子蛇姫の気まぐれ
目を開ける。落ち着きのあるクリーム色の天井が目に映る。上半身を起こすと、大きく欠伸をした。
有名税の支払いも、とりあえずはこれで片付きそうだ。
昨夜は本当に肩が凝った。ファルスを見送る会とかなんとか言われて、王家のホームパーティーに参加しなくてはいけなくなった。
何が気持ち悪いって、形ばかり別れを惜しむふりをしながら、内実は悪意に満ちていたことだ。イングリッドのあの、人を小馬鹿にしたような視線は、忘れようにも忘れられない。結局あっちに戻るのね、と言わんばかりだ。といって、この二週間近く、俺を本気で口説き落とせると思っていたのでもないのだろうに。
ヤノブル王も、なんというか、怖かった。フン! とそっぽを向きそうな雰囲気が滲み出ていた。そそくさと顔を出して、またすぐいなくなったし。
マリータ王女はというと、別の意味で怖かった。一言も口をきかないのに、じっと俺を見ていた。なんなんだ、まったく。
その点では、そっけなかったとはいえ、ルターフ王子は気持ちがよかった。率直に仕官の希望の有無を確認しただけで、あとはそっとしておいてくれた。
とにかく、終わった。
あとはこのまま、王都の南端にある大きな駅舎から、専用馬車に乗って王都を出る。幹線道路を南に走って、何日もしないうちにパラブワンだ。そこから船に乗れば、すぐピュリスに着く。
本当は、帰るつもりなどなかったのだが。こればかりは頭が痛い。
再出発のための言い訳を捻り出さねばならないが、なかなかに難しいのだ。以前には「未来の騎士たる自分を鍛えるため」と言い張った。しかし、黒竜を討ち果たしてしまった。もちろん、一人でやったわけではないが、主討伐者になってしまった以上、俺の手柄ということだ。竜を討った少年が、まだ未熟だから鍛錬の旅に出ます……いやいや、いらないだろ、と言われてしまう。
何がそんなに不安なんだろう。
このまま帰ったら、きっと……
……そうだ、ノーラがいる。
彼女が怖い。なぜか説明できないが、とにかく彼女は喰らいついてくる。絶対に見逃してもらえない。そんな気がしてならない。
まあ、考えても仕方がないか。
とりあえずは、この不毛な宮廷生活の終わりを喜ぼう。
最後の朝食を済ませ、お仕着せではなく、ボロボロになった旅装に身を包む。やっぱりこっちのほうがしっくりくるし、落ち着ける。
フードを被ったマルトゥラターレを伴い、後ろに金貨の袋を台車に乗せて押すホテルマンを引き連れながら、ロビーに出た。
春になったというのに、白い大理石の床は、やけにひんやりしていた。建物は大きいし、ロビーもやたらと広い。直接日差しが入ってこないので、照明はあるものの、微妙に薄暗い。
それに金メッキの柱の間から、何かお香のようなものがじんわりと嗅ぎ取れる。早朝特有の静けさ、空気の流れのなさもあってのことか。
嫌な気分ではない。
旅立つ時の、なんとなく心の泡立つ感触が、むしろ心地よい。
「行こうか」
「うん」
もう、迎えの馬車が待っているはずだ。
それで俺とマルトゥラターレは、勢いよくホテルの正門から踏み出した。
「ふぇっ」
その直後に、俺は間抜けな声をあげていた。
群青色の侍従の制服を身に着けたカフヤーナ。これはいい。
なぜ、そのすぐ横にもう一人の少女がいるのか。同じく青い制服に身を包み、頭には目深く帽子をかぶっている。身分をカムフラージュするためだろうが……
「でっ、殿下?」
マリータ王女だった。
俺は咄嗟に、カフヤーナに視線を向けた。彼女は少し申し訳なさげに横を向いた。いいから説明しろ。
「ファルス」
以前と同じく、高圧的な口調で、王女は俺に命令した。
「城下町を案内なさい」
「はぁっ?」
「耳が悪いの? 案内なさい」
「いっ、いや……」
何を言っているんだ。
意味がわからない。なぜ余所者の俺が、この街に住む人間に、案内できると思っているのか。
「殿下、僕はレジャヤの城下町なんて、出歩いたことがないんですよ」
「あっ、そう」
「むしろ、逆ではありませんか。殿下こそ、この街のことをよくご存知なのでは」
そこにカフヤーナが割って入った。
「申し訳ありませんが、殿下は……街中に出られるのは、これが初めてでして」
「はいっ!?」
なんとまぁ。
本当の本当に箱入り娘ということか。
「ですから、私がご案内します」
「だったら、お二人で勝手に見てまわれば」
「ファルス様にも、ご同行いただきたく」
「僕、出発が」
「昼までには、駅舎にお送り致しますので」
やれやれ……
四人の中で、多少なりとも街中のことを知っていたのは、カフヤーナだけだった。それで彼女の案内で、御者が馬車を走らせる。といっても、同行者の身分が身分だ。出歩ける場所には限りがある。
ほどなく到着したのは、だだっ広い公園だった。
大きな切り株を模した円筒形のお立ち台がある。そこを中心として、あちこち放射状に溝が引かれ、緑色の石が敷き詰められている。そこここに腰掛けくらいの高さの花壇が備え付けられていて、色とりどりの花々が舞台の上を仰ぎ見ていた。一番外側には、直立する緑の木々が立ち並んでいた。市街地が見えないのはもちろんのこと、騒音すら聞こえてこなかった。
公園のこの一角は、車馬の乗り入れは許されていないらしく、カフヤーナは御者に停車を命じ、王女を伴って地面に降りた。俺も従った。
「せっかくレジャヤまでいらしていただいておいて、お目にかけるのが王宮だけでは申し訳ありませんので」
カフヤーナが眼鏡の縁を押し上げながら、少しばかり得意げに言った。
「この『解放広場』にもお連れした次第です」
「解放? じゃあ、あの切り株みたいなのは」
「ええ、新王家のはじまりの地が、ここなのです」
フォレスティア王家には、一千年以上もの歴史がある。あるのだが、その初期は恥辱に塗れている。レジャヤの岩山を拠点に着々と勢力を伸ばしていた頃はいい。だが、そのうちに西方から強大な敵が押し寄せてきた。セリパシア帝国だ。
六代ウォドス帝の時代には、帝国は既に強大だった。今の神聖教国の領土に加え、マルカーズ連合国の大半、それに現ワディラム王国のほとんどを占めるほどの領域を支配下に置いていたのだ。
これに引き換え、当時のフォレスティア王国はというと、今のシモール=フォレスティアの半分くらいしか、把握していなかった。しかも、あちこち未開発な状態のままで、国土のかなりの部分が、深い森に覆われていたのだ。
国力の差は明らかで、だから当時のフォレスティア王家は、干戈を交えず帝国の軍門に降り、属国として立ち回りながら、東方に勢力を拡張することにした。それは賢明な判断だった。
海賊討伐の後、西を目指すことにしたギシアン・チーレムは、まずは西方大陸の内海に入った。現ピュリスは、当時は寂れた港町でしかなく、トーキアに至っては魔物の領域だった。スーディアには、ろくに近寄りもしなかったらしい。何しろあそこは、千年以上前から紛争地帯だったのだから。
ようやくシモール=フォレスティア側の港から上陸して、そこから一路、北上してレジャヤを目指した。既に時空の女神の化身であるクロノアを伴っていた彼の目的は、王への協力要請だった。つまり、真なる女神はここにいる。この地の統治者ならば、これに帰依して世界平和の実現に尽力すべきだ、と。
だが、当時の王は、玉座に座り込んで身を縮めるばかりの、無気力な老人だったという。ギシアン・チーレムは助けも得られなかったが、捕らえられたりもしなかった。それから彼はセリパシアの深部を目指して旅を続け、最後には北方を大回りして、チーレム島に逃げ帰ることになる。
その後、いろいろあって、東方大陸のインセリア王の支援を取り付けたギシアン・チーレムは、ついに挙兵する。彼が選んだ侵攻ルートは、当時のオロンキア盆地を経由する、アルデン帝の道を逆走するものだった。
この時、ここレジャヤで、状況の変化を悟った王族がいた。ヴァル・レイウェフ・レージェ第三王子。王子といっても、父王の高齢もあって、既に壮年に達していた。
彼は、兵士達を集めた。そして、まさにこの場所に生えていた大樹を刈り倒させ、その切り株の上に立って演説をした。時代は変わりつつあるのだと。
クーデターによって王位を奪い取り、彼はギシアン・チーレムの味方になる選択をした。その結果が今だ。
フォレスティアは「戦勝国」になった。彼の娘の一人がギシアン・チーレムの妃妾となり、その子孫が代々の王位を引き継いだ。
領地も大幅に増えた。セリパシアの支配領域だったマルカーズ連合国、それにティンティナブリア、エキセー地方も手に入った。しかし、支配の実態はなかった。だからこそ、国家は三分割されて、西方と東方の司令部がそれぞれ独自に統治を行った。これが諸国戦争で、また別々の国家として独立することになったのだ。
本来なら、横紙破りの簒奪でしかないのだが、そこに英雄の神性が覆いかぶさったおかげで、レイウェフ王子は「正統な王」になった。
これが現代まで続く、フォレスティア「新」王家のはじまりとなった。解放広場、つまり帝国からの解放を始めた場所だから、そう呼んでいるのだ。真ん中の、切り株を模した舞台の上は、その由来のために、許可なく王家以外の人間が立ってはいけないことになっている。
「どう?」
不意に声をかけられた。
マリータ王女だ。
「どう、と言われましても」
「感動した?」
お前も来るのは初めてだろうに。
「ま、まぁ、歴史的な事実を思い返すと、感慨深いものはあります、ね」
「そうでしょ!」
お国自慢が悪いとは思わないが、彼女にその資格があるかどうかは、微妙だと思う。確かに血筋だけは繋がっているのだけれども。
俺が返事に詰まっている横で、カフヤーナも無表情を繕っていた。だが、顔だけごまかしても意味はない。体全体が言葉を発している。彼女はまるで、寄る辺ないクラゲのようだった。
俺があまり面白そうにしていないのが気に入らないのか、マリータはいきなり言った。
「あの上、乗ってみる?」
「ちょっ」
「殿下、それはおやめください」
「どうして?」
ぐるりと上を向いて、彼女はカフヤーナを睨みつけた。
手際のいいことに、胸に潜ませたペンを素早く右手に構えている。これはもう、相当に人を刺し慣れているな。
「私、王族でしょ。乗っていいのよ」
「だからいけないのです。絶対に目立ってしまいます。少しだけですが、ここにも人がいるのですよ」
「人がいたっていいじゃない」
ああ、そういう発想がないのか。
「殿下」
俺は口添えした。
「殿下はあそこに立っても許されますが、許されるということは、王族だと自分で言っているようなものです」
「そうね?」
「せっかく目立たないようにと侍従の制服を借りてきたのに……」
「あっ」
やっと気付いてくれた。
カフヤーナが胸を撫で下ろすのが見えた。
しかし、冷静に考えてみると、これこそ接待らしい接待といえるのか。客人を名所に連れて行く。大変結構ではないか。
なんでまた、今更、とは思うのだが……
「で、では、次に参りましょうか」
俺達は再び馬車に乗る。
そうして、あちこちの角を曲がって辿り着いたのは、とある宝飾品店だった。
それは小さな店だった。
入口から中に立ち入ると、客の立てる場所は畳一畳分しかなかった。扉のあるのと反対側に小さな壊れかけた木の椅子があるが、他には何もない。
それ以外のスペースは、どこも宝飾品で埋まっていた。壁という壁には木製の格子が立てられていて、そこから金の鎖やら銀の腕輪やら、とにかくありとあらゆるアクセサリーが乱雑に吊り下げられていた。
これでよく管理が出来るものだ、盗まれたりはしないのか、と思ったものだが……すぐに二つのことに気付いた。
一つは、アクセサリーがどれもこれも古い品物だということだ。やたらと年季が入っている。その分、小さな傷や凹み、それを修復した形跡なども見て取れるのだが、むしろその古さがこれらの物品の価値を高めているのは、間違いなかった。
もう一つは、店のカウンターにさりげなく置かれた紋章だ。あれは王家御用達だけが掲示できるものだ。なぜわかるかというと、同じマークの紋章が、あのチョコレートケーキ専門店、ダングの店にも飾ってあったからだ。
「えーと、あの……?」
俺とマリータ、カフヤーナが立つだけでも狭苦しい空間だった。マルトゥラターレは中に立ち入らず、あえて外で控えていることにしたらしい。公園と違って、緑豊かな場所でもなく、嗅覚に訴えるものもなかったからだろう。
「ここは」
「さ、ファルス!」
王女が遠慮なく言い放つ。
その横で、カフヤーナは額に手を当てて、溜息をついていた。
「私に贈り物を買いなさい!」
「はぁ!?」
なんでそうなる。理解できない。
でも、断ったらペン先で刺されるんだろうな。それはいやだ。こんな狭い店内では、逃げ場もないし。
というか、普通、逆じゃないか?
客人に記念の品を持たせて送り出す。俺ならそうするのだが。
俺は、そっとカフヤーナの顔を盗み見た。
彼女は、それと気付いて小さく首を横に振った。言葉にしなくてもわかる。申し訳ない、どうしようもなかったんだと。
マリータめ。
いったいどういう腹積もりでこんな真似を。
「さあ、早く」
金銀財宝に不自由する身の上でもなかろうに。
ま、いいか。俺も今はお金持ちだ。といっても、手元に数千万円相当の現金があるだけと考えれば、大したことはない。金は気をつけないとどんどん消えていくものだから。
「はぁ……じゃあ……」
値札なんかついてない。だからって、こういう店で金額を尋ねてから買うなんて、さすがにできない。値段なんて、あってなきが如くだ。価値があるから価値がある。権威がくっついているのだから。
でも、とんでもない出費になったりしないといいが。ピュリスからまた、ムスタムに渡らないといけない。そこから内陸に入って人形の迷宮まで……それくらいだったら足りなくなるなんてあり得ないのだが、下手をすると、大森林や東方大陸まで行くことになる。場所によっては人を雇う必要も出てくる可能性があるし、無駄遣いはしたくない。
さて、どれにしよう……
「ねぇ」
「は、はい」
「ファルスって、今、いくつ?」
「十一歳です」
ついこの間、年齢を一つ重ねたところだ。
といっても、肉体のほうは少しだけ、遅れている。もう少しで追いつくだろう。
「誕生日は?」
「翡翠の月の六日です」
「じゃあ、私の一つ下ね!」
「えっと、そうなりますか」
だからなんだっていうんだか。
もう、どうでもいい。
「ねえ!」
「はい」
「あなた、騎士の腕輪をもらったのなら、十五になったら、帝都の学園に行くんでしょ?」
「そうなるかもしれませんね。それが何か?」
「なんでもないわ!」
……ということは、もしタンディラールの腹積もりのままに、俺がパドマの学園に通うようになったら、こいつが上級生になるのか。うわぁ、いやだ。
「ねぇ」
「はい」
「じゃあ、あれがいいわ」
マリータが指差した先にあったのは、彼女らしくもない、それはそれはささやかな品だった。
か細い金の鎖。くたびれた風情の金の板の上に、小さく古びた翡翠が一つ、ひっついているだけのものだった。
「殿下」
あまりのみすぼらしさに、カフヤーナが身を乗り出した。
「さすがにこのような品物では、殿下には」
「いいの」
「ですが」
「黙って」
キツいなぁ。けれども、なんであんなものを選んだのか。俺の財布に配慮するなんていう判断力はなかろうに。
カフヤーナの抗議は理解できる。姫様ともあろうお方が、いくらなんでもここまでみすぼらしいネックレスを身につけていたのでは。正直、庶民レベルでもかなり微妙な代物だ。もし、平民の男がこのネックレスを手に女性に結婚を申し込んだら、撃沈間違いなしだ。
「殿下のお望みであれば」
俺は年老いた店主に目配せした。
彼はほとんど喋らず、小さくハンドサインを示した。眩暈がしそうだ。これで金貨八十枚?
「それでは、そろそろ駅舎のほうにお送り致します……」
疲労感を滲ませながら、カフヤーナはそう言った。
見送りは、駅舎の入口までだった。
大きな木造の建物ではあるが、作りは粗末で、およそ王族が出入りするような場所ではない。あちこちに厩舎があり、そのせいか家畜特有の臭気も漂ってくる。
だが、この国にとっては大切な場所だ。王都から伸びる幹線道路の基点で、物流と情報伝達の拠点としての機能を担っている。
「ここまでありがとうございました」
俺は頭を下げた。
そうして背を向けて一歩。
「ファルス!」
背後から、マリータの声がとんだ。
「このままじゃ済まさないんだから……覚えときなさいよ!」
まさかの捨て台詞だ。
例の土蒸し料理の件が、そんなに悔しかったか。
この子蛇め……だが、覚えておく必要もなさそうだ。もう一度、会う機会があればよかったのだろうが。予定通りにいけば、その日が来る前に、俺は永遠に行方不明だ。
……残念だったな?
俺は一礼すると、マルトゥラターレの手を肩に触れさせて、駅舎の奥へと立ち去った。
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