新たなる色の街

 かすかな揺らぎの中で、目を覚ました。

 ベッド一つ分のスペースしかない個室。収納スペースも、このベッドの下だけ。天井も低い。大柄な男なら、座ったままでも手が届いてしまう。

 これでも上級船室だ。ハンモックなんて気の利いたものはない。というより、陸上と同じ格好で眠れることが贅沢であると、そういう考えに基づいて備品が用意されているような気がする。

 壁際の、小さな木窓を押し開ける。途端に、目に見えない波の飛沫が鼻先をかすめていった。


 快晴だった。それに穏やかな南風。この分だと予定通り、今日の昼には、ピュリスに到着するはずだ。

 それにしても恨めしい。落ち着きある横風を受けながらの快適な航海。問題など何一つ起きなかった。俺の人生、いつもこんな感じだ。行きたい、進みたい、と願うと障害物が現れ、憂鬱だ、行きたくない、と思うとズンズン前進してしまう。


「ふぅ」


 飛沫に、俺の吐息が混じる。

 外洋の海水には、浜辺に特有のあの臭いがない。ただただ清々しい。


 厄介事を振り切った。それだけでも喜ばしい。イングリッドの、あの無意味ないやがらせに付き合うのも終わり。マリータ王女に気を遣うのもおしまい。

 それと、なぜだかわからないが、俺を追いかけ回していたらしいハゲも、まさかここまでは追ってこないだろう。これもよし。

 だが……


 どうしよう。いや、結論ならもう、決まっている。

 俺はまだ、目的を達成していない。ゆえに、どんなことがあっても出発する。この点だけは、妥協できない。マルトゥラターレには悪いが、彼女の身柄の保護を頼むより、こちらのほうが優先度は上だ。たとえ知人に迷惑をかけることになっても、これだけは譲れない。

 しかし、本当のことも説明できない。大義名分がつけられる旅ではない。これがそれこそ「復活した魔王を討つため」みたいな正義の戦いであれば別だが、俺の目標は「不死身になって行方不明」なのだ。つまり、迷惑も心配もかけっぱなしでいなくなるつもりでいる。


 ……自分で自分の我儘さを再認識すると、また溜息が出る。


 だからって、人に譲って我慢して周囲に配慮し続けて、自分に嘘をつきながら歳を食って死んでいくのか? それも違う気がする。もう、それは散々やってきた。

 なので、ハッキリ言おうと思う。理由なんかどうでもいい。関係ない。とにかく俺は旅に出る。目指すところに行く。認めないといわれても、俺のことは俺が決める。


 うん、これだ。

 うっすらと白い雲のかかる青空を見上げながら、俺は一人、頷いた。


 それに、希望的観測というか、楽観的になってもいいんじゃないかと思う。ピュリスに到着して知人に出くわしたら、彼らに足止めされるんじゃないかと、そう心配しているわけだが、案外、的外れかもしれない。


 そこに思い至ったところで、ハッとした。


 例えば、ノーラだ。俺がもう十一になったから、彼女はもう半年もしないうちに十二になる。俺がいない人生を、既に一年以上、生きているのだ。しかもそこは、淫らなグルービーの屋敷ではない。まっとうな大人達に囲まれて、美しい市街地の真ん中で暮らしているのだ。

 とすれば、意外と大きな変化があったりするのかもしれない。今の時期の一年は、本当に大きい。思春期の入口にいるのだ。新たな夢に目覚めていてもおかしくないし、憧れの若君なんかを見初めちゃったりとか……俺としては少々白けるような思いもないではないが、彼女自身の幸福を考えるなら、それは素敵な一歩だ。


 としたら、どうだろう?

 俺がいきなり顔を出すというのは、むしろ却ってよくない可能性もある?


 窓際から離れて、ドスンとベッドの上に腰掛け、腕組みする。

 これはあまり考えていなかった。


 そうだ、今回の帰国は急なものなのだし。俺がこの船でピュリスにやってくることを知っている人はいないはず。


 なら、いっそどこかに宿を取って、様子を見るか?

 で、既に俺が「過去の人」になっていると確信できたら、マルトゥラターレに手紙と持参金を持たせて、なんなら一人で送りつける。

 まともな人に預けられるなら、金だけ取られてポイなんてことにはならないだろう。


 ただ、誰に任せるかが難しい。

 というのも、彼女が亜人だからだ。これだけで、いつもなら真っ先に頼れるはずの宗教施設の敷居が高くなる。何かにつけ、手を貸してくれた女神神殿のザリナなんかにも、話を持っていきにくい。逆にセリパス教は……リンは、どっちに転ぶかわからないところがある。自国の不始末が原因なので、機密保持も兼ねて、預かるだけならしてくれるだろう。ただ、彼女が亜人に強い差別意識を抱いていた場合が気がかりだ。

 じゃあ、マオ・フーか。いや。彼も人格者なのだが、相手が「人間以外」となると、やはり安心できない。何しろ格闘家として、また冒険者として、無数の魔物を狩ってきた人物なのだ。マルトゥラターレがそれらと同じようなものに見えないとも限らない。

 ジョイスとサディスは? 人間性はともかく、能力に問題がありすぎる。あいつ、ちゃんと生きていけているんだろうか。


「むむむ……」


 弱った。

 どうやら、甘く考えていたようだ。

 店長? いや、負担が大きすぎるか。一介の市民に国家機密。ちょっとした事件だ。

 そういえば、ピュリスの総督も変わっただろうから、エンバイオ家もいない。いても王都かレーシア湖畔だろう。サフィスは建設大臣に就任しているだろうから……

 ガッシュ達も、もうここにはいないし。


 あれっ……

 案外、頼れる人がいない? ノーラくらいしかいなかった?


「待て待て待て待て」


 焦りながら、頭を掻き毟る。

 王都まで行って、カーンに頼む……でも、彼が家宰をクビになっていたら? でなくても、もしマルトゥラターレが変に利用されたら。第一、彼女は機密情報だ。なら、同じ理由で、王都にいる顔見知りの貴族達にも相談できない。じゃあ、もっと目立たない場所……ああ、でも、ミルークは収容所を引き払ったらしいし。では、ティズ?

 南方大陸に近い上に、対岸に支配的な勢力を振るうサハリア人豪族の庇護下。いつか同族を探しに行きたい彼女にとっては悪くない。その目的を果たせるなら、彼女としては、自らティズの手駒になっても本望だろう。だけど、俺はまだ、彼と面識がまったくない。人柄もわからない。


 ええい。今、悩んでも仕方ない。

 まずはピュリスを偵察しよう。それがいい。


 問題を脇に押しやると、俺は二度寝を決め込んだ。


「まずは宿をとろうか」


 波止場に降り立つなり、俺は肩に手を置くマルトゥラターレにそう告げた。

 金貨は二人で無理やり背負った。人に任せるのは怖いし、他にどうしようもない。幸い、マルトゥラターレの身体能力は『鼓舞』の魔術で一時的に引き上げることができている。時間切れになる前に荷物を置いてしまえばいい。


「宿? どうして?」

「ああー、うんと、その」

「ファルスはピュリスで暮らしてたって聞いてる。だったら、家に行けばいいのでは」

「いや、それがね……僕の部屋がもうないんだ」


 必死に言い訳を並べ立てる。


「出発の時に、僕の部屋を知人に貸しちゃったから、今、帰っても、寝られる場所がないんだよ」


 嘘ではない。

 ノーラ、ジョイス、サディスの三人で、あの家はもう満杯だ。


「今日、帰ってくることもみんな知らないしね。だから、宿に入ったほうがいい」

「わかった」


 よし、これで第一段階クリア。

 ほっと息をつき、やっと景色が視界に入ってくる。


 それにしても、随分と様変わりしたものだ。


 俺がこの街に来て間もなかった頃、この波止場には、やや古びた倉庫がいくつかと、その間に植え込みがあるばかりだった。

 だが、今は都市計画のせいもあって、大幅に改造されている。まず、波止場と倉庫の間にあった植え込みは、すべて撤去された。あの、リリアーナのハンカチが落ちていた場所のもだ。残っているのは、西側にあった丈の高い木々だけだ。

 倉庫も、いくつかは建て替えられている。場所が変わっているのもある。その理由は、港湾地域の上を横切る専用道路のせいだ。


 あの専用道路。俺がサフィスの代わりに再建計画を考えた時に付け加えたものだ。上下二段に分かれた構造になっていて、上のルートは馬車専用だ。スロープを駆け上がると、そのまま何にも遮られることなく、まっすぐに中心街……前に三叉路のあった辺りに辿り着ける。

 ここから見ると、かなりの高さに駆け上がるように見えるのだが、ピュリスの中心街は、小高い場所にある。女神神殿の裏手の断崖絶壁を思い出すといい。だから、ここまで目的地と同じ高さの道路を延ばしたというだけなのだ。

 中心部に入ったら、そこからはいわゆる環状線だ。一方通行の道を右回りに走りながら、行きたい方向の道を見つけたら左折する。俺なりの渋滞緩和策だった。交通事故もかなり減ったはずだ。

 下のルートも中心街に出るのだが、高低差の関係上、途中で地下道になる。頭上を馬車の専用道路が通るので、そこと交叉する形だ。横断歩道はない。せっかく人と馬車の通る道を分離したのに、それではもったいないからだ。それにこの世界、信号機もない。常に人員を配置するのも高くつく。


 専用道路の下に足を踏み入れると日陰になった。途端にひんやりとした。

 安全性を考えて、分厚い石柱が並んでいるので、日差しが入る箇所が少ない。それでなくても、東西に伸びる通路で、南側には障害物となる建物がいくつもある。ただ、南国のピュリスだから、夏場を思えばこれくらいのほうがいい。


 薄暗い地下道を抜けたところで、道の左右に衛兵が立っているのに気付いた。もうここは、環状線の内側。いわゆる中心街だ。

 治安に防疫と、様々な目的を兼ねて、俺はこの中心街を太らせた。外からピュリスにやってきた旅行者は、必ずこの内側に誘導される。以前は街の北側にまで分散していた宿泊施設なども、すべてこの内側に引越しすることになった。当然、悪臭タワーを含む売春窟もだ。

 制御できない犯罪者は、しばしば外部からやってくる。その土地の社会に所属していない人間は、なんでもできてしまうからだ。ゆえに、この内側に隔離する。この中心街から出られるルートは、馬車を除けばすべて地下道経由だ。そこに警備員が張り込んでいれば、まず取り逃がさない。

 地上から馬車に乗れば、もちろん出ることはできるのだが、これも抜かりはない。乗り入れ可能な大通りには、それぞれ大きな門が用意されている。非常時には、いつでも閉鎖することができるのだ。


 しかし……


「っと、これは」

「どうした?」

「あ、いや、見覚えがないな、って」

「なぜ?」

「僕がいないうちに、かなり作り替えられたなぁ、って」


 白亜の街、ピュリス。このコンセプトは、非常に重要だった。だから、少なくとも海から見えるところは、すべて白い石材で覆うことにした。だが、どうしても石材の調達が難しいと、そういう話は当時から聞かされていた。

 で、今はこれだ。


 中心街に踏み入れたのはいいが、壁や石畳の色が全然違う。この辺りは、くすんだ黄土色の石が多い。恐らく、壁の内側だけ、そうなのだろう。遠目に見た限り、外側は白一色だった。

 位置的には中心街の東端なのだが、そうなると俺が前に暮らしていた家は、ここからいくつか通りを抜けないと、見つけられないだろう。旧幹線道路から一本、内側に入った辺りにあったから……


「何かいろいろな臭いがする」

「ここ、飲食店が多いからね」

「それだけじゃない。人が多い」


 新たな市街地の割には、既にとっくに汚れ始めていた。といっても、ゴミが散らかっているのではない。そうではなく、道行く人に踏みしだかれて、当たり前の風景になってしまっている。真新しさというものが感じられないのだ。


「お腹空いた?」

「まだ平気」

「じゃあ、まずは宿を探そう」


 これだけ店があれば、どこかは空いているはず。

 その辺の酒場の主に声をかければ……


「済みません」

「へい、らっしゃい!」


 元気な返事をしたのは、痩せた小男だった。頭には、赤いサハリア風の帽子をかぶっているが、髭はない。とすると、本国のサハリア人ではなく、少なくとも移民二世だ。表情はカラッとしている。商売が繁盛している人の顔だ。


「お部屋を借りたいのですが」

「はいっ?」

「今夜、泊まるところを」


 すると、彼は怪訝そうな顔をした。


「ウチじゃやってないよ」

「酒場と宿屋は併設してないんですか」

「なんだい、お前さん、おのぼりさんかい?」

「えっ? ええ……」


 なんだ?

 俺の知らない間に、何かルール変更でもあったのか?


「そんな大荷物だもんなぁ。ここ、いいかい? ……あっち。よく見てみな。外壁の色がすこーし違うだろ」

「はい」

「あの、ちょっと灰色っぽいところな。通りを渡ったところが、宿屋街だ」


 なんと、そこまできれいに切り分けているのか。

 これは俺の計画にはなかった。


「酒場と宿屋が一緒になったのは、もう何軒もないよ。宿屋は宿屋、飯屋は飯屋。分けろってお達しでね」

「へぇ?」

「ホラァ、あるだろ? 夜中に寝てるのに下でうるさいとかさ。だから、去年、街の主の鶴の一声でね」

「街の主?」


 なにか、どこかで聞いたような言葉だった。


「それって、新しい総督ですか?」

「何言ってんだ、坊主」


 俺の返答はまるっきり見当外れだったらしい。

 彼は肩をすくめて首を振った。


「この街のボスが誰か、知らないのかい?」

「えっ、はい」

「そりゃ総督はピュリスの元締めさ。だけど、ここ中心街のボスは……」


 目を丸くしたまま聞き入る俺に、彼は言い放った。


「……なんと、ファルスっていう、十歳そこそこのガキンチョだっていうのさ!」

「ええっ!」

「な? 驚くだろ?」


 口をパクパクさせながら、俺はしばらく硬直していた。


「あ、あの、おじさん」

「おう」

「おじさんは、いつからここに?」

「あぁ、俺はエキセー地方から越してきたんだ。何年もここに住んでるわけじゃないよ。そういう奴は多いな。特にコラプトから来たってのが。ホラァ、ティンティナブリアがダメになったろ? あれのせいさ」


 じゃあ、これ以上の情報は持っていないか。

 いったい、どういうことだ? ファルス? ファルスという名前なら、いくらでもこの世にいるはずだが、しかも年齢も俺と同じくらいとなると。


「ま、でも、知ってることを教えてやるよ」


 キョロキョロする俺に、彼はゆったりと構えつつ、教えてくれた。


「ここ、東側は飲食店が多いな。この、黄色い壁がおおよその目印だ。ちょっと南側に出ると、今度は灰色の石材が壁や道路に使われるようになる。そこが宿屋街。あ、渡る時には気をつけろよ。飯屋街と宿屋街の間には、馬車が入れる道路があるから」

「は、はい」

「んで、そんな感じでいろんな街区が、まぁ、店の種類ごとに、まぁるく細切りされて並んでるんだが……街の真ん中に近付くほど、値段が高くなる」

「高級なところ、ですか?」

「ま、見りゃわかるさ。ど真ん中の黒い広場のすぐ近くにゃ、貴族様の料理を出す店だってあるんだ」


 なんてことだ。これでは俺の土地鑑なんて、もう役に立ちそうにない。どれだけ変わってしまったんだ?


「なんか、いろいろありがとうございました」

「なに、いいさ。それより」


 カラッとした商売用の笑顔を浮かべると、彼はまくしたてた。


「昼時なんだが、小腹が空いてやいないかい?」

「あ、う」

「串焼き四本! 持ってきな!」

「あ、あり」

「銀貨一枚! 毎度ぉ!」


 ……そうして、二人して串焼きを頬張りながら、トボトボと南に向かって歩いた。


「なんか、ごめん」

「うん?」

「全然、街が別物になってた」

「うん」


 しかも、それだけではない。街の主だって?

 くそっ、どこのどいつが俺の名前を騙って……!


 結局、俺とマルトゥラターレは、宿屋街の半ばくらいでやっと宿泊できる場所を見つけた。案の定、安宿は目敏い連中に占められてしまっていたし、それにそもそも、個室が取れないようなところで寝泊りする気にもなれなかった。俺だけならいいが、大金もあるし、同行者の安全を考えれば、仕方のないことだ。

 それから俺は、一人で外に出た。なんとしても街の様子を把握しなくてはいけない。何がどこにあって、どういう経緯でこんな改造がされたのか。わからないことが多すぎる。


 まずは、中心街の中枢、黒い広場なる場所に行ってみることにした。


 なるほど、中心街を形成する円の中心に向かうにつれて、通りと通りの間の敷地の幅は狭くなり、なのに逆に店構えは大きくなる。必然、店舗数が急減する。

 外壁に使える石材には制限があったらしく、宿屋街を中心へと遡っていっても、どれもこれも灰色ばかりだ。但し、看板などの色合いやデザインに規制はなく、それがそれぞれの店舗の個性になっていた。

 しかし、よく見るとなかなか厳しい。立て看板はどれも小さかったし、どこでも店の入口に一つあるだけだ。道路にはみ出す形で好き勝手に物を置いているような場所は、まったくなかった。

 但し、二階以上の高さなら、割と好き勝手にしていいようだった。大通りの向かい、飯屋街の一角には、大きな赤い旗を二階の屋上から提げているようなところもあった。


 ちょっとだけ寂しさのようなものを感じた。

 この辺にあった小さな家屋は、どれもこれも撤去され、或いは移築されてしまったのだろう。もちろん、そこの住民はいまだにピュリスにいるのだろうが、きっと北東部の新街区に移住したはずだ。特に彼らと面識があったわけではないが……

 今、この中心街を占めているのは、俺がいた頃の人々とは違う。ほとんどがニューカマーなのだ。


 しかし、街の主、か。

 なるほどな、とも思う。


 こんなにきれいな街は、他にはない。ゴミ一つ落ちていないなんて。普通はこうはいかない。例外があるとすれば、アヴァディリクくらいなものだ。

 少々息苦しくはあるものの、街のルールもきっちり決まっている。通行人の歩行の邪魔になるような看板の設置は許さない。無駄な人の移動をなくすために、施設の種類ごとに出店を許可する区域を厳しく定める。すべての大通りが丸い中心街の真ん中の広場と繋がっているので、どこにいても道に迷わずに済む。

 外部の人間にとっての利便性を向上させ、ひいては街全体の価値を高めるために。たった一年ちょっとの短期間で、よくもここまでやり遂げたものだ。


 ついに道が途切れた。


「黒い、な」


 足下は、黒一色だった。光沢のない黒い石材が隙間なく詰め込まれている。あちこちの大通りの終点がここで、先のすぼまった狭い敷地には、この後に広がる高級店のエントランスだけが口を開けていた。ほとんどの一階部分は半屋外になっており、自店の敷地内ということで、ボードや植木鉢など、飾りになる物なら何でも置いてあった。

 ざっと見て、レストラン、ホテル、武具屋、それに宝石店……どこもかなり値が張りそうなところばかりだ。そして、これらの店舗はどれも、広場側の外壁に光沢のある黒大理石を用いていた。また少なくとも四階建ての高さがあった。そのせいで広場の真ん中に立つと、黒い壁に取り巻かれているような印象があった。

 そうした建物の中で、南側に聳え立つ黒いビルは、異彩を放っていた。他より丈も高かったが、それだけではない。他の店舗はどれも、適度に窓を開けている。中央の広場を見下ろせるよう、ベランダを備えているようなところさえある。ところが、南の一角を幅広く抑えたそのビルだけは、窓が一つもない。それどころか、一階部分を見ても、入口になりそうなところが、すぐには見当たらなかった。

 その不気味な建物から目を離し、再び広場の中央に目を向ける。そこにも、黒大理石で作られた構造物があったからだ。


「……噴水?」


 丸い枠の中に、荒く削り取られた黒大理石が突き出ている。その頂点から、絶え間なく水が噴出していた。

 まるで水滴が遊びながら舞い踊っているかのようだ。ふと、シーラのことを思い出した。足で小川の水をバシャバシャやりながら、教えてくれたっけ。ああやって水が撥ねることを、『ルン』というのだと。


 近付いてみると、文字が刻まれているのに気付いた。


『女神暦 九百九十五年 蛋白石の月 竣工 リンガ広場噴水』


 リンガ?

 なんだって?


 おかしい。いったい誰の差し金だ?

 ファルス・リンガ。つまり、俺のことだ。だが、俺は街の主なんかではない。今年の一月には、まだ魔宮の中を彷徨っていた。こんなものを建てるなんて、できっこない。

 まさかタンディラールの差し金か? いや、さすがにそれもおかしいような……


 気を引き締め直して、俺は広場を見渡した。

 そこでふと、とある通りが目に付いた。


「なんだ? 赤い……」


 黒一色の中に一箇所だけ、鮮やかな紅色が浮かび上がっていた。

 横から見るとアーケード? いや、鳥居みたいな感じだ。

 それが通りの入口に突き立っている。


 いったいここには何が……


「ブッ!?」


 通りから飛び出してきた人と、ぶつかってしまった。

 俺としたことが。調べるのに夢中で、警戒するのを忘れていた。


「おっ? あ、悪い、平気か?」


 目の前には、爛れた遊び人といった風情の男がいた。だが、身なりは悪くない。渋みを感じさせる若草色の上着に、見栄えがシャープな紺色のズボンを穿いている。服装から判断するに、富裕な商人といったところか。


「え、ええ。済みません、前を見ていませんでした」


 慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「ん? お前……どこかで会わなかったか?」

「いいえ? 初対面かと」


 いや、頭の片隅で、なんだかどこかで出会ったような気はするのだが……

 思い出せない。誰だったっけ。


「いやぁ、俺もさぁ、前見てなかったから。ついつい目移りしちまってなぁ」

「目移り?」

「なーにトボケてんだ。お前もココ目当てなんだろ?」

「えっ?」


 すると彼は、もと来た道を指差した。


「けど、よく見るとまだ若いな。いくつだ?」

「じゅ、十一です」

「じゃー、ちっと早ぇな」

「なっ、何が?」


 彼は、一度溜息をついてから、片手でガッシリと俺の肩を掴んだ。


「ま、社会勉強ってところか」

「はいっ?」

「見るだけだぞ?」


 ずいっと押し出されて、俺はその通りをまっすぐ目にした。


「ほへっ?」


 なんだ、これは?


 赤みを帯びた石に路面を飾られたこの通り。だが、他と違うのは、そこだけではなかった。

 飯屋街でも、宿屋街でも、路上に看板その他を配置するのには、厳しい制限があった。ところが、ここはどうだ。店の軒先から堂々と大きな布を広げて、それを道路の半ば近くまで伸ばしている。その布の色合いも様々で、白いのもあり、赤いのも、青いのもある。緑もあった。

 そして、どこからともなく鼻腔をくすぐる……これは、香水?


「そそるだろ?」

「そそるって、何が」

「だーからトボケんなって」


 とぼけてなんて……あっ。


「まさか、ここって」

「おう。浮世の泥を洗い流す、言ってみりゃ男の聖地だな」


 聖地じゃなくて、性恥だろ。

 これ、コラプトの、あのグルービーがこさえた風俗街と同じだ。


 しかし、まだ昼下がりだっていうのに、こいつはこんなところをウロウロしているなんて。とんだ不良商人だ。


「なんでここに?」

「ん? お前、さては田舎者だな?」


 この街の住人だったのだが、ここはあえて否定する意味もない。頷いた。


「聞いて驚け! ここはな、失われた楽園が甦った場所なんだ!」

「ら、らく……?」


 いきなり男の熱弁が始まった。


「フォレスティアきっての偉人、ラスプ・グルービーの死は、我々にとって手痛い損失だった!」

「は、はぁ」


 我々って誰のことだ。お前はいいとして、俺は含めてないよな?


「彼が創設した、世界一の風俗街も、消え去るしかなかった!」

「い、いいんじゃないですか」

「よくないっ!」


 通りの前に立ち、両手を振り上げて。

 お前はいったい、何に人生を捧げているんだ。


「ティンティナブリアもダメになっちまったし、もう、男の夢は潰えるのを待つばかりだった……」

「いや、だからそのまま滅べばいいんじゃ」

「だが、そこに救世主が現れたっ!」


 まさか……


「そう! その男の名は変態王ファルス・リンガ! 我らがラスプ・グルービーの正統なる後継者っ!」

「ブハッ!?」


 嘘だ!


「街の主ファルス・リンガは、なんと僅か十歳の若さにしてこの街の再建設を指揮。消えかけていたグルービーの色町を、見事にここに移設したのだっ!」


 なんで?

 俺、何もしてないのに!


「偉大な変態が、若き性欲の権化が! 真っ白で退屈なピュリスを天幻仙境に作り変えたのだっ!」


 いやだ!

 違う! 俺じゃない!


「万歳っ! 変態王ファルス・リンガ、万歳!」


 やめて……もう、やめて……


「ま、いくつかは廃業したり、他所に移転したりもしたらしいから、完璧な再現じゃないけどな」

「そ、そうなんですか」

「ああ。ここのナンバーツーがな、黒の店だけは廃止っつうんで、そこはもう、しょうがない」


 黒の店。つまり、薬物をキメながらのプレイを楽しむ場所のことだ。

 それもそうか。グルービーみたいな薬物の専門家もいないのでは、迂闊にそんな商売はできない。それでなくても、健康的ではなさそうだし。


 いや、ポイントはそこじゃない。

 ナンバーツーって、誰だ?


「おかげで今じゃ、ピュリスがナンバーワンだ。フォレスティアなら、疑いなくここが一番エロいスポットといえるな」


 でも、そういうことだったのか。

 王女が俺を変態呼ばわりしたのは。エロい商売をする人間なら、いくらでもいる。だが、わざわざ貴族の手下になって、腕輪まで授かってから、こんな大々的にやらかす奴なんて、他にはいないから。ましてや十歳の若さでとなれば。

 しかも、オマケに「女連れ」だった。マルトゥラターレのことを一切説明せず、ごまかし続けた。こうなるともう、商売で女を扱っているのではなく、この俺、ファルス自身が女好きなのだと、表に出せない女を、旅行中でも囲っていないと気がすまないのだと……そう解釈されてしまったわけだ。


「っと、話し込んじまったな。悪いけど、そろそろ行かせてくれよ」

「あ、はい。いろいろ教えてくださり、ありがとうございました」

「あと五年後に生かせよ。じゃあな!」


 立ち去る彼の背中を、俺は呆然と見送るばかりだった。

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