ファルスの街
頭上から、甲高い警笛の音が鳴り響いた。
周囲を圧する高音が鳴り止むと、途端に静寂が空間を埋め尽くす。
「ファルス……」
とんがり帽子をその場に打ち捨てて、よろめくようにノーラは歩み寄ってきた。
その瞳は、少し潤んでいた。
羽毛が触れるように。
やわらかく、彼女は俺にもたれかかった。
俺はというと、まだ混乱と警戒心の渦の中にいた。
これはどういう状況だ? ノーラの中身は、本当にノーラなのか? 過去の事実を尋ねても意味はない。憑依されているのなら、記憶も盗み取られてしまうのだから。
だが、次第に俺の中の違和感は、鎮まっていった。
これはノーラだ。そうでないはずがない。
どれくらい、俺の肩に顔を押し付けていたのか。ふと、身を離すと、彼女は後方に向けて、手を挙げて合図した。
いきなり、最寄の高級レストランの扉が開いた。そこから出てきたのは……
「マッ、マルトゥラターレ?」
戸惑いを隠せない俺とは対照的に、彼女は「何を慌てることがあるのか」といった様子で、首を傾げた。
目の見えない彼女の横には、これまた見覚えのある顔があった。
内気そうな表情、顔を覆い隠す金髪の合間に鋭い視線を残すサディス。その彼女とは正反対に、明るい笑顔が印象的なエディマ。
「おかえりなさいー!」
俺を見て、小さく飛び跳ねながら手を振っている。
「ノーラ、これは」
「先にご案内して、軽食を楽しんでいただいただけよ?」
とんがり帽子を拾い上げながら、あっさり彼女はそう答えた。
宿屋まで突き止められるのは、想定内だった。しかし……
「あの、耳」
マルトゥラターレは、水色の髪の毛も、尖った耳も、まったく隠していない。これはいいのか?
「ああ、亜人だって話ね。ついさっき聞いたわ。まさか、本当にいるなんて」
なんてことないように、ノーラはサラッと片付けた。
「さすがはファルスね。普通なら、一生かかってもお目にかかれないような出会いを見つけてくるんだもの」
「い、いや、これは」
「ただ、騒ぎになってはいけないから、ホテルは移ってもらったわ。この近くの最高級ホテルに個室を用意したから。噂になるのは、ちゃんと防ぐつもりだから。安心していいわよ」
手際のいいこと。
確かに、俺にとっても好都合なのだが……
「じゃあ、エディマさん、あと少ししたら、お店のほうに行くので、それまでお願いします」
「えー! 私もファルス君と行きたいよー!」
「ごめんなさい。すぐ戻りますから」
「うー……この後、仕事あるから残れないのに……じゃ、またね」
それでも、エディマは渋々頷いて、マルトゥラターレとサディスを伴って、レストランの中に引き返した。
いまだに目を白黒させている俺に、ノーラは笑いかけた。
だが、その笑顔には、何か含むところがある。心を読み取るまでもなく、それがわかった。
「じゃ、ちょっと散歩を、ね」
といっても、近場を歩くだけだった。最初の目的地は、すぐ目の前の武器屋だった。
「ごめんください」
扉を押し開け、ノーラが声をかける。
そこには、さっきの若い男の店員が立っていた。俺をじろっと睨んだが、ノーラに目を向けると、表情が一変した。今にも脂汗が浮いてきそうなくらい、畏まっている。
「これはノーラ様、ようこそおいでくださいました!」
もうきっちり上下関係ができているらしい。
恭しいというより、もはや卑屈といったほうがいいくらいだ。
「様はいりません。それより、店長さんはいますか」
「はい、ただいま」
「あ、その前に」
背を向けた男を呼び止めると、ノーラは俺の肩に手を置いた。
「こちらがファルス・リンガ……つまり……わかりますね?」
「えっ!?」
俺は、薄汚れた旅装のままだ。黒髪の小汚い少年でしかない。
そんな俺を、若い店員はまじまじと見た。
「わかりませんか」
「えっ、あっ、は……い、いえ! 承知致しました!」
何がわかったんだ?
俺は何も言ってないのだが。しかし、男は俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「今後はどうか宜しくお願い致します!」
「は、はぁ」
「それでは、直ちに店主を呼んで参りますので!」
恐懼に堪えないと言わんばかりの様子で、彼は転びそうになりながら奥へとすっとんでいった。
これはどういうこと、とノーラに尋ねようとしたのだが、その前に、奥のほうからドカドカと騒々しく物音が響いてくるとすぐ、息を切らした恰幅のいい男が飛び出てきた。体格の問題からか、サハリア風の白い貫頭衣に、これまた西部サハリア風の白い帽子を被っている。日焼けした瓢箪型の顔には、立派な髭が生えていた。
「お、お、お待たせしました」
「ゲンダットさん、こんにちは」
「これはノーラ様、ようこそ」
「今日はご挨拶にだけ伺いました。こちらがファルス」
「ええ、先ほど部下から聞かされまして」
すると彼は、カウンターからそそくさと抜けて出て、俺のすぐ足下に膝をついた。
「えっ?」
「ファルス様、お越しいただけるのを私どもは心待ちにしておりました」
「はいっ?」
「ノーラ様のご厚情をもちまして、この地で商売をさせていただいておりますゲンダットと申します。お見知りおきを」
「は、はい」
なんという絵面だろう。既に成功した立派な商人が、子供二人に跪いて、必死でご機嫌をとっている。
「ファルス様のお噂は、かねがね耳にしております。なんでも一昨年の内乱では王を守るご活躍、それに近頃では黒竜さえ討ったとか」
「え、ええ」
「なんという武勇でしょう! 私どもは小さな小さな武具屋を営んでいるに過ぎませんが、品物の質にはいささか自信がございます。よろしければ、どれでも一振り、気に入ったものをお持ちいただければ、この上ない幸いでございます」
小さな店と言うが、ここに置かれている品々は、それこそ素人でもわかるくらい、値の張るものばかりだ。ざっと見回してみるが、金貨百枚以下の武器など一つも置いていない。
例えば、象牙の柄に銀の刃が美しい、サハリア風の短刀。装飾用だろう。貴族が身に帯びるにはちょうどいい一品だ。ざっと金貨三百枚くらいか。
黒檀製の柄を黒い金属の輪と鋲で補強した、恐らくはアダマンタイト製の槍。これはちょっと値段がわからない。一千枚くらいはしてもおかしくない。
「そちらがお気に入りでございますか」
「あ、いや」
「ご心配には及びません。御代などいただけません」
「そんな」
こんな高価なもの、ハイハイと受け取れるはずがない。
「またの機会でもよろしいかしら」
ノーラが、氷のように透き通った声色でそう言うと、ゲンダットはビクッと身を震わせた。
「は、はい! もちろんでございます!」
「この後も、あちこちご挨拶しないといけませんから」
それだけで、彼女はそっけなく背を向けた。
「ノーラ、これは」
「面倒だけど、早めに簡単に各商店の長にだけでも、顔を見ておいてもらわないと」
俺に説明もせず、すぐ隣の扉に手をかける。
「まぁ、ノーラ様。ようこそ」
出迎えたのは、宝飾品店のオーナーと思しき、ケバケバしい痩せた婆さんだった。笑いジワが頬にしっかりと刻まれている。
「トゥアさん、こちら、ファルス・リンガ……説明は不要かと思いますが」
「まぁ!」
すると、このトゥアなる婆さんも喜色満面。
「ようこそ、ようこそいらっしゃいました。おかげさまをもちまして、当店も営業を続けることができております」
「は? はい」
「ですがファルス様、その外見はいかがなものでしょう? あなた様ともあろうお方が、宝石の一つも身につけておいででないとは」
こいつもか?
俺に商品を押し付けようとしてくる。
なんとかやり過ごそうと、視線を彷徨わせると、天井近くに貼り出された、とある掲示物が目に留まった。
『フラワーセット:弊店の専門家が、あなたにぴったりの宝飾品一式を見繕います。社交の場で恥をかくことはないでしょう』
『スターセット :弊店の専門家が、あなたを輝かせる宝飾品一式を見繕います。誰もがあなたを羨むことでしょう』
『クイーンセット:弊店の専門家が、貴族に相応しい上品な宝飾品一式を見繕います。騎士階級以上の方以外には、ご案内できません』
『ファルスセット:弊店の最高級セットでございます。弊店のすべてを結集して、最上の輝きをお約束致します』
なんだ、これ?
「あ、あの」
「はい、なんでございましょう」
「あの紙に書いてあるのは」
「ああ」
我が意を得たりと、彼女は笑みを深くした。
「当店は、もちろん宝飾品を個別に販売もしておりますが、ご存知の通り、宝石というのはただ並べればいいものではございません。プレシャスオパールのように、時と場合によっては身につけるのが不遜とされるものもありますので、お客様がマナーを無視して恥をかくことがないように、私どもがお似合いの宝石をお選びしております」
「それはわかります。イヤリングやネックレスを一式まとめて、お客様に勧めるというのは……ただ、その、あれは」
「はい。フラワーセット、スターセットにつきましては、どなたにでもご利用いただけます。ただ、どちらかというと、フラワーセットのほうは、一般家庭の方に向けたものですね。他よりは格が落ちるかと思いますが、それでも当店が選び抜いた品ということもあり、お客様にみっともない思いはさせません」
「ええと……」
「もちろん、ファルス様には、あの二つのセットをお勧めするなど考えられませんわ」
問題はそこじゃなくて。
「……ファルスセットって、なんですか」
「もちろん、当店の最高級セットでございますが? これ以上ない、西方大陸一の美と優雅をお約束致します」
なんか、話が通じてない。
当たり前のように、花とか星とか女王の上に、ファルスを配置している。なんで俺の名前が最高級セットに使われているんだ。
「トゥアさん、今日はご挨拶だけですので」
「まぁまぁ、そうでしたわね、私ったらつい……ファルス様、いつでもお気軽にお越しくださいませ。当店はいつでもあなた様を歓迎致しますので」
半ばよろめきながら、俺は店を出た。
「ノーラ」
「なぁに」
「僕に何を見せたいんだ」
「ファルスの街、かしら」
「ふぁっ?」
「とりあえず、ちょっとだけでもこの街を体験して欲しくて。あと、この辺の最高級店はみんな、それぞれのギルドのトップだから、面通ししておいたほうがいいと思うの」
なんでそうなる? 名前を勝手に利用されたのだ。さすがに放置はできない。
「ノーラ、どうして僕の名前が使われているんだ」
「使えなんて言ってないけど? でも、みんな自分からそうしてるんだもの、止められないでしょ?」
そんなの、実質的な街の支配者であろうノーラに配慮してのことに決まっている。そして、ノーラ自身、それを承知で放置しているのだ。
「せっかくだから、あれもこれも、この街のものを見て欲しいわ……あ、でも」
朱色の門をくぐった先にあったのは、ピュリスで最も高級な風俗店だった。
「ここは体験しちゃダメ」
ノーラは立ち入りもせずに背を向けた。俺は店の前に置かれた立て看板にさっと目を走らせる。案の定、そこにも……
『ファルスコース:究極の快楽をお約束します! ここは王の後宮にも勝る歓喜の園……現世の女神達があなたに誠心誠意、お仕え致します(騎士、ならびに貴族の方のみのご案内となります)』
「お疲れ様」
「あ、あの、そろそろ説明を」
「じゃあ、最後にそこでご飯を食べながらお話しましょう」
夕食には少し早めだが、いい時間でもある。
疲労感をおぼえつつ、俺は軒先をくぐった。
「いらっしゃいませ」
黒いタキシードをピッチリ着込んだ男性が、きれいな角度をつけてお辞儀してきた。
「案内してください」
「ただいま」
奥まったところに、四人掛けできるくらいの広さの椅子とテーブルが用意されていた。いずれも上品な、セリパシア風のものだ。
「やっと落ち着けたわね」
既にマルトゥラターレは満腹してしまったのか、この場にいなかった。
エディマも、他に用事があるのだろう。また後で顔を見られるとは思うが。
「どう? この街は。少しは気に入ってくれたら嬉しいんだけど」
「それより」
これについては、俺がとやかく言うことじゃない。復興作業中のピュリスから去っていった立場で、ケチをつけるなんてできようものか。どんな手を使ったかは知らないが、ノーラは、大きな被害を受けた中心街を生まれ変わらせたのだ。もしそのために、地下室の財宝を勝手に使ったのだとしても。そもそも俺は不死を得たらいなくなるつもりだったのだし、これまた文句なんか言えたものではない。
ただ……
「そろそろ説明して欲しいんだけど」
「何から?」
いろいろあるが、まずは……
「どうして僕を追いかけ回した?」
「そうね、質問に質問で返すのもよくないとは思うのだけど」
出された紅茶に口をつけてから、ノーラは悪びれることなく言った。
「どうしてすぐに家に戻ってこなかったの?」
「はい?」
「まっすぐ家に来ていたら、余計なことをしないで済んだのに」
内心を見透かされたようで、一瞬、ドキッとした。
「い、いや、落ち着いたら……だって、家に僕の部屋はないだろう? だから宿で休んで、それから挨拶をって考えていたんだよ。それに街並みだって変わりすぎてたし、少し道に迷ったんだ」
「本当に?」
「あ、ああ」
「そう、ごめんなさい」
……やっぱり、勘付いていた。
俺は、足止めされるのを恐れていた。黙ってピュリスを通り抜けることもあり得た。しかし、この街に海から立ち入った人間は、みんな一度は中心街に巻き取られる。その仕組みを利用して、ノーラは最悪の場合に備えていたのだ。
「戻ってこないかと思ったわ」
「い、いや、ほ、ほら、ちゃんと修行の旅から戻ってきただろう」
「そうね」
辛うじて顔だけ取り繕うも、背中は既に冷や汗でいっぱいだ。
「そういえば、ノーラ」
「なぁに」
「どうやって僕の到着を知ったんだ」
「それは簡単」
ウェイターが、小さな器でスープを供した。陶器の皿が、控えめに呟くのが耳に心地よい。
「港湾当局に、乗員名簿を洗ってもらってたの」
「はぁ?」
「ファルスはまだ知らないわね。去年の春にエンバイオ家が出て行ってから、後任の総督が着任したの」
「うん」
「ムヴァク・レージェ・フォレスティス子爵よ」
「うん? それって」
子爵だが、名前からすると……
「領地なし公爵家の嫡男よ。今の陛下とは、かなりの遠縁の方になるんだけど」
「うん」
「ま、当然じゃないかしら」
彼女の言う「当然」……タンディラールは、フィル・エンバイオという苦い教訓を忘れなかった、ということだ。
地方の総督職は、中央の官僚に比べれば、格は落ちる。だが、その分、利権を得やすい。そこに着目したフィルが、王家の内紛に乗じて世襲の密約を取り付けた。
実際、危ないところだったのだ。あの内乱の時、少しでも動きが違ったら。具体的には、サフィスがショックを受けて寝込んだりせず、すぐさま起き上がってピュリスに逃げ延びていたら? かつ、イフロースら家臣の進言を容れて、海竜兵団の実権を握りつつ、利益の大きい側の陣営に組していたら? 仮にタンディラールが戴冠できていたにせよ、ピュリスはもう、事実上、エンバイオ家の所有物になっていた。
これに懲りた彼は、とにかく家柄で次の総督を選んだ。
ムヴァクは王家の分家の貴族だ。しかも、次々代で貴族ではなくなる。ろくに世襲なんてできない。この際、総督として能力や、これまでの実績など二の次だ。
「ムヴァク閣下は、ずっと王都で年金貴族でやってきた方で、今回が初めての公職なの」
「じゃあ、機能してないな」
「そういうこと。むしろ、私達の商会が頼りにされている状態なのよ」
実務能力がない人間が、うまく楽して仕事を乗り切るには、できる奴に任せるのがいい。ノーラの商会と総督とは、既にズブズブの関係だ。当局が把握している個人情報も、何もかもが筒抜けになっている。
なんのことはない。ノーラがエンバイオ家に成り代わっただけのことなのだ。但し、ノーラもファルスも、貴族ではない。ピュリスを一時的に私物化できても、世代をついで支配を重ねるなんてできない。この方が、王家にとってはマシだった。
納得すると、俺はスープを一口、含んでみた。
うまい。貴族に出しても恥ずかしくない一品だ。
「これ、うまいね」
「お任せで出してもらったのだけど」
「これも……ファルスコース?」
「だと思うわ」
がっくりと肩を落とす。やめて欲しい。なんか、変にダサい気がしてならない。
「他は?」
彼女に促されて、俺は次の質問に移った。
「どうしてここまで、街を発展させることができた? お金はどこにあった」
この質問に、彼女はスプーンを下ろした。
「安心していいわ」
「何を」
「ちょっと借りたけど、何も減ってないから」
やっぱり……!
地下室の存在に気付いたのだ。あの資金がなくて、ここまでのことができるはずもなかった。いくら魔術その他の能力があったにしても、だ。
「どうやって見つけた」
「ジョイスが透視したのよ」
「あのサル」
「私のせいだから」
「なに?」
座り直すと、彼女は背凭れに身を預けて、少々長い説明をした。
元はといえば、俺がピュリスを去ったことがきっかけだった。一人残されたノーラは、考えずにはいられなかった。置いていかれたのは、自分に力がないからだ。ないなら、つければいい。
幸い、同居人にジョイスがいる。その師匠は、いまやピュリス一の武人とされるマオ・フーだ。ならば自分も弟子入りして、鍛えてもらえばいいではないか。
それで彼の自宅まで行き、ノーラは床に額をこすりつけ、誠心誠意、弟子にしてもらえるよう頼んだ。
意欲と真心を大切にする彼のこと、ノーラの熱心さを好意的に受け入れた。そして、ジョイスにどんな修行をさせているか、どんな能力を身につけさせたかも説明した。そこで初めて、ノーラはジョイスの異能を知ったのだ。
それでは、自分はどんな才能に目覚めるのか、と問われたマオ・フーは、彼女を『識別眼』で判定した。ところが、どうも大きな力が宿っているが、それは神通力ではない、という。まるでファルスのような不自然さがある、若さにつりあわない、とも言われた。
マオ・フーの自宅兼道場から帰っても、ノーラの興味と好奇心は収まらなかった。彼女はしつこくジョイスに頼み込み、透視や幻影の神通力で何ができるかを見せて欲しいとせがんだ。
「で、うっかり地下室まで見通してしまった、と」
「そういうこと」
確かに、俺がジョイスに禁じたのは、女の子の服を透かして見ることだった。壁や床を透視したって、まさか叱られたりはしないだろうと彼が考えたのも、無理はない。
とにかく、財宝の山を見つけた以上、そのままにはしておけなかった。ノーラは、ジョイスやサディスを伴って地下に降り、あちこちを必死で捜索した。結果、地下二階に入るためのあの仕掛けを動かしてしまった。
まず、黄金の山に目がくらんだのは、ジョイスだった。ちょっとくらい取ってもバレないだろうと言ったそうだが、ノーラがファルスの名前を出すと、彼はその考えをすぐ引っ込めた。
それより、何があるのかを丹念に調べ始めた。そこでノーラは、精神操作魔術の秘伝書を見つけてしまった。
「じゃあ、やっぱり」
「まさか、本当の魔術書があるなんて。ビックリしたわ」
大金と、強力な魔法。しかし、そこで彼女は更なる発見をしてしまった。
「ねぇ、ファルス?」
「な、なにか」
「私に、何かした?」
それは気付かれるに決まっていた。
同じ魔術書があり、その中身をノーラ、サディス、ジョイスの三人が試した。なのに、いきなり上手にやれるのはノーラ一人。二人は不審に思わなかったらしい。少なくともジョイスのほうは。
しかし、ノーラはその不自然さにすぐ思い至った。なにせそこには、クレーヴェからもらった火魔術の秘伝書も置いてあったのだ。なのに使いこなせたのは精神操作魔術だけ。マオ・フーの判定結果もあったのだから、もう明らかだった。
「そ、それは、その」
「こんな変なことができる人って、ファルスしかいないもの。私がどうしてグルービーと同じ魔法を使えてしまうのよ」
だが、彼女はそこでまた、よく考えた。
これだけの富と力だ。大きすぎる力は危うい。なかったことにして、今まで通りの日常を続けるか。それとも変化を受け入れて、できる限りの努力をするか。覚悟を要する選択だった。彼女は後者を選んだ。
「あとは単純。再開発される中心街。ここのね、土地のほとんどを一気に買い占めたの」
「ええっ」
「それから貸し出すだけ。ちょうどコラプトがダメになってたでしょ。グルービー商会がなくなっちゃったから、いろんな業者がピュリスに引っ越したがってたのよ。ただでさえ、ティンティナブリアがおかしなことになっているから、余計にね」
だから『街の主』か。
ピュリスは街の復興と総督の交代で一時的にノーガード状態だった。コラプトはティンティナブリアへの中継地としての存在意義もなくなり、グルービー商会の下で活動していた各商店が転居先を必要としていた。
そのタイミングでノーラは、新規の商業用地を地下室の資金で一気に独占。普通ならどこかで権力者がブレーキをかける暴挙だが、着任したばかりのムヴァクにそんな能力はなかった。
これでは誰も逆らえない。さっきの商店街の連中がペコペコするわけだ。追い出されたら、居場所がなくなってしまう。
利権の間隙に割り込んで、やりたい放題。このエグいやり方、どこで学んだんだろう?
俺が置いていった高度な精神操作魔術に商取引スキルも相俟って、彼女はあっという間に、この街に君臨する女王となった。
「じゃあ、最後に」
「うん」
「どうして僕が『街の主』なんだ。ここを管理、運営しているのはノーラじゃないのか」
「ああ」
なんだそんなこと、と言わんばかりの様子で、彼女は表情を和らげた。
「だってそうでしょ。私が得た力も、私が借りた資産も、ファルスのものだもの。私が経営者なら、ファルスは金主でしょう? なら、ここはファルスの街なのよ」
当たり前のように、彼女はそう言い放った。
俺は、言葉を飲み込むしかなかった。ノーラに対して、力の濫用を咎める資格など、俺にはない。他ならぬ俺自身が、まさにそれをやりまくってきたのだから。
「僕をこの街のボスに据えて、何をしたいんだ」
「何もないわ。ただ、帰ってきたファルスが暮らしやすければ、それでいいの」
「だったら余計なことをしなくてよかったのに」
「世の中、いい人ばかりならそうだけど。雑音を揉み消すには、それなりのものが必要でしょう?」
権力、か。
ちょっと上手に剣を振り回す少年騎士。そんな身分では、どこかに定住するとした場合、有力者の影響を排除しきれない。ちょっとした貴族でも、俺よりは立場が上なのだ。
そして俺は、この国の貴族の間では、もう名前が知れ渡ってしまっている。その手のノイズを掻き消すには、不本意でもこちらも有力者になるしかないのだ。
「この街にいる限り、ファルスが不自由な思いをすることはないわ。誰も傷つけないし、欺かない。少し大掛かりにはなってしまったけど、これもファルスの家を守るためよ」
「ノーラ、僕は誰かが僕を傷つけたり、欺いたとしても、自分で何とかするよ。子供じゃな……まぁ、まだ子供かもしれないけど、そこまで甘やかされたいなんて思ってない。世の中、不自由するのが当たり前じゃないか」
「そうね。でも、私はファルスから『預かった』のよ。それを知ってしまった。それでも黙って金庫の前に立っていろということ? それは怠惰というのではないかしら。売り時買い時を見極めて、やるべきこと、できることをする機会を逃さないようにしなきゃって考えたのよ」
なんというか、俺だってこの世界ではまだ子供だが、ノーラだってやっともうすぐ十二歳の少女じゃないか。前からそうだったけど、妙に彼女は大人みたいなところがある。そして、やたらと真剣だ。
いや、待てよ?
ここでふと、思い至った。というより、ノーラの説明に小さな違和感をおぼえたのだ。
だからって、俺をボスに据える必要があったか? わざわざファルスの名前をあちこちで強調する意味は? ノーラがそのままボスに納まって、俺を迎えてもよかったはずなのに。
『面倒だけど、早めに簡単に各商店の長にだけでも、顔を見ておいてもらわないと』
じゃあ、さっき俺に各商会のトップと面通しさせたのは、何のためだ? 俺に事情を説明する前に、エディマ達と旧交を温める時間すら惜しんで。あんなに急いですることか?
連中が俺に服従し、俺を守るために動いてくれるからか? それがないとは言わないが、それだけか? だったら、会うのは明日でもいいんじゃないのか?
違う。そうじゃない。俺を捕まえてから、不自然ながらもすぐ商会をまわることにしたのは、少しでも俺の顔を知っている人間を増やして「逃亡」を阻止するため……
またドバッと背中から汗が噴き出してきた気がする。
ノーラは前からずっと考えていて、待ち構えていたのだ。こうして俺に問い詰められるのも予定通り。
とはいえ、ここまでは理解できる。
だが……
「で、でも。風俗店まで移植することはないじゃないか」
「あら? グルービーの残したお店がいっぱいあったのよ? 他の商業施設がみんなピュリスに引っ越すのに、風俗店だけ残しておいたら、お客が来なくて干上がっちゃうんじゃないかしら。それに、私が呼んだんじゃなくて、向こうから頼み込んできたのよ」
「おかげで僕が、色街のボスってことで、変態王とまで言われたんだぞ」
「それはよくないわね。黙らせようかしら。誰が言ったの?」
怖っ……
目を丸くする俺の目の前に、ドンと鉄の皿が置かれた。ステーキがジュウジュウいっている。
視線をあげると、そこには見覚えのある顔があった。
「セーン料理長!?」
「ふん」
驚く俺に、彼は鼻を鳴らしただけだった。だが、口元は微妙に笑っている。
彼がここのレストランを仕切っている?
「なぜ、ここで?」
エンバイオ家を解雇されたことは知っていたが、よりによってこんなところで働いていたとは。
彼らしくも無駄口を叩くことなく、手を軽く振ってすぐ厨房へと引き返してしまった。彼は接客をする人ではないから、俺の顔だけ見にきたのだろう。ただ、客が他にもいるから、喋る時間を取れなかった。
「言い忘れたけど」
珍しくも、ノーラが悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「ファルスの知り合いの方々……先のエンバイオ家から出た人の中でも、有能な方については、リンガ商会でお仕事していただいているわ」
人材は逃さず、といったところか。
なんか、グルービーを思わせる目敏さだ。
「今日はもう、遅くなっちゃうから、皆さんにご挨拶するのは明日のお昼にしましょう。この隣のファルスホテルのファルスルームに部屋を取ってあるから」
俺はもう、黙って頷くしかなかった。
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