貧乏人の道理

「ごめん、マルトゥラターレ」


 狭くて薄暗いボロアパートの中で、俺は頭を下げた。頭上には、木の板を叩く雨粒の音。小雨が降り始めている。


「この通り、金貨は手に入った。あと一、二回、あれを狩れれば、ロイエを出られる。シャハーマイトからピュリスにも行けると思うんだけど」


 彼女一人分の旅費なら、あとちょっとでなんとか工面できる。ただ、出港するまでは俺も傍にいないといけないが。


「その……ちょっと欲しいものができちゃって……数日、家を空けていい、かな……?」


 沼地の奥に、黒竜を見つけてしまった。本当にいるのだ。しかもあれは、ピアシング・ハンドで狩れそうな感じがする。

 黒竜の皮膚は、高値で売れる。ピアシング・ハンドで保存すれば劣化もせず、嵩張りもしない。ついでに、うまくやれば、俺はすぐさま腐蝕魔術の達人にもなれる。


 もう金欠はイヤだ。

 あれをまとめて採集しておけば、困った時にはポイッと出して、現金化。素晴らしい。

 アイドゥスは、お金そのものに価値なんかないと言ったけど、それでも俺はカネが欲しくてたまらない。世俗の凡人なんて、みんなそんなものだ。


「それは、もちろん、いいけど」


 彼女はあっさり頷いた。


「い、いい? でも、なんか悪い気がして」

「私にとっては、あんまり変わらない。水の民の仲間を探しに行けるならそれが一番だけど、海を越えてピュリスに行っても、そこで暮らすだけなら」


 そういう論理か。

 彼女にとって何より重要なのは種族の存続であり、自分自身、その一員として貢献することだ。しかし、それを果たそうにも、今の彼女にはその能力がない。盲目なので、自力で歩き回るのは難しい。しかも、人間に見つかれば迫害され、モノとして売買される。

 その前提がある以上、彼女に対して好意的な人間の傍にいるのは、次善の策として適切だ。というか、他にできることがないとも言える。

 本当のことを言えば、俺が「水の民、探してやろうか?」と囁いてやるのが一番いいのだが、彼女はそこまで我儘ではない。ファルスにはファルスなりに命を懸けるだけの目的を抱えていて、自分はそのついでに保護されているだけなのだと、そう理解している。


「ただ、その……ほら、この前のこともあったし、変なことをする奴が来るかもしれないし」

「大丈夫。ここにたっぷり水を貯めてある」


 もともとこの部屋に置きっぱなしになっていた桶に、水が溜めてあった。

 これ、雨漏り対策に必要だったんだろうな。


「いざとなったら、天井も扉も凍らせる。誰も入れない」

「ならいいけど」


 本当に悪いとは思っている。

 ぶっちゃけ、鳥に化けてピアシング・ハンドで獲物を狩りまくるなんて、最初に思いついたやり方だ。それをどうして今までやらなかったかというと、遠くに行かなくてはいけないからだ。近場で変身すると、他人に見咎められる可能性が高い。

 だが、遠出するとなると、外泊することになる。その場合、彼女を一人で待たせなくてはいけない。


 その間に、何かあったら? 或いは、俺自身が不覚を取ったら?

 だから、怖くてそれができなかったのだ。だが、今となっては。


 俺が取るリスクは、そのまま彼女にとってのリスクにもなる。ただ、真面目な話、黒竜と死闘を演じるつもりなど、さらさらない。空中からピアシング・ハンドで楽々消去。それが無理なら、そのまま飛んで引き返すだけのこと。

 だから、俺が心配しているのは、彼女が一人で長期間、ここに留まること。それだけだ。


 雨が止んでしばらく。

 辺りは薄暗くなり始めていた。今日出発するのはなしだ。それより、食事の準備をしないと。いくらか作りおきしておかないと、マルトゥラターレが飢える。金貨も残しておこう。いざとなったら、一人で買い物してもらわないといけない。

 少し降っていたが、カチャンはまだ外にいるだろうか。


 いた。

 大通りは砂利道とはいえ、少し盛り土してある。石で舗装してないだけで、それなりに水はけのいい土を使っているのだろう。既に乾き始めている。その上に、彼はいつものように、茣蓙を敷いて座っていた。


「やぁ」

「ようようよう」


 彼はいつでも明るい。


「何か余り物はない?」

「余り物はあまりないもの、ここにあるのは全部売り物」


 あまり韻を踏めてないけど、こんなものか。

 おや、杖がある。だが、俺が手を伸ばすと、彼は苦笑いしながら横から引っ手繰った。


「これは売れない」

「全部売り物じゃなかったのか」

「しょうがない、じゃあこいつは金貨百枚」

「たっか」


 どうでもいいやり取りはこの辺にして。

 今日も食べかけのパンが置いてある。こんなの、買う奴がいるんだろうか?


「あのさ、それ」

「買う? 銅貨三枚、どうかな」

「い、いや、遠慮しとくよ、そんな食べかけ。いつから置いてあるんだよ」

「ん」


 すると彼はナイフを取り出して、パンの食べかけの部分を切り落とした。


「これなら買うか、こなれりゃ一緒」

「あ、う、うん、まぁ……」


 俺がおとなしく銅貨を出すと、彼はそれを受け取った。かと思うと、残ったパンの部分……つまり、食べかけの跡が残ったそれを、構わず頬張った。


「はひっ!?」

「買わなかったのお前、俺悪くない」

「わ、悪くないけど、それ……さすがに不衛生」


 前世の感覚が抜けない部分だ。食品は衛生的であるべし。

 不潔な食材は危険だし、そんなものを客に供するなど、最低最悪の恥、いや罪悪であると考えるべきだ。当然、自分でも食べようとは思わない。


「お前潔癖、それ心の絶壁」

「神経太いね」

「兄弟、お前本当に潔癖すぎる」


 ハッと気付いた。

 いつの間にか、彼の顔からいつもの笑顔が消えている。

 それに気付くと、彼は周囲を窺った。人通りは多くない。近くには誰もいなかった。


「売れ」

「え」

「お前の姉、売れ」


 耳を疑った。

 マルトゥラターレを売り飛ばせ、だと?


 俺は真顔で睨みつけて、彼の肩を揺すった。


「そんなことを言われるとは思わなかったよ、カチャン」

「俺、いつもふざけてる。今日は真面目」

「売るわけないだろ!」

「シッ」


 俺が声を荒げると、彼はまた左右を見回した。


「兄弟、お前、いいやつ」

「僕もカチャンのことをいいやつだと思ってたよ」

「だから言う。普通はこんなこと、言わない」


 彼の神妙な様子に、俺の憤りは、少し和らいだ。彼には彼の考えがあるのだと。


「どういうこと」

「やっぱりお前、そういうところは甘い。今だって、食べかけ食べない。俺からすれば、お坊ちゃん」


 まぁ、それは否定できない。

 彼の方が逞しい。そこは尊敬さえできる。なんでもやれるというのは、力だ。


「姉を売らないのも、嘘が通じると思ってるのも、甘い」

「なに」

「俺はずっとここに座ってる。お前があのマルトゥラって女を連れて長屋に入った時にも、口利きしたからよく知ってる」


 彼は用心深く、更に辺りを見回した。

 顔を寄せて、声を潜めて続ける。


「あんな腰の細い若い女が、ほうっておかれるはずがない」

「カチャン、姉さんは皮膚病なんだ」

「嘘だ」


 彼は言い切った。俺は何も言えなくなった。


「本当に皮膚病なら、俺なら醜い顔をわざと見せる。そうすれば、誰も近寄ってこない。でも兄弟、お前はしない。しないのは、お前の姉が銀の肌だから、傷のない真珠だから」


 少し事実とは異なる。

 銀の肌とは、きれいな白い肌を意味する。皮膚病ではないということだ。これはその通りだが、傷のない真珠とは、つまり貞操を失っていないことを示している。マルトゥラターレはずっと玩具にされてきたので、これには該当しない。といって、いちいち否定もできない。出所を説明するのはまずいから。


「一角獣の話もそう」

「はっ?」

「ここにいると噂聞く。兄弟、お前ヤシュダン達と出かけたって」

「ああ」

「マニフィスでも倒せなかった一角獣を、一人で片付けた」

「そうだよ」

「嘘だ」


 そう見えるのか。見えるんだろうな。普通じゃない話だから。

 あれは通常、複数のハンターが協力し合って狩る代物だ。斥候役が足跡を見つけて探し出し、それを上手に誘い込む。うまく怒らせたら二、三人の重武装の男達が突撃を受け止め、横から手練れの戦士が素早く背骨を絶つ。手順は単純だが、一角獣のその重量、その体力ゆえに、なかなか思い通りにはいかない。

 前回のあれは、俺の魔術が秘密になっているのもあって、偶然、運よく一角獣がヤシュダンの狩場に迷い込んだことになっている。そこまではいいとして、その後の展開がいかにも嘘臭い。

 マニフィスは、決して弱くない。神聖教国の騎士団で、厳しい鍛錬を経てきた戦士だ。そもそも志ある強い男でなければ、ヤシュダンの誘いを受けるはずもない。それがしくじった相手を、まだ十歳の少年が狩ったなどと……


「これは嘘じゃない」

「兄弟、本当のことを言ってくれ」

「わかった。言うよ。マルトゥラは確かに皮膚病じゃない。だけど人前には出せないんだ。でも、一角獣の件は、本当だ」


 すると、彼は何か酸っぱいものでも食べたかのような顔をして、首を振った。


「よくない、まったくよくない」

「カチャン」

「俺が信じても、他は誰も信じない。俺も見たし、聞いた。あのマニフィスが、顔色を変えてお前のことを喋っていた」


 ならば、俺が実は強いらしいということは、噂になって広まっている。それの何がまずい?


「みんなは嘘だと思ってる。じゃあ、なんでそんな嘘をつく? みんな、本当はマニフィスが一人で倒したと思っている」

「そう思いたければ思えばいい。別に虚勢を張りたいわけじゃない」

「そうじゃない! じゃあ、どうして兄弟はそんな嘘をつかなきゃいけない? 本当は強くないからだ。だけど、強いってことにしなきゃいけない。わかるか」


 うっすらと理解が追いついてくる。どうしてカチャンがこれほどまでに顔色を変えて俺を説得しようとしているのかも。


「マルトゥラを……守るため?」

「そうだ。お前の姉は、だから皮膚病じゃない。隠さなきゃいけない、きれいな女。だからわざわざマニフィスに頼んで嘘をついてもらってる」

「そんなことは!」

「本当かどうかなんて、関係ない。みんなそう思う」


 ということだ。

 そこまでは理解できた。


「でも、それとこれと、どういう関係があるんだ。売れ、だなんて」

「俺が売って欲しいわけじゃない。そこそこの金持ち、この街にもいる。俺が渡りをつけてもいい。手数料もいらない」

「いや、売らないよ」

「兄弟、聞いてくれ」


 彼は座ったまま、俺の服を引っ張って、必死で訴えた。


「姉を売るのは、悪いことじゃない」

「は?」

「恥ずかしいことでもない」

「何を言ってるんだ」


 事実として、マルトゥラターレは、血縁者ではない。だが、そうであろうとなかろうと、誰かの身柄を売るなんて、悪も悪、最悪の行為ではないか。

 もちろん、生きていけない人が譲渡奴隷として子供や妻を売ることもある。だが、それは情けないことではないか。


「俺も売られた。親を恨んでなんかない」


 重みのある一言に、俺は唇を引き結んだ。


「ムーアンで生きていくのは大変だ。できたらせめて、シャハーマイトまで出たほうがいい。そうすれば、子供でも雇ってもらえる仕事がある」

「あ、ああ」

「だけどお前はここから出られない。金がないから。だったら作ればいい」

「ちょっと待って」


 どうしたものか。

 やっと見通しがついたところなのに。これから黒竜をバンバン狩って、ついでに一角獣の角もいくらか採取して。あと二週間とかからず、ここを出られる算段なのに。


「もし、言う通りだったとして。じゃあ、姉さんはどうなる」

「金持ちに囲われる」

「ダメじゃないか!」

「だめじゃない。いいか、このままだと共倒れ。お前は姉さんを助けようとして沼に沈む。残された姉さんは、誰にも守ってもらえなくて、乱暴者に連れ去られる」


 実際には、そうはならない。

 マルトゥラターレを手篭めにしようとしても、普通なら部屋にも入れない。ただ、多人数であればどうか。事件になってもいいと考える無鉄砲な連中が集まって雪崩れ込んだら。

 それでも、少なくとも一度目は、彼女が勝つだろう。なんといっても、達人級の魔術師が準備万端整えて待ち構えているのだ。しかも、彼女には鋭敏な聴覚がある。不意討ちすら難しい。予備情報もなしに、軽く女をなぶるつもりで踏み込む馬鹿どもに何ができるだろう?

 だが、問題はそこではない。撃退した後だ。亜人だと知れたら……


「だっ、だからって」

「姉さんを売れば、お前は大きな街に出て、生きていける。姉さんは、金持ちの家で食っていける。みんな幸せ」


 ああ、そうか。

 彼の言うことには、一本筋が通っている。確かにその通りだ。少なくとも、彼が把握している事実に照らせば、それほどおかしなことは言っていない。

 だけど、現実にはそれはできない。やりようがない。マルトゥラターレ自身はそこまで深刻に考えていないようだが、彼女は国家機密なのだ。ただの亜人奴隷として売却なんて、許されない。だから、どういう手を使うにせよ、俺が金を稼いで一緒にここから出るしかないのだ。


「沼地のハンターなんてやめろ。兄弟、俺みたいになったらおしまいだ」


 改めて思った。

 カチャンはいい奴だ。片足を失い、貧しい暮らしをしていながら、善意を失ってはいない。

 金には執着する。でも、それだけでもない。金のある相手からはたくさん、金のない相手からは少しだけ。正直、この一ヶ月弱の間、彼が庇ってくれていなければ、俺はずっと苦しんでいたはずだ。


「その剣も」


 彼は、俺の手にある剣を指差した。


「それは俺が買ってやる」

「売るのか」

「いいや、俺が使う」


 耳を疑った。


「使うって、どこで」

「ここでだ、ファルス」

「そんなの、どうやって」


 すると、彼は座り直し、頷いてズボンの中に手を伸ばした。なんと股間に巾着袋を収めていたのだ。しかし、確かにそこなら誰も手を伸ばさない。

 彼は、本当なら秘密しておきたいだろうものを見せた。貯金だ。


「金貨も貯まってきた。もう少ししたら、義足が買える。そしたら後は剣があればいい」

「剣なんか、何に」


 すると彼は、黙って道の向こうを指差した。

 彼方にあるのは……


「無茶だ! カチャン、人にはやめろと言っておいて」

「笑ってくれ、兄弟」


 泣き笑いのような表情で、彼は言った。


「俺にはもう、何もない。毎日毎日、ここでガラクタを売るだけ」

「そんな」

「ファルス、だけど、ここはいいところだ。夢がある。夢があるんだ。俺にはもう、それしかない」


 彼は両手を暗い空に掲げて、喜びを表現した。

 それは、いかにもわざとらしい仕草だった。


「だけど、お前は違う。五体満足だ。今ならまだ間に合う。俺みたいになる前に、遠くへ行くんだ」


 そんな……


「できないよ」

「ファルス!」

「それを聞いた以上、剣は絶対に売れない」

「お前のためだ。俺もお前も幸せ」

「違うだろ!」


 肩を掴んで、俺はカチャンを見据えた。


「カチャン、お前は俺よりずっと強いだろ? どうしちゃったんだ」

「兄弟、俺にも意地がある。誇りがあるんだ」

「しっかりしろよ」

「お前こそ、目を覚ませ。ファルス」


 だが、彼はすぐ冷静になった。

 手を離し、その場に腰を下ろす。


「少し、少しだけゆっくり考えろ。そうしたらきっとわかる」

「ああ」


 人のいるところ、どこでも薄皮一枚剥がせば、そこには悩みがある。苦しみがある。

 笑顔を絶やさないカチャンですら、それは変わらなかった。


 俺はもうすぐ、ここから出られる。

 でも……


 ……どうすればいいんだろうか。

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