グルービーの娘
「六番……これも変化なし、と」
ピュリスの自宅の地下室にて。
メモを取りながら、俺は実験結果の意味を考えていた。
もうすぐ翡翠の月も終わり。もうすぐ碧玉の月に差し掛かる。そのせいもあって、地下室もジメジメと湿気っぽい。ただ、随分と温かくなった。朝方に感じるのも冷たさではなく、爽やかさだ。
その、気温の上昇は、ある現象をもたらすようになる。腐敗だ。
そしてこの腐敗こそが、俺の実験の対象となっている。よって、湿気でいっぱいの地下室は、悪臭にも満たされている。俺はジョイスに、地下室への立ち入りを厳禁したが、これでは禁止されなくても、誰も近寄ろうとは思わないだろう。
自分で作り出した、薄暗い魔術の炎の下で、俺は唸った。
「うーん……」
わからない。
多分だが、実験はほとんど失敗だ。
俺が知りたかったのは、腐蝕魔術の原理だ。
最上級魔術に相当する『腐蝕』の効果なら、既に知っている。実際に大勢の被害者を見てきたのだから。あれを食らうと、何もかもが溶ける。皮膚も、肉も、骨も……それどころか金属製の鎧ですら、容赦なく破壊される。
では、腐蝕魔術とは何なのか。物を腐らせ、破壊するための魔法なのか。もしかして、化学反応を惹き起こすとか?
それを確かめるために、初級の魔術を試すことにしたのだ。
害が小さそうなものを選んだ。『反応促進』『反応抑制』『反応阻害』といった、よくわからない名前の魔法だ。それらを、食品街で仕入れてきた生肉や野菜相手に行使してみたのだ。
俺の仮説では『反応促進』は食材の腐敗を促進するはずだった。逆に『反応抑制』『反応阻害』では、そうした変化は遅くなると思われた。
だが、実際にやってみると、どれも大差なかった。並べられた肉や野菜は、どれも水気を失って萎れるか、濁った色の汚い何かに変わり果てていた。魔術を用いていない、比較対照用の肉もそうなっていたので、これでは違いがわからない。
一応、収穫が皆無ということもない。ピュリス郊外の野原で捕まえた虫けら。これらにも同じように魔術を用いてみた。結果、魔法を浴びた虫は、すべて死んでいる。ただ、即死ではない。夜が明けたら死んでいた、という具合だ。一方で、何もされていない虫だけが元気に跳ね回っている。
ただ、これらは捕獲に手間取ったのもあり、いかんせんサンプル数も少なく、本当に魔法のせいなのかどうかが判然としない。しかも、どういうプロセスでそうなったのかの説明が一切ないから、本当に判断に苦しんでいる。
「仕方ない、か」
そろそろ、自由に使える時間もなくなりつつある。
タンディラールに召喚されれば、俺は一度は王都に出頭しなくてはいけない。無視してムスタムに渡ろうものなら、あとが大変だ。
「なんとか、実用レベルに持っていきたかったんだが……」
いくら強力な魔法とわかっていても。腐蝕魔術は危険すぎる。下手に使うと、無差別攻撃になってしまうのだ。
だから、せめて原理原則を理解し、どうすれば使いこなせるかを見極めてから実戦に投入したかった。
しょうがない。切り上げよう。
そう考えて、壁に吊るしたランタンに目をやった。油をケチって、魔術で火を点し続けておいた。『消火』で消せばいいのだが……
ふと、悪戯心がわいてきた。
これに『反応促進』をかけたら、どうなるだろう?
危険、と考える前に、俺は先に詠唱してしまっていた。
「おわっ!?」
ボウッ、と一瞬、激しく燃えてから、そのままくすぶって、消えてしまった。
「なんだ、今のは?」
反応を促進したから、燃焼が進んだ、とか?
今、明らかに変化があった。
もう一度。
小さく魔術の炎を点してから、今度は『反応抑制』だ。
逆に、細く長く燃え続けるのだろうか?
ところが、詠唱が終わると、じりじりと火の勢いが弱まって、最後には消えてしまった。
「ふむ……」
結局、どちらを使っても消えるのか。
しかし、何がどう作用して、こういう結果に繋がったのだろう?
じゃあ、最後に『反応阻害』は、どうなる?
結果はすぐに出た。
ほぼ瞬間的に、火が消えてしまったのだ。
「これっ……!」
すごい。
もしかして、魔法を妨害できる?
じゃあ、例えば……
俺は、すぐ後ろの木の桶の中に閉じ込めておいた虫けらを引っ張り出した。
手の中で暴れるが、これに『麻痺』の魔術をかける。かわいそうに、動けなくなってしまった。
「これで、動き出したら……」
期待を込めて『反応阻害』を詠唱した。だが、何も起きなかった。
相変わらず、虫けらは麻痺したまま、動けずにいる。
「なぁんだ。無条件に魔法をキャンセルするわけでもない、か」
やっぱりよくわからない。
それでも、何度繰り返しても火魔術は掻き消された。最後の最後で大発見はあったわけだ。
「片付けよう」
俺は、実験に使った肉や野菜……だったものを、予め金物街で買い込んだ金属の小箱の中に収め始めた。もちろん、素手で触れるなんてしない。トングで拾い上げる。それらの小箱は、砂利を詰め込んだ大きな箱の中に順序良く詰め込まれていく。申し訳ないが、虫にも棺桶に入ってもらう。
腐蝕魔術の危険性がはっきりしない現状では、「汚染されたゴミ」は密封して廃棄しなくてはいけない。この、重い箱を家の外に持ち出すまでは俺がやるが、最終的には、これはピュリス郊外の空き地に、地下深く穴を掘って封印する。
既に数日前から人夫を雇って、穴掘りはしてもらってある。あとは埋め直すだけだ。ただ、これも人手がいるので、片付けの際にはノーラに一声かけることになっていた。
この程度のこと、リンガ商会の下っ端に伝えれば、サクッと片付くと思うのだが……
なんであれ、直接自分に言ってくれとノーラが要求するので、仕方ない。本人は忙しくてたまらないはずなのに。
ブラックタワーに立ち入ると、三階の階段の上で、エディマが受付を担当していた。
「あーっ、会長、お疲れ様です」
「会長ってなに」
「え? だって会長でしょ? ちなみにノーラさんは副会長」
俺がいない間も、ずーっと副会長の肩書きで仕事をしてきたんだろうか。
「ま、いいけど……ノーラは? 例の件で」
「ああ、えっとね、今は面接中?」
「やっぱり忙しいか。また後で」
「ああ、もうすぐ終わると思うから、じゃあ、こっちで待てば」
手招きされて、俺はついていく。
案内されたのは、四階のとある小部屋だった。
「ここは?」
「シッ」
唇に指をあててから、エディマは俺の耳に口を寄せた。
「ここ、裏だから。壁薄いし」
「裏?」
「この裏が、面接用の応接室」
つまり、ここで面接の様子を窺えば、終わったタイミングで声をかけられる、か。
「わかった。ありがとう」
「じゃね」
小さく手を振って、エディマは去っていった。
俺は薄暗い室内から、隣の様子に耳を傾ける……
「ですのでぇ、副会長様にも、私の夢を応援していただければとぉ」
いきなり、媚びっ媚びの甘ったるい声が聞こえてきた。女?
「大変結構ですけれども」
抑揚のないノーラの声。
鉄面皮といってもいいかもしれない。一切の感情が読み取れない口調だ。
「リンガ商会の直営店で働くとなれば、どなたも最初は、外縁部のお店からのご案内となります。例外は設けていませんので、そこはご了承いただけますか」
「えーっ」
「先ほども、帝都でご経験もあるとのことでしたし……自信がおありであれば、あとは売上に応じて、毎月格付けは変わります。それで手取りも変わってくるかと思うので、結果を出せば問題ないかと」
何の話だろう?
「でも、早いほうがよくないですかぁ? それにほら、私ぃ、ピュリスにない物を作ろうとしているわけですしぃ」
「志は大変結構ですが、副会長自らルール違反を許してしまいますと、誰も納得してくれなくなりますから」
「……会長様は、今日はおいでではないんですかぁ?」
ちょっと。
何を言ってるんだ、この女は。顔も見えないけど。いきなり、なんなんだ。
「会長は、別の重要な業務に取り組んでおいでです。申し訳ございませんが、面接には来られません」
「きっとわかっていただけると思うんですがぁ」
はっきりとはわからない。顔も見てないから、確定ではないが、これ、きっとノーラは苛立ってるな。
途中からだから事情は判然としないものの、面接相手のこの女は、直接俺に取り入って、最初からいい待遇を受けようとしている。だが、けじめを大切にするノーラとしては、そういう考え方自体が唾棄すべきものだ。
「副会長様も、見てみたくはないですかぁ? 帝都では今、南方大陸風の料理店が、もんのすごく流行ってるんですよぉ」
「存じておりますよ。ただ、やってみるのであれば、自己資金で開業なさればよいかと思います。それと、あなたのアイディアはお伺いしましたけれども、リンガ商会が先んじてシュライ風の飲食店を開業する予定はございませんから、ご安心ください」
溜息混じりにノーラはそう言った。
「とりあえず、リーア・シーネラより、今後の案内があるかと思います。下の三階にて、手続き致しますので、少々お待ちください」
「はぁい」
やっと終わったか。
ややふて腐れた雰囲気を漂わせながら、面接相手の女は席を立って去っていった。
足音が遠ざかるのを待って、俺は部屋の扉を開けた。
ちょうど、廊下に出たばかりのノーラと鉢合わせた。
「あら、ファルス」
「お疲れ様」
一瞬、足を止め、彼女は右、左と周囲を確認した。
誰もいないとわかると、俺を抱きすくめて、さっきの部屋に雪崩れ込んだ。
「ちょ、ちょっと」
扉を閉めると、戸惑う俺を無視して、グリグリと頭を押し付けてきた。
「ふぅ、疲れた」
消耗した何かを俺の胸で補給すると、やっと彼女は一息ついた。
「なんか、聞いてたけど、さっきの面接」
「最近、あんなのが増えて、困ってるわ」
軽蔑の色を隠しもせず、ノーラは吐き捨てた。
「あれ、なに? 何の仕事の面接?」
「直営店よ」
「何の直営店?」
少し間をおいてから、ノーラはポツリと言った。
「風俗店」
「えっ」
「もともと、ファルスが旅に出た時点で、ガリナ達が仕事してたでしょ? で、最初はウーラやステラを解放して、店長にしようかとも思ったんだけど、そうすると変な人間関係になるかもって思ったの」
それはわかる。
身分差、そして管理する、されるという関係性になると、どうしても以前のままとはいかなくなる。
「だったら、引き続き私が管理したほうがいいかと思って、お飾りの店長になったんだけど。そのうち、ピュリスを作り変えることになったでしょ? 全部仕切り直しということで、正式にお店を持つことにしたのよ。性風俗の分野は、確実に稼げるところだし」
十一歳の少女が手がけるようなビジネスではない、という点を除けば、まったく納得できるお話だ。
「だから、コラプトからの引越し組は、地代だけ払って自由に営業してるけど、うちの商会でも、直営店がいくつかあるのよ。街の外縁部にある格安店から、中心部に近い高級店まで、いろいろだけど。人気が出て、客が増えれば格付けが上がって高級店で働いてもらうし、逆なら降格。そういうルールでやってるの」
「うん」
「それで、お店がうまくいってるとなれば、働く女の子も、うちに来るようになる。それはいいんだけど、時々ああいう勘違いしてるのが来るから」
「勘違い?」
確かに、どうにもだらしない空気が漂っていた気はするが……
「あれはね、ダメな子。長続きしないと思う」
「ダメ?」
「帝都から流れてきたんだけど、だいたいダメね、パドマ出身の子は」
椅子に座って、体の力を抜きながら、ノーラは続けた。
「帝都は利権が保護されてるから、いろいろお高いのよ。知ってるかしら? あそこは移民は受け入れるけど、制限がいろいろあって。まず、移民一世には選挙権がないんだけど、実は性風俗で働けるのも、地元の女性だけなのよ」
「へぇ」
「あちこちから流入した貧しい移民が、売春しまくって街を荒らすのがいやなのね、多分。表向きは、女性の人権保護とか言ってるけど。で、さっきの子は、もともと帝都でそっちの仕事をしてたのよ」
ということは、都落ち、か。
飲み込めてきた。
「そもそも、あっちで競争に負けた人?」
「そうなるわね。どちらかというと、年齢じゃないかしら。もう二十八って言ってたし。本当かどうか知らないけど」
それは厳しい。
前世より人が老いるのが早いこの世界で、二十八歳というのは。
「帝都よりは田舎の地方都市のが、まだいけるって勘違いしてるみたい。逆なんだけどね」
「そうだね。フォレスティアじゃ、二十五でも厳しいのに」
「その後の計画も、お話にならないわ。ここで仕事して貯めたお金で、シュライ風料理店を開きたいっていうのよ」
首を振りながら、ノーラは溜息をついた。
「もう、問題外。何もわかってないわ」
「うーん……確かに、ピュリスではウケないと思うなぁ」
地理的には、ピュリスは海に向かって開かれている。対岸にはムスタムがあるので、サハリアには近い。
しかし文化的には、どちらかというと、いまだにセリパシアの影響のが大きいといえる。ピュリスで見られるサハリア風の料理だって、ごく一部の限られたものだ。俺がムスタムで食べたような雑穀ペーストなんか、どこにいっても見当たらない。単純に、土地の人間に好まれていないのだ。
南方大陸風の料理店は、なので、ピュリスにはない。少なくとも、俺が知っている限りでは。その意味では、そちらの料理店を出すという時点で、競争相手もいないが顧客もいない、虚無のブルーオーシャンに船出するようなものなのだ。
「それもあるけど、そもそもやってることが間違いなのよ」
「というと?」
「本当にシュライ風料理店をやりたいのなら、わざわざうちの店で体なんか売らずに、いきなり料理店を開けばいいじゃない」
「開業資金がないんじゃ?」
「だとしてもよ」
そこをノーラは譲らなかった。
「だいたい、順序がおかしいでしょ? 風俗店に来るお客がお金を落とすのはなぜ? その子がかわいいからでしょう? じゃあ、飲食店にお客が来るのはなぜ? 出される料理がおいしいからでしょう?」
「まぁ、ねぇ」
「じゃあ、仮に風俗で貯めたお金で飲食店を開業して、うまくいかなかったらどうするのかしら? 体を売り続けて、お店に継ぎ足し続けるの? だから問題外なのよ。順序が違うわ」
なんという起業家精神。
やっぱり、何かが中に入ってる気がする。
「もしやるのなら、料理を突き詰めて客に出せるよう努力する。それだけやればいい。本当にいい店にできるのなら、出資する人がいるから。お客を呼ぶ営業と、後援者を募る営業と、何も違わないでしょ。お客が来る商売なら、金主だって出資を惜しまないんだから」
でも、確かに一理ある。
脱サラとか定年退職した人とかが、それまで貯めたお金で喫茶店を始める。それがすぐに潰れたりする。
何のことはない。彼らが貯めたお金には、裏付けがないのだ。「私は三十年、会社で真面目に働いたサラリーマンです、だから私のコーヒーを飲んでください」……こんな無茶が通るものか。
コーヒーを出すなら、ちゃんと腕のあるバリスタになればいい。いいコーヒーを出せるから、うちのコーヒーを飲めと。シンプルだ。
「逆に、貧しい農村からやってきた子なんかだと、却っていいのよ。生きるのに必死だし、頑張って仕事も覚えるから。そのうち都会で暮らすうちに視野も広がって、問題意識も持つようになるから、それからまた新しい目標に向かって勉強し始めるし。こっちのがずっと伸び代があるわ」
なんというか。
さっきみたいに仕事そっちのけで俺に飛びついてくるあたりは「かわいい」のだが、こうして頭の中を喋らせると、どうしても「怖い」ところが滲み出てくる。
ふと、「コワいい」という造語が頭の中を駆け抜けていった。頭を振って追い払う。
けど、どうみても十一歳の少女が考えるようなことではない。
いったい誰が……
……あっ。
「あの、さ」
「うん」
「僕がグルービーと対決する前の一年、どうしてた?」
「ああ」
椅子に手を置き、足をプラプラさせながら、ノーラは答えた。
「ずっと助手? 秘書みたいな仕事をしていたわ」
「グルービーの横で?」
「うん。全部見て覚えなさいって言われてた」
やっとわかった。納得だ。
ずっと何かに似てる気がしてならなかった。
何のことはない。ノーラを仕込んだのは、グルービーだったのだ。
きっかけは、俺が彼女の受けていた退屈な授業を盗み見したことだろう。ノーラには、努力に見合うだけの学習機会を与えるべきだと。それで彼は、自分の横で学ばせることにしたに違いない。
そこに俺が、商取引や精神操作魔術のスキルをぶちこんだおかげで、促成栽培されてしまった。結果が、このリンガ商会なのだ。
「それで? 何の用で来たの?」
「えっと」
「用事なんか、なくてもいいけど」
副会長、さすがにそれはまずい。
「ああ、例の件で、埋め立てを」
「黒竜の魔法、ね。何かわかった?」
「それが、あんまり。でも、あとで説明するよ」
そうして、俺とノーラは連れ立ってその部屋を出た。
その後、よく晴れた空の下、俺とノーラは人夫達を指揮して、例の箱を地中奥深くに埋めた。ちょっとしたピクニック気分で、また街に引き返したのだ。
この日の夕方だった。
タンディラールからの召喚状が届いたのは。
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