百の対策より、たった一つの鶴の声

「どうしよう……」


 ここまで連れてこられてしまってから、はや二週間。


 クリーム色の壁。天井から吊り下げられたシャンデリア。窓ガラスの透明度も申し分ない。ベッドは大きく、羽毛布団もフカフカだ。足元の絨毯は高級なサハリア産のものらしく、黒地に朱色を大胆にあしらった、それは上品な代物だった。

 この部屋からして広いが、あてがわれたのは一室だけではない。「マルトゥラ」のための居室も少し離れた場所にある。寝室とは別に居間もあり、ダイニングもある。トイレも二箇所。一日中温かい湯が供されるバスルームまである。おまけに、裏手にはちょっとした庭園まで設えてあるのだから、もう笑うしかない。

 一泊いくらだろう? 最低でも、金貨三十、いや五十枚はしそうなレベルだ。しかも、多分これ、金だけ出したからって、庶民が利用できる宿ではないはずだ。


 シモール=フォレスティア王国の都、レジャヤ。その最高級ホテルがここだ。


「マルトゥラ?」


 もう、相談しよう。ベッドから起き上がり、彼女の部屋に向かった。


 ちなみに、この部屋は使用人付きだ。男性のコンシェルジュっぽいのがいて、他にハウスキーパーの女性が二人ほど。普通は御用聞きのために居間に待機していたりするものらしいが、今は疲れているし、プライバシーを保ってのんびり休みたいという口実で、あえて外に出てもらっている。

 それでも、うっかりマルトゥラターレの正体その他がバレたらまずいので、呼びかける時は「マルトゥラ」に統一している。まぁ、名前なんかで何がわかるはずもないのだが、ロイエ市ではそれで通していたのだし、整合性はもたせたい。変に思われる機会を減らす意味ならある。


「……あ、寝てた?」

「ん、いい。どうした?」


 亜人といえども、人は人。となれば、やはり快適なものは快適なのだ。

 これまでずっと奴隷同然の立場だったわけで、慰み者にされる時以外では、こんな高級なベッドを使ったことなどなかったのだろう。また、ここまで移動中はどうしても格の落ちる宿屋に泊まることもあったため、ここほど快適な空間で過ごす機会はなかったのだ。

 そういうわけで、彼女は頭からフカフカの布団に突っ伏して、惰眠を貪っていた。だが、声をかけられると、ベッドの縁に座り直した。


「ちょっと、今のうちに相談が」

「うん」


 人間社会に疎い彼女に話したところで、どれだけ意味があるのかはわからないが……


 国王に謁見してから、既に十日が経った。王妃は俺を捕まえて離さず、ズルズルと滞在が伸びている。

 あれから、毎日のように呼び出しがあった。大抵はイングリッド王妃と、マリータ王女のセットだ。喋っているのは王妃だけなのだが。あと、試合の翌日に一度だけ、ルターフ王子に呼び出され、一対一で面談をした。真面目に仕官する気はないか、と尋ねられたのだが、僕は未熟なのでの一点張りで許してもらった。

 彼らも暇人ではないので、面会そのものはさほどの時間もかからない。それこそ、午後のお茶の時間を一緒に過ごすだけだったりする。ただ、身分差もあり、俺は「待つ」側になる。貴人のスケジュールがまず優先で、それが前倒しになったり、遅れたりした場合にも、問題なく参上しなければならない。よって、午後のひとときを共にするためだけに、俺は午前中から王城に詰め、夕方から夜になってやっとホテルに戻ってくる。暇なのに忙しいという状況が続いているのだ。

 それが今日は、特に予定も入っていない。こういう時間の猶予のあるうちに、あれこれ方針を決めておかなくてはいけないのだ。


「まず、その……」

「うん」

「人間社会は、どう?」


 本題はまた別にあるのだが、まずこれを確認しておかねばならない。

 彼女の目標は、あくまで水の民の捜索と、霊樹の発見、そしてその保護だ。つまり、どこかで決定的に俺とは道を違えることになる。しかし、当然ながら対立するつもりなんかないし、彼女の損失になるような選択もしたくない。

 だから、俺がこれからどういう判断をするかについて、コンセンサスを取っておきたいのだ。


「うーん」


 ベッドに腰掛けたまま、彼女は左手で自分のすぐ横をさすった。


「いい、かもしれない」


 それは「いい」に決まってる。

 人間社会でも指折りの贅沢ライフの真っ只中。目に見えずとも、その高級感は味わえているはずだ。だいたい、毎日お城に出勤している俺と違って、彼女は三食昼寝付き。いい身分である。


「ここは快適だよね」

「うん」

「でも、もうすぐここでの暮らしも、終わりにしないといけないかもしれない」


 すると、彼女は一瞬、表情をなくした。


「ベッド……」


 座っているマットの弾力を、白い人差し指で確かめながら、そう呟いた。

 なんか、仕草がかわいい。


 問題はベッドだけじゃない。ここを出たら、食事もかなり違ってくる。ここなら、夜はホテルのシェフが腕によりをかけて作った最高のディナーを楽しめるが、逃避行の毎日ともなれば、生存に必要な分の「エサ」があれば御の字だ。


「食べるものも、ちょっといろいろ我慢してもらうことになるかも」

「ううっ」


 扱いがひどくなる。それはいやだと。

 随分と人間味のある反応ではないか。


 なんだか、少し彼女の雰囲気が違ってきたような印象がある。

 これまでのマルトゥラターレは、とにかくどんなに辱めを受けようとも、いつか水の民の集落を見つけるのだという悲壮感に包まれていた。だが、今の彼女からは、そんな切迫した思いが感じられない。

 もちろん、もし目の前で霊樹を刈り取ろうとする奴が現れたら、即座に覚醒して命を盾に戦うだろう。その使命を忘れたということではない。


 人間というものに対する見方、思いのありようが変わってきている、か。


 これまでは、例えばジェゴスのように、ただ彼女を奴隷のように扱う相手しかいなかった。人前でスカートをからげさせたり、気分次第で引っ叩いたり。だいたい、彼女がペットになった経緯だってひどいものだった。人間といえば、自分に暴力を振るう野蛮な相手で、それ以外の関わりをもったことがなかった。

 だが、俺と旅に出てからの人間は、必ずしもそうではなかった。カチャンは「ファルスの姉」を守るためにひどく殴られたし、亜人という正体を知ってからも、黙っていてくれた。黒竜に殺された仲間を悼むすすり泣きを耳にしたし、また一緒に酒を飲んで喜び合う姿も知った。トールトのように欲に駆られて悪いことをする人間もいたが、ちゃんとその後に謝罪があった。

 人間の世界に属するものでも、良いものは良いと感じるようになったのだろう。


 してみると、この目の前の快不快に反応する、ちょっとかわいらしい反応は、もしかすると、かつてのマルトゥラターレの自然な性格なのかもしれない。これはいい傾向だ。いつかピュリスに行ってもらう以上、そこにいる人間達と共同生活してくれなくては困る。過剰に恐れたり、嫌悪したりしたままの状態では……


 だが、その前に、乗り越えなくてはいけない問題がある。


「僕の当初の予定では、マルトゥラにピュリスまで行ってもらって、そこで暮らしてもらうつもりだったんだけど」

「うん」

「ちょっと難しくなるかもしれない」


 俺は、シモール=フォレスティア王国に仕官するつもりはない。このまま、王女様の相手を続ける気もない。だからといって「帰ります、また旅の続きをしますので」と言っても通じる相手でもない。王族とは、一方的に命令する存在なのだ。騎士の腕輪があろうがなんだろうが、彼らは俺の出国を差し止めることができる。


「どうして?」

「とにかく、いろんな意味で、ずっとここにいるのはまずい。まず、僕はまだ、旅を続けなきゃいけない。それとマルトゥラの正体とか……あの場所のこととかを、この国に知られるのも困る」


 時間が経てば経つほど『ファルスに同行しているあの女は何者だ?』と考える人が増えるはず。訪問者がトールトみたいな乱暴者なら怖くない。だが、それこそまともな貴族が礼儀正しく面会を求めてきたら。


「うん」

「だけど、王妃様から滞在延長を命じられている限りは、普通ではどうやっても立ち去ることができないんだ。だから、脱出するしかない」


 言うは易し、行うは難し。

 実際には、どんな手を使えば逃げられるのか。


「それは難しいと思う」


 珍しく、マルトゥラターレは異論を述べた。


「僕もそう思うけど、なぜ?」

「ここは厳しく監視されてるみたい。出るのも入るのも」


 そうだろう。貴人の宿なのだ。客が俺でなくても、目を光らせているはずだ。


「そういえば、事件があった」

「事件?」

「言うの忘れてた。このホテル、ものすごく警備員が多い。なのに、この前、ここに冒険者が侵入しようとしたって話が」

「ええっ!」


 それはまた物騒な。


「犯人はわかってるらしいけど」

「へぇ、誰?」

「名前は聞いてない。ただ、少し前に冒険者がファルスに会わせろってここまで来たって」

「ふうん、でも、ならどうして取り次いでくれなかったんだろう」


 ホテル側が王妃の意向を受けて、全部追い払ってたとか?


「用件も言わずに、とにかく会わせろの一点張りだったから」

「ああ、それじゃダメだ。追い払われて当然だよ」

「そしたら、一昨日の夜、無理やりここまで忍び込もうとしたらしくて」

「なら、なんですぐ教えて……ああ、そうか」


 一昨日の夜、事件は起きた。でも、それをマルトゥラターレが知ったのは、昨日の昼。で、俺は昨日の夜にクタクタになって帰ってきたから、話しそびれたのだろう。


「見つけられても、逃げるどころか、ヤケになって攻撃してきたって」


 そうまでして、俺に何の用事があったんだろう?

 よっぽど切迫しているとみえるが……


「で、どんな人だった? 特徴は?」

「ハゲだって。あと、ヒゲ面だった」


 ハゲ。ハゲか……


 記憶を遡って、俺の人生に登場したハゲ達を思い返してみる。

 一番印象に残っているのは、海竜兵団のバルドだ。欲が深くて、粗暴な男だった。正直、付き合いたくない奴だったが、内乱の時に死んだはずだ。

 あとはサモザッシュ。タリフ・オリムのギルド支部長だった。こいつも、そういえばいやな奴だった。どうも俺は、ハゲとは相性がよくないらしい。

 となれば、今度のハゲも、きっと何か悪いものに違いない。うん、きっとそうだ。関わらずに済ませよう。であれば尚更、さっさとレジャヤを離れなくては。


「ここの部屋付きの人に後から聞いたけど、かなりの凄腕だったらしい。何人かが軽い怪我をしただけで済んだけど、手加減してたらしくて。いくつも警備網を抜けて、あとちょっとでこの近くまで来るところだったとか」

「へぇ……」


 逆を言うと、それだけの警備網が敷かれている、ということか。そうだろうな。

 俺も、いつも送迎は馬車だ。レジャヤの街を自由に出歩く機会なんてない。王様に謁見する時の、あのお仕着せも、レジャヤの街中にある高級服飾店で取り揃えた。だが、そこまでの移動も、ここの馬車と警備員に囲まれてのものだった。歩いてホテルの敷地外に出る……まず、それがあり得ない。

 接待されているようで、実のところは軟禁されてもいる。


「すると、普通では出られない、か」

「そうなる」

「でも、やりようならあるよ」


 敷地から出るだけなら。

 頼りたくはないのだが、精神操作魔術を使えば、大勢の人々を眠らせることができる。夜間であれば、そもそも警備員以外は眠っているのだし。それに、今は俺一人ではない。スキルを移せば、マルトゥラターレが術の行使をしても問題ないのだ。

 但し、問題はその先だ。


「逃走ルートはいくつかある。まず、レジャヤを出て真南に進む。幹線道路に沿って、パラブワンまで抜ける。時間的には、多分一番短くて済む。そこで商船に乗って、どこかの港に行ければ」

「うん」

「ただ、あそこは王家直属の港湾都市……ピュリスみたいなものだから、身分確認で引っかかる可能性もある」


 早馬が俺達を追い抜いて、手配書でも送りつけたら、そこで終わりだ。だから、代替ルートを検討する必要が出てくる。


「もう一つは、ここに来る道筋を逆に辿る。パラブワンまで行かずに、西に折れる。なんとかシモール=フォレスティア国外に出て、法と治安の隙間のあるマルカーズ連合国に紛れ込む。で、当初の予定通り、シャハーマイトから船に乗る」


 俺の提案を聞いて、彼女はじっくりと考えた。


「簡単じゃない。一長一短だと思う」


 経験に偏りがあるから、トンチンカンなことを言う場合もあるだけで、彼女は決して愚かではない。


「西に出る場合も国境はある。そこは抜けられても、最初の地域はマイア伯爵領。この国にとっては同盟国だし、結局は追っ手がかかりそう。それに国外に出ると、いきなり道が悪くなる」

「そうだね」

「どっちにしても、問題は……コレだと思う」


 そう言いながら、彼女はすぐ足下にある、大きな麻袋に手を伸ばした。

 黒竜討伐によって得られた報酬だ。


「あと、コレ」


 そう言いながら、自分の目を指差した。


「目が見えないのは大きい。素早くは動けないし、隠れるのも難しい」

「うん」

「金貨は捨てられる。でも、ここで私を捨てると、ファルスが困る」


 ある意味、ロイエ市で金持ちに彼女を売り飛ばすより、ずっと厄介なことになる。あの辺の連中なら、彼女を珍しい玩具としか思わないだろうが、ここの王家がそんな間抜けな判断をするとは思えない。あらゆる手段を用いて、徹底的に身元を調べようとするだろう。


「運べないなら、運べるようにすればいい」

「うん、馬車とかがあれば」

「見えないなら、見えるようにすればいい」

「……えっ?」


 もちろん、彼女の目を治す手段など、俺は持ち合わせていない。アイドゥスの治癒魔術を受け継いだソフィアでさえ、治せなかった。といっても、それは技能が不足しているというより、知識と触媒の問題だったのだろうが。


「前に言ったと思う。僕は、そうすると決めただけで誰でも殺せる」

「うん……でも」


 彼女は首を傾げた。


「前に黒竜と戦った時は」

「あれは、人前だったから、目立つことをできなかっただけ」


 本当はピアシング・ハンドのクールタイムが終わっていなかったからだが、それはあえて言わない。弱点だから。

 しかし、強みなら口にしても構うまい。


「実は、一人で沼にいる間に……いくつか集めておいたんだ」

「何を?」

「耳を」


 俺は彼女に耳元に口を寄せて、そっと言った。


「黒竜の肉体」

「ん?」

「人間に移し変えることもできる」


 彼女は、しばらく見えない目を瞬きさせていた。

 だが、ようやく考えがまとまったらしい。


「私を、黒竜に変えて、空を飛ぶ?」

「そうすれば、邪魔はされない……けど」

「金貨もファルスも運べる。でも、絶対に目立つ」

「……だよね」


 しかも、リスクはそれだけではない。

 精神は、肉体の影響を受ける。ヘビに化けた時、鳥に化けた時、虫に化けた時……それぞれの本能に、俺は大きく影響された。単純に知能が下がるだけでは済まなかったのだ。

 では、黒竜は? 言語を操る程度には知性が高い。だから、知能の低下はそこまででもないだろう。だが、情緒はどうなる? もしかすると、とんでもなく攻撃的な性格に変わってしまうかもしれない。

 ピアシング・ハンドの行使に慣れた俺なら、それでも使いこなせる気がする。だが、何の下調べもなしに、いきなり初回の利用で黒竜は、さすがに危険が大きすぎる。


 もちろん、竜にする以外の方法もある。ただの鳥に変えてしまえばどうか。ただ、この場合、知性の低下が非常に大きくなる。俺みたいに練習してないと、言葉すら理解できなくなる。

 更にまずいのは、マルトゥラターレが「俺の顔を知らない」という問題だ。

 前にリリアーナを鳥に変えた後、人間に戻した時、俺を見てついてきた。良くも悪くも、それが俺だとわかったからだ。しかし、動物に変身するマルトゥラターレは「初めて」俺の顔を見る。仲間だという認識をもてずに、遥か彼方に逃げ去ってしまうかもしれない。


「一番簡単なのは、精神操作魔術で王妃様の頭の中をいじくることなんだけど」

「うん」

「魔術はいつか効果がきれる。一時的に僕の出国を認めさせても、あとで何をされていたかに気付かれる可能性が残る」


 王妃に向かって魔術を仕掛け、操った。大罪もいいところだ。勝手に立ち去るだけならともかく、そこまでやったら確実に外交問題になる。


「最悪の場合には、やるしかないけど」

「何を」

「この国を、滅ぼす」


 俺を足止めしているのは、善意からではない。俺のことが好きで好きで仕方なくて、繋ぎとめようとしているのであれば、そんなことは考えもしない。だが、今回のは違う。

 俺が権力に逆らえない弱者だから、どうしたって構わないだろうと思っている。つまり、奴らはイジメをしている気になっているのだ。


「どうやって」

「城内でいきなり黒竜に化ける。で、あの沼地と同じ毒で、皆殺しにする」

「できるわけない」

「できるよ」

「そうじゃない。考えはしても、力はあっても、ファルスはできない」

「う……」


 その辺のところは、やっぱりバレているか。


「城の中にいる、何の関係もない普通の人まで、皆殺しにする? ファルスがそれを考えないはずはない」

「他の手もある。ヤノブル王を行方不明にするとか」

「消すということ? 王はそれでいいけど、巻き込まれる人が」


 一国の王が急死したり、行方不明になったりしたら、どうなるか。

 ピアシング・ハンドをうまく使えば、証拠は残らない。だが、それで生じるさまざまな影響まで防げるわけではない。内紛でも起きて、大勢が死にでもしたら、それは俺のせいだ。


「うーん……」


 妙案がない。

 二人して頭を抱え、溜息をついた。


 その時、呼び鈴が鳴り響いた。

 これは、室外からの呼びかけだ。


 俺は立ち上がり、扉を開けた。

 そこには、部屋付きのメイドが身を伏せていた。スカートの裾をつまみ、可能な限り頭を低くしている。


「お休み中のところ、申し訳ございません」

「はい」

「お客様がおいでになられました。ファルス様に面会を求めていらっしゃいます」

「どなたですか」

「ロールバッハ伯爵という方です」


 ロールバッハ……誰だったっけ?

 なんか、かなり昔に名前だけ聞かされたような……うーん、思い出せない。


「お通ししてください」

「承知致しました」


 マルトゥラターレを奥の部屋に押し込めると、俺は早速、居間に待機した。

 御用聞きのため、男性のコンシュルジェやメイド達がバタバタとやってきて、脇に立ち並ぶ。そんな中、ドッシリした風格のある中年男性がゆっくりと姿を現した。


 限りなく黒に近い焦げ茶色の髪。鼻の下には荒々しく反り返った髭が生えている。髪の毛も固そうだし、なんだかタワシみたいだった。着ている服の色が茶色なのもあって、一度意識すると、どんどんタワシにしか思えなくなってきた。

 だが、笑おうにも笑えない。どう見ても初対面のロールバッハ伯爵は、俺に凄まじい眼光を向けていたからだ。


「ファルス・リンガだな」


 挨拶もなしに、彼はそう言い放った。


「閣下にご訪問いただき、大変喜ばしく光栄に」

「前置きはいい」


 吐き捨てると、彼は俺を指差した。


「仮にも貴族たるわしが、お前なんぞのために駆けずり回るはめになろうとは」

「はい?」

「陛下はご立腹だ。当然だろうがな」


 陛下? 陛下……

 もしかして!


「では、閣下は」

「今更気付いたか? ふん、一度陛下のお気に入りになっただけで……木っ端貴族など、名前を覚える値打ちもないときたか」


 彼は……ロールバッハ伯爵は、シモール=フォレスティア側の貴族ではない。わざわざ西部国境を抜けて、エスタ=フォレスティアの王都からレジャヤまでやってきたのだ。

 そうだ。思い出した。奴隷から解放された直後に、イフロースから国内の貴族の名前を覚えるよう、命令されたっけ。その時に、少しだけ勉強した。ロールバッハ伯爵は、王都在住の宮廷貴族だ。主な担当分野は外交。

 しかし、そう考えると、相当に先を急いだものとみえる。何しろ、俺がレジャヤに着いてから、二週間しか経っていないのだ。


「どうやってここまで」

「意外か? ふん……簡単な話よ。お前がここに到着するや否や、早馬で知らせが届いた。ルターフ王子の手回しだ」


 なるほど。いろいろと腑に落ちた。

 ちゃんと地に足をつけて考えてみれば、隣国の騎士をそのまま召し抱えるなんて、できるはずもない。するとしても、相手の承認を得ておかないと、揉め事になる。

 王子は王妃とは政治的に正反対の立場だ。無駄に隣国との対立を煽る継母と違って、彼は実のない争いは避けたい考えを持っていた。だからか。登城三日目に俺を呼び出し、仕官する気がないかだけ確認した。その気がなさそうだと知るや、すぐさま使者を送り出した。事態を円満に収拾するためだ。

 結果、伯爵は足の速い馬車に乗り込み、大急ぎでここまで駆けつけなくてはいけなくなった。


「では、では……」


 しかし、そんなことはもういい。

 彼は俺を恨めしげに睨みつけている。だが、俺はもう、感激のあまり、抱きつかんばかりだった。


「助けに来てくださったのですね!」


 なんなら、そのタワシみたいな顔にキスしたっていいくらいだ。

 喜びを爆発させる俺に、彼は明らかに困惑した表情を浮かべた。


「う、む……」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」


 これで無茶をしでかさずに済んだ。幸運だ。


「と、とにかく」


 彼の中では、少し想定が違ったのだろう。俺がシモール=フォレスティア側に鞍替えするのではないか、であるなら、自国の面子のためにも、タンディラールの威光を改めて思い知らせて、心変わりさせなくては、と考えていたに違いない。

 案に相違して、欣喜雀躍の様を見せる俺に、彼は言葉に詰まりながら言いつけた。


「三日後には、パラブワンに向けて発て。ピュリス行きの船が手配してある。後ほど陛下からの呼び出しもあろう。覚悟しておけ。こちらの王家にはわしが話をつけるゆえ」

「はい! 承知致しました!」


 満面の笑みでそう言われると、彼はもうそれだけで背を向けた。何事かをブツブツと呟きながら。

 これで問題は解決……


 ……本当に?


 ハッと気付いた。

 俺までピュリスに行かなくてはいけなくなってしまったのだ。

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