第二十五章 花と新緑の季節

女性官僚

 野の花は可憐だ。

 小石の散らばる乾いた大地の上に、丈の低い草が身を寄せ合う。車窓から眺めるその景色は、めまぐるしく切り替わった。ポツポツとしか草の生えない場所を通ったかと思えば、急に視界が緑一色に染まったりもする。そんな時、小高い丘の上のほうに、小さく白く咲く花が目についたりする。

 それはまるで……田舎の垢抜けない少女が、通り過ぎていく電車を無心に見つめているような、そんな雰囲気があった。一瞬の交錯でしかないのに、そのなんと名残惜しいこと。


 まだここは、マルカーズ連合国の内側だ。だが、隣国の王家の馬車は、遠慮なくここを通行する。

 ロイエ市を含めたこの辺り一帯は、マイア伯爵領に属している。そして、この地を治めるドゥソス家は、シモール=フォレスティア王国と友好関係にある。むしろ服属しているというべきか。

 形式上、連合国の各領主は皆、フォレスティア王に忠誠を誓っていることになっているのだが、「誰がフォレスティア王か」という点では、見解が統一されていない。連合国は、要するに貴族連合なので、無数の独立国が緩い連邦を形成しているだけに過ぎず、みんなめいめいで勝手な外交を展開しているのだ。

 一応の盟主はシャハーマイトに君臨する侯爵で、連合国内は一定の通行の自由と法律の共通化が図られている。とはいえ、各領主間の利害関係も複雑で、住民の人種や民族もまちまち、信仰する宗教も様々とくれば、これは仕方のないことだった。


 要するに、この馬車の通行を妨げる勢力は存在しない。このまま俺を連れて、いくつかの宿舎を経由しつつ、レジャヤに向かう。


 まるっきり予定が狂ってしまった。

 金を稼いだらシャハーマイトに出て、そうしたらマルトゥラターレだけピュリスに送って、俺はサハリアに向かうはずだったのに。

 いや、それどころではない……


「ファルス殿」


 すぐ横には、シモール=フォレスティア王国の侍従であるカフヤーナが座っている。彼女は、いわばホスト役だ。女だから、ホステスか。


 要するに、注目すべき少年がいる。騎士の家系の何者かの推挙があり、それがここ百二十年も成功例のなかった黒竜討伐の主役であるとのこと。

 ならば、とりあえず呼び出して囲い込む。またもし資質に問題なければ、仕官を勧めもする。まだ、俺が山のものとも海のものとも知れないので、処遇が決まっているわけでもないのだろうが。


 普通なら、こんなに迅速な対応などあり得ない。やはり、縁故というのは大きい。多分、俺が一安心して春の安眠を貪っていた頃に、イーネレムは大急ぎで手紙を書き、それを早馬で実家に送りつけたのだろう。そこには、もちろん俺への好意や感謝、それに謝罪の気持ちもあったのだろうが、彼自身の欲得も絡んでいたのかもしれない。


「はい、なんでしょうか」


 俺はゆっくりと振り向いた。

 なんとなくだが、俺はカフヤーナのことが苦手だった。


 この馬車は、かなりの大きさがある。まず先頭に御者席があり、そのすぐ後ろに主客席がある。広いし、前方向にも一応シートがあるので、四人掛けが可能になっている。だが、ここにマルトゥラターレはいない。

 この後ろに、一番広いスペースがあって、彼女はそこにいる。つまり、従者の席だ。と同時に、荷物置き場でもある。


「まず、ファルス殿の身元についてお伺いしたいのですが」


 彼女の視線は、あくまで冷たかった。

 恐らくだが、俺に対していくらか懐疑的になっている。


 一つには、こんな少年が黒竜を討ったなどとは信じられない、という気持ちもあるのだろう。これについては、彼女の感覚は自然なものだし、文句などない。

 ただ、他の要素がまずかった。


「コチリッシュ家の推挙状には、ファルス殿が東方大陸の貴種であるとあったのですが、これは事実でしょうか」

「いいえ。なぜそんなことが書かれていたのでしょう。不思議ですね」


 カチャンの創作がこんなところに影響するなんて。

 それはそうだ。武勇に優れた貴族の子孫となれば、自国に招きたいと思うのも当然。だが、実際にはどうだ。


 マルトゥラなる女は、いかにも怪しかった。決して顔を見せようとしないし、口数も少なく、礼儀作法も心得ていない。おまけに、ファルスの姉だという情報はまるっきりのデタラメだった。

 そう、俺はここで「姉」だと言い張るのをあえてやめたのだ。なぜか。最悪の場合、彼女の姿を見られてしまうかもしれないからだ。亜人が人間と姉弟であるはずはないので、余計に俺の立場が悪くなる。そう考えてのことだった。


 しかし、その事実誤認を悟ったカフヤーナの対応は、まさしく冷徹な貴族官僚のそれだった。ならばマルトゥラは卑しい身分の女で、ただの従者に過ぎない。一応賓客として招かれるファルスはいいとしても、こんな女まで客席に座らせてやることなどない。

 だが、彼女はおとなしく後ろに座ったし、俺もそれを看過した。もっと面倒なことになるよりは、と。


 とにかく、こうして情報の齟齬が生じているのを目の当たりにすると。カフヤーナの立場としては、事実確認をせずにはいられなかったのだろう。


「では、私が事前に聞き知っていたことは、ほとんど間違いということでしょうか」

「そうなります、ね」


 彼女の目に侮蔑の色が混じるのがよくわかる。

 カフヤーナは貴族の娘だ。それがどうしてこんな、小汚い冒険者の子供を迎えに行かねばならないのか。いちいち丁寧な言葉遣いで話してやらねばならないのか。


「では改めて、最初のところからお伺いしたいのですが」

「はい」

「ファルス殿が黒竜を討伐したというのは、事実でしょうか」


 そこからか。

 確かに、そこが一番重要だ。どんなに卑しい身分であろうとも、武勇だけは本物というのなら。


「はい。これはギルドのほうから確認もできますし、あの場で大勢の冒険者達が目撃しています」

「わかりました。では、次ですが」


 ここから先の質問が怖い。どう切り抜けよう。


「あのマルトゥラという女性とは、どのような関係ですか?」

「同行者です」

「……それは見ればわかりますが」

「すっ、すみません」


 一緒に行動している者なんだから、同行者だ。当たり前。

 けれども、いろんな意味で彼女は劇物なので、なるべく話題にしたくない。


「その、僕がですね」

「はい」

「預かってるんです。ピュリスに送り届けなくてはいけない人、ということで」

「ピュリスに?」

「は、はい。なんでしたら、先にそちらに送ってからでも……」


 だが、カフヤーナは容赦なかった。


「レジャヤは内陸にありますし、海までは遠いので、先に王都にいらしていただいてからで構いませんか?」

「えっと、でもその間」

「もちろん、宿舎は用意しますし、滞在中に不自由させることはありません」

「なら、いいの、ですが」


 よくない。本当は早く遠ざけてしまいたい。

 亜人ってだけでも騒ぎになりかねないのに。彼女は神聖教国の秘密を握る爆弾そのものなのだから。


「では次ですが」

「なんでしょうか」

「ファルス殿は、では、どちらのご出身でしょうか。こうして話してみた限り、フォレス語は大変流暢ですし、訛りもありません。ただ、髪の色などからしますと……」


 言いにくい。

 でも、説明しないわけにもいかないか。


「……エスタ=フォレスティア王国の、ティンティナブリア出身です」

「ああ、そうだったのですね」


 だが、彼女の反応はあっさりしたものだった。


「未解放地域出身の方、と」


 サラッと不穏な表現が聞こえた。

 エスタ=フォレスティア王国なんか存在しませんよ、あそこはフォレスティア王国の領土だけど、まだ諸国戦争後の後始末が終わってなくて、賊どもののさばるままになってしまっているんです……そういうニュアンスだ。


「立ち入ったことですが、あちらにご家族は」

「身寄りはありません」

「そうですか」


 目に見えてカフヤーナの表情が明るくなった。

 これはわかる。貴種の血に連なるのも大変結構だが、それと同じくらい、面倒な血縁関係、主従関係のない人物というのは、好ましい。だいたい、あちらに家族を残していたらどうなるか。シモール=フォレスティア側に引っ越すなどしてくれればいいが、さもなければ裏切りのリスクが残る。少なくとも、普通はそう考える。天涯孤独の身であれば、いくらでも囲い込めるのだ。


「ではなぜピュリスに?」

「あ、え、えーっと、あちらで長く暮らしておりまして、知人が」

「なるほど」


 どうしよう。タンディラール王の腕輪をもらった騎士見習いって件は、言っていいのかどうか。

 だが、考える時間もなく、次から次へと質問が浴びせられる。


「ご実家の……もうご家族はおいでではないとのことですが、生家のお仕事はなんでしたでしょうか」

「普通の農民です。ですから、このような扱いを受けるほどの者ではないので、その」

「いえ、それにしては不思議と作法もしっかりなさっておいでです。心配されるほどのことは」


 目下の人間としては、許容できる範囲と考えたのだろう。彼女の言葉尻からは身分ありきの寛容さが感じ取れた。

 本当は途中下車してしまいたいのだが……ほら、僕は卑しい農民の子ですよ、貴族の娘のあなたが口をきいてやる値打ちなんてないんですよ。

 でも多分、命令を受けてここに来ているのだから、彼女の独断で俺を放り出すなんて、できっこないのだろう。


「あ、あの」

「なんでしょうか」

「僕は、これからどうすれば……いえ、どうなるのでしょうか」

「ご心配には及びません。それだけ作法を心得ておいでなら、特に練習の必要も待ち時間もなく、すぐ次の手続きができそうです」

「はい? 次、ですか?」


 カフヤーナはすっと目を細めて言った。


「ヤノブル王自ら、騎士の腕輪を授けてくださることでしょう」

「えっ!?」


 思わず顔が引き攣った。

 それはまずい。


 腕輪の二度取りなんて、許されるのだろうか。もし、それをした場合、体面が傷つくのは誰だろうか。

 タンディラール? それとも、ヤノブル?


「あのう……実は」


 言いたくない、では済まない状況らしい。そ知らぬ顔をしてやり過ごせる性質のものではない。ならば、早めに情報開示して、協力を求めたほうがいい。


「こういうことでして」


 袖の奥深くに隠しておいた腕輪を外して、差し出した。この一年で、随分と薄汚れたものだ。

 俺は身を縮めながら提案した。


「これは?」

「実は……もともと僕は、ピュリスの総督だったサフィス・エンバイオの下僕でして、その……一昨年の先王崩御の際に、今の陛下から腕輪を……」


 冷や汗を流し、しどろもどろになりながら、俺は無表情な彼女の顔を見上げる。


「ここまで手間をおかけしておいて恐縮ですが、なので、やっぱり謁見その他はナシという方向にはなりませんでしょうか。本当に申し訳ありませんでした」


 言ってみれば、これは不幸な行き違いだ。タンディラールが唾をつけた少年など、引き立ててやれるはずもないのだから。かといって、あの場で呼び出されてやってきた王の使者相手に「行かないから帰れ」とも言えず。俺の立場からすれば「勝手に呼びに来たくせに」となるのだが、彼女からすれば「呼ばれたから来たのに」となる。

 とにかく、衝突したらこっちが頭を下げる。それでいい。穏便に済ませたい。


 だが、彼女はすぐ頭の中を整理し直したらしい。


「はて、何をおっしゃっているのか、わかりかねますが」

「はい?」


 彼女は、内心では思うところもあるのだろうが、あくまで淡々と述べた。


「私の仕事は、百二十年ぶりに黒竜討伐を成し遂げた勇士をお連れして、陛下のお目にかけること。それだけです。この腕輪にどんな意味があるかは知りませんが、いちいち気にする必要がありますでしょうか。それともまさか、ファルス殿は陛下に対する敬意などもちあわせていないと」

「い、いいえ、とんでもありません」

「であれば、予定通りで構いませんね?」


 うわぁ……そうか、そういうことか。


 タンディラール王の腕輪があるから謁見をしません、というのは、暗に対立している王の権威を認めることにも繋がる。

 もう一人のフォレスティア王から腕輪をもらってるなんて、こいつは「謀反人の仲間」じゃないか。俺はそう解釈されるのを恐れて、謁見の中止を申し出た。だが、彼女の見解はその上を行くものだ。つまり、その腕輪の意味や権威自体を認めない。どこかの誰かが贈った「ただの銀の腕輪」でしかない、と。

 要するに、もう一人の王をまるっきり無視しますよ、と言っているのだ。


「陛下も、まだ若年の勇士がどのような人物か、楽しみにしておいでです。多少の無作法は構いませんが、くれぐれも失礼のないように宜しくお願いしますね」


 言葉の端々に、無言の圧力を感じる。

 失礼のないように。王に会うのに、好き好んで失礼なことをする奴なんて、普通はいないだろう。前もって「無作法は構わない」と述べているのには、理由がある。卑しい身分の子供が礼儀知らずであっても見逃してやろう。だが間違っても、もう一人の王の存在をちらつかせてくれるな、と。


 ……大丈夫か、これ。


「と、ところで、その」


 いろいろと言質をとられたらまずい。

 ここはこちらから質問だ。


「カフヤーナ様は、やはりあちらの貴族の方の……ご息女ということでよろしいのでしょうか」

「そうなります」

「その、僕は初めて見たのですが、ええとその、神聖教国とかでは女性の枢機卿などもいらっしゃるのですが、公職に就かれている方というのは」

「ああ」


 そんなことか、と彼女は表情を緩めた。


「確かに、未解放地域では、特に女性の官僚や軍人は珍しいようですね」

「は、はい」

「ですけれど、正統なるフォレスティア王国は、皇帝の遺勅を守っていますから」


 確かに、皇帝のお膝元である帝都は、まるで前世の先進国みたいな雰囲気がある。もちろん、伝聞でしか知らないのだが。

 つまり、かつてウェルモルドが言っていたように、男女平等、主権在民といった原則が存在する。この理念を世界中に共有させようというのが、あのギシアン・チーレムの大事業のうちの一つだった。

 シモール=フォレスティア王国は、結局、身分制国家として維持されているが……そこに男女平等だけは取り入れた、という感じなのか?


「我が国でも、公職のうち一割程度は、卑しからぬ家柄の娘から、特に成績優秀な者を集めて任命する仕組みがあるのです」


 ズルッとずっこけそうになった。

 異世界版アファーマティブアクション。でも、その適用率がたった一割とは。それも家柄のいいところからだけとなれば。

 なんだか思いっきり差別をしまくっておいて、その後ちょっとだけマトモっぽいことやって「はい差別してないよ」と主張するような、そんな滑稽さが感じられた。


 しかし、これはよく考える必要がある。

 ではなぜ、シモール=フォレスティア王国はそんな政策を実施しているのか。言うまでもない。帝都と近い関係を結びたいのだ。帝都が守ろうとしている理念に忠実で、だからウチが正統なフォレスティア王国なんだと、そう主張するためだ。


 昔から「遠交近攻策」というのは、どこでも行われてきた。エスタ=フォレスティア王国にとって、帝都は遠いとはいえ、東側のすぐお隣だ。シモール=フォレスティア側にとっての理想の外交関係とは、アルディニア王国やサハリア北部の『赤の血盟』とも手を結んで、タンディラールを包囲、孤立させることなのだ。

 もっとも、どれだけ現実味があるかは、疑問ではある。帝都がシモール=フォレスティア側に肩入れしたからといって、軍事的に何かが変わるはずもない。チーレム島からタンディラールを討伐する船団が出撃するなど、まず考えられないのだし。


「素晴らしいとは思いませんか」

「そうですね」


 顔色に出すまいと、俺は必死で取り繕った。


「ところで、陛下……ヤノブル王とは、どのようなお方でしょうか」

「言うまでもなく、王者としての風格を充分に備えた英明な君主です。二十年に渡ってフォレスティアを治めてきたのですから」


 テンプレ回答しか返ってこないか。


「今回、僕を謁見に招くようにというのは、判断も早かったと思うのですが、これも陛下のご意向でしょうか?」

「いえ、こちらはイングリッド様のご意見を容れられたからですね」

「イングリッド……王妃様ですか?」

「ええ」


 なんと、女性官僚の登用だけでなく、お后様まで政治に関わるのか。


「最初、妃殿下がめでたいこととして、すぐさまお声掛けするようにとおっしゃいまして」

「陛下は、王妃様のご意見をよく聞かれるのですか?」

「ええ。陛下も英明な方ですが、妃殿下も才媛でいらっしゃいます。ここ数年、有能な女性を登用するようになったのも、妃殿下のご意向が反映されたおかげでもありますから」


 ということは……

 こいつ、カフヤーナも「王妃派」ってことか?

 そうだろうな。どこの組織でも、一枚岩なんてことはない。すると、対抗勢力は王太子あたりだろうか。


「それより」

「は、はい」


 彼女の視線がまた冷たいものに変わった。なんだ?


「ふと、思い出したのですが。あなたはピュリスでエンバイオ家に仕えていた、と」

「その通りです」

「すると、その腕輪は一昨年の内乱の際に?」

「はい」

「ということは……あなたは、あのファルス・リンガですか?」


 ああ、情報が行き渡ってしまっていたか。

 それはそうか。今までの旅でも、それなりに俺の情報は把握されていた。隣国であれば、より詳しく知っていてもおかしくはない。


「そうです」

「あの『ピュリスのファルス』で間違いないですね?」

「は、はい」


 なんだ? ピュリスのファルスって。

 だが、それで彼女の視線は、一段と険しいものになった。


「ということは……」


 頭の中で、彼女は勝手にあれこれ考えを巡らしている。


「あなたの同行者のマルトゥラですが」

「はい」

「ずっと気になっているのですが、どうして顔を見せないのですか?」


 さあ、正念場だ。

 とはいえ、ちょうどいい言い訳がない。最悪の場合は、精神操作してでもやめさせる。


「あのですね、彼女は僕がピュリスに送り届けなくてはいけなくて」

「それはさっきおっしゃっていましたね」

「その、説明しがたいのですが、決して害があるわけではないのです。ただ、人前に出すのはできないといいますか、それが難しい立場でして」


 こんなもの、何の言い訳にもなってないな。

 自分で言ってて、納得してもらえるわけがないと思った。


「ファルス殿は、確かアルディニアと神聖教国を経由して、ここまでいらしたとのことでしたね」

「は、はい」

「そちらから連れてきた方ですか?」

「え、ええ」

「なるほど……では、彼女は旧貴族の?」


 そういう解釈か。

 顔を出せないのは、身分が高いから。会話が成り立ちにくく、最小限のことしか言わないのは、彼女が自分の身分を隠そうとしているから。

 どうしよう、この誤解に乗っかるべきかどうか。


「ええと、その」

「しかし、それにしては……いえ、わかりました。では、ファルス殿が謁見その他で留守にする間は、宿舎にいていただきましょうか」

「そうしていただけると」

「いいえ、容易いことですよ」


 と言いながら、なぜかわからないが、氷のように冷たい視線が向けられた。なんだ?


「ときにファルス殿は、彼女とは……」

「はい?」

「いえ、なんでも」


 なんだ?

 今の口調には、どこか責めるような雰囲気があったのだが。


 どうあれ、最低限のラインは守りきることができた。そう思ってとりあえずは胸を撫で下ろした。ただ、この先のことには不安しかなかったのだが。


「おや……?」


 窓の外、街道から離れた場所に、大きな街が見えてきた。


「あれは」

「マイアの街ですね。領都です」

「あのお城は?」

「キャデレ城ですよ」


 あれが。

 じゃあ、ここの領主だったのか。かつてイフロースに城を奪われた間抜けな貴族というのは。


 遠くから見たマイアの街は、山の裾に大きく丸く広がっていた。真ん中には、荒地を分かつ川が流れており、周囲は美しい草原になっていた。

 そんな中、キャデレ城は、褐色の亡霊のように浮き上がって見えた。そこだけ奇妙に近寄りがたい印象があったのだ。太い円柱のような防御塔がいくつも並び立ち、中心にはいくつか暗い窓が口を開けた四角い壁があった。

 一見して、歴史のありそうな建造物に見える。


「……マイア市は、およそ一千年前にギシアン・チーレムの部将の一人が所領として賜った、由緒ある街です」


 俺がそちらに関心を向けていると気付いて、彼女は知識で補足してくれた。

 歴史ある場所だったからこそ、風魔術の秘伝書もあったのだろうし、あの懐剣も保管してあったのだろうな、とぼんやり思い返す。


「なんでも昔は、美食の町としても有名だったらしいですね」

「今はどうですか?」

「さあ……あまりそういうお話は聞きません」


 そうだろうな。紛争の絶えないこの地域だ。ある程度平和にならないと、そんな快楽を追求している余裕なんて、ないか。

 にしても、知人があそこで活躍していたのかと思うと、感慨深い。少し立ち寄ってみたくある。


「今日はこのまま、国境付近の村まで向かいます。そこに既に宿舎を用意してありますので」


 カフヤーナの声に、俺は視線を戻した。

 今回はお預けらしい。

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