第二十六章 因縁と怨恨の地

悪意の道を行く

 自己主張の強い青空だった。

 青すぎるほど青い空。そこを瘤みたいな不恰好な雲が、まるで巨大なナメクジのように這いずっている。その歩みはあまりに遅く、見ているだけでジリジリしてくる。

 天空の世界と同じく、地上にもほとんど風は吹いていなかった。強すぎる日差しが、何もかもを圧している。白みがかったこの乾いた街道。小さな緑が割れた敷石の狭間から顔を出しているが、既にして生気を失っている。元気のない葉より、その陰のほうが生き生きしているくらいだ。

 街道の左右は、逃げ場のない絶壁だった。斜めに突き出た古い断層が、うっすらと縞模様をなしていた。その天辺を申し訳程度の緑が覆っている。そのまた向こう、山のほうに目をやると、さすがにそこには木々が生えてはいるのだが、濃い緑の中にも、どこか息が詰まるような、奇妙な静けさが場を覆っているのだ。

 足下から、湿気を伴う熱気がよじ登ってくるみたいだった。一筋の汗の滴が、襟元から胸の奥へと滑り落ちていく。南へのこの街道、何もかもが陽光を照り返して、いやになるほど眩しかった。


 だが、この土地を旅するなら、屋根のある馬車なんて期待すべきでない。ここはまだ道も広いほうだが、場所によっては街道の状態も悪くなるし、急な坂道もある。歩くか馬に乗るかするしかないのだ。それも、途中にかなりの隘路があるから、場所によっては下馬しなくては通れない。


 急峻な山々に囲まれた盆地。それがスーディアだ。但し、ティンティナブリアみたいなきれいなお椀型ではない。北東部、北西部、南部と、それぞれ歪な形の小さな盆地があり、それが中心部の高地を占める領都アグリオに隣接している。

 その三箇所の盆地が、いわばスーディアの中の核となる地域で、そこからまるで血管のようにか細い道があちこちに張り巡らされている。その結節点のような感じで、ポツポツと集落が存在するのだ。


 そうした道路事情は、王都からスーディアに立ち入った場合でも変わらない。それでも、この道はまだマシなほうだ。馬車で移動するには少々起伏がありすぎるし、道路の整備状況もあまりよくはないのだが、旅人個人が歩いて通り抜ける分には、さほどの不自由もない。一応、軍用の道路としての役目も兼ねているルートなだけある。

 ここの土地柄もあって、こうした道路が今以上に修繕されたり、拡張されたりすることは、あまり期待できない。


 縞模様の峡谷を抜けると、今度は黒っぽいゴツゴツした岩がそそり立っていた。見るからに火山岩だ。道路はその大きな岩を左に迂回するように続いている。同じ色の小さな岩もいくつか道の脇に転がっている。

 いったい、この大地はどんな憤怒を吐き出したのだろうか。そして、その怒りはいまだにこの土地の空気に満ち満ちている。さっきよりぐっと近くなった森の奥に目を凝らすも、見えるのはかすかな木漏れ日と、その向こうに続く緑の闇だけ。動物の影はおろか、鳥の鳴き声すらろくに聞こえない。


 スーディアは、一言でいうと「不信の地」だ。昔は三つの地域がそれぞれ別々の勢力として並び立ち、互いに争ってきた。だからといって、北東部なら北東部なりの結束があるかというとそうでもなく、村落単位で別集団に鞍替えしたり、また寝返ったりといったことを繰り返してきた歴史がある。

 ギシアン・チーレムの世界統一以前から、フォレスティア王国の支配も受け付けず、内紛を続けてきた。もっとも、内紛という言葉を使っていいのかどうかもわからない。とにかく、恨みの連鎖を積み重ねてきた。村を一歩出たら、そこはよそ者の世界だ。強盗、強姦、殺人……珍しいことではなかった。

 それでも、世界統一は一時的な平和をもたらした。いや、平和を強制されたというべきか。しかし、三百年の平穏のうちにも、人々が溶け合うことはなかった。強いて言えば、領都とその周囲を埋める三つの盆地についていえば、外の世界の進んだ文化や思想に影響されて、若干の変容を遂げた。

 そもそも領都アグリオは、スーディア統治のために建設された新たな都市で、住民の多くも外部のフォレス人だったらしい。代々のスード伯も、そのアグリオに聳え立つフリンガ城に居を置いている。


「聞きしにまさる、か」


 右手に黄土色の絶壁。上り坂に足をかけながら、左手に広がる陰気な森を見やる。

 険しい道なら、今までいくらでも歩いてきたが、そこにこのスーディアの蒸し暑さが加わると、不快この上なかった。碧玉の月から紅玉の月にかけてのおよそ三ヶ月間、スーディアは特に過ごしにくいという。領都を含む高地なら少しだけ涼しいようだが、いずれにせよ、海に面したピュリスほどすっきりとした気候にはならない。


 こうした現地事情は、昔、エディマから教えてもらった。

 王命を受けると知っていたら、もっと詳しく尋ねておいたのに。


 この地では、出身が大きな意味を持つ。どこの村のどの家からやってきたのか。何百年前から、どれくらい敵対してきたのか。そういう意識で相手を見るのだ。

 その文脈からすると、千年前の移民の子孫である生粋の領都民というのは、むしろ軽侮の対象だ。後からやってきて大きな顔をしていただけの連中、ということなのだから。そしてエディマもまた、そうした血筋に生まれた、ただの町娘だった。


 生まれつきスーディアで暮らしてきたのだ。用心はしていたはずだ。それでもいざ、ことが起きてしまうと、どうにもできなかったし、どうにもならなかった。

 彼女は伯爵の兵に乱暴され、逆上して剣を奪い取り、衝動的に二人を刺殺してしまった。この世界、当然ながら現代日本より貞操の意味がずっと重い。だが、人の命はずっと軽いのだ。

 本来なら死刑に処されるはずだったが、恐らくは既に本人が絶望しているのを見て、あえて犯罪奴隷として売却したのだろう。もちろん、それは彼女の苦痛を長引かせるためだった。その時、まだ十四歳だったエディマは、この険しい道を通って王都に連れ出され、そこでまた転売された。

 特に逞しいわけでもない彼女の足でも歩き通せた程度の道なら、と甘くみていた。思った以上に道は荒れているし、それに何より暑苦しい。


 なんにせよ、現地出身者の予備情報があるのはありがたい。ただ、エディマは領都出身だから、田舎の方の、本当に閉鎖的な地域のことは、そこまでよく知らない。いずれにせよ、どこも治安が悪いという点では、大差ない。


 諸国戦争の勃発後、平和のための努力はほぼ振り出しに戻った。シモール=フォレスティア、エスタ=フォレスティア、そしてピュリスという外部の三つの勢力が、それぞれスーディアに干渉し、旧来の対立がまたもや再燃したのだ。ここ三百年は、今の王国の伯爵領ということで落ち着いているが、小さな内紛ならいくらでもある。

 そういう土地なのだ。スーディア人にとって、道路とは便利なものではない。外部からの訪問者は、まず敵、略奪者を思い起こさせる。長い歴史の間に凝り固まった敵意が、今も人々を縛り続けているのだ。


 道も険しい。治安も悪い。できるなら、空を飛んでいきたいくらいなのだが、荷物がある。

 剣くらいはデスホークの肉体でも運べるが、金貨やリュックなど、何もかも一式となると、やはり荷が勝ちすぎる。かといって、黒竜に化けると、今度は目立ちすぎるか。


 それに……


 坂道の途中で、俺は後ろを振り返った。

 溜息が漏れる。


 ようやく黒い岩をまわりこんで、坂道に足をかけたところか。歩きやすくもなければ、涼しそうでもない。ピュリスにいた時と同じく、黒い帽子に黒いローブをかぶり、黒い杖を手にしたままの格好だ。ただ、最悪の事態を想定してはいたのか、背中に小さなリュックを背負ってはいる。


 やっぱりついてきた。

 わざわざ王都までやってきた時点で、こうなることは予想できていた。


 タンディラールが王命について知らせた? それともノーラが自分で彼の精神を読み取った? どちらも違うだろう。前者は彼の性格上あり得ないし、後者についても難易度が高すぎる。だが、俺の宿舎の付近に対して『意識探知』を使用し、そこにいる人物の意識に潜り込んでしまえば、行き先だけは知ることができる。

 要するに、俺は王都から西へと向かう馬車に乗り込み、南に逸れるスーディアへの山道に分け入った。ノーラは、俺がスーディア行きの道を進むであろうことを察知した。それで取るものもとりあえず、彼女は急いで俺の後を追ったのだ。


 俺は、あえて彼女を無視している。

 面倒をみてはいけない。俺も経験があるからわかる。歩き慣れもしないのに、いきなりこの山道だ。何日もしないうち、足の裏はマメだらけになる。つらいだろうが、これも彼女のためだ。どこかで脱落してもらおうと思っている。

 だいたい、王の密命で人殺しにいくのだし。俺が自分の怒りのためでもなく、正義や信念のためというつもりもなく、ただ命じられて人を殺す……そんなところに、居合わせて欲しくもない。


 ただ、正直なところ、少し目算が狂っている。

 俺は一年あまりに渡って、西方大陸を歩き回ってきた。自分でも、今ではかなりの健脚だと自負している。その俺に、遅れがちながらも、ここまで食らいついてくるとは。


 ……足を止めている自分に気がついた。


 これではいけない。もっと速く歩いて、もっと距離を広げなくては。ノーラの心をへし折ってしまわなくては。

 それにしても、迂闊だった。どうしてノーラが出発前、あんなに忙しそうにしていたのか。いざという時の自分の不在に備えていたからだ。そして同様に、なぜマルトゥラターレに精神操作魔術の能力を与えるよう意見してきたのか。これも同じだ。自分がいなくても、ブラックタワーの防衛装置を起動できるようにするためだったのだ。

 これくらい、マオ・フーの態度で気付いておくべきだった。俺に手紙を託した時点で。一度はピュリスに帰っても、すぐまた旅立つだろうと、彼はわかっていた。当然、ノーラもだ。だからこそ彼女は彼に弟子入りし、この日のために体を鍛えてきたのだろうから。


 坂道を登り切った。

 彼方を見晴るかす。


 暗い緑色の森が、まるで絨毯のように、連綿と続いていた。その隙間から、黄土色の奇岩が、黒い火山岩が、一切の温もりを感じさせない峰々が突き出ている。

 絶景のはずなのに、心はまるで動かされなかった。それもこれも、この空間を埋め尽くす、言葉にし難い何かの感情……


 眼下に広がる森の中のどこに集落があるのだろう。そこに暮らす人々は、道と道を行く者達にどんな悪意と恐れを抱いているのだろう。

 この道、踏みしめる大地のどこで血が流れたのだろう。それとは知らなくても、この道は悪意の道だ。僅かな商人達の行き来もあるが、その歩みの多くは略奪者、殺戮者の足によるものだ。

 そして、他ならぬ俺自身もまた、この手を血で染めるために、この道を行く。


 血の穢れ、呪われた大地、憎悪の歴史。

 世界は、息を詰めて目を見開く。猜疑心と物欲に駆られた老婆のような表情で。

 不吉な予感。打ち寄せる波のような胸騒ぎ。それも当然なのだ。


 ここはスーディア。

 因縁と怨恨の地なのだから。

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