エンバイオ家の政変事情

「わぁぁ! ファールースー!」

「これ! お嬢様!」


 勝手知ったるエンバイオ家の元別邸。今は本館か。

 オレンジ色のタイルが床を埋め尽くす中庭で、リリアーナはウズウズしながら俺を待っていた。で、姿が見えるとガバッと手を開き、勢いよくダイブ……その首根っこを、ナギアに抑えられている。

 見ない間に、随分と背が伸びたものだ。それに、ますます華やぎに磨きがかかった気がする。

 ナギアとは対照的に、天然パーマ気味の金髪。白と黄緑色のふんわりしたドレス。それに、ワンポイントとしての赤いリボンが右側に。彼女には、パステルカラーがよく似合う。


「わぁ、わぁ、わぁ……」

「お嬢様、ご無沙汰しております」

「お帰りなさい!」


 エンバイオ家に戻ってきたわけでは……


「お嬢様、そこは『ようこそ我が家へおいでくださいました』と言うべきところです」

「えー、いいじゃん、ファルスだし」

「よくはございません。立場とけじめというものが」

「いいよねー? ファルスー?」


 にしてもナギアも「子供のままでいさせてあげて」とか言っておいて、しっかり大人の対応を要求してるじゃないか。

 まぁ、ロジックならわかる。彼女はリリアーナの近侍なのだ。サフィスにとってのイフロースのようなもので、つまりは厳しく主人を律するのも仕事のうちなのだ。


 そう考えると、彼女の俺に対する怒りのような気持ちも、わからないでもない。

 リリアーナのことを考えるなら、誰かは嫌われ役になってでも、口やかましく諌言をぶつける必要がある。一方で、彼女がどれほど愛情に飢えた日々を過ごしているかも理解している。甘やかしてくれる人が必要なのだ。そして、この二つの仕事は、なかなか兼任しづらい。

 車輪の片側が勝手にいなくなってしまったようなものだ。どうしてくれる、と思うのも、無理はない。


「ああ、うう」


 もどかしそうに手をバタバタさせている。

 溜め込んだワガママがいっぱいある。そのうち、どれから外に出せばいいのか、わからないのだ。

 微笑ましい、という気持ちと、不憫だ、と思うのと。それが同時に胸を満たした。


「わぁっ!」

「あっ」


 一瞬の隙をついて、結局リリアーナは、俺の首根っこにかじりついた。

 こうなっては後の祭りだ。


 それから数十分……


「ぷっ、くくくっ、あ、あなた……案外間抜けなのね」


 役目も忘れて、ナギアは口元を押さえて笑いをこらえていた。

 なるべく楽しい話をしようと決めていたし、本当にヤバい話題……魔宮での戦いとか……は絶対に口に出せない。だから、一番話しやすかったのが、タリフ・オリムでの日々だった。


「無理やり飲まされてひっくり返るとか、他にどうしようもなかったの?」

「毎晩、あのノリだったから、逃げられなくて」


 あの時は災難そのものだったが、ガイのおかげで今、こうして楽しい話に仕立てることができている。

 女神の壁の真下で寝泊りしてました、宿屋を追い出されました、なんて話を細かく伝えると、つらくて惨めなストーリーになってしまう。それは本意ではないので、善意の男と、その破天荒な生活は、格好の材料になった。


「もう、理解できない。なんで酔っ払うとツルハシで何かを叩きたくなるのか」

「でも、ファルスもツルハシ、もらったんでしょ?」

「一応、小さいピッケルみたいなやつを」

「へー」

「あなた、変態にならないでね? お願いだから」


 何を言う。ツルハシはいい道具だ。使い手がしっかりしていれば問題ないはずだ。


 さて、あとは、何の話をしようか。

 タリフ・オリムのネタが尽きたら、今度はマルトゥラターレのことをサラッと省いて、ロイエ市での貧乏生活を、なるべく面白おかしく伝えてみるか。


「変態……うーん」

「なに? 何かあったの?」

「いやね、女性を襲う変態を捕まえたんだけど、あの街で」

「お手柄だね!」

「誘い出すために、僕、女装までして」

「あなたが変態になってるんじゃない」

「きゃはは! ねぇ、どんな格好だったの?」


 笑い事じゃないぞ?

 その当の変態が、まさかピュリスに流れ着いていたなんて。


 あれからまた、罪が加算された形で、別の土地に犯罪奴隷として送り込まれたらしいけど。

 マハブは犯罪者ではあるけれども、実は案外、実際にひどいことはしていない。服をズタズタにしているので、器物損壊罪となる。だが、傷害も窃盗も殺人も強姦も、何一つしていないし、するつもりもなかった。これでは死刑にもしづらい。変態とは、まったく度し難く、また実に扱いにくい代物なのだ。


「うぇっ、ム、ムシ? 虫を料理にしたの? しかも王様に?」

「う、うん、カミキリムシの幼虫をね」

「へぇ!」

「お嬢様、気持ち悪いと思わないんですか!」

「さすがファルスだね!」


 こういうところ、ナギアはダメらしい。だが、リリアーナは割とボーダーレスだったりする。むしろ興味津々だ。

 当然ながら、フォレスティアでも、昆虫食は一般的ではない。死ぬまで一度も虫を食べない人が、大多数だろう。


「そうだ! ねぇ、ナギア」

「なんでしょうか」

「私も虫料理食べたい」

「お嬢様!」

「ねぇ、ファルス、作って」


 無茶だ。

 今は春。カミキリムシの幼虫は、そうそう見つかるまい。


「申し訳ありませんが、王都の近くには大きな森もなく……東側の森まで出かけて戻ってきたら、それだけで一日潰れてしまいます。それに、季節柄、そうそう目当ての虫がいるとも限りません。種類によっては、ひどい臭いのものもあるので、ちゃんと選ばないといけないのです」

「えー」


 ほっと胸を撫で下ろすナギアと、残念そうなリリアーナ。

 こういうところは変わってないな、と思う。


「じゃあさ」

「はい」

「私もお料理、作ってみたい! ね、いいでしょ? 今から晩御飯作ろうよ!」


 どうしよう、と一瞬思ったが、問題ないか。この後の予定もない。

 彼女としては、昼に簡単にパンとお茶を口にして、雑談だけで俺が帰ってしまうのでは、つまらないのだろう。


「よい考えだと思いますが……お嬢様?」

「う、ナギア、なに?」

「お嬢様は今まで、一度も料理をしたことがありませんでしょう?」

「そ、そうだけど」

「ゆっくりやればいいでしょう。僕がいるので、簡単なものを丁寧に作ればいいんです」


 但し、包丁はあまり持たせないほうがよさそうだ。


「じゃ、やろう!」


 そうと決まれば、早速行動だ。

 しかし、この場合、買い物に出かけるのはナギアの役目となる。俺は仮にも客人だし、リリアーナは主人だ。そして、どういうわけか、館の中には人影がなかった。


「そういえば、お嬢様」

「なぁに?」

「使用人の姿が見えないんですが」


 ナギアが出かけてから、俺はポツリと尋ねた。


「うんー、いないからねー」

「はいっ!?」

「今日は自由ってことで、外に出したんだよ」

「ああ、なるほど」

「そうじゃなくても、私達以外だと、三人しかいないけど」


 三人!?

 ちょっと、さすがにそれは切り詰めすぎだろう? 仮にもサフィスは建設大臣なのに、そんな僅かな下僕だけでやっていけるのか?


「家庭教師もみんな、辞めてもらったからね。だから、今じゃ私も、偉い先生のところに通うようになったよ」


 教師だけでなく、普段の食事など、多くの部分がアウトソーシングされるようになったのだろう。


 ただ、それで影響は?

 プライバシーの覗き見だとは思いながらも、ピアシング・ハンドでリリアーナを確認した。なるほど、昔は生えていなかった音楽関係のスキルが伸び始めている。


「お父様も、ここにいないから」

「そういえば、叙任式でも、見かけませんでした」

「レーシア湖の水門の工事でずっと向こうだからねー」


 そういうことか。王都近辺の平野部に用水路を敷く、その大計画を引き受けていたんだっけ。


「大変ですね。だからこちらが手薄だと……でも、どうしてそれなら、ここに」


 一緒に父の傍にいたっていいはずなのに。

 いくらなんでも、まだ十歳の娘が、父の名代を務めているなんてこともないのだろうし。


 そこで、彼女の微笑みにうっすらと翳が差した。


「いないほうがいいから、かな」

「えっと、あの」


 しまった。

 言わないほうがよかったか。


「平気だよ。どうせ話そうかなって思ってたし」


 内心で慌てる俺に先んじて、彼女はそう言って微笑んでみせた。

 すっと中庭の椅子から立ち上がる。建物の上に四角く広がる青空を見上げるようにして、彼女はゆっくりと彷徨い歩いた。


「まずはね」

「はい」

「もうすぐ、カーンさんがお辞めになるの」


 もう?

 イフロースの片腕だった男。あのカーンが家宰をやめる? 彼が辞めたがったというより、周囲が追い出したというニュアンスを感じる。

 だが、彼は彼なりに職務には忠実だった。あの内乱の際にも、郎党を率いて王都に急行し、リリアーナやウィムを保護するのに役立った。追い出されなくてはいけないほどの過失が、どこにあったというのだろう。


「何が問題になったんですか」

「何も。代わりの人が家宰になるから、やめになるだけ」

「その代わりというのは?」


 じっと俺を見てから、リリアーナは小さな不機嫌を滲ませた。


「ルードだよ」

「え……ナギアのお兄さん?」

「そ。まだ十五歳になるかならないかなのに」

「え、でも、待って。待ってくださいよ。貴族の、それも大臣の家を取り仕切るんですよ? 腕輪だってもらうんでしょう? だったら、先に帝都の学園に通わないと」


 フーリン家は、代々エンバイオ家に仕えた騎士階級の家柄だ。だから、余所者のカーンを押しのけて家宰になるのは、そうおかしなことでもない。ただ、明らかにルードは未熟だ。早熟の天才として知られる誰かさんならいざ知らず。プラスに見積もっても、そこらにいる普通の青年でしかないのだろうに。

 だが、リリアーナは小さく首を振った。


「待ちたくないみたい」

「でも、あとで笑いものになりかねませんよ」

「大臣の側近としては、そうだね。でも、田舎貴族の執事なんて、そんなものだよ」


 要するに、ピュリスから撤退したエンバイオ家では、よりグローバルな視点を持った人材が失われ、田舎根性丸出しの、昔ながらの下僕ばかりが残ってしまったのだ。山間のトヴィーティアからわざわざ帝都に留学する人なんて、普通は領主様くらいなもの。執事なら不要だろう、と考えてしまう。


「閣下はなんと?」


 カーンを失うなんて、またもや損失ではないか。

 イフロースがトヴィーティア送りになった今、他に頼れる部下などいないだろうに。


「止められなかったって」

「そんな」

「傍にいる召使が全員揃って、ルードと交替させてくれって訴えてきたんだって」


 ひどい。

 確かに、イフロースと同じく外様である彼だ。支持基盤があるとすれば、もうとっくにクビになった人達、例えばイーナ女史みたいなのがそうだった。

 だが、一方で、既にカーンをその地位に据えておく必然性も失われていた。ピュリスの私物化計画もなくなったし、サフィスが大臣になってからしばらくの間のゴタゴタを乗り切るところも済んでしまったし。そうなると、過去、彼が総督官邸の権力を背景に繰り返してきた脱税まがいの交易が、かえって伯爵家の古傷になる可能性もある。


「じゃ、カーンさんはこれから、どうするんですか」

「マルカーズ連合国の南側出身だってことだから、そちらに奥様連れて帰るみたい」

「奥……メイド長も?」

「もうメイド長じゃないけどね」


 家内政治の結果、か。

 カーンに近付きすぎて、彼女もまた、居場所を失った。では誰がメイド長になったのか。尋ねるまでもないだろう。


「じゃあ、つまり、ルードは『新メイド長』の補佐を受けながら、エンバイオ家を取り仕切る、と」

「そういうこと」

「務まるんですか」


 リリアーナの顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。


「本当のところは……ほら、帝都の学園って、貴族なら、成績がものすごく悪くてもなぜか入学試験に合格しちゃうんだけど、騎士階級だと、それなりの点数が必要だから」

「いや、でも、話に聞いた限りじゃ、あそこの試験の難易度なんて、たかが知れてるかと」

「ファルスにとってはそうだけど……ううん、ナギアにとってもそうなんだろうけど、ルードにとっては……」


 お馬鹿すぎて、落っこちるかもしれない。

 だから、余計なミソをつけないようにと、就任を早めた。


「だから、この本館のほうには、あっちで居場所がない人がいるって感じかな。お料理も普段は外注だし」

「ナギアも……」

「そうだよ。お母さんの、ほら、ランさんが、変な縁談ばっかり持ち込んでくるから。ナギアにとっていいお話ならいいんだけど、もうあからさまに悪いお話だらけで。近くにいたら、断りきれないし、ごまかせないからね」


 かつては、ナギアがリリアーナを庇おうとしていた。今は逆だ。

 ここでお嬢様にお仕えするという名目を与えて、匿っている。そしてランからの命令を、リリアーナが握り潰しているのだ。


「でも、そんなところで、閣下はお一人で」

「うん、心配だね。この前、久しぶりに顔を見たけど……お酒を飲みすぎてるみたい。それにね」


 儚げな微笑を浮かべて。けれども、その手は固く握り締められていた。


「あっちの別邸には、いろんな女の人が出入りしてるらしくって」

「それは」

「レーシア湖って、貴族の保養地だもん。あそこは昔からフィエルハーン家がそういう商売をやってるところだから、ある程度は……付き合いで、ってのもあると思うんだけど」


 ジャルクか。

 奴がどうして宮廷内で隠然たる権力を保っていられるのか。王の私的領域にずかずかと踏み込む無遠慮な態度が許され続けるのはなぜなのか。

 こういう利権をがっちり握って、手放さないからだ。ついでに、貴族達の欲と恥もしっかり掴んでおく。えげつない。


「でも、だけど、その」

「うん」

「てっきり、閣下は、その、奥様のことを」

「うん」


 頷くと、リリアーナは言った。


「そうだと思うよ。今でも、すごく大事に思ってると思う」

「だったらどうして」

「つらいからじゃないかな」


 つらいから。

 だから、酒に溺れ、女に狂うのか。だが、貴族の立場を別としても、一家の父親として、それで許されるのか。


「私の顔も、お母様を思い出すからって」

「そんな」

「いいよ。私は怒ってない。悲しいのは同じだし。いつか元気になってくれれば」

「お嬢様……」


 サフィスはサフィスなりに、頑張ったのだろう。だが、駄目だった。

 愛娘の顔を見ると、どうしても亡妻の姿が目蓋に浮かんでしまう。それを咎めるのも、酷というものか。


「ただ、お酒を飲みすぎるのと、あとは……ウィムのことが」

「やっぱりレーシア湖に?」

「ラン達に囲い込まれてるからね。将来が心配」


 あの害毒どもが。

 けれども、俺に彼らを軽蔑する資格があるだろうか。


「……僕に、何かできることはありますか」


 といっても、あまり思いつかない。

 人殺しなら簡単にこなせるこの身だが、いったい何をもって人を幸せにできるというのだろう? 自分の無力さがもどかしい。


「幸せになって欲しいかな」

「えっ?」

「ナギアとね、ファルス。二人とも幸せになってくれたら、もう、大満足だよ」

「僕はお嬢様のために何ができるかを訊いたんですよ」

「うん、でもね」


 新たに欲しいものなど、何もなかった。

 彼女の花は、いつでも過去に咲いているのだろうか。


「私はもう、たっくさんもらってるもの。貴族に生まれて、充分に大切にされて。どんなに恵まれてるか、わかってるから」

「ですが、持っていないものだって、たくさんあるじゃないですか」

「うん。だから、それをナギアとファルスが手に入れてくれれば、それでいい」


 彼女の闇は、やっぱり何もなくなってなどいなかった。

 自分自身については、どこか自暴自棄になっている。


 だけど、俺に彼女の望みをかなえるなんて、できるのだろうか。

 幸せになる。リリアーナが思い浮かべるような。それは地平線の彼方にだって、見つかり得ないものだ。


「大丈夫」


 手で太陽を透かして仰ぎ見ながら。


「貴族の娘なんて、結婚した相手で身分が変わっちゃうものだもの。だから、そんなものにしがみついて生きるのはやめようって、ずっと前から思ってる」


 いつの間にか、リリアーナも成長していた。

 そういうことだ。今でも甘えるし、甘えたがるけれども、もうそれだけではない。


「気持ちの準備はできてるから」


 俺に振り返り、静かにそう言った。

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