密命、下る

 雲間から、かすかな星明かりが漏れる。三日月の輝きは頼りなく、それもしばしば遮られる。我が物顔で空を踏みにじる雲達は、太りきった煙のようだ。

 碧玉の月ともなれば、そろそろ春も終わり。フォレスティアは初夏の様相を呈し始める。微風に揺れる草花に違いはなかろうとも、まず変化は頭上に現れる。濁った雲が青空を遮ると、容赦なく大粒の雨を降らせる。そのうちに、かわいらしい黄緑色の柔らかな葉も、ざらついた緑に置き換わっていく。

 今日は一日、幸いにも晴天を保つことができた。明日からはどうだろうか? 頭上の雲は、不安に怯える人々を脅そうとしているかのように身を乗り出す。


 王宮の門には、予め言い含められた近衛兵達が立っていた。俺の腕輪を見て通行を許可すると、また何食わぬ顔で門前に立ち、扉を閉ざした。

 日中は謁見を求める者達が行き来したこの場所。控えめな水音をたてる噴水を迂回して、更にまっすぐ。足下の石畳が、純白のそれに置き換わる。


 いよいよ、だ。

 こんな呼び出し方をするくらいなのだから、きっとろくな話ではない。俺の心の中にも、無数の黒雲が渦を巻いていた。


 謁見の間の入口に立つ。誰もいない。

 赤い絨毯は敷かれたまま。毛羽立った箇所が、僅かに翳をなしている。弱々しい月の光が届くのも、ここまでだ。

 だが、目を凝らせば、ここからずっと遠く、玉座のすぐ近くに、小さな明かりが点っているのがわかる。


 湿り気を帯びた、重い空気が流れた。

 俺は、改めて意を決して、一歩を踏み出した。


 人の気配のまったくない、長い通路を歩く。その果てに、玉座があった。

 左右の照明の間に、座ったまま瞑目するタンディラールの姿があった。それはまるで、死人のように静かだった。眠っているのだろうか。


「……ファルス・リンガ、参りました」


 声をかけられて、彼はゆっくりと目を開けた。


「よくぞ参った」


 その声色には、先の面会の時のような明るさはなかった。


「いきなり本題を切り出してもよいのだが」

「他に何か」

「少しだけ、気持ちをほぐそう。ファルス、よくも私に恥をかかせてくれたな」


 口元に、少しだけ笑みが浮かぶ。

 イングリッドの足止めの件だ。


「今頃は、あちらが怒り狂っているかもしれませんが」

「ははっ、違いない」


 なにせ、結局俺は、タンディラールから直接、黄金の腕輪を与えられてしまったのだ。カウンターパンチとしては、充分だろう。


「シモール=フォレスティアの王宮はどうだった」

「感想ならいろいろあります。何かにつけ形式ばっていますね。それと、今はどういうわけか、王妃がかなり力を持っているようです」

「無理もあるまい。ヤノブルは、父と同じくらい長い間、王位にある。この椅子に座っているとな」


 彼の顔に、皮肉げな笑みが浮かぶ。


「信じられないほど早く年老いるのだ。そのうちに、何も考えられなくなる」

「妃殿下のやりたい放題、と」

「あのヒステリックな女は、普通に相手取る分には、さほどの問題にはならん」

「王太子殿下は、落ち着きのある方でした」


 タンディラールは頷くと、質問を浴びせた。


「あの国がこちらの脅威になると思うか?」

「どうでしょうか。妃殿下の『包囲網』が機能するとは思えませんし、その……あちらの近衛兵の軍団長とも模擬試合をしたのですが」

「ほう、どうだった」


 彼は軽く身を乗り出した。


「将も兵も、信じられないほど軟弱でした。儀礼の役には立っても、戦の役には立たないのではと」

「どこの国も同じということだ」


 溜息をついて、小さく首を振る。


「最も恵まれた場所から腐っていく。だが、強い兵とは、戦場にいる兵だ。こちらも反省せねばならんところだが」

「はい」


 するとタンディラールは鼻で笑ってオマケを付け足した。


「その意味では、最低最悪は帝都だ。あそこの防衛隊は何百年もまともに戦ったことがない。お笑い種だが、奴らが警備しているのは敵のいない陸上ばかりだ」

「えっ、でも、海賊くらいは出るのでは」


 帝都パドマは海に囲まれている。その経済は、東西の交易に大きく支えられている。だから、通商路を妨げる海賊対策は最重要課題に違いないのだが。


「帝都は皇帝の代理だからな。関係各国に海上警備を『命じて』いる」

「はい?」


 一瞬、意味がわからなかった。要するに、軍事を外国に丸投げ、か。


「シモール=フォレスティアからも、海軍が派遣されている」

「こちらは」

「送るわけなかろう。バカバカしい」


 だと思った。しかしそうなると、帝都の海軍をぶつけてくることも……


「帝都に駐留する外国軍は、帝都の行政府の管理下に置かれる。そして行政府は、帝都の立法府の決めた法律に従わねばならん。その法によれば、他国への攻撃は厳禁されている。そればかりか、許可を得ない勝手な移動すら処罰の対象になる」


 ……つまり、帝都に海軍を貸したら、好きに動かせなくなってしまうのか。なるほど、バカバカしい。


「だが、そこにシモール=フォレスティアで最も優れた将軍がいる」


 彼はもう笑っていなかった。


「それも若手だ。今から十年前、学園を出たばかりで、我が国の海竜兵団を翻弄してみせた。あれがそのまま力をつけてきているとなると……」


 腕を組み、瞑目して、彼は重い溜息をついた。


「まだ先の話だが、ペイン将軍には気をつけろ。いずれお前の敵になるかもしれん」


 それは御免蒙りたい。

 っていうか、俺の敵じゃなくて、エスタ=フォレスティア王国の敵だろう? なに俺を戦わせることを前提に考えてるんだ。


「将来、ルターフを補佐する世代が育ってきている。とはいえ、普通に戦えばそうそう敗れはしないだろうが……もし、我が国に決定的なほころびがあれば、どうなるか」


 ただ、タンディラールは、しっかりと現状認識している。

 王妃イングリッドの敵意は、今のところ、幼稚な嫌がらせでしかない。だが、彼らには、潜在的にはエスタ=フォレスティア王国を脅かすだけの国力がある。

 力があって、敵意があるのだ。やはり、油断ならない。


「で、あの程度の連中に、足止めを食ったのか? お前には知恵も力もあるはずだろうに」

「陛下には申し訳なく」

「私のことはいい。それに、意趣返しなら済んでおる。だが」


 まっすぐ座り直し、彼は宣言した。


「この件で確信した。やはり、お前には王者の資質がない」

「逆心などありません」

「無論のこと。だが、王冠があろうとなかろうと、人はそれ自身のみをもって、なお尊くあらねばならん。身分は人臣であろうとも、王たる生き様を内に持たねばならんのだ」


 目を見開き、俺の奥底まで見通そうとするかのようにして。

 彼はいつになく真面目な顔つきで、俺に言った。


「これは私の善意だ。ファルス、お前は貴くあらねばならん」


 軽い驚きを覚えつつ、俺は彼の目を覗き込んだ。

 狡猾なタンディラールはどこへいった?


「答えよ。お前は貴いか」

「……いいえ」

「だから苦しむのだ。それが貧しさなのだ」


 彼には、何が見えているのだろうか。だが、今の言葉は、真実に違いなかった。

 彼の声色は、いかにも苦々しげだった。


 そして目を伏せ、静かに尋ねた。


「……お前の旅は、終わったのか?」

「いいえ」

「そうだろうな。また旅立つつもりか?」

「はい」

「よかろう」


 長い溜息をついて、彼は俯いた。気持ちを整えようとするかのように。


「ならば、宿題も保留だな。すべてを終えたら、またここに戻ってくるがいい。その時、お前が見つけたものを教えてくれ」

「はい」


 しかし、親切なタンディラールは、ここでいなくなってしまった。


「私とて、負い目がないわけではない」


 表情一つで空気が変わる。いきなりこの場は、ありもしないはずの圧力に満たされた。


「だが、今日、お前をここに呼んだのは、王命を果たしてもらうためだ」

「何をお望みでしょうか」

「スード伯を殺せ」


 一瞬、耳を疑った。

 スード伯。スーディアの領主。つまり、ゴーファトのことだ。


 なぜ?

 ゴーファトは、タンディラールにとって功臣のはずだ。内乱の最後に大軍を率いて反乱軍を討ち、彼の戴冠を確かなものにした。重要な同盟者ではなかったのか。

 いや、だからか? 彼は今、玉座に腰掛けている。だが、借りのある相手がいるままでは、堂々とふんぞり返るには具合が悪い。発言力のある人物は、少ないに越したことはないのだ。


「理由を求めるのか?」


 凍りつくような声で、彼は言った。

 俺としては、ゴーファトに対する好意などない。むしろ、嫌悪だけがある。かなり昔の話ではあるが、顔見知りも殺されている。デーテルを性的に弄んだ挙句、地獄の苦痛を与えながら惨殺した件は、今でもはっきり覚えている。要するに、個人的な感情だけでいえば、殺してしまっても何ら問題ない。

 ただ、それは俺の都合であって、彼の立場はまた異なる。忘恩の徒に手を貸すのか?


「一仕事させたら用なしですか」

「そこらの馬鹿者と同じような感想だな」

「ティンティナブリアをどうしたか、みんな忘れてはいませんよ」

「そう言われると思うから、お前に任せるしかないのだ」


 どういうことだろう?

 不思議がる俺に、彼は諦めたように溜息をついた。


「どの道、密命を耳にした以上、秘密の漏洩は許さん。だが、その前にお前の勘違いを正しておこう」

「勘違い、ですか」

「スーディアは、フォレスティア王の頭痛のタネだ」


 なぜだろう? いくらでも理由なら思いつく。

 地理的には、王都にほど近い。つまり、軍事的な脅威となり得る。それでいて、王都側から攻め入る場合、峻険な地形と隘路に悩まされることになる。行軍も補給もままならないのだ。これが一つ。

 全体として山がちで、道も険しい。ゆえに、征服だけでなく、統治が難しい場所でもある。それなりの生産力はあるが、交通の便が悪いために、その富を十全に生かすこともできない。

 それと、スーディアの治安は、昔から最悪だ。恨みの多い土地柄で、殺人事件が頻繁に起きる。強姦程度なら、日常茶飯事だ。

 そういう厄介なところなのだ。力で支配するには旨みが小さく、放置しておくには害が大きい。


「あんな場所を奪い取りたいと本気で考える王がいたら……そいつは気違いだ」

「スード伯は治めていますが」

「スード伯だから統治できるのだ。領土内の紛争を、いともたやすく流血で決着させる。山ほど恨みをかっても意に介さない。そういうやり方に慣れているからこそ」


 そうかもしれない。

 スーディアは、フォレスティアであって、フォレスティアではない。三ヶ国のどこよりも野蛮で、陰湿な場所。マルカーズ連合国に勝るとも劣らない、怨恨の地。もともと人命が軽い場所なのだ。


「だが、ティンティナブリアを王領に組み込んだ直後だ。迂闊なことはできん」

「では、ゴーファトを討った後は、どうなさるのですか」

「無論、奴の甥に相続してもらう」


 ということは、欲得でゴーファトを殺したがっているのではない。

 個人的な恨み? それはない。腹違いの兄への復讐をみても、タンディラールにも陰険なところはあるが、国家の大事をそんな理由で決めたりはしない気がする。

 なら、スーディアに何かの脅威があるのだ。


「では、ゴーファト個人に逆意があると」

「それだけのことなら、私もここまで追い詰められたりはしない」


 深刻な表現だ。追い詰められる? それも逆心どころではない、と。

 確かに、スーディア軍が大挙して王都を襲えば、国家を揺るがす大事件にはなる。だが、そんな反逆が許されようはずもない。もしそうなったら、さすがにフォンケーノ侯も援軍を派遣するし、ピュリスやルアール=スーディアの海竜兵団はゴーファトの背面を衝くだろう。

 要するに、スーディア兵は精強だが、彼らだけで王国の転覆を図るなど、不可能なのだ。


「これまでのところ、十七人」


 低い声で、彼は言った。


「行方不明になった間諜の数だ。そして、辛うじて報告を持ち帰ったのが一人だけ」


 思わず息を飲む。


「スード伯ゴーファトに、パッシャとの密約の疑いあり」

「パッシャ!?」

「お前にはうってつけの仕事だろう?」


 俺には、パッシャとの因縁がある。

 クローマーのピュリス襲撃に始まり、内乱でも顔を合わせることになった。


「では……彼はいったい、何を企んでいるのですか」

「わかれば苦労はない」

「密約の可能性の根拠は」

「見た、というだけだ。パッシャの紋章の描かれた盟約の書状を」


 だが、実物を持ち帰ることはできなかった、か。

 あれば、今頃とっくに、堂々と断罪しているはずだから。


「それを報告した間者も、帰着した時点で既に、毒に冒されていた」

「では」

「死んだ」


 あまりに状況が曖昧だ。

 本当に彼がパッシャと繋がっているのか? これがどこかの離間の策とか、そういうことは? 情報を持ち帰った諜報員も、毒に神経をやられて、おかしなことを口走ったのでは? 考え出すと、きりがない。


「そうだ」


 座り直しながら、彼は言った。


「確かなことは、何もない」

「それでも、彼を殺せと」


 事の是非を判断しかねて、俺は立ちすくんでいた。


「私とて、他の対策を考えなかったわけではない」


 鋭い眼光が、俺に突き刺さる。


「だが、ゴーファトは、今も私の命令をことごとく無視している。王都への召喚も。ルアール=スーディアへの国軍兵の通過も。どれも、もっともらしい理由をつけてはいるが」


 伯爵は、原則として、王の臣下だ。

 ゆえに、王とその配下による領内の通行を禁じることはできない。王の召集命令にも応じなければならない。


「既に半年だ。私の命令を受け付けなくなってから」


 その間に、何かが進行している。

 確かに、放置はできないか。しかも、調査させようと人を送り込んでも、次々に行方不明になる。


「だからといって、表立って動くこともできん……わかるか。付け込まれておるのだ」


 ティンティナブリアを王領に組み込んだ直後に、別の伯爵領にちょっかいをかける……

 そうして立場が悪くなるのは、王の側だ。それと承知しているから、ゴーファトも図々しく振舞っている。ただ功を誇り、傲慢な態度をとるだけならいざ知らず。


「たった一年半前に、この国に何が起きたか、忘れたわけでもあるまい」

「フミール王子も、その周囲も、パッシャに」

「連座した貴族は、片っ端から処断した。そうせねばならん。なぜなら、パッシャの望みは、破壊だけだからだ」


 クローマーが俺になんと言ったか。


『望むのはただ、破滅だけ。自分自身を生贄に捧げてでも、この絶望をそのまま憎むべき敵に味わわせてやりたい。だが、力が足りない。残された時間もない。そんな哀れな者達に……我々組織は、唯一の救済を与えるのだ』


 その他の活動は、すべてはこの目的を果たすための手段でしかない。

 強欲な貴族に仕えもする。凄腕の傭兵を接待もする。だが、それらはすべて、組織の力を高めるための活動だ。そうして集めた力を何に使うのか? 何の収益も生まないのに、あえてコストを支払う活動とは何か?


 復讐だ。

 パッシャがこの国を掌握した場合に実現しようとするのは、世界の破滅だ。富や権力を楽しむためではない。ましてや、世界をよりよくするなど、あり得ない。


「無論、すべてが勘違い、ないし何者かの謀略かもしれない。だが、事態は深刻だ。それでなくてもゴーファトは力を蓄えすぎた。決定的な証拠が得られるのを待っている余裕はない」


 王位争奪戦を決定付けた武力。

 確かに、スード伯の地位と権威は高まりすぎてしまった、か。疑惑が事実であろうとなかろうと、もはやゴーファトは、王にとっての目の上のたんこぶなのだ。


「わかりました。でも、どうして僕なんですか」

「理由は三つ。一つには……お前の武力に頼りたい。ゴーファトは、あれで一流の武人だ」


 だから先日、ベルノストとの試合をアルタールに見せたのだ。

 アルタールは戦士としては一流だ。だから、俺の力量が尋常でないことには、すぐ気付いた。


「二つ目は、こういう時のための人材に逃げられてしまったから、だな」

「えっ」


 タンディラールが、いつものあの、狡猾そうな笑みを浮かべる。それでピンときた。


「キース……!」

「そうだ。考えてもみろ。あんな男に軍の指揮官が務まるか? 使い道など、他にあるまい」


 だが、彼は傭兵を辞めた。なのに、殺し屋なんかになるなんて、受け入れるはずもない。

 そういう使われ方をするとわかっていたから、タンディラールの手を払いのけたのだ。


「だが、思った以上にすぐ必要になってしまった。これはもう少し、報酬を弾んでおくのだったな」

「それで僕ですか」

「三つ目。これが一番大きい」


 そう言いながら、彼は懐から手紙を取り出した。


「読んでみろ」


 そこには……


『気高きフォレスティスの王統に祝福あれ! そのとこしえに称えられんことを。

 至高の玉座を占める御方、敬愛すべき王よ、私は何より王国の臣下であり、その分限を忘れたことはございません。

 けれども同時に、私はかつての友情をなくしたとは思いたくないのです。


 思い出してください。

 私は、いついかなる時も、陛下の友に相応しくあろうとしてきました。

 また、たとえ陛下が私を打ち捨てようとも、私は泥の中からあなたの尊い影に拝礼するでしょう。


 けれども、私には逃れがたい望みが付き纏っているのです。

 私は王を崇拝する信徒でありながら、美に屈する虜囚でもあります。

 どうか哀れんでください。

 ああ、信じがたい愚かさです。

 許されざる過失ではございますが、どうか譴責なさいませんように。

 私はいついかなる時にも、二つの望みにこの身を引き裂かれているのですから。


 ところで、私の日々がいかなる悲しみに包まれているか、ご想像いただけますでしょうか。


 しばらく以前より、私の双眸は、何も役にも立たなくなってしまいました。

 夜明け前の白いほむらが山々の端を彩るのを、フリンガ城の尖塔から見守ろうとも。

 私の狩場の眼、夏でも冷たく澄み切った水を湛える、あの妖精の楽園を眺めようとも。

 もはや、私の心は何の感動も覚えなくなってしまったのです。


 無論、手近なところに慰めを求めはしました。

 けれども、それが何の役に立つというのでしょう?

 かつては好ましいとさえ思った妖精達の奉仕ですら、今の私には蝿がたかるようにしか見えません。

 真の美が私を顧みることなく、遠くへ遠くへと去っていくのを思うと……

 してみると自分は蛆虫の餌、所詮は路傍の糞便の如きものと悟るほかないのです。


 このような日々の懊悩が、私を病床に釘付けにしたのは、もはや語るまでもありません。

 陛下にお目見えしたい気持ちはやまやまながら、この身はスーディアの山塊より重いのです。

 もはや私が救われるには、ただ一つの奇跡を授かるほか、ありません。


 陛下は以前、私の切望に応じてくださいました。

 本来なら、片思いさえ許されない貴き家の少年達が、私にひとときの夢を見せてくれました。

 けれども、その恋は、いつか終わりにしなければならないものでした。

 いたましい、実にいたましい!

 喜びが大きければ大きいほど、悲しみもまた深いものです。


 そんな中、たった一つの希望が、大きな光の翼になったと知らされました。

 かの少年が、遠い西の果てにて、竜を討ったとのこと。

 なんということでしょう!

 どうして以前の私は、とっくに承知していたはずの恋慕の情を、自分で抑えるような真似をしたのでしょうか。


 待っていてはいけなかったのです。

 美しい季節は、あっという間に過ぎ去ります。

 その後には、長い長い腐敗と堕落の時間が残るのみです。

 いいえ、いいえ、そんなことがあってはなりません。

 美は永遠でなくてはならないのです。


 かくなる上は、もはや陛下の御厚意に縋る以外、私に道はありません。

 ご存知の通り、スーディアの獅子は、百の刃も千の矢も恐れません。

 けれども、たった一つの魂が枯れ果てれば、あっという間に息絶えるのです。

 どうか、ただ一言、かの美の体現者に、一刻も早い旅立ちを命じてください。

 私は喜んで、手にするすべてを差し出すでしょう。


 忠実なる臣下にして永遠の友 ゴーファト』


 彼が何を欲しているのか、わからなかったら嘘だ。

 寒気が走った。


「私の命令は一切受け付けないのに、ぬけぬけと要求だけはしてきた」

「だから行けと」

「黙って行かせてもよかったのだぞ? そうすれば、きっとお前は殺してくれるだろうからな?」


 言われてみれば、その可能性もあったのか。

 確かに、奴の玩具にされて……心に傷がつくだけで済めばいいが、体にも傷を残すことになったら。なにしろ、奴はことのほか『手術』が大好きなのだから。


「だが、貴族殺しは大罪だ」

「今回は、王命でしょう」

「謀反の証拠でもあれば別だが、それがない以上、ただの殺人だ。密命だからと、お前を庇ってやることはできん」

「では」


 口角を上げながら、タンディラールは告げた。


「その通りだ。奴を討て。但し、証拠が見つからなければ、お前がしたと知られてはならん。そして、証拠探しに時間を割いている場合でもない」


 かなりの無理難題だ。

 ゴーファトを殺す。彼の居城、彼の支配する土地で。しかし、俺が殺したという事実は、誰にも知られてはならない。普通の人なら、匙を投げるような難問だ。


「仮に僕のやったことだとなったら、どうしますか?」

「その場合は、形だけだが、お前を捕縛しようとせねばならん。だから、逃げ延びよ。だが、どんなに短くとも、十年以内に再入国できるとは思うな」

「投げ出したら?」


 すると彼は、不思議なものを見るかのように、首を傾げてみせた。


「尋ねる必要があるか?」


 やっぱり、か。

 リンガ商会、そしてそこに関わる人達みんなが犠牲になる。


「この前といい、脅すしか手がないんですか」

「そうでもない。万事うまくやりおおせたら、それなりには報いてやろう」


 俺に睨まれてもどこ吹く風、彼はあくまで涼しげな顔をしていた。


「この後は、どこを目指す」

「サハリアです。ムスタム経由で、人形の迷宮に」

「わかった。ルアール=スーディアの軍港に、船を手配させる」


 どうする?

 考えるまでもない、か。


 俺なら、完全犯罪が可能だ。そして標的は、同情の余地もない極悪人。それなら、ただ肉体を奪って捨てる。それだけだ。なんなら、奴が愛してやまない妖精の泉にでも、その死体を浮かべてやろう。


 ……だというのに、なんだろう? 胸の奥に残る、この違和感は。

 だが、拒否という選択肢などない。


 タンディラールを消すよりはマシだ。彼が今死んだら、エスタ=フォレスティア王国はまた内乱状態になる。あのグラーブに、今すぐ王様の仕事など務まるはずもない。ましてや、ゴーファトが怪しげな動きをみせているのなら、尚更だ。パッシャがしゃしゃり出てきて、また大勢の人が死ぬ。

 殺人に罪悪感をおぼえないわけではない。だが、ゴーファト一人の命と、タンディラールの死に巻き込まれる大勢の命と。後者の場合は、無辜の民が犠牲になる。

 そしてもちろん、ゴーファトもタンディラールも殺さないとすれば、今度はピュリスにいる知人が罰を受ける。ノーラならある程度は抵抗できるだろうが、それもまた、無関係の市民の犠牲を伴う形になってしまう。


 熾火のような怒りが、真っ黒な俺の心の狭間から、呻き声をあげた。


「一つだけ」

「なんだ」

「次にこういう手を使ったら、理由の如何にかかわらず、今度こそお前を消す。これが最後だ」

「よかろう」


 俺は背を向けた。


「幸運を祈るぞ」

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