廃墟の夜

 夜の帳が降りてしばらく。星の瞬きも見えない暗黒に、うっすらと光が差し込む。

 ムーアンの空は、いつも真夜中に開かれる。重さを感じさせる黒ずんだ雲が、さながら舞台を飾る幕でもあるかのように、左右に分かれていく。そこから覗くのは、かすかに青みがかった夜空だった。

 頼りない下弦の月が点々と輝く星々の合間に埋もれている。晴れ空といえども、やはり沼地の上空は濁っているのかもしれない。降るようなというより、まるで日本の市街地から見上げる星空みたいに見える。

 ただ、のっべりとした空も、そう悪くはなかった。騒々しい輝きに煩わされずに、頭上のグラデーションを楽しめる。それに、居残った雲の陰翳が景色に彩りを添えてくれた。


 ここにいると、暇潰しさえできない。長期遠征に出かけると伝えての出発だから、心配だからと一時帰宅することもできない。マルトゥラターレだけならともかく、他の冒険者達の目もある。


 すぐ目の前に視線を移す。

 崩れた瓦礫を積み上げて、防波堤にした。といっても、外から何かがやってくるのではない。俺自身が、寝ぼけて沼に落ちるのを防ぐためのものだ。それが夜のかすかな光に照らされて、深い影を落としている。

 ここに暮らした古代の人々は、どんな日常を送っていたのだろうか。今は俺が座るこの場所で、何をしていたのだろうか。

 この大きさだから、ショッピングモールと考えるのが妥当か。いや、案外、賃貸マンションとか。オフィスかもしれない。普通は危険すぎてできないが、ここの下に潜って遺物を漁れば、答えが見つかるかもしれない。


 やることのない時間が長いと、いろんな思いが胸に去来する。


 随分、遠くに来てしまった。

 いろんな意味で、そう思う。


 ここは世界の果てだ。

 ムーアン大沼沢より西に、何があるかは知られていない。神聖教国の西方には巨大な氷の山々があり、そこを越えた人は、今までいない。あまりに過酷で、魔物すら棲みつかない場所だという。

 大沼沢では、その山脈も途切れるが、今度は汚染が問題になる。南岸まで回り込んでも、結局最後には、汚染された土地に行く手を阻まれる。船で陸沿いに探検すればと思うのだが、それも難しい。沼と海の境界線が曖昧なのか、ワディラム王国から西の海は、黒く澱んでいるのだという。

 この向こうを探検する人が現れるとすれば、それはもっとずっと後のこと、せめて気球が発明されるまでは不可能だろう。いや、俺がやればできるのか? ただ、そうすることにあまり意味を感じない。


 雪の残る山脈を踏破し、峻険なアルディニアの暗い森を抜けて。山々に抱かれたタリフ・オリムを出てから、空漠たるリント平原を歩き通して。濁った雪の大地を旅して、ついにここ、誰もいない沼地の奥に、俺はいる。


 こうまでしなければならなかったのか。だが、俺の目指す先は、更に更に遠いのだ。


 次の目的地は、人形の迷宮だ。サハリア中央の、砂漠のちょうど真ん中にある。

 聖女の不死が偽物だった以上、行くしかなくなった。他には、南方大陸の大森林にあるとされる長寿の果実とか、東方大陸の神仙の山とか、屍骸兵とか、あとはワノノマの姫巫女なんてのも手がかりとしては存在するが、どれもこれも眉唾ものだし、そこまで期待できない気がする。


 特に姫巫女については、今となっては優先順位は最後とするべきだ。

 一つには、龍神がいるからだ。ヘミュービは俺を見るなり殺そうとした。ならばモゥハはどういう態度を選ぶだろう? あの時はまだ、雪原のど真ん中だったからシーラのおかげで助かったが、もし姫巫女に会うとなれば、そこはワノノマの中枢だ。逃げ場のない島国で、国中すべてが俺を追いかけ回すとなったら……

 もう一つには、贖罪の民を見てしまったから。彼らは不死ではなかったが、祝福によって長寿を得ていた。もし、姫巫女に与えられた力が同じ程度のものであったとすれば、見る値打ちはない。但し、モゥハと人々の関係はもっと近しい可能性もある。だから、候補から除外はしない。

 とはいえ、もっとも近いのは人形の迷宮だ。そして、確実性が高いのも。


 ただ……


 目論み通りにことが進んだ場合、事実上、俺は死ぬ。

 暗い地下に閉じ込められたまま、永遠にそこに留まり続ける。二度と星空を眺めることもできない。

 構わないじゃないか。そもそも生まれてこなければ、苦しむことも悲しむこともない。そこに還るだけのこと。


 そう割り切ってみても、心のどこかに、何かノイズが混じる。


 ピュリスの北門を出た時には、死を受け入れていた。あの門が人形の迷宮の入口だったとしたら、俺は迷わず奥を目指せただろう。

 だが、ここに至るまでの日々に、俺は余計なものをたくさん目にしてしまった。


 もうすぐ一年になるか。あのチェギャラ村の狭いボロ家で、今夜もテンタクは子供達と身を寄せ合って眠っているのだろうか。

 タリフ・オリムでは、今もギルが腕を磨いているに違いない。アイクあたりにしごかれながら。ガイはたぶん、今もノーゼンと張り合いながら、あの繁華街近くのお屋敷で、仲間達と酒盛りをしているのだろう。きっとチャルも、額に汗しながら鍋の前に立っている。

 どういうわけか、ソフィアは別れ際に、またお目にかかりますと言った。でも、俺はそんなことにはならないと思った。


 俺は。

 彼らが思っているような、立派な人間じゃない。


 ピュリスは今、どうなっただろう。

 ノーラは、あれでしっかりしている。周りの大人も助けてくれるはずだ。ジョイスもサディスも、マオが見てくれている。

 今でも、俺の帰りを待ってくれているのだろうか。でも、俺は……


 人知れず、暗い迷宮の中で生涯を終えるつもりでいる。


 出会った人々を裏切るような。そんな後ろめたさが胸に満ちてくる。

 でも……


 俺は、手元にあるナイフに視線を落とした。

 なんと物足りないことか。鈍い輝き。人の世の、平凡な造作でしかない。


 魔宮から持ち帰ったあの剣は違う。

 銀色の刃には毀れたところもなく、染み一つない。聖都の壁のように真っ白だ。その静かな輝きを見つめ続けていると、なぜか心が落ち着く。いや、あれがないと落ち着かない。あの安らぎが、なぜか恋しく思えてならない。


 ……あの時、同行していた人達は、俺を外に出すために戦った。

 誰もが自分を罪人だと感じていた。本当は生きる値打ちなどないのではないか。外の光を浴びる資格などないのかもしれない。そう思っていた。

 だが、そういう生まれながらの罪人でない誰かがここにいる。その誰かを助けるためになら……だから彼らは立ち上がった。


 だけど違う。

 本当の罪人は、俺だけだった。


 他のみんなは、彼らに限らず世界中の人々は、みんな自分の意志で生まれてきたのではない。

 気がついたら生まれていた。自分以外の誰かの決定や行動によって。

 俺だけだ。自ら生まれることを選んでしまったのは。


 本当に、俺は遠くに来てしまった。


 少なくとも日本にいた時、俺は普通の人間だった。だが、あの時、『世界の欠片』なるものを得て、この世界に生まれ変わった。

 今の俺は何者だ? ヘルは俺をバケモノだといった。俺は笑って否定したが、自分でもわかっていた。俺はもう、バケモノになってしまっている。


 だから、終わらせなきゃいけない。


 あれ以来、仮面の夢は見なくなった。

 俺は、モーン・ナーの呪いに打ち克ったのだろうか?


 そう、呪いだ。あれが呪いだったのだ。

 今にして思えば、俺は、呼ばれていたのだ。あの魔宮に。


 あの時は先を急いでいたから、深く考えなかった。だが、どう見てもおかしい。

 前世にも、死後の世界にも、モーン・ナーなんていなかった。この世界に生まれるまで、その存在を知りもしなかった。なのにどうして、俺はあの女神と関わりがあったのだろう? あの小部屋の仮面は、夢で見たのと寸分違いがなかった。

 俺はいつ、呪われたのだろう。前世にいた頃から? それとも死んでから? 生まれ変わってから?


 絶対に無視できないのは、ピアシング・ハンドの存在だ。


 俺の中で、理解しがたい何かが起きている。他人の肉体や経験を奪えてしまうのは、なぜだ? それが利益になるからやってしまっているのだが、内心ではどこかで恐れている。俺が俺でなくなるような気がして。

 事実、俺は自分を失いつつある。魔宮の中で、理由もなくソフィアのことを余所者だと感じ、排除したくなった。体だけでなく、心まで乗っ取られたかのようだった。

 俺は魔宮の当事者だったのだろう。なぜなら、記憶があったのだから。だが、あれは誰の記憶なのか?

 おかしいといえば、料理もそうだ。他の技能はこの世界で学んだか、奪い取ったかしたものだ。だが料理だけは、いきなり前世の知識と経験が戻ってきた。なぜそんなことが起きた? しかも、俺はこの能力を失うことを、どうやらひどく恐れている。意識してのことではない。不合理なこと極まりないのに、自然と手放すまいとしている。


 数々の怪異を引き起こすこのピアシング・ハンドとは、何なのか? どういう意味なのか?

 刺し貫く……手? いや、手ではない。手は何かを突き刺すものではないから。前にもこのことを考えて、結局、結論を出せなかった。


 もう、記憶もおぼろげになってしまったが、あの紫色の大広間で出会った存在は、俺が『世界の欠片』を手にしていると言った。ならば、それがピアシング・ハンドという形になって出現したと考えるのが適当な気がする。

 しかし、するとそれは、モーン・ナーと関わりがある何かだったのか。


 ヨルギズは書き残した。


『モーン・ナーの憎悪は、地を焼く炎となる』


 俺の力も、この世界に災厄をもたらす何かなのか。

 彼はこうも述べていた。


『最後にして最大の災厄が、色なき色の破壊者が、なおも身を潜めて刻が満ちるのを待っているのだ』


 であれば、尚更俺は、人形の迷宮で永遠の眠りにつくべきではないか。

 少なくとも、ピアシング・ハンドが世界を焼き払うことはなくなるのだから。


 モーン・ナーといえば、気になることは他にもある。


 あれは「正義」の女神じゃなかったのか。

 なのに、地下神殿に祀られていたモーン・ナーは「時と運命の繰り手」とされていた。正義と運命、直接の繋がりはなさそうなのに。逆に、殺されていたウィーバルは「法と秩序を司る」ものとされた。正義というなら、こちらがそうなんじゃないか。

 他の神々も気になる。セリパス教は一神教じゃなかったのか。またもし女神教と同根としても、あの異形の神々はおかしい。海神サーカーはモゥハとは似ても似つかないし、生殖神ダーンに至っては、完全に男性だ。

 あれらの神々を説明できる材料は、今のところ、世界のどこにもない。


 神といえば、イーヴォ・ルーの存在についても、謎が増えた。

 マルトゥラターレは、自分達を「ルーの種族」であると定義していた。そして、ゴブリンのことを「ペルィ」、トロールのことを「アジョユブ」と呼んでいた。

 イーヴォ・ルーがモーン・ナーと対立していたらしいことはわかった。しかし、彼らの出自はどこにあるのだろう?


 使徒がどうして俺に纏わりつくのか。その理由も、これでなんとなくわかってきた。

 俺には、何かモーン・ナーに関係する能力があるらしいと知っているからだ。そしてそれは、途方もなく危険で、恐ろしいものだということも。奴らは、それを利用したいのだ。

 だが、別に俺には世界征服の野望なんかない。奴らがどれほど望んでも、こちらが手を貸さなければ、それで終わりだ。逆にそのせいで命を狙われるかもしれないが、俺を殺してしまったら、それこそ使徒の望みは遠ざかる。


 ああ、気持ちが落ち着かない。

 あの剣さえあれば、すっと心の漣が鎮まるのだろうに。


 決めたことじゃないか。

 それなら最後までやればいい。二度と産まれない、結構じゃないか。


 何かが心の奥に引っかかる。

 その思いさえ、本当に俺自身の意志なのかと。


 ……今、あれこれ考えすぎても、意味はないのかもしれない。どの道、俺は探索を続けると決めたのだから。たった今、すべきことは……


 考えた。

 その思考が、ふっと散った。


 この景色を、目に焼き付けること、か。


 考えてみれば、これも絶景だ。こんな場所、俺以外、誰も辿り着けない。

 ひどく汚染されたムーアン大沼沢の奥地。古代の廃墟の上から、静まり返る沼地を見下ろす。月は音もなく輝き、星もまた、おとなしく傅く。この風景は、俺一人のものなのだ。


 なぜだか、ずっと昔のことを思い出す。

 小学校の教室で、子供向けの絵本を読んでいた時のことだ。


 インドのシビ王は慈悲深く、庇護を求める者を見捨てたことはなかった。そんな彼のところに鳩が救いを求めてやってくる。鳩は鷹に殺されると言って泣き、鷹は鳩を食わねば自分も雛鳥達も飢え死にするのだと訴える。シビ王は鷹に、自分の血肉を鳩と同じ重さだけ分け与えるから、と言って、切り落とした自分の手足を天秤に置いていく。だが、どうしても足りない。ついに全身を乗せた。

 そこで予鈴がなって、俺は本を閉じた。


 続きは読んでいないので、絵本にどう書いてあったかはわからないのだが、知識としては知っている。

 シビ王は仏陀の前世の姿だという。鳩や鷹は、インドの神々で、彼を試すためにこういうことをしたのだそうだ。だから最後は傷なく復活してめでたしとなる。

 だが普通に考えて、全身を切り刻んで鷹に食わせたら、人は死んでしまう。鳩を救うためにシビ王は死んだのだ。かくして彼の人生の時計の針はついに一周して、零時を指した。


 それは人生という一つの輪、生きるという道が「閉ざされた」のか?

 それとも、一つの円環が「完成した」のか?

 どうあれ、時が来れば人は死ぬ。時計の針は止まらない。再び零時を指したならば、それが終わりとなる。


 頭上の月を見上げる。

 月の光は、人々の思いを照り返しているのだと。前にそう思った。

 今の俺には、月は壷の口に見える。光に満ちた世界が、あの向こうにある。あちらでは、みんなが笑い、楽しみ、喜び合って生きている。けれども、それは手の届かない遥か彼方。翼では辿り着けない天空の、そのまた向こうにある。

 俺は、大きな暗い壷の底から、そんな明るい世界を見上げている。


 ……よそう。


 明日、最後にもう一回、獲物を探しに出る。それで首尾よく片付けたら、そのままロイエ市に引き返す。

 黒竜の死体をそのまま転がすのは、やっぱり問題がありそうだ。だが、ついでに回収した一角獣の角が二つもある。これだけあれば、シャハーマイトまで行くのに困らない。

 万事順調だ。これでいいじゃないか。


 横になった。古い廃墟の床の上に。

 少し肌寒かった。いろんな思いが頭の中を小さく跳ね回った。けれどもやがて夜の闇が覆いかぶさり、俺は何もかもを忘れた。

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