外部からの訪問者を迎えるための、特別な区域なのかもしれない。

 ノーラも、俺に先立ってスーディアに入ったはずだ。うまくどこかに宿をとれたんだろうか。心配だが、探し回るわけにもいかない。時間さえ経てば、彼女の方が俺を見つけるだろう。ただ、ピュリスと違って土地鑑もないし、例の魔法陣もないから、『意識探知』を繰り返しても、相当な手間がかかることは予想できる。俺の居場所を知っていそうな人を順番に探していくしかないからだ。


 荷物を部屋に運ばせ、人を追い返すと、俺はベッドの上に大の字になった。

 少し古びてはいるが、高級感のある部屋だ。ただ、どことなく借り物のような雰囲気が拭えない。壁や天井はクリーム色に塗り潰されていて、床は三角形の木材がそれぞれに組み合わされたセリパシア風の造形になっている。スーディア独自の文化というよりは、外部の人間に受け入れてもらうための部屋に仕立ててある。それでもスーディアらしさがあるところを挙げろといわれたら、やはり窓の小ささしかない。

 明日か……と一瞬、気を緩めそうになるが、すぐに思い直した。こうして油断させておいて、今夜、奴が夜這いをかけてきたら……いやいや、まさか。お忍びでやってくるのなら、消去するチャンスだから、好ましいといえなくもない。ただ、その代償が何かと思うと、素直に喜べもしないのだが。


 夕方、俺は部屋の外に出た。何をしたいというわけでもなかったが、少し涼しくなったので、風に吹かれてみたくなったのだ。部屋の窓が小さくて、空気が篭る感じがするのもあった。

 一階まで降り、そこに設置されたテラスまで出てくると、後ろから声をかけられた。


「ファルス様でございますか」


 振り返ると、そこには黒いスーツを着込んだ品のいい年寄りがいた。髪の毛は真っ白になっていて、しかもほとんど禿げかかっている。


「はい」

「お食事でしょうか」

「あ、いえ。少し涼みにきただけです」

「では、こちらのお席へどうぞ」


 ウッドデッキの上には、いくつか丸テーブルと椅子とが並べられていた。俺の席はどうも最初から確保してあったようで、隅の方に一つだけ距離を空けて用意されていた。


「ただいまお飲み物をご用意致します」


 折り目正しく頭を下げると、彼は去っていった。

 まるで要人にでもなったかのような待遇だ。これまでの旅でも、各地を巡ってあちこちの貴族にも会ったし、家に招かれたりもしたのだが、あくまで俺の立場は「下」だった。所詮は見習い騎士の身分で、自分より格上の誰かに面会するに過ぎなかった。しかし、今回はまるで状況が違う。

 特別な人物がいる、というのは、宿泊客の間でも、既に噂になってしまっているらしい。或いは噂ではなく、既に布告があったのかもしれない。いずれにせよ、俺の黒髪はよく目立つ。別のテーブルから、仲間と歓談するふりをしながら、こちらを盗み見る視線も突き刺さってくる。


「お待たせしました」


 夕焼けのきれいな部分だけを抽出したような色合いの紅茶、ナッツと干した果物が供された。そのまま、彼は音もなく去っていった。


 さて……

 くつろぎながら、今後をどうするかを考えよう。


 明日、ゴーファトに会う。フリンガ城に入ることになるが、その後どうなるかはまったくわからない。食事を供されて終わり、ではないだろう。宿泊もすることになる。まさかその日のうちに餌食になることはない……いや、あるかもしれない。俺ももう十一歳だ。そして奴は「少年」が好きなのであって「男」が好きなのではない。「手遅れ」になる前に、急いで「手術」ということもあり得る。

 食べ物に眠り薬とかが……これもあり得なくはないが、食べないという選択肢もない。そんな失礼が許されるはずもない。


 ヤバい、なんか、くつろげなくなってきた。


 今夜、ヤッちゃうか?

 でも、どうやって?


 方法がわからない。今、奴がどこにいるかもわからないのだ。明日の昼以降に俺と会うとのことだが、では今、ゴーファトが城の中にいるかというと、それすら確かではない。

 精神操作魔術でスキャンする? しかし、これも時間がかかる。一介の兵士が、領主の居所や予定を知っているものか? 居場所を知っていそうな人間を順番に探り当てていかねばならない。

 一つ、救いがあるとすれば、恐らくゴーファトには、殺意がないことだ。手術のために食事に眠り薬を入れるくらいはする。しかし、仮に身動きできない状態になっても、俺にはデスホークの肉体がある。毒薬は、あくまでこの肉体への悪影響だから、変身してしまえば無効化できる。

 意識さえあれば、やられずに済む。


 慌てない、慌てない……

 ふう、と一息つき、とりあえずは目の前の紅茶に手を伸ばす……いや、待てよ?


 これが奴の罠だったら?

 明日会うというのは嘘で、今日、ここで痺れ薬を一服盛って、いきなり切断とか。ないとは言い切れない。


 ドッと冷や汗が背中を伝う。疑心暗鬼になると、どうにも身動き取れなくなる。

 どうしよう?


 誰かに毒見させればいい。

 ちょうどいいのはいないか?


 俺はキョロキョロしはじめた。しかし、何しろ俺は特別待遇の賓客だ。近くには誰もいない。テラスにいる連中は、みんな距離を保ったまま。俺の視線に気付くと、あからさまに顔を背ける。下手に係わり合いになるまいとしているのだ。

 落ち着け。俺は今、退屈している。そうだ、時間を潰そうとしているんだ。で、話し相手を探している。なんでもない、ただの世間話をしたいだけなのだ。そういうことにしよう。それで、誰か適当な相手は……


 テラスの外、敷地の庭にも視線を向ける。

 スーディアといえども、やはりフォレスティアだ。庭の真ん中は実用性もあって、何もなくただ踏み固められただけの広場になっているが、その周囲、出入口の壁際には、やはり花壇が設えられていて、樹木も植えられている。ただ、人の出入りもなくなる夕刻とあって、人影はほとんどない。

 そんな中、ちょうど昼間に通った入口の門付近に、ボロをかぶった人影があるのに気付いた。


 俺はじっと彼を観察した。


 宿の敷地の前を、時折人が通り過ぎる。するとその男は、しゃがんだまま手を差し伸べる。だが、通行人は一瞥もせず、彼も諦めて手を引っ込める。

 乞食、か。


 ちょうどいい。

 失うものが何もない男。毒見役とするのもひどいとは思うが、俺自身の命には代えられない。ちょっとした気まぐれとか、何か理由をつけて、ここに招いてやろう。で、この紅茶を飲ませる。茶菓子も食わせる。適当な話でもして、現地事情も聞ければなおいい。最後に彼を励まして、数枚の金貨を握らせてやれば、慈悲深い少年騎士のエピソードとしては、まぁ、なんとか取り繕える範囲に収まるだろう。


「済みません」

「はい」


 俺の呼び声に、さっきの年寄りが馳せ戻ってきた。


「あちらの、門の前にいるのは、どなたでしょう」


 指差しながら、遠く出入口に陣取る男について尋ねると、年寄りは顔色を変えた。


「あれは近頃になって、この辺をうろつくようになった物乞いなのです。本人は冒険者などと言っておりますが。お目汚し、大変申し訳ございません。ただいま叩きだしますので」

「いえ、そういうことではありません。では、彼は困窮しているのですね」

「は? はい、そう思いますが」

「気の毒なことです。では、少し身の上話を聞いてやりましょう」

「えっ!?」


 俺はジロリと彼を見た。


「この席まで、彼を招いていただけますか」

「そっ、そのような……いえ、承知致しました。少々お待ちを」


 賓客の要求を拒絶するわけにいくまい。

 彼は身を翻して奥へと引っ込んだ。

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