お姉さんは見た!?
終わった。
とにかく、それだけだった。ぬめりがあるような湿った空気も、風を裂く翼にとっては心地よかった。鼻歌気分で茂みに降り立ち、そこで服を着替えた。忘れ物がないことを確認してから、俺は意気揚々と家路についた。
これだけあれば、どう考えても人形の迷宮まで、資金繰りに困るなんてことはない。いや、もしそこで期待通りの結果が得られなくても、その後の大森林の探索も、東方大陸やワノノマまでの旅費も、絶対に不足はしない。
結局、五頭もの黒竜を狩った。何の苦労もなかった。中には千年以上も生きた大物の黒竜もいて、そいつの魔術核は他よりもランクが高かった。一言で言って、大漁だった。
一方、手に入った一角獣の角は二本だけ。しかし、今度は一人でしとめたので、利益も独り占めだ。これだけでも、マルトゥラターレを連れてシャハーマイトまで行くくらいなら、充分なのだ。
もう緑玉の月に差し掛かってしまった。一ヶ月半ほど、ロイエ市に滞在したことになる。だが、貧乏生活も明日には終わりだ。
頭上は憂鬱な曇天だったが、俺はホクホク顔だった。警戒心も欠けていたかもしれない。それでも、城壁の前の茂みも安全に通り抜け、丘を登って城門をくぐった。目の前の大通りが口を開けている。あとはすぐの十字路を左に曲がれば、カチャンの座る区画に出られる。
そうだ、少し余裕もあるし、カチャンにもお礼をしよう。
たった一ヶ月ほどの付き合いだったが、随分、面倒をみてもらった。
大股に歩きながら、俺の目は彼を探していた。
「おっ」
いつもの場所に座っている。茣蓙を敷いて。
「おーい、カチャ……ん?」
顔の形がおかしい?
あの、くりくりした目が、ちゃんと開いてない。
ハッとして、俺は走り出した。
「カチャン!」
彼の正面に立った。
「よう兄弟」
心なしか、彼の声に力がない。
そんなの当たり前だ。
まず、顔中、至るところに赤い腫れ、青い痣ができている。眉毛の上にたんこぶができていて、それが右目を半ば塞いでいる。後頭部もひどくぶつけたらしく、変な凸凹ができている。
もちろん、頭部だけではない。半袖のシャツの隙間からも、あちこち擦り剥いた痕が見える。この分だと、ほぼ全身、傷だらけだ。
「ど、どうしたっ! いったい、その傷は!」
「心コロコロ上の空、転んで大怪我、毛が抜けた」
「ふざけてる場合じゃないだろ!? 誰がやったんだ!」
驚きが、徐々に怒りに置き換わっていく。
こんなの、どう見ても殴られたに決まってる。だが、卑劣極まりない。カチャンは片足がないのだ。自分から人に襲いかかるなんて、したはずがない。ということは、動けない彼を一方的に痛めつけたのだ。
「稼ぎはあったか、あったか財布」
「カチャン!」
「何か買うなら銅貨でどうか、それでなけりゃあ家帰れ」
「何を言って」
俺の言葉を遮るように、彼は裾を掴んで引っ張った。
「早く帰ってやれ。稼げたか」
まさか……
「あっ、ああ……み、見てくれ、一角獣の角を二つも」
「よかった。じゃあ、それを金に替えて、すぐ街を出ろ」
それはその言葉で、少しだけ安心した。「早く帰ってやれ」そして「すぐ街を出ろ」ということは、トラブルがあったにせよ、マルトゥラターレは無事ということだ。手遅れなら、急ぐ必要なんてないから。
「待ってくれ。せっかくだからカチャンにお礼も」
「いらない。それより早く」
「わ、わかった」
確かに、彼女が心配ではある。
すぐ戻るつもりで、俺は走り出した。
「マルトゥラ!」
ガタガタの階段を駆け上がる。その時、なんとなく気付いた。足場が緩くなっていた。
「マルトゥラ! 帰った! 僕だ、ファルスだ!」
昇り切ったところで、俺は青ざめた。扉の表面に、何か切れ込みのような跡がある。急いで扉を開けようとして、手を引っ込めた。冷たい。カチコチに凍ってるじゃないか。
今は春の初め。そんなに寒くはない。ということは……
少し経つと、目に見えて氷が融け始めた。水溜りを作ったかと思うと、それすらすっと家の中へと吸い込まれていった。
よかった、無事だった。
「入るよ」
部屋の中は、出発前と大差なかった。
作り置きしておいた保存食などは、もうすべてなくなっていた。ただ、彼女が飢えていたかというと、それはなさそうだった。
まず、彼女の姿を見る。いつも通り、フードを被っている。変わりはないようだが……
「何かあったの?」
扉を急いで閉じてから、俺は向かいに座った。
「四日くらい前に、騒ぎがあった」
俺が黒竜の狩りに出かけてから、数日。言いつけ通り、彼女は自室を出ることなく、おとなしく過ごしていた。念のため、夜、寝る前には扉を凍結させておいたらしい。それが四日ほど前の夜に、彼女の鋭敏な耳が、遠くの物音を聞きつけた。
夜間ともなれば、表通りには誰もいなくなる。ただ、路上で寝泊りする人は別だ。カチャンはいつものように、あの場所で横になっていたらしい。だが、耳聡い彼のこと、通行人にはすぐ気付いて起き上がった。そして、いつもの調子でお寒いラップを披露して、客を招いた。
その軽い口調は、すぐに言い争いに変わった。いつもヘラヘラ笑っている彼が、口喧嘩。それから怒号が響いて、続いて人を殴打するのが聞こえた。
何かあったと悟ったマルトゥラターレは、この時点で完全に覚醒していた。桶の中の水を使って、改めて扉を凍結させた。手の届く天井も、びっちりと氷でコーティングして、万一に備えた。
果たして、何者かが階段を昇ってくるのがわかった。ここの扉に鍵などついていない。引っ張っても開かないことに苛立ったその誰かは、乱暴に扉を叩いた。それでも反応しないので、突き破ろうとしたらしい。だが、裏側にはみっしり氷が詰まっている。少し押したくらいではどうにもならなかった。
すると向こう側にいた誰か……恐らく男は、何かで扉を打った。それは扉を貫通し、深い傷をつけた。目の見えない彼女には、それがどんな道具だったか、判断する術はない。ただ、さっきの扉の表面の傷跡は、この時についたものだ。見たところ、ハンターがよく携帯する手斧によるものと思われる。
とにかく、刃先が部屋の内側に届いたと、耳で察した彼女は、反撃しなければいけないと考えた。そこで、扉に纏わりつかせていた水分を一気に集めて、隙間から放出した。
続いて聞こえたのは、男の短い悲鳴と、階段を転げ落ちる音だった。
「それから?」
「何もない」
男の目的はなんだったのか。十中八九、女だ。
カチャンの予想は当たってしまった。ファルスの姉、マルトゥラは皮膚病なんかじゃないかもしれない。だったらおいしい思いをしても……
しかし、引っかかる。
治安がよくない地域とはいえ、ハンター同士の揉め事はご法度だ。武器を持った男達が好き勝手に歩き回っている場所なのだから。何かあれば、すぐさま報復に繋がる。相手がガキだからといって、そこまでナメた真似をするだろうか?
つまり、何が気になるかというと、犯人だ。そいつは「自分なら捕まらない」と思っていた。それでもいざとなったら逃げ切れるよう、注意はしていた。だから夜中にここを訪ねたのだ。そう考えると、カチャンが気付いて目を覚ますのは、もしかすると予想外だったのかもしれない。
理想的には、そいつは誰にも見咎められずにここまでやってきて、扉を開ける。中にはマルトゥラがいる。家の中に侵入者がやってきても、まだ寝ているかもしれない。でも、さすがに体に触れたり、行為に及んだりすれば、誰だって目を覚ます。顔を見られてしまうのだ。
では殺す? それも選択肢だが、いくらなんでもそれはリスキーにすぎる。殺人事件ともなれば、冒険者達は犯人探しを始めるだろう。ここの平和は力の均衡の上に成り立っている。平和を乱す馬鹿者を、みんな許しておこうとは思わない。
いや、殺す必要なんかない。なぜなら、マルトゥラは目が見えないから。押し倒され、犯されても、相手の男が誰だったか、はっきり言うことができない。
目が見えない。そのことを知っていた可能性がある。
そして、彼女が盲目であると知るためには、実際に彼女の出歩く様子を目撃していなければいけない。だが、俺はマルトゥラターレを滅多に家から出さなかった。閉じ込めていたといってもいい。
とすると、犯人は……
「今日か明日か、早めにここを出よう。準備があったら、やっておいて」
俺は勢いよく立ち上がった。
「ファルス?」
「ごめん、ちょっとだけ後始末してくる」
少し頭に血が上っているのもある。だが、それだけではなかった。
そいつはマルトゥラターレに反撃されている。これが問題だ。水魔術で体のどこかを凍らされでもしたのだろう。ということは、少なくとも彼女が魔術師であることを知ってしまった。
自分が異常すぎるせいで、つい忘れてしまうのだが、この世界では、魔術師や神通力の保有者は、決して多くない。魔術の習得には高いコストがかかるのが普通で、だから術者は全員、貴族その他の富裕層と決まっている。ということは、この件をもってそいつは「ファルスとその姉マルトゥラは、お金持ち」という誤解をする可能性がある。
こうなると、ただの性欲では済まない。金があるのだ。誘拐したり、脅迫したりして、金貨を引っ張ることもできるかもしれない。まだある。お金は分け合うことができる。つまり、この秘密を仲間と共有して、一緒に俺達を追いかけようとするかもしれない。
そのプロセスで、マルトゥラターレが亜人と知れたらどうなるか。金目当てで誘拐しようとするかもしれないし、危険な魔物と判断して殺そうとするかもしれない。
それを防ぐためには、犯人を見つけて、徹底的に痛めつけなくてはいけない。最低でもだ。できれば殺しておく必要がある。
いっそ、すべてを語ってしまう? 俺のペットです、亜人です……あまり危険度は変わらない気がする。それに、その場合、どうやって手に入れたかを尋ねられる。ジェゴス元枢機卿の愛人を、どうして一介の騎士が預かっているのか。魔宮の秘密に繋がる話は、一切できない。
もっというと、彼女を買い取りたいと言われるのも困るのだ。悪意がなく、ただ玩具として扱うつもりだと……彼女には失礼な話だが、とにかくそういうのも、俺にとっては不安にしかならない。なぜなら、彼女は魔宮の当事者の一人だからだ。実際に俺の傍にいるかどうかは別として、目の届くところに置いておく必要がある。それでなくても、せっかくドーミル教皇が温情から解放してくれたのに、売却なんてできるはずもない。
だから、とにかく何もかもをうやむやにしてしまわなくては。
くそっ、ゲス野郎め。まず、見つけてやる。もう、目処はついているのだから。
階段を駆け降りると、杖をついたカチャンが、すぐ下に来ていた。
「ああ、歩き回って大丈夫か」
「俺は平気、それより無事だったか」
「無傷だよ」
そこまで言ってから、俺は俯いた。
「……言う通りにしなかったからだ」
「済んだことは気にするな」
「誰がやった」
俺がまた尋ねると、彼は首を振った。
「そんなこと、気にするな」
「ほうっておけない。カチャンにまでこんなことをしておいて」
「仕返しするつもりならやめろ」
その彼に、俺は一角獣の角を見せた。
「嘘じゃない……わかるな」
マニフィスが倒せなかった一角獣をあっさり片付けたという噂。それが事実である証拠は、この角で足りる。
実際には……この角の方が嘘なのだが。黒竜が食べている最中のを横取りしただけだから。
「それでも、暴れるつもりならやめろ」
「なら、謝らせる。俺にじゃなく、カチャンに」
「いらん。それなら行くな」
だが、彼はあくまで揉め事を嫌った。
「これを売るなら、どうせギルドに行くしかない」
「売ったらさっさと戻ってこい。今日中にこの街を出ろ」
「……わかったよ」
俺が意地を張るのが正しいかといえば、そうでないのは自明だ。
殴られたのはカチャンなのだ。その彼が、やめろと言っている。彼の我慢を無にするのは、確かに失礼だ。
なら、仕方ない。犯人は見つける。『忘却』の魔法を使うだけでいいとしようか。
釈然としないながらも、俺はギルドのある高台への道を歩いた。
夕方という時間帯は、ハンター達が一日の成果を持ち帰り、買取を要求するために、ギルドが込み合う時間帯だ。また、仲間同士の情報交換をする場としても機能している。親しい間柄であれば、そのまま酒場に雪崩れ込んだりもする。だから、ちょうど人で溢れかえっていた。
足を踏み入れる前に、俺は目で探した。
まずはイーネレム……違う。
その仲間達を一人ずつ……
……いた。
トールトという名前の、恰幅のいい男。あの時、酔っ払ってマルトゥラターレに抱きついた奴だ。
フォレス人だが、ルイン人並みに肉付きがいい。但し背は高くない。上下に潰したような感じといえばいいのか。やはり彼も簡素な革の鎧を身につけているだけだ。獲物は棒。但し、先端部分は金属で覆われており、鋲まで打ってある。それと、腰に手斧とナイフを手挟んでいる。
あの野郎、あんな道具で一方的にカチャンを殴りやがったのか。
カッと頭に血が上った。
いちいち精神操作魔術で、直近の記憶を精査した。それに、右手には包帯を巻いている。あれは扉の隙間から突き出た冷気で凍傷になったのだ。だから間違いない。こいつだ。
人が物事に気付けるのは、賢いからとは限らない。大抵の場合、そのことに興味関心があって、長い時間考えるからだ。
トールトは、泥酔していたイーネレムとは違って、比較的酔いも浅かったのだろう。だが、女を見た。そして、他の仲間も近寄っていた。さもしい根性が勝って、調子に乗って抱きついた。
いったん抱きつくと、その感触が忘れられなくなる。是が非でも女が欲しくなった。それで彼女のことばかり考えているうちに、可能性に思い至ったのだろう。
……だが、ファルスの姉は皮膚病という噂もある。本当だろうか? でも、肩を掴んで歩くあのやり方。どちらかというと盲人だ。
あのマニフィスが新たな噂を流していた。あんな子供が彼より強いなんて、そんな馬鹿なことがあるものか。やっぱりそうだ、姉から男を遠ざけたいガキの浅知恵に決まってる。
そんな中、ファルスが遠出するという。チャンスだ、と思うと同時に、整合性も取れた。稼ぎが足りないから、無茶をしにいくつもりなんだ。それも当然、あんな子供がこの厳しい沼地でそうそううまくいくわけがない。そうなれば、きっと生きて戻ってはこないだろう。
だけど、どうしよう? 自分だと知れたら……
だから、覆面を被っていった。
だが、カチャンは一瞬で見抜いた。それはそうだ。いつもの装備のままで出歩いていたのだから。何しに行くのか、と声をかけられて、トールトは半ばパニックになったらしい。あの獲物で滅多打ちにしてから、急いで俺の宿に駆け込んだ。
だが、どういうわけか、扉はうんともすんとも言わない。押しても引いても、ビクともしなかった。それにやたらと冷たい。それで業を煮やした彼は、手斧で突き破ろうとした。さすがに慌てたマルトゥラターレは、扉の向こうに軽く冷気を浴びせた。トールトは、右手に凍傷をこさえてしまった。
少し、まずい。
トールトは、なぜこんな傷を負ったのか、不思議に思っている。扉が開かなかったことにも疑念を抱いている。
半殺し、いや首を刎ねてやりたいところだが、それは我慢するとしても、せめて記憶を消さなくては。思い出さないよう、念入りに。
となると、少しの間、二人きりになる必要がある。
まずは『誘眠』で昏倒させ、そこに重ねがけする形で『忘却』を浴びせる。それだけ済ませたら、不本意ではあるが、解放してやるとしよう。
俺は、ギルドの建物に踏み込んだ。
「こんばんは」
誰もが雑談しているので、中は騒がしい。俺はトールトの腕を掴んで、話しかけた。
「少しお時間をいただけますか?」
気持ちは押し殺して、なるべく穏やかな口調を選んだつもりだった。
だが、彼は激しい反応を示した。
「なんだよ!」
俺の手を振り切った。
根は臆病なのかもしれない。そうだろう。じゃなければ、あんなにカチャンを殴ったりはしない。
「別になんてことはありません。少しだけ、十分程度、二人でお話をしたいんですが」
「こっちにはねぇよ!」
そう言いながら、トールトは俺を軽く突き飛ばした。
この揉め事に、いきなりギルドの中は静まり返った。
気まずそうな顔で、トールトは左右を見回している。ちょっとしくじったかもしれない。
「おい」
案の定、イーネレムが割り込んできた。
「なんだぁ、ファルス」
「なんですか」
「俺達に何の用だ」
「トールトさんだけに用があります」
「だから俺達だろが。何の用だっつってんだよ」
俺は逡巡した。
こいつは俺の姉を襲ったんです! カチャンを殴ったんです! 言いたいのは山々だが、それをすると大騒ぎになる。
「なんでもいいでしょう。話したいだけです」
「だったら俺を通せよ」
「関係ないでしょう」
「あるね。こいつは俺の仲間だ」
抑えていたつもりではあったが、もしかすると、俺の中の怒気が漏れて出ていたのかもしれない。
どうしよう、どう言い繕おう……
「ああ、そうか」
イーネレムは、一人合点した。
「あれだな、前の件」
「はい?」
「酔っ払ってお前の姉貴に迷惑かけたなぁ」
勘のいい……
だが、今回に限っては、まったく余計だ。
「けどよ、そいつはもう……とっくの昔に謝っただろが!」
終わった話をいつまでも蒸し返される。彼からすれば、むかつくのもわからなくもない。仲間思いでもあるのだろう。
だが、その件ではない。その件だが、その件ではないのだ。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、なんだよ! ええ? ああ、確かトールトのバカは、酔った勢いで抱きつきやがったもんなぁ? じゃ、俺が詫び料出してやるよ! オラ! これで足りるかよ!?」
そう言うと、彼はポーチの中からコインを掴み取りして、ギルドの床に叩きつけた。
誰もが沈黙を守る中、銀貨達は遠慮なくお喋りをして、すぐに黙った。
「いりません」
「なんだとぉオラァ!」
「よさんか」
たまたまそこにやってきたヤシュダンが、慌てて割って入った。
「今度は何があったというんじゃ」
「僕はトールトさんと話をしたいだけです」
「たかりに来ただけだろが!」
「落ち着かんか! どっちも」
イーネレムの呼吸が落ち着くのを待って、彼は静かに尋ねた。
「何があったんじゃ。イーネレム、お主から話せ」
「おう。このガキがな、俺の仲間にちょっかいかけやがるんだ」
違う、と言いそうになって、ぐっと飲み込んだ。
「前に俺らが酔っ払ってバカやらかしたのは認めるけどよ、そいつはもうとっくに終わったはずだ。それでいつまでもネチネチと、気色悪ぃんだよ」
「ふむ、わかった。ではファルス、なぜお主はイーネレムに突っかかるんじゃ」
「いいえ、僕はトールトさんと話をしたいだけです」
「それはなぜじゃ」
仕方ない。
俺は向き直って、彼を指差した。
「教えてください。その右手の包帯、中はどうなっていますか」
「えっ? や、やけ」
「真夜中に、僕の家まで行った時、ちょうど四日前に火傷したんですよね? そうですよね?」
「あ……ち、違う! これは焚き火に間違って手を突っ込んだんだ!」
このっ……
ここまでカスとは。いや、ここで「はい、俺が強姦目的でファルスの姉を襲おうとしました」なんて言えるわけがない。
だが、こうなるとわかっていたら、前もって『暗示』くらいはかけておいたものを。俺も、冷静なつもりで冷静じゃなかったか。
「それだけじゃない。カチャンを殴ったのは、誰ですか」
「知るかよ」
「あれだけひどく殴られて、さぞ痛かったと思いますけどね」
「おい、待てや」
またイーネレムが立ちはだかった。
「お前、トールトがやったってのかよ」
「そう思ってます」
「ざっけんな!」
「待たんか!」
ヤシュダンが、掴みかかりそうなイーネレムを押し留めた。
「イーネレムさん、おかしいと思わないんですか。トールトさんが火傷したのも四日前の夜、カチャンが殴られたのも同じ夜。僕だって、何もなしでこんな話をしにきたんじゃない。姉が扉の隙間から熱湯をかけた時に、相手を見たから言ってるんだ」
「あぁ?」
道理を説かれると、彼も少し考えた。
そして振り返り、トールトの顔を見る。そしてまた、俺に向き直った。
「証拠は?」
「はい?」
「証拠はどこだっつってるんだ」
「姉が見たって言ったでしょう」
これは嘘だが、彼らにはマルトゥラターレが盲目であることを説明していない。だから、押し通す。
「真夜中っつったよな。なんでお前、家の中に閉じこもりっぱなしのお前の姉貴が、一発でトールトを見分けられんだよ」
これも道理か。確かに。
「それにな。変だろ。カチャンが誰かに殴られたのは知ってる。そりゃあ許せねぇよ。でもな、あいつはここが長いんだ。何年もあそこに座って、ハンターどもの顔を覚えて商売してる男だ。だったら、まずカチャンが見抜くだろが!」
そうだ。
カチャンはわかっている。だけど、あえて黙っている。いろんな理由からだ。
その中には、もちろん保身の意味合いもある。トールトを告発することはできるが、それでイーネレム達の恨みを買ったら? だが、それだけじゃない。ファルスがこの証拠を元に、揉め事を起こすのを避けたくて、我慢してくれたのだ。
でも、結局こうなってしまった。
「だから確認させてくれって言ってるだけです」
「いやだね」
「なに」
「証拠はない。だったら、お前とトールトのどっちを信じるか。俺は仲間を信じるね。だから、こいつは渡せない」
く、くそっ……
いや、それならもう、引き下がるか?
で、明日、鳥に化けて引き返し、トールトを抹消する。記憶を消せないのなら、肉体ごと、命ごと消えてもらう。それでも秘密は守られる。
それに、そこまでしなくても、もう十分、大事になった。つまり、ファルスの姉を狙うなんてもうできない。疑惑は退けられたが、潔白である証拠もまた、ないのだ。
本音では、ぶちのめしてやりたい。そうするのがきっと、一番簡単だ。
でも、それではカチャンの気持ちを裏切ることになる。唇を噛むしかなかった。
「わかったら失せろ。ガキの相手なんざぁ……」
イーネレムが言い終わる前に、けたたましく警鐘が鳴り響いた。
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