ここが我が家
ブラックタワーを出たところで、片手に棍を携えた女と鉢合わせた。
ノーラが先に声をかけた。
「おはようございます」
「おっ」
見覚えがある。
短い髪。浅黒い肌。それに獰猛そうな口元。
「あなたは」
「げっ」
その女は、俺を見るなり顔を歪めた。
「あなたは……モライカさん、ですよね?」
「来るとは聞いてたけど、本当に帰ってくるとはな」
グルービー子飼いの傭兵だった女だ。そして、ノーラ達少女奴隷の武術教官でもあった。
「ファルス、モライカさんと、あとはマルテロさんには、今、リンガ商会で働いていただいているわ」
「驚いたよ」
「カンプスさんは、いなくなってしまったけど」
じゃあ、グルービーの配下もいくらかは吸収か。
まぁ、彼が育成していた美少女集団とか、その辺はまた、別のところに行ってしまったのだろうが。
彼らが中心街の治安を守っているのだろう。そして、モライカみたいな女戦士は貴重だ。コラプトからの引越し組には、高級娼館もたくさんある。そういうところの見回りには、彼女が適任なのだろう。
「モライカさん、今日からあなたの上司はファルスになりますからね」
「マジかよ」
「何か不服でも」
おいおい。
かつての教官相手に、こうまで強気になれるとは。俺の方が気後れしてるくらいなのに。
だが、モライカは諦めたように手を広げた。
「ねーよ。喧嘩したって、勝てる気しねぇしな」
「僕は、喧嘩なんかしたくもないんですけどね」
「ははっ、そういう甘ちゃんっぽいところは変わってねぇんだな」
俺の肩を軽く叩くと、彼女は棒を担いで背を向けた。
「じゃ、見回り行ってくるわ」
「お疲れ様です」
手をひらひらと振りながら、彼女は歩き去ってしまった。
「じゃ、まずは……先生のところでいいかしら?」
「先生?」
「言ったでしょ。私、マオ先生のところに入門したんだから」
北西方向の地下道を通って這い上がると、そこはもう、官邸のある丘の麓だった。
そのすぐ足下に、昔と変わらない佇まいで、マオ・フーの自宅が残されていた。微妙に薄汚れた白い壁。元気のないヤシの木も、以前のままだった。ただ、すぐ目の前にあった小さな通りは姿を消しており、代わりに馬車が通る大通りができていたが。
ノーラが門扉を叩くと、騒々しく駆け寄る足音が響いてきた。
「はい、ただいま!」
これは、ジョイスの声だ。
少し、おかしくなる。先日、外で対決した時には、それはもう、なんというかチンピラのような雰囲気もあったのだが、ここではまるで小坊主みたいだ。よっぽどマオに厳しく躾けられたのだろう。
「おはようございます」
兄弟子に対する礼として、ノーラは深々と頭を下げた。
「ああ、おはよう」
扉を開けたジョイスは一瞬硬直し、それでも挨拶を返した。
それから俺に視線を向けた。
「よう」
「やあ……大丈夫か? 昨日は」
「ああ、まーたやられちまった。カハハハ!」
相当ひどく殴りつけたはずなのだが、彼はまるでカラッとしていた。
少しだけ、安心した。俺がピュリスを去る前には、使徒の姿を思い出しただけで息を詰まらせていた。サモザッシュがああいう死に方をしたのもあって、ジョイスのことが気になっていたのだ。
「お師匠はご在宅だ。さ、あがれよ」
案内されて、中庭に足を踏み入れた。どこもかしこも、以前のままだ。
見上げれば、古びた木造の二階部分が目に映る。白いペンキは、いつも剥げかけているような気がする。違うのは、ジョイスの寝泊りする場所でなくなったところか。
中庭には小さな東屋と、井戸がある。以前に、ここから汲んだ水で、薬湯をいただいたっけ。
足音が聞こえた。だが、違和感に俺は耳をそばだてた。
振り返ると、そこには確かに、白い服に身を包んだマオ・フーの姿があった。だが……
足音がおかしい。微妙に足を引き摺るような。それに、生気が感じられない。老いた、ということか。
その分、表情はより柔和になっていたが。
「お久しぶりです」
俺は慌てて頭を下げた。彼がどんな人物かを、俺は忘れてなどいない。礼節を弁えなければ、軽蔑されるのだ。
「やぁ、ファルス君。よく訪ねてきてくれた」
笑顔で頷きながら、彼は歩み寄ってきた。
「まぁ、座りなさい。旅はどうだったかね」
「ありがとうございます。学ぶことがたくさんありました」
「ジョイス。お茶をお出しせよ」
「はい、ただいま」
声を聞いて、より強く感じた。
やはり、老いた。彼ほどまでに鍛えられた武人といえども、老いるのか。
「どちらを旅したのかな」
「セリパシアです。アルディニアから神聖教国に……それから、ムーアン大沼沢をまわって、パラブワンから船でピュリスに」
「それは大旅行じゃったのう」
そう言いながら彼は目を細めた。若い頃の冒険を思い出したのだろう。遥かな世界に思いを馳せたのでなければ、わざわざ南方大陸から、こんな遠い国までやってきたりはしない。
「じゃが、それで、探し物は見つかったのかのう?」
少し意地悪そうに眉を吊り上げながら、彼は尋ねた。
「……いいえ」
見つけたのは聖女の死体だった。ならば、目的達成とは程遠い。
「そうじゃろうて」
頷くと、彼は席を立った。
どちらに、と声をあげそうになったが、彼はすぐ戻ってきた。
「これは?」
差し出されたのは、一通の書状。
水が通らないように、分厚い油紙に包まれている。
「もし、君が南方大陸東岸のカークの街に行くことがあればじゃが、これを当地のワン・ケンに渡して欲しい」
「お手紙ですか」
「うむ。無論、ワンの奴も、君の力になってくれるじゃろう」
いきなり、どういうことだ? いや、俺がまた旅立つのなら、手紙を託すのは自然なことだが……
「ですが、あの、マオさん、どちらかというと僕はサハリアに行きたいのですが」
「ほう、どこを目指すのかね」
「できれば、あの『人形の迷宮』に挑みたいのです」
「ふむ……」
彼は少し考えるように、表情を引き締めた。
少なく見積もっても一千年以上、誰にも攻略されていない迷宮。非常に危険なダンジョンとして有名な場所だ。
俺が途中で諦めるなら問題ないが、あくまで探索に固執した場合、二度と地上に戻れない可能性もある。死ぬかもしれない人に手紙を託して、何になる?
だが、彼はまた笑みを浮かべた。
「なに、構わぬ。ならば、その後でもよい。またもし、そもそもカークに立ち寄らないというのであれば、無理することはない」
「では」
「じゃが、大した荷物でもあるまい。持つだけ持っていってはくれんかの」
そうまで言われては。
俺は無言で封筒を手に取った。それを見て、彼は大きく頷いた。
そして、なぜか彼はノーラに言ったのだ。
「ノーラよ」
「はい、先生」
「お前の努力はよくわかっておる。生徒として、恥ずべきところは何もなかった」
「ありがとうございます」
なんだ?
いきなり何が始まった?
「惜しむらくは、いまだ未熟なことよ。残念じゃが、お前には、わしの門弟を名乗ることは許さぬ」
「承知しております」
これはまた、厳しい。
生徒ではあるが、弟子ではない。師匠の名前を出していいほどには熟達していないのだと。だが、それなら育ちきるまで鍛えてやればいいのに。
「もし、技術の完成を望むなら、お前もカークのワン・ケンを訪ねよ。あれはわしと同じ師の下で学んだ。じゃが、武は道具の一つと心得よ。道具だけあっても、目的を果たせぬでは意味がない。お前は弟子ではないのだから、師に対する義理もない。よく弁えよ」
「はい」
すると今度は、ジョイスに向き直った。
彼はちょうど、東屋のテーブルの上に薬湯を供したところだった。
「ジョイス」
「はいっ!」
直立不動だ。
ピシッと背筋を伸ばして、師の言葉を待っている。
「お前は恐らく、わしの最後の弟子となるだろう」
「はい」
「見るところ、その才能はわしを大きく凌ぐ。将来はきっと大成することじゃろう。じゃが、気を抜くな。それに、お前には弟子としての務めを果たしてもらう。よいな」
「はいっ」
「ならばよい」
いきなり、どういうことか。
内輪の話をされても……
「済まんかったな、ファルス君」
「え、いいえ」
「歳をとると、どうにもせっかちでいかん」
いつの間にか、元通り温和な笑みを浮かべ、彼は飲料を俺達に勧めた。
「セリパシアは、わしもあまりよく知らん。土産話を聞かせてはくれんかの」
「喜んで」
マオの家を辞去してからしばらく。俺とノーラは無言で歩いた。
俺の視線に気付くと、彼女はポツリと言った。
「気付いたと思うけど」
「うん」
「先生、お体を悪くなされて。もう、ギルド支部長のお仕事も辞任なさったのよ」
だと思った。
武人は姿勢が命だ。まっすぐ立ち、力のロスをなくす。思った時、思ったような姿勢を保てなくては、ろくに戦えない。ことにマオ・フーには『壁歩き』の神通力があるので、この手の制限はずっと厳しいものとなる。
微妙に足を引き摺るような音が聞こえたのは、そのせいだ。
「お食事も、あまり召し上がっていただけないの。だから、今日のお昼も、あえてお招きは……」
そんなに悪いのか。
だが、老いとはそういうものだ。前世の歴史を思い出しても、よくあった。ほんの数ヶ月前まで壮健で、それこそ戦場の最前線を駆け回っていたような武将が、あっさり病気で世を去ってしまう。
わかってはいても、心に重石がされたような気がしてしまう。
「いいのよ」
「ノーラ」
「先生はお歳だもの。とっくにご覚悟も決めてらっしゃるし。気持ちが追いついていないのは、私達のほう」
そうかもしれない。
そのまま、また地下道を通って、中心街に引き返す。そこからほぼ反対側、飯屋街の北側に向かう。
見慣れない街並みを目にしながら、俺はふと、既視感のある小さな建物を見つけた。
周囲とは石材の色合いが異なる。澱んだ暗い緑色。不自然に庭が広く、そこに針葉樹が虚ろな表情で立ち並んでいる。この真四角の陰気な建造物が連想させるものは、一つしかない。
「あれ?」
「あそこに顔を出すのよ?」
しかし、ここに移築したにしては小さすぎるが……
ピュリスのセリパス教会は、街の北側にあったはず。それがここにある?
「いるかしら」
木の扉に、金属製のセリパス教のマークが貼り付けてある。ノーラがノックすると、間もなく扉が開いた。
「おはようございます」
「ようこそ、罪びとよ」
相変わらず、か。
紺色の僧衣に髪の毛まですっぽり隠した格好で、リンは戸口に立った。
「けれども、美少女に罪はありません」
じろりと俺を見下ろしながら、詰問するような口調でリンは言った。
「罪深いのは、穢れたファルスだけです。おお、いやらしい」
「遠くから帰ってきたばかりの人にする挨拶がそれですか」
「おお、恩知らずの卑しい獣。得がたい紹介状と引き換えに、何かお土産の一つでもないのですか」
そういえば、こいつからもらった書状に、大いに助けられて……いや、助けられたのか?
ユミレノストには散々利用されたし。
クララはいい人だったけど、特に直接役立ったわけでもなく。
ドーミルはボケたフリをしていたし。
ハァ、と溜息をつき、腰に手をやりながら、俺はぞんざいに返事をした。
「土産はありませんが、土産話ならありますよ」
「それは興味深いですね。是非、唾の届かない場所から聞かせてください」
このアマ。
そういうことなら、聞かせてやろう。
「クララさんが教えてくれました」
「ほう、何をです?」
「留学中に二回も失恋したとか」
「グッ!?」
……いや、聞かせてもらおう、かな?
「なんでもステーキにスプレーを」
「クララァッ!?」
ギョロッと目を見開き、振り上げた両腕で空を殴りつけながら、彼女は絶叫した。
「キスまで捧げたあいつが私をフッていなくなって戻ってきたと思ったら、レストランでステーキにスプレーかけて食ってやがって、挙句の果てに『これは奇跡の水だから食べ物にかけるといいんだよ』とか言って売りつけてきやがって……!」
「うおっ」
「しまいには金持ちの年増のところに転がり込んで私を捨てて! それでハートブレイクな私が幼馴染のちょいデブに縋ったら、こいつもこいつで私の手と口をベトベトにしておいてから『結構うまいね』……何と比べてそんな言葉をっ! 私はそういう女ではありませんっ! どいつもこいつもっ……!」
「い、いや」
「男は不潔! 男は臭い! 男は」
「ま、待ってください」
冷や汗を流しながら、俺は慌てて押しとどめた。
「そ、そこまではクララさんも言ってませんでしたよ」
「えっ?」
「お、落ち着いて」
目をパチクリさせると、スッと落ち着き払って、彼女は途端に能面のような表情を作った。
「という話を、信者の方から聞いたことがありましたっけね」
「はぁ?」
「他人事ながら、あまりに不実、あまりに不潔で、ついつい感情が入ってしまいました」
まったくこの女は……
信仰心ゼロじゃないか。戒律どこいった。
さすがのノーラもこれにはドン引きしている。
「ヤることヤッてるんじゃないですか」
「ヤ……やってません! なくすものはなくしていません! ……と言っていましたね、彼女は」
ただ、それはそれとして。彼女とは相談しておくべきことがある。しかし、どこまで喋っていいのかがわからない。
「そろそろ真面目な話もしましょうか」
「なんですか」
「念のために聞きますが、ドーミル教皇からは、何か連絡を受けていますか?」
「教皇就任の連絡がきましたね。それと、ファルスが是非にと言うので、あの不潔なジェゴスの……だった女をくれてやったとか」
やめてくれ。誤解を招く言い方は。
あと、やっぱりこいつもセリパス教徒なんだなと再認識した。信仰心ないくせに。愛人、という単語を黙ってスキップしてるし。過去が暴露されたこのタイミングでは、あまりに今更だけど。
「なぜ僕が引き取ったかについては、ご存知ですか?」
「どうせ獣の欲望ゆえでしょう、ええ、すべてわかっています。穢れたファルスには藁の冠がお似合いですとも」
「決め付けないでください。ただ、この件は、こんな道端ではとても話せません」
さっきの話も、道端で大声でするようなものじゃなかったけどな。
「いやら」
「違います」
俺の袖を、ノーラが引っぱった。
「ねぇ」
「え? な、なに? いやらしいことは何もないよ?」
「そうじゃなくて。あのマルトゥラターレさんのことでしょう?」
「そう、だけど」
「じゃあ、あとで詳しく聞かせて」
いや、だから、愛人とか、そういうんじゃないから。
「あのね」
「むしろ下心なら、どうってことないけど。ちょっと耳にしただけでも、どうも大事みたいだから。放置はしたくないの。うちで引き取るんでしょう?」
これはよく考える必要がある。
知る、ということは、責任を負うということにも繋がる。しかし、マルトゥラターレを引き取った場合、どうしたって彼女の背景と関わらずにはいられない、か。
そして、彼女には味方が必要だ。奴隷以外の立場では、人間社会を一人で生き抜く力はない。彼女の都合を理解してくれる仲間がいないと、どうしようもない。
「わかった。じゃあ、その時はリンさんも呼ぶから」
「ただ事ではないのですね」
緊迫した空気がきれいに流れ去ってから、俺は改めて尋ねた。
「ところで、どうしてここに? 小さな教会みたいですが」
「当然でしょう? 街区が区切られてしまったのですから。船乗りの中には、敬虔なるセリパス教徒も少なくありませんから、祈りを受け付ける場所が必要です。おかげで、街の北側の教会とこちらと、行ったり来たりしなければいけなくなりました」
「なるほどです」
「ただ」
チラとノーラを見て、リンは続けた。
「どうも、最近また、治安の乱れがあるようですね」
「そうなんですか」
「先日も女性が襲われかけたとか。私のところに駆け込んできた信徒の方がおっしゃっていました」
ノーラが進み出て言った。
「わかりました。では、それは早速調査します」
「お願いしますよ」
「あと、もう申し上げましたけど、今日のお昼には」
「ええ、少しだけですが、顔くらいは出しますとも」
教会の出張所を背にして、俺達は飯屋街のほうへと向かっていた。
「あと一箇所ね」
「一箇所? でも、あれ? 神殿は?」
「ザリナさんね。昨年、秋頃に転任なさったわ」
「えっ!」
「だから後は、店長のところだけなのよ」
ほどなく、飯屋街の外れに到着した。
店構えも、場所も、まったく変わってしまっている。それもそうだ。あの店は三叉路の近くにあった。中心街の造成に伴い、多くの建物が取り壊され、移設されたりもした。あの場所にあった建物がそのままで済むはずはなかった。
自分が決定に関わった計画ではあるが、やはり物悲しい気持ちになる。
「こんにちは」
扉を押すと、耳慣れたベルの音が耳を撫でていった。これだけは、昔のままだ。
よく見ると、薄暗い店内に並べられた椅子やテーブルも、前の店のものをそのまま使っている。
「店長、いますか?」
ノーラが呼びかけると、奥のほうから慌しい足音が迫ってきた。
「おう、ノーラか、珍し……うおっ、ファルス、帰ってきやがったのか」
「どうも」
顔をあげられない。
ああまでして旅立ったのに、おめおめと戻ってきた自分。やっぱり、なんともカッコつかない。
「変わっちまったろ、この街」
「はい」
「俺もびっくりだ。たった一年で、何もかもえれぇ違いだ。ついでに俺の店も、ここに引越しだからな」
「なんか、済みません」
「なぁに、これはこれで悪くねぇ。そこのノーラが街のボスになったからよ。ま、変な奴がのさばるよか、安心だわな」
俺も、店長も、どこかぎこちない。それもそうか。そういう性質なのだ。
それに俺がピュリスを去る時、「お前の街」とか言っておいて、これだけ変わってしまったのだ。それが奇妙に一周、ノーラの魔改造の結果、別の意味で「俺の街」になってしまっている。
なんともコメントに困る状況だった。
それでも、これだけは言っておかねばならない。
「あ、あの」
「あん?」
「店長がくれた包丁のおかげで、助かりました。必要としている方々に、必要な一皿を届けることができました」
「ああ」
顔を背け、手を振って、彼は言った。
「いいってことよ」
それだけだった。
昼の仕込みもある。長々と居座るわけにはいかなかった。
まだ少し時間がある。
それでノーラは、俺の元の自宅に案内した。
多くの家屋が建て直された中、俺の家は元通りだった。但し、目の前の道路はまったく別物になっている。狭い路地みたいだったのが、大通りを結ぶ横向きの道路に置き換わっていた。左右の家も、緑がかった色合いの石で作られた、新しいものだ。
ノーラがローブの中から鍵を取り出し、開ける。重い金属製の扉が、軋みながら開いた。
「さ」
俺も後に続いた。
外の明るさと打って変わって、玄関付近は冷え冷えしていて、暗い。勝手知ったる我が家のはずが、やけに新鮮に見えた。
右手に浴室、左手は店舗だが、店のほうはずっと使っていないらしい。少し埃っぽかった。
ノーラに続いて階段を昇ると、急に廊下が明るくなった。
左が居間で、右がダイニング。何も変わっていない。俺は、無言でそれらの部屋を見つめた。
更に上に昇ると、扉が三つ。
「左がサディスで、真ん中がジョイスの部屋になってるわ」
「じゃあ、右がノーラの?」
俺が出て行った時と、少し配置が違う。
それで訝しんで尋ねると、彼女は首を振った。
「開けてみて」
言われるままに、右側の扉を開けた。
そこには……
窓の横に据え付けられたベッド。
反対側には本棚。魔術の初級教本や、ルークの世界誌など、俺が買い集めて目を通してきたものが並べられている。
壁には剣がかけられている。俺が昔、冒険者のドロルから練習用にともらった木剣だ。
何もかもが元通り。全部地下の倉庫に仕舞い込んだはずなのに。わざわざ持ち出したのか。
それでいて、床は塵一つなく、きれいな状態になっている。日常的に清掃していなければ、こうはならない。
そして、違和感を覚えるほどに生活感がない。つまり、ここはずっと空き部屋だった。
「ノーラ、これは」
「だって、ファルスの部屋だもの」
「使ってなかったのか」
「私は、事務室で寝てるから」
でも、それだけではないだろう。
そうか。
やっぱり、ノーラはノーラだった。街を大改造しても、中心街のボスに成り上がっても、大金や魔術の力を得ても。何も変わってはいなかった。
俺の帰る場所を、こうして空けて、待っていてくれていたのだ。
「ファルス」
部屋の中を見つめたまま、身動ぎもできずにいる俺の手を後ろから取り、彼女は静かに言った。
「あらためて、おかえりなさい」
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