一夜の戦い

 澱んだ水の臭い。ほとんど光のない場所でまず感じるのは、音と臭いだ。

 遠くから男達の怒号が聞こえてくる。今も城壁を盾にしながら、攻撃と退避を繰り返しているのだろう。


 北の空がほのかに赤い。

 城壁の黒いシルエットの後ろで、まだ何かが燃えているのだろうか。


 結局、黒竜は一度、市街地への斜面を降りていった。だが、既に住民は逃げ去った後。スラムの家屋をいくらか押し潰したらしいが、それ以上の進軍は押しとどめることができている。

 人間側が街に火を放ったからだ。森林火災の迎え火のようなものだ。間の家屋を取り壊し、手前の木材を燃やして道を塞いだのだ。その後は冒険者達の必死の奮戦もあって、またこちらに戻ってきている。

 もはやロイエ市は混乱状態だ。この地を治める地方貴族への支援要請は、既に行われているはずだが、兵が揃ってやってくるのは、早くて翌朝だろう。


 あれから何時間経ったか。

 戦っては隠れ、一息ついてはまた飛び出して。

 けれども、まるで片付けられそうにない。


 こんなことになるくらいなら、せめて暗視の神通力を種に戻したりはしなかった。見えない、つまり相手を正しく認識できないと、いろんなことに制約が出てくる。

 だが、もうリスクがどうとか、そんなことを気にする段階ではないか。時間が経てば負傷者も死者も増える。誰かを巻き添えにしようとも、あの黒竜を倒してしまわなくてはならない。


 茂みを掻き分けて、二人が引き返してきた。


「だめじゃったわい」


 ヤシュダンとマニフィスだ。

 彼らには遠距離攻撃用の武器がない。古代の遺物の発掘がメインの仕事なので、自衛のため以外では戦わないからだ。よって弓もスリングも持ち合わせていない。但し、ヤシュダンは光魔術を学んだ僧侶だったので、なけなしの触媒で『閃光』を浴びせにいくと言って、この潜伏場所を離れていた。

 その光は、離れたこの場所からでもよく見えた。一瞬、パッと光ってすぐ消えた。だが、ちょっとやそっと、視力を奪ったくらいでは、どうにもならなかったらしい。


「あれっ」


 マニフィスが誰かを引き摺ってきている。


「それは」

「ああ、危ないところじゃったのでな。唯一の収穫じゃの」


 彼が背中に背負っていたのは、イーネレムだった。


「いったい何が」

「例の『棒立ち』になっとった」


 言われて、彼の顔を覗きこむ。

 ヤシュダンが掌の中に握りこんでいた光の球のおかげで、彼の顔を見ることができた。なるほど、完全に放心状態になっている。


「……治しますね」


 ここまで深く効いているとなると『認識阻害』だけではないようだ。『暗示』かもしれない。詠唱を終えてから、掌をパンと合わせる。


「起きろ!」

「ハッ!?」


 だから、別の『暗示』で上書きした。


「お? お? 俺は? ここは」

「しっかりしてください。まだ戦闘中です」

「あ……」


 我を取り戻したイーネレムに、ヤシュダンが言った。


「あまり近付きすぎんほうがいいらしい。あれの声を聞くと、頭がどうかなってしまうようじゃて」

「あっ、ああ」


 状況は芳しくない。

 当たり前だ。効果的なダメージを与える手段が、あまりに少ない。

 黒竜は痛みこそ感じるものの、傷自体はすぐ治癒してしまう。火傷は回復に時間がかかるらしいが、それでも、あれだけの火魔術を叩き込んでも、なお元気に動き回っているところを見ると、そもそも竜の肉体そのものが並外れて強靭であるとするほかない。何を材料にすれば、こんなバケモノを創造できるのか。

 となると、やはり『魔導治癒』そのものの弱点、つまり銀かミスリルで傷つけるのが一番、ということになるが……


「どなたか、銀、できればミスリルでできた武器をもっていませんか」

「プッ、ハハハ」


 イーネレムが乾いた笑いを漏らした。


「なんだ? それがありゃ、奴を殺せるってか?」

「傷の治りが非常に遅くなります。あと、激痛を与えることができます」

「この銀貨でも傷口にすり込んでやるか?」


 やっぱりそうなるか。

 銀なんて柔らかいので、武器の素材には向いていない。普通は鋼鉄だ。魔法を封じるためにアダマンタイトの鏃を持ち歩く射手くらいならいるが、ミスリルで同じことをする人は、多分、あまりいないだろう。


「どこの大富豪のドラ息子だよ。んな武器、普通持ってるわけねぇだろ。あったら……こんなところでハンターなんざやりゃしねぇ」


 それもそうだ。

 しかし、このままでは……


「では、いちかばちか、別の魔法で仕掛けてみます」

「魔法? おいおい、頭大丈夫か、お坊ちゃんよぉ」

「イーネレムや」


 ヤシュダンが割って入った。


「ファルスが何者かはわからんが、少なくとも、魔術師ではある。さっきもわしの目の前で、火の玉を操っておった」

「はぁ?」

「この非常時に、嘘なんぞつくと思うか?」


 彼の目が見開かれる。


「お主の『棒立ち』を治したのもファルスじゃ」

「あ……あれはなんだ? 何かが竜が吠えるのが聞こえた気がしたんだが、そっから先、何が起きたか、ほとんど覚えてねぇんだが」

「精神操作魔術です」


 少し間をおいてから、彼は聞き直した。


「なんだって?」

「人の精神を混乱させ、操る魔術です。厳密にどの術を使っているかはわかりませんが、見当はついています」

「そんなもんが……で? どうすりゃ防げるんだ」

「一時的になら、別の術で上書きすることで保護できますが、何度もあれをやられると……それに、どっちにしろ近付いたら」


 これが最大の問題だ。

 あのブレス。


 あれも魔術によるものなのだろう。人間の世界ではまったくその存在を知られていない腐蝕魔術。

 強酸性の毒ガスが撒き散らされる。吸い込んだ犠牲者は全員、ひどい呼吸困難に陥ってしまった。意識をまともに保てなくなっているのもいるし、中には手足を痙攣させて泡を噴いていたりもする。もちろん、それは被害が軽微な連中についての話で、目の前で直撃したハンターは、頭蓋骨が見えるくらいに肉を溶かされて即死した。

 救いなのは、あの猛毒ガスの効果時間が短いことか。沼地の瘴気と同じく、すぐ散り散りになって効き目を失うらしい。


 そういうわけで、手がつけられない。

 竜が悪魔と並んで最悪の魔物とされる所以がわかろうものだ。


 膨大なコストをかけて、ミスリル製の矢を大量に配備して、それを一斉に浴びせれば、楽に倒せるのかもしれない。そんなのメチャクチャだ。無理に決まっている。

 今の俺にできる、一番簡単な方法は……


「いちかばちか、魔法で心臓を止めてみます」

「な、なに?」

「さっきもうまくいかなかったのですが……」


 身体操作魔術の欠点は、相手の肉体の構造に依存する点だ。特に『即死』は心臓を止める魔法だから、その部分の機能が人間や類似の動物と大きく異なる場合、効き目がひどく損なわれる。『麻痺』なら、もっと効果を期待できるが、あれだけの巨体だ。ましてあの並外れた生命力。持続時間はごく短いはず。


 本当は使いたくない。いろんな意味で危険だからだ。

 魔術の矢は、途中に一定サイズ以上の生物が間にいると、そちらに刺さってしまう。もし冒険者がうっかり割り込んだら、間違って殺してしまうことになる。この夜間にそんな危険は冒したくないのだが、こうなっては仕方がない。


「ヤシュダンさん」

「なんじゃ」

「僕が詠唱を終えたら、すぐ黒竜に『閃光』を浴びせることはできますか? 動きを止めたいのと、居場所を正確に把握したいのです」

「わかった」


 さっきうまくいかなかったのは、命中しなかったからかもしれない。ちゃんと目視して当てられれば、或いはこの惨劇も終わってくれるのではないか。


 俺達が移動を開始すると、マニフィスもイーネレムもついてきた。いざという場合には、カバーに入るつもりなのだ。


 ヤシュダンの手元にある小さな光が、周囲の惨状を照らし出す。

 さっきまで俺達が身を潜めていた辺りは、普通の雑草と低木が生える、ただの茂みだった。だが、そこから出ると。

 普通の半分以下にまで細く縮んだ樹木が、灰色の汁と泡を垂れ流しながら、たわんでしまっている。冬でも緑の葉をつけていたはずが、今ではすべて散ってしまい、地面に落ちたそれらも、すべて枯れ果てていた。

 犠牲者の遺体も転がっている。溶けているのは肉だけではない。革の鎧にもあちこち穴が開いている。取り落とした槍の穂先も、形が歪になっている。なんでもかんでも容赦なく腐蝕させているのだろうか。


「では、始めます。僕の前に立たないでください。巻き添えになりますので」

「お、おう」


 一分間、仕草を交えながら俺は詠唱を続けた。ともすれば気が散りそうになるのだが、そこはもう、なんとか気を張ってやりきるしかない。

 さすがにここまで高度な魔法を使いこなすとなると、どうしても道具が必要になってくる。だが、失われた秘術を再現できる職人など、どこにいるだろう? とにかく、できる手段を用いるだけだ。

 詠唱だけすればいいのでもない。魔術の矢には、維持可能な時間というものがある。準備が済んだら、なるべく早く投擲しなくてはならない。


 黒竜は、城壁の横に隠れては矢を放つ連中に引きつけられているようだった。とはいえ、それらはすべて牽制でしかない。

 たまに決死隊のように城壁の上に登って、誰かが火炎瓶を投げつける。

 そんな戦いの様子を遠目に見ながら……


 ……詠唱が終わった。


「やるぞい!」


 ヤシュダンは短い詠唱を済ませると、手の中で煌々と輝く石を、全力で投げつけた。

 離れたところで、カッと光が爆ぜる。


 俺にしか見えない魔術の矢。

 それが一直線に飛んでいく。


 鎌首をもたげていたクァッスドが、いきなり仰け反った。


「おおっ」


 後ろでイーネレムが声をあげる。

 そのまま黒竜は、ガクガク震えながら、徐々に脱力していく。そして、いきなり力尽きて、横倒しになった。

 その時、たまたま城壁の前の火が消えた。視界が一気に暗くなる。


「やったか!?」


 今にも飛び上がらんばかりの勢いで、彼は一歩を踏み出した。


「まだです!」


 ピアシング・ハンドはまだ、黒竜の死亡を確認していない。しかし、それ以前に視界が悪すぎる。さっきの閃光で、目が明るさに慣れてしまったせいもある。


「ヤシュダンさん、もう一度光を」

「お、うむ」


 だが、彼が詠唱を始める前に、火炎瓶が投げつけられたらしい。

 パッと赤い光が広がった。


「……駄目だ! まだ死んでない!」


 くそっ。

 簡単すぎると思った。


「近寄るな! まだ生きてるぞ!」


 俺は声を張り上げた。

 だが、見当違いな返事が飛んできてしまった。


「任せろ! トドメは俺達が」

「逃げろ!」


 その瞬間、黒竜は起き上がった。


「ギュアォアッ!」


 ゴムのこすれるような不快な叫び声の直後、駆け寄った男達はピタリと動きを止めた。

 次の瞬間、身を翻した竜の尾に打たれて、四方に弾き飛ばされた。これでもマシなほうだ。全身を溶かされるよりは。


「効かなかった」

「いや、動きは止まっていたぞ」

「肉体が強靭すぎる。やっぱり、魔法だけで倒すのは難しい……です」


 真夜中になるまで、俺も既に散々戦ったのだ。

 何度も火球をぶつけたし、それなりのダメージにはなっていると思う。それでも、死にそうな気配がまるで見えない。焼き殺すなら、それこそ俺では扱えないような最高レベルの大魔法を思いっきり浴びせるとかでないと、意味がなさそうだ。なにせ片っ端から回復していくのだから。


 俺は手元の剣を見た。

 銀色に輝いている。この剣には、ミスリルは含まれているだろうか。


 どうすれば……


 近付けば致命傷を与えられるとして。

 だがその前に、あの強酸ガスを浴びたら、俺もおしまいだ。とにかく、ブレスを封じない限り手も足も出ない。


「やめとけ」


 剣を持つ手を、イーネレムが抑えた。


「考えなしに突っ込んでも、ありゃダメだ」


 力の抜けた声だった。


「大儲けはなしでいこうぜ。お前、本当に火の玉出せんのかよ」

「え、ええ」

「じゃあ、ガンガンぶつけりゃ、そのうち奴さんも嫌がって、沼に帰るかもだぜ。やれるんならやってくれよ」


 なるほど。少し彼の評価を見直さなくてはならない。

 攻略が難しいのなら仕方がない。今度は仲間達の生存を優先しようと。現実的に考えを切り替えたのだ。


「そうですね」


 とはいえ、既に散々、火魔術を使いまくってきた。乱発できるのも、あとどれほどか。

 詠唱と同時に、どんどん右手に熱が集まる。黒ずんだ手が赤熱し、オレンジ色に染まって、最後には白に近い黄色にまでなる。


「マジかよ……」


 その様子を、彼はまじまじと見つめていた。

 拳大の火球が育つまで念じると、俺はそれを手放した。かすかな音とともに、光の帯が渦巻きながら、黒竜の頭に突き刺さる。途端に爆発し、一瞬、城壁をも照らした。

 大きく頭を揺らした黒竜は、こちらに向き直った。


「う……皆さん……散ってください」


 少しやりすぎたか。黒竜もさすがに気付いてしまった。のっそりと長い首でこちらに振り返る。

 奴のターゲットが、俺に切り替わった。構うものか。こうなれば撤退するまで何度でも。まずはもう一発……


 その時、頬に冷たいものが触れた。


「あっ?」


 すぐ足元の草叢から、草の葉を軽く打つ音が。これは……


「雨?」


 はっと振り向く。

 火魔術は、水に阻害される。なんてことだ。白熱した手に水が触れると、そこが瞬間的に黒ずんでしまう。


「それはまずいんじゃないかのう?」

「言ってる場合じゃない!」


 駄目だ。

 逃げないと。


 もう火球をぶつけるのは難しい。

 ムーアン特有の天気の変わりやすさか。よりによってこんな時に。


「ギュォアッ」


 何を思ったか、とにかく黒竜は完全に俺を見据えていた。そして、体をくねらせながら、迫ってきた。


「逃げてください!」


 警告するのが精一杯だ。

 俺は真っ暗な低木林の中に身を躍らせた。


 この状況、大変にまずい。

 徹夜で疲れに疲れた体。魔術も、もうあまり使えない。視界の利かないここでデタラメに走って、うっかり沼地に落ちたら本末転倒だ。

 更に悪いことに、雨脚が急に強くなってきた。ただでさえ視界が遮られる夜間に、これでは物音まで聞こえにくくなる。


 背後で低い呻き声が聞こえた。足を速める。

 続いてシュウッ、とガスが撒き散らされた。ピシピシと何かが弾けるような音が耳に触れる。例のブレスだ。範囲内にあった樹木は、片っ端から枯らされているのだろう。

 だが、なぜかそこまで距離が離れているのでもないのに、運よくここまで腐蝕魔術が届くことはなかった。


 攻略法が思いつかない。

 火魔術は有効だった。但し威力と手数が足りていない。『即死』は効かなかった。もう一度やれば、今度は死ぬかもしれないが、確率がわからない。精神操作魔術は、奴自身が使い手でもあることを考えると、効果は期待できない。

 遠距離攻撃で唯一ダメージに繋がったのは、破壊力のある弩だけだった。それも、ミスリルの鏃がついているのでもないので、引き抜けば終わりだ。


 じゃあ、今まではどうやって討伐してきたんだろう?

 たまたま弩の矢が頭を吹っ飛ばしたか、或いは……罠?


 そうだ。

 落とし穴でも仕掛けてやれば、効き目はあるはず。飛行能力こそあるものの、ちゃんと念じて、意識して使わなければ飛べない。落とした瞬間に、ありったけの火炎瓶を投げ込めば……

 でも、今は駄目だ。思いつくのが遅すぎた。それに、こんなに雨が降っていたのでは。優秀な指揮官になれる人物がいれば、或いは即座に対策を取れたのかもしれなかった。


 逃げ切れるだろうか? 難しい気もする。

 今、俺が追いつかれていないのは、身体強化しているからだ。普通はこれだけ体のサイズが違うと、移動速度にも大きな差が出てくる。


「キュウ、キュキュゥ……」


 いきなり背後から、かわいらしい子犬のような声が聞こえてきた。うっかり振り返りそうになる。

 いや、これは。


 短く詠唱して『行動阻害』を浴びせる。


「ギュア!」


 やっぱり。


 あの鳴き声は、精神操作魔術だった。多分『魅了』だ。魔法の影響下にあると、あんな風に聞こえてしまうのか。

 あれで獲物を引き寄せて、棒立ちにさせるのだ。立ち止まっていたら、すぐさまブレスを浴びていた。だが、俺には通用しない。


 振り返った先に見えたのは、かすかな光に照らされた、黒竜の頭だった。降りしきる雨に濡れて、角が、その後ろの襟巻きの部分も黒光りしている。

 奴の背中の向こうには、うっすら遠くに濁った空が垣間見える。もしかすると、夜明けが近いのだろうか。

 そのすぐ下には枯れた木々。黒いシルエットにしか見えない。


 せめて時間稼ぎを……

 そう思った時、そいつは翼を広げた。


 何をするつもりだ? と思ったが、上空で旋回すると、そのまま城壁のほうへと飛んでいく。あの向こうは市街地だ。


「しまった……みんな! 奴が街を襲う!」


 この雨で、行く手を塞ぐために燃やしていた火が消えている。

 奴はそのことを思い出したのだろう。俺みたいな子供一匹を追い回すより、食いでのある人間をたっぷり捕まえたほうが効率的だと。それに火炎瓶も雨では使いにくい。奴にとっては脅威がないのだ。


 だが、飛ばれてしまっては、やれることなどほとんどない。見送るしかなかった。

 俺はずっと沼地の縁に沿って、東から西に逃げていたのだろう。見上げると、黒竜が舞う向こうに、はっきりと夜明けの光が見えていた。心なしか、雨脚も弱まってきている。


「くそっ」


 何をすればいいかもわからないまま、俺は身を翻して追いかけた。足が重い。下は水浸しの泥だらけで、ぬかるんでいる。奴の飛行速度は決して速くはない。だが、これではとても追いつけない。

 黒く大きな影は、今、城壁を飛び越えようとして……


 いきなりその前に落ちた。

 何が起きた?


 潅木の茂みを抜けて、丘の下に立つ。

 黒竜は、斜面に横たわっていた。胸と腹に一本ずつ、巨大な黒い矢が突き抜けている。それで俺は察した。

 城壁の上にいたハンター達がやったのだ。普通に狙うと防がれてしまう。だから、壁の上に突っ伏して、ずっと死んだフリをしてきた。確実に当てられるタイミングになるまで、じっと我慢していたのだ。なかなかやる。


 だが、ここまでしても黒竜は死んでなどいなかった。

 のそりと起き上がると、刺さった矢を引き抜こうとする。だが、今度は深く刺さりすぎて、短い前足ではなかなかうまくいかない。


「ギュアォアゥアッ!」


 それに苛立ったのか。

 明らかに怒り狂っている。不意に翼を広げ、いきなり飛び上がると、容赦なく下界に黄色いブレスを吐きかけた。


「うわぁあぁ!」


 あれにやられると助からない。みんな承知している。誰もが悲鳴をあげながら、思い思いの方向に逃げ惑っている。

 雨が上がりかけた灰色の空の下、黒い怪物は、またこちらに向き直った。

 そいつは、もはや殺戮にしか興味を持たなかった。


 どうすれば……


 目が合った。

 どういうわけか、クァッスドはまた、俺を狙っていた。上空から翼を広げ、斜めに滑空姿勢をとって飛んでくる。どんどん速度がついている。

 そういうことか。黒竜の唯一の欠点。それは機動力の低さだ。荷物を持たない人間が全力で走れば、なんとか逃げ切れてしまう。空を飛んでも、基本的には鈍足だ。

 しかし、それに落下速度を足し算すると、話が変わってくる。


 冗談じゃない。

 あの質量に轢き殺されたら。全力で走る。その時、足に絡まるものを感じた。


「あっ!?」


 潅木の茂み。その中の、枯れかけた木の枝が、俺の足を引っかけた。

 勢いよく前に向かって転んだ。と同時に、すぐ後ろで盛大に水をぶちまける音が聞こえた。


 着陸というより、墜落といったほうがいいかもしれない。それでも、奴には何の痛痒もなかった。


 俺の体の半分は、水に浸かっていた。

 膝をつき、肘をつき。泥水から出ているのは、肩から先。起き上がろうと手をつき、背後を確認した。


 間に合わない。

 奴は既に、ブレスを吐こうと、まさに息を吸い込むところだった。


「アヴォア!?」


 低い呻き声と共に、黄色いガスが吐き出される、はずだった。

 不意に、足元の泥水からいくつもの柱が突き立って、黒竜の口に飛び込んでいったのだ。口だけではない。その全身に、さながら触手のように水が纏わりついている。


 まさか。

 急いで立ち上がる。


 丘の上に、彼女がいた。フードをかぶり、顔を布で覆った姿で。

 そのすぐ隣には、杖をついたカチャンが立っていた。こちらを指差している。


「ブアッ!? ギ、ギュア!」


 水は球をなして、黒竜の口元に留まり続ける。水の民ならではの、高度な水の制御だ。

 それを嫌がって、奴は首を捩る。窒息しそうな様子はないが、かなりやりにくそうに見えた。なんとかブレスを吐こうとする。現に黄色いガスは漏れている。だが、何も起きなかった。周囲の草も木も、まるで変化がない。


 あの黄色いガスが漏れているのに、周囲に被害がない……?


 そうか。

 やっとわかった。


 あれはブレスであって、ブレスではなかった。奴が吐き出していたのは、腐蝕ガスではない。腐食魔術の「触媒」だったのだと。

 考えてみれば、あり得る話だった。もちろん、このガスの元になっている体液も、きっと毒なのだろう。しかし、奴が用いているのはあくまで魔術なのだ。とすると、触媒を封じれば魔法も使えない。


 俺は、丘の上のマルトゥラターレをちらりと盗み見た。

 彼女は目が見えない。黒竜の居場所をそれと悟ったのは、あの大きな着地音があればこそだ。そして少しでも足止めしようとして、あわよくば窒息死を狙って、水を操っている。

 だが、こんなのは長続きしない。また黒竜が飛び上がったら、もう逃げられてしまう。今はまだ、目先の俺を殺すことに意識が向いているから、動こうとしないだけだ。


 いまだ。

 ブレスが飛んでこない今、この剣で決着をつける。


 俺は走り出した。

 それに気付いたクァッスドは、短い前足を振り上げた。だが、俺は身を伏せるかわり、高く跳んだ。すぐ下を薙ぎ払う尻尾がすり抜けていった。デカブツのくせにフェイントをしかけるとは。

 その巨体は、リーチの長さでは有利だ。だが、いったん体に張り付かれたらどうか。


 勢いをつけたまま、奴の下腹部に剣を差し込んだ。他の冒険者達の剣が通らなかったのに、まるでゼリーにスプーンを差し込むように突き刺さった。

 激痛を感じたのか、奴は聞いた事もないような悲鳴をあげた。


「ギィィ!」


 効いている。

 だが、ここでは駄目だ。殺せない。


 俺は手を伸ばし、奴の背中に生えている毛を掴んだ。そして這い上がる。

 気付いた黒竜は、暴れだそうとした。翼をバタつかせ、首を揺らして。ふわりと浮遊感。俺ごと地上を離れようとしている。それが止まった。

 いつの間にか、足下は凍り付いていた。そして長い尻尾の半分が、そこから引き抜けずにいる。


 ハッとした。

 奴の口元の水が消えている。

 パキンと下で音がした。氷の拘束を、力ずくで振り切ったのだ。そしてその巨体は少しずつ上へと浮かび上がっていく。


 クァッスドはこちらに振り向きかけて……


「ゲェグゥ」


 あの低い呻き声。

 まずい。腐蝕魔術がくる。


「うっ、おぉっ!」


 咄嗟に俺は、剣を突きこんだ。斜め上の方向、首筋から後頭部にかけてを、刺し貫いた。


「ギュアッ!?」


 空中で揺れて、動きが止まる。

 それは一瞬のことだった。


 漂うような短い飛行の後、急にまた浮遊感が襲ってきた。

 地面に叩きつけられる。泥水がぶちまけられる。その衝撃と音が、俺の意識を埋め尽くした。


 気付くと俺は、黒竜の大きな腹の上に突っ伏していた。まだ生温かい。

 頚椎を断たれたせいか、おかしな方向に捻じ曲がったクァッスドの首が見えた。その顔には、苦悶の表情が見て取れた。

 手をついて起き上がる。


 雨は止んで、空はいつも通りの曇天だった。

 夜明けの丘の上には、大勢のハンター達が立ち尽くしていた。その全員が、こちらを見ている。


「やった! やったぞ!」


 誰かが叫んだ。

 それがきっかけとなって、歓喜の声がこだました。


「ファルスだ! ファルスがやった!」

「万歳! 万歳!」


 安心感しかなかった。寝不足のせいか、どこか頭がはっきりしない。

 意識の切り替わらない俺は、その騒ぎをぼんやりと見つめるしかできなかった。

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