黒竜襲来

 ギルドの陸屋根の上に備え付けられた鐘。それが打ち鳴らされている。耳障りな甲高い音が、真下にいる俺達の言い争いを止めた。

 誰も何も言わず、出口に殺到した。


 高台の上に立ち止まって見下ろした。

 曇天の下、同じような灰色の泥の海の向こうに、そこだけ歪な黒い影が映っていた。


 長すぎる翼を伏せて引き摺り。水差しのように長い首をもたげて。

 そいつは、意外にも女の悲鳴のような声色で叫んだ。


「くっ、来るぞ」


 誰かが低い声で呻いた。


 黒竜が、街に迫ろうとしている。

 なぜ?

 どうして今、ここで?


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 クァッスド (38)


・マテリアル ドラゴン・フォーム

 (ランク5、女性、609歳)

・マテリアル 神通力・暗視

 (ランク5)

・マテリアル 神通力・飛行

 (ランク4)

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク3)

・アビリティ マナ・コア・腐蝕の魔力

 (ランク8)

・アビリティ マナ・コア・精神操作の魔力

 (ランク5)

・アビリティ 魔導治癒

・アビリティ 悪食

・スキル アブ・クラン語 4レベル

・スキル 腐蝕魔術    8レベル

・スキル 精神操作魔術  7レベル

・スキル 爪牙戦闘    6レベル


 空き(27)

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 そいつは何かを探るように、左右を見回した。

 そして今度は、ガラスの表面をこするような声で鳴いた。


「お、おい」


 その黒竜、クァッスドはやや躊躇いがちに前へと踏み出した。潅木林の一部が踏み潰され、薙ぎ倒される。細長い首とは対照的に、胴体は丸く大きい。その後足も太く逞しいのだ。障害物など、ないも同然だった。

 上陸した。奴は明らかに、人間の街を狙っている。


「どうすんだよ!」

「にっ、逃げねぇと」

「バカ言ってんじゃねぇ!」


 浮き足立つ仲間達に、イーネレムが一喝した。


「こんなチャンス、他にあるかってんだよ」


 黒竜が人間の街を襲撃する。ないことではない。二、三十年に一度、ムーアン沿岸の街が被害にあう。

 その場合、大抵は数十人の犠牲者が出て終わる。まず防衛に当たったハンター達が、続いて逃げ遅れた街の人が命を落とす。


 では、黒竜はどうなるか? 討伐されるケースは、全体の一、二割程度という。あとは撃退されるか、散々人を殺し、喰らった後で悠々と引き上げるかのどちらかだ。

 但し、人間側が討伐に成功した場合、その利益は計り知れない。その場に居合わせたハンター達は、誰もが大金を得る。死ななければだが。


「で、でもよぉ」

「ビビッてんなら逃げろ。けど、ここでやらなかったら、もう次はねぇぜ」


 そう言いながらも、彼自身、顔が引き攣っている。切り替えの早い冒険者といえども「今日死ぬかもしれない」という自覚に冷静でいられるはずがない。


 俺は俺で、混乱の極みにあった。

 よりによって、なぜ今日、なぜここに。


 黒竜を楽々始末してきた俺だが、実際に戦ったわけではない。だが、あれが弱いはずがないのだ。

 冒険者達のもつ通常の武器では、致命傷を与えるのが難しい。銀かミスリル以外の武器では、傷が治癒してしまう。また、体が大きいために、急所を刺し貫こうにも、そもそもそこまで届かないかもしれない。それと、あの弾力のある黒竜の皮膚には、打撃による攻撃はほとんど意味をなさないだろう。

 また、黒竜には暗視能力がある。既に時間帯としては夕方で、これから人間の視界は失われるというのに。この不利も馬鹿にならない。加えて飛行能力に、あの巨体を支える怪力。いずれも人間になんとかできる範囲を超えている。

 それだけでも厄介なのに、人間の世界では知られていない謎の魔法を使う。狂気と猛毒をもたらすその力に対して、こちら側にはほとんど対抗手段がない。


 身に備えた力だけでいえば、あのアルジャラードほどではない。しかし、耐久力では勝っているかもしれない。なにせ体の大きさが違う。翼は幅三十メートルほど、丸い腹部に頑丈そうな後足だけで数メートルだ。

 まるで前世の怪獣映画だ。あれを倒そうと思ったら、自衛隊の戦車が必要だろう。下手をすると、戦闘機も。


「マニフィスよ」


 ヤシュダンが神妙な声で横にいる相方に話しかける。彼は即座に言った。


「承知しております。女神の正義に身を捧げた以上、すべきことに迷いはありません」


 彼の返答には、どこか抗議めいたものが滲んでいた。それで俺は察した。

 老いた僧侶は、まだ若い協力者に撤退を命じようとしたのだ。だが、若い騎士はそれを拒んだ。


「僕も行きます」


 あれは……


「何を言うんじゃ! よしなさい。今すぐ街を出るんじゃ」


 ヤシュダンの忠告も耳に入らなかった。

 なぜなら……


 ……俺のせいかもしれないからだ。


 黒竜は、ごく稀にしか人間の街を襲わない。だが、必ず襲撃しないわけでもない。いきなり沼地の彼方からやってきて、殺戮と蹂躙の末に去っていく。そういうものだ。逆に、人間が黒竜を自発的に狩りに行くなど、滅多にない。彼らのホームグラウンドで戦うのは、あまりに難しいからだ。

 黒竜とは襲撃者であり、略奪者なのだ。だから、今回の襲来も、ただの偶然で、自然現象なのかもしれない。


 だが、俺は沼の奥地で黒竜を消してまわった。あれだけのサイズの怪物だ。一匹あたりの縄張りは、相当な広さになるだろう。それがいきなり空白になったのだ。その変動が、彼らの挙動を変えたのかもしれない。

 いや、そうじゃない。俺はもっと居心地の悪い可能性に思い至ってしまっている。


 俺が殺しまくった黒竜達の血縁者だとしたら。


 本当のところはわからない。黒竜にどんな感情があるのか。種が違えば、心の仕組みもまったく異なる。

 例えば犬だってそうだ。親子ならずっと仲良しかといえば、そうでもない。犬には序列を優先する本能がある。俺は前世で、母犬に牙を剥く犬を見たことがある。

 残忍な殺戮者である黒竜なら、どんな心を持っているのか。それはわからない。ただ、彼らには高い知性がある。言語を理解し、それでコミュニケーションをとるだけの能力が。

 彼らは魔物だ。それも、アブ・クラン語を解する以上、恐らくはモーン・ナーが創造した種族だ。だから通常の進化の理屈は当てはまらないだろう。他の個体と意思疎通する能力を有しているからといって、共同生活に適応した性質を備えているとは限らない。それでも。


 迂闊だった。

 俺は人間に変身して、一角獣の角を採取していた。黒竜にどれだけの嗅覚があるのかはわからないが、もしかすると人間の臭いを嗅ぎ取ったのかもしれない。

 もちろん、仲間の死体を見たわけでもないし、流血や戦闘の形跡もない。だから、それで同族が殺されたと推測するとは思えない。だが……


 とにかく、現に奴はここまで来た。

 そして、人間を見れば殺そうとするだろう。俺のせいだという確証はないが、その可能性は拭いきれない。ならば、後始末に手を貸さずに去るなど、できるはずもなかった。


「行く奴はついてこい! 城門を固めるんだ!」


 イーネレムの声が響く。

 その場にいたハンター達は、我に返って丘を駆け降り始めた。


 ロイエ市を守る城壁は、上から見下ろすと、くの字をひっくり返したような楔形になっている。その要所、つまり、壁の両端の部分は、円形の塔になっている。特に城門のある辺りは二つの円筒が並び立っている。

 この防衛拠点には、備え付けの武器がある。大型の弩だ。普段は勝手に使用するなど許されないが、今は非常時だ。大型の魔物が街を脅かした場合には、これらを活用することになっている。

 城壁の裏にはいくつも昇り階段がある。俺達は薄暗くなりつつある中を、大急ぎで駆け上がった。


 黒竜は、ゆっくりと前進していた。飛行能力があるはずなのに、いちいち足下を均しながらの行軍を選んだらしい。或いは、あの巨体なだけに、飛ぶのはあまり得意ではないのかもしれないが。奴が通ったところは、何もかもが踏み潰されて、そこだけモップがけでもしたかのように、のっぺりしていた。


 城門の真上の二つの弩が、それぞれ三人がかりで操作されている。巨大な金属製の矢をセットし、二人が脇に立って照準を合わせる。一人が黒竜の動きを見定める。

 黒竜は、首をグネグネと左右に動かしながら、周辺を探っていた。


「あっ」


 恐怖から混乱したのか、それとも欲望に我を見失ったのか。

 城門を抜けて、数人のハンター達が走っていくのが見えた。


「抜け駆けしやがって」

「バカが。死ぬぞ」


 口々に悪態をつく。


 低木と水溜りの領域を半ばまで踏破した黒竜は、小さな敵対者達に気付いた。

 すると、首を高く持ち上げて、真上を向いて、サイレンを思わせる甲高い声を発した。


 ピタリと足が止まる。

 ハンター達は、自分が何しにそこに来たのか、忘れてしまったかのようだった。


「まずい!」


 あれは精神操作魔術の『認識阻害』だ。その瞬間、自分が何をしようとしていたかを忘れてしまう。

 そうして硬直した彼らの頭上に、死が訪れた。


 いきなり、老人の溜息のような低い声が、黒竜の喉から漏れた。かと思うと、そこからうっすら黄色に霞んだ吐息が吹き付けられた。


 遠く離れたところに立つ彼らの絶叫が、ここまで聞こえてきた気がした。

 彼らはすぐにそこに倒れ伏した。これだけでは、何が起きたかわからない。

 だが、周辺を見れば明らかだった。吐息を浴びた低木は、見る見るうちにしおれていく。黄色くなって葉を落とし、枝が縮んで、幹も歪んで折れ曲がる。


「チッ」

「今だ! 狙え!」


 構ってなどいられない。彼らは先走った。自業自得なのだ。


 バシュッ、と気の抜けた音がしたかと思うと、左右から巨大な矢が飛んだ。

 一つは外れて潅木の茂みの中に、もう一つは首の中ほどに見事命中した。


「ギュワァア!」


 ゴムを擦りつけたような声で、クァッスドは叫んだ。

 灰色の体液が、遠目にも溢れ出ているのがわかる。


「やったぞ!」


 城壁の上で、人々が歓声をあげる。

 だが……


 短く小さな前足が、不器用に添えられる。

 首に刺さった矢を引き抜こうとしているのだ。


「もう一発! トドメだ!」


 恐怖と興奮の入り混じる中、彼らは大急ぎで矢をセットして、構え直した。


「傷口を焼いてやれ!」


 片方には、油に浸され、点火された矢が据えられた。


「撃て!」


 かすかに金属の擦れる音が響く。

 暗い灰色の空に、小さな黒い影がよぎる。


 今度は、黒竜もおとなしくしてはいなかった。翼を広げ、体を庇ったのだ。

 二本の矢は、その翼膜を突き破って、そこに居残った。


「よぉし!」

「逃げられちまうぜ!」


 当然ながら、撃退しただけでは利益が発生しない。自分達が有利に戦いを展開していると感じ始めた一部のハンターは、喜色を隠さない。

 甘すぎる。しかし、無理もない。黒竜が人間の街を襲うのは数十年に一度で、その当時の記録がきれいに残され、共有されているわけでもない。つまり、みんな竜の生態や能力を知らないのだ。


「ダメだ! 黒竜はあれでは死なない!」


 俺は叫んだ。知っているのだから。

 周囲にいた冒険者達は、怪訝そうな顔をした。だが、今はそれどころではない。取り合わずに前を向いた。


「おっ……?」


 その、彼らのにやけた顔が固まった。

 矢に貫かれたはずの翼を、クァッスドが広げたからだ。


 首に刺さっていた矢は、既に抜かれていた。出血も止まっていた。そして上半身を高く立てて、羽ばたく仕草を見せる。


「はっはぁ、穴空いてんのに、飛べるかよ!」


 違う。

 あれは翼で飛んでいるのではない。神通力で飛行するのだから、翼がなくても浮くことはできる。羽ばたくのは恐らく、能力を発動するきっかけに過ぎない。

 果たして、すぐにその巨体は浮かび上がった。


「えっ……」


 漣のような動揺が広がる。


「ボケんじゃねぇ! 飛び道具、構えろ! もってるもん、全部ブチこんでやれっ!」


 一足早く立ち直ったイーネレムが絶叫する。

 それで我に返ったハンター達が、弓やスリングを構え始めた。


 黒竜は、茂みを飛び越えて、ゆっくりと丘のすぐ下に着地した。そこから四足になって、身を低くしたまま、斜面をのっそりと登り始めた。


「やっちまえ!」


 誰かの号令で、無数の矢が、石が降り注ぐ。それらの多くは翼膜の上に降り注ぎ、一部は首や胴体にも落下した。だが、そのほとんどは、突き刺さりもしなかった。

 大型の弩でなら辛うじて貫けた外皮も、ただの小さな矢では。こんなもの、奴にとってはトゲが刺さった程度の話だろう。


「お、おい」

「効いてんのか?」


 何人かが不安を口にする。


「油ぁ浴びせろ!」


 油の詰まった瓶に点火して、投げ落とす。それは翼膜の上に落ちて炸裂した。

 ここはマルカーズ連合国、火薬技術の先進地帯であるワディラム王国のすぐお隣なのだ。この手の武器にも不足はしない。

 さすがに火傷には痛みを感じるらしく、黒竜は身を捩った。


「やれ! ありったけブチこめ!」


 それなら、と俺も火魔術の詠唱を始める。隣に立つヤシュダンが気付いて、目を丸くした。

 この際、多少のことは構わない。今はあれを始末しないと。本当なら、ピアシング・ハンドで消し去ってやりたいところなのだが、それができない。今朝方、一匹始末したばかりで、あと半日は待たねばならないのだ。

 右手が白熱したのを確認して、俺は指先を斜め下に向けた。


 拳大の白い火球が、暗がりの中に鮮やかな光の軌跡を描いて飛んでいく。

 それはクァッスドの頭部に、右から突き刺さった。


「ギャオアッ!」


 今のは効いたらしい。

 痛みに頭を撥ね上げた。


 この時、本能的に「危ない」と思った。


 半ば狂乱した黒竜は、そのまま全身を城壁にぶつけた。

 その重量ゆえか、足場が軽く揺れる。


 これは……


「降りましょう! ……さ、ヤシュダンさん、早く。ここはもうダメです!」

「ぬっ」


 彼は前後を見比べた。

 死は覚悟の上、だが犬死したいわけではない。戦術的撤退なら望むところだ。しかし、適切な判断か?

 だが、前回に引き続き、さっきから常人離れした俺の能力を見ていた。彼は頷いた。


「下がるぞ、マニフィス!」

「はい!」


 何人かが追随して、俺達と一緒に階段を駆け下りた。いや、一部は黒竜と直接戦うために走っていた。


「降りたが、どうする」

「わかりません、どうすべきでしょう」

「なら、城壁を回り込む。奴を市街地に入れるわけにはいかん。後ろから撹乱する」

「わかりました」


 そう言い合いながら、俺達は走り出した。

 その時、背後から悲鳴が聞こえてきた。思わず振り返る。


 城壁の破壊に失敗した黒竜は、体を浮かび上がらせて円形の塔の部分に縋りついていた。

 前足が城壁の縁のところを掴み、翼を広げ、首を高くして。誰かが火炎瓶を取り落としたのか、赤い炎が城壁の上で燃え上がっていた。その光に照らされて、黒竜の姿がはっきり見えた。


「お、おお、なんということ」


 隣でヤシュダンが嘆きの声をあげる。

 バラバラと数人が、地面に転落するのが見えたからだ。


「ギィエェエッ!」


 黒竜の絶叫が響き渡る。

 頭上は既に、夜の闇に包まれようとしていた。

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