蟲のように生きる

 低木の茂みを掻き分けた先には、灰色の湿地帯が茫漠と続いていた。

 手近なところには、これといったものがない。汚らしい灰色の泥がどこまでも広がっている。その合間に、時折か細い枯れ木が突き出ている。遥か彼方を見渡しても、何かで煙っているのが、地平線はぼやけてしまっていた。


 沼というのは、要するに底の浅い濁った湖だ。泥がしっかり詰まっている箇所はいいが、そうでないところにうっかり踏み込むと、そのまま沈んでもおかしくない。周囲の地形や動物の動き、足跡など、いろんな手がかりをもとに、注意深く歩かなければいけない。

 目印は、足下の石の標識だけ。ここを起点に移動を開始する。方向を間違えて、他の集団とぶつかったら、どやされる。


 街からは体感で少なくとも一キロ以上は離れている。しかも、一度高台に登ってから降りるルートになるので、結構遠い。ただ、これくらい距離が空いていないと、いざという時、住民が危険にさらされる。沼地の魔物がやってくるというだけではない。風向きによっては、ムーアンの瘴気が市街地に押し寄せてくるのだ。

 ただ、毒気は普通の空気より重いらしく、これだけ離れていれば、滅多にそんなことにはならない。また、最悪の場合でも街に被害が出ないよう、高台のところに城壁が積み上げられている。ロイエ市に限らず、沼地の間近にある街というのは、どこも盾になるような地形を選んで建設されている。


 振り返ってみる。

 その城壁が目立つので、昼間は方向感を失わずに済む。


 なんとなく歩く、ということはしない。一歩ずつ、足場を確かめながら。

 ここでの探索のために、俺は手袋とブーツを新調しなくてはいけなかった。普通の靴では、ここの水が沁み込む。それが肌に触れ続けるのは確実に健康によくないので、仕方なく新しいのを買った。ちなみにこれはカチャン商会の品ではない。

 ただこれだけの移動でも、かなりの時間がかかってしまう。熟練のハンターなら、どこにどんな道があるかを体で覚えているので、足場を失うことなくどんどん先に進めるのだが、俺はそうもいかない。

 この差が、稼ぎの効率の違いとなって現れる。今の俺では、街の近くでありきたりのものを拾うくらいしかできない。


 さて、どうしよう……


 たっぷり降った後だから、多少の遠出はできる。天候が急変しても、つまり晴れてしまっても、少しは時間的な余裕がある。

 ただ、ここは言ってみれば出涸らしのお茶みたいな狩場だから、よほどじゃないといいものが取れない。


 網でも買おうか?

 錘をつけて広い範囲に放り込み、何がかかるかを見る。それで古代の金貨みたいなものが見つかれば御の字だ。でも、網はここの泥にたっぷり浸かるので、何度も使えない。割とすぐ廃棄しなくてはいけないが、それに見合った結果が得られないと……


 足下の変化に気付く。

 小さな穴が開いていた。大人の指一本分の太さ。


 このサイズだと、ムシがいる。正式名称はわからないが、ここの土地の人間は、とにかくそう呼んでいる。細長くて、地面からニョロッと出てくる。意外としっかりした顎を持っているらしく、死体をボリボリ食べるらしい。だが、生きて動いている相手には、決して襲いかかってこない。

 当然ながら、そんなのを捕まえても、銅貨一枚にもならない。網なんか投げても、無駄遣いだ。


 カチャンが言っていた。

 沼地で何かを得たいなら、どんなことにも注意を払えと。それがどんな意味を持っているか、真剣に考えなくてはいけないのだと。

 貴重な先輩のアドバイスだ。他にも彼にはいろんなことを教えてもらった。できるなら、ちゃんと御礼をしたいくらいだ。


 とはいえ、ムシがいる……

 それに何の値打ちがあるのだろう。


 溜息をついて周囲を見回す。

 俺の近くには今、誰もいない。だが。


 池には今頃獲物がいっぱい、か。違いない。

 大勢の人間が、テリトリーを侵犯している。ここの魔物にとっては、まさしく獲物だらけだ。

 いっそ、黒竜あたりがここにやってきて、俺を襲ってくれれば助かるのだが。殺すだけなら一瞬だ。街も近いし、一人で運ばなくてもいいだろうし。


 いや、でも。

 ピアシング・ハンドの過信はダメだ。竜が悪魔みたいに変な体を持ってないとも限らない。

 本当に、どうして悪魔には効かなかったんだろうか。


 そんな雑念を浮かべながら歩いていたが、視界の隅に何か動くものが見えた。


「おっ」


 掘り返した跡がある。だいたい人間大。

 泥はすぐ埋まってしまうので、時間が経つと、表面が均されてしまい、見分けがつかなくなる。ただ、泥の中に潜む側も、呼吸なしでは済まないらしく、完全に痕跡を消し去ることはできない。


「ふっふっふ」


 よかった。

 今日は一切れくらいは肉を食べさせてやれそうだ。


 俺だって成長する。

 今まで、俺の切り札はたった一つしかなかった。超強力な必殺技ではあるものの、ピアシング・ハンドにはいくつもの弱点があったのだ。まず、相手が生物でないと効果がないこと。それともう一つが、対象を認識していないと使えないということだ。つまり、たとえ声が聞こえていても、壁の向こうに隠れている場合には使えなかった。いるとわかっているのに、だ。

 それをついに克服した。


 俺は両手で印を組むと、長い長い詠唱を始めた。かれこれ一分くらい。相手が動かないから使える切り札って、切り札なんだろうか。

 そうして生まれたのが、掌の中の暗い藍色の鏃。


 それを泥の中に投擲する。どうだ? 死んだかな?


 鼻歌交じりながらも、警戒は怠らない。果たして、それは無駄にならなかった。

 いきなりドパッ、と泥が弾け飛ぶ。また失敗か。


 澱みの中から、細長い脚がつっと突き出る。黒い先端に黄色の筋が入っている。見る者の心に刺激を与えずには済まさない、そんなデザインだ。

 今、襲いかかればすぐ殺せる。だが、メチャクチャにしてしまっては意味がない。あえて見守る。


 這い出てきたのは、あちこちに黄色いラインの入った黒い蜘蛛だった。それも巨大な。脚を含めてだが、前後左右とも一メートルくらいの大きさはある。

 黒い複眼、頑丈そうな下顎。あれに噛まれると神経毒で体が麻痺する。肉食で、人間の死体も好んで食べる。


 こいつが、あのムーアスパイダーだ。

 つまり、これで俺が以前使用していた身体強化薬の材料が、三種類とも出揃ったことになる。もう使うことはないと思うが。

 毒腺が魔術の触媒として有用で、薬の材料にもなるので、ここで出遭えたのは運がよかった。但し、お金にしたければ、殺し方を選ばなくてはいけない。


「シューッ……」


 威嚇音だ。蜘蛛の発声器官がどうなっているのか、俺にはよくわからない。

 そいつは、八つある脚のうち、四本までを持ち上げて広げた。こうやって自分を大きく見せるあたり、いかにも蜘蛛だ。

 自分より大きな相手も捕食する種類で、動物というよりは魔物に分類される存在なのだが、得意とするのは奇襲だ。沼地の中に身を潜めたり、夜の闇に紛れて頭上から跳びかかったり。だから、正面からの戦いは好まない。自然と恐怖が行動に反映される。

 俺はまだ大人になりきっていないが、それでも人間は直立歩行をするので、大きく見える。大きい相手は強い相手だ。


「さて、と」


 剣を握り締める。

 あの、魔宮で見つけた剣だ。これが思った以上に使いやすい。


「シィッ」


 恐れと怒りが、蜘蛛を動かした。鋭く前に出ると、跳びあがって圧し掛かろうとする。

 反射的に俺は、一歩下がって斜めに薙いだ。


 バシッと手応えがある。

 今の攻防で、蜘蛛の脚が二本、千切れ飛んだ。右の前側のだ。

 この剣、見た目に反してやたらとよく切れる。切れすぎて手加減できないくらいに切れる。この形状でよくもと思う。これは拾い物だった。


 慎重に。逃げられたら元も子もない。叩き潰してもダメだ。


 身を伏せた蜘蛛は、まだ攻撃するつもりらしい。

 じっ、と低い姿勢をとる。だがすぐ、パッと浮かび上がる。それを剣の腹で叩いて押さえた。


 なかなか難しい。どうやって始末しようか。

 あの『即死』の魔法が決まれば、無傷で殺せる。考え得る限り、もっともきれいな形で死体を得られる。しかし、あれを詠唱するには長い時間も必要で、手で印を組む必要があるらしい。強力な分、手間がかかりすぎる。

 じゃあ、どうしてさっきは失敗したかというと、それは相手の種類がよくないからだ。まず、無生物には効果がない。生物なら一応効くのだが、虫とか蜘蛛が相手だと、成功率は八割程度に留まる。ミミズなんかだと、六割か。植物だと、ほとんど失敗する。

 なぜなら、この魔法は「心臓発作」を惹き起こすものだからだ。そして、虫の血管系は人間と違ってもっとずっと緩くできている。呼吸も気道を通してなんとなくやってるような連中だし、ポンプの一つが停止しても、そう簡単には死なない。

 逆に、恒温動物が相手だと、ほぼ必殺だった。どんな切り札も使い方次第なのだ。


 とりあえず……


 スッと刃を走らせ、左側の脚を押さえ込む。……つもりが、スパッと切れてしまった。


「わっ!」


 しかも、後ろ足だけで跳びかかってきた。

 思わず下がりながらハイキックを浴びせてしまった。


 それがよかったらしい。ショックから動かなくなった。まだ死んではいないようだが。

 よし、脚を落とそう。


「……ふう」


 これでもう逃げられない。

 けど、なんかイヤなものを思い出した気がする。


 あ、前世だ。

 俺の兄だった富能。昆虫の脚とか触覚とかをハサミや扇風機で切り落として、集めて瓶詰めにしてたっけ。で、上から火をつけて煙でいぶして「二酸化炭素で窒息させる」とか言って遊んでいた。

 いやいや、これは仕事だ。命をもてあそんでいるわけじゃない。


「悪く思うなよ」


 こいつだって、俺を食おうと狙っていた。なら、お互い様だ。

 長い長い詠唱の後、ようやくこいつの魂は女神の下へと旅立った。


 思ったより時間が余ってしまった。

 けれども、こいつは小さな獲物ではない。うまいこと解体できるなら小さくできるのだが、どうも自信がない。しくじったら値打ちはなくなるのだから、やっぱりこのまま運ぶのがいい。

 まぁ、いいか。早く帰って悪いこともない。それに天候の急変で、足下から毒素が噴出してくるほうがずっと怖い。


 そう思って、一歩を踏み出した時だった。


「ん?」


 何かが見えた。

 さっき、蜘蛛が潜んでいた穴の向こう。あれは水が光を反射……違う。金属光沢だ。


 まさか、古代の金貨?

 ザバザバと泥を掻き分けながら、俺は急いでそこに駆け寄った。


「うおっ」


 深みに沈みそうになって、慌てて姿勢を立て直す。

 こういうところが未熟なんだ。沼地の探索に慣れていない。


 呼吸を整えてから、その光源を改めて確認した。

 それは……


「見つけるんじゃなかった」


 ……冒険者証。いわゆるタグだ。

 階級はガーネット。小さなマークがいくつか並んでいるから、ちょっとした野生動物くらいなら、狩ったことがあったのだろう。

 一応、これをギルドに届けると、銀貨一枚になる。死亡確認のお手伝いをしたとされるからだ。ただ、気分が滅入る。


 ま、一応、大漁だ。

 ムーアスパイダーの毒腺。解体の手間賃を抜いても、銀貨四枚か、五枚にはなる。加えてこのタグ。カチャン商会から激安の生活用品を仕入れて暮らす限りは、充分と言える。

 但し、毎日これだけの稼ぎがあるわけではない。しかも、天候次第では何日も仕事ができない。だからといって仕事場を変えようにも、旅費が足りない。八方ふさがりだ。


 どこかにお金が落ちてないものか。

 そんなうまい話があるわけ……


『沼地で何かを得たいなら、どんなことにも注意を払え』


 その瞬間、閃いた。

 もしかして。


 普通ならこんなことはしない。大事な商売道具を粗末に扱うなんて、みんなしないものだから。

 だが、この剣ならまず大丈夫。鞘もなく、雑な扱いしかしていないのに、錆一つないのだから。


 俺は、さっきの蜘蛛が潜んでいた辺りに剣を突っ込んで引っ掻き回してみた。そして、手応えがないかを慎重に見極める。

 果たして、何かが引っかかる感触を覚えた。


 重さがある。たぶん、当たりだ。

 ただ、気をつけないと、またバッサリ切断してしまう。少しずつ、少しずつ引き上げる。

 下の方に埋まっているから、毒に塗れているかもしれない。泥がハネないようにしないと。


「やった」


 随分とかかったが、やっと出てきた。

 薄汚れた革製のポーチ。沼の中の毒に浸かっていたせいで、紫色に染まりつつある。俺は息を止め、なるべく腕を伸ばして、そっと開けてみた。


「銀貨だ」


 このタグの持ち主は、ここでムーアスパイダーに襲われた。そして泥の中に引きずり込まれた。大方は蜘蛛に食われたのだろうが、余った部分は他の誰かがおいしくいただいた。つまり、ムシだ。

 さっきのムシの巣は、彼の遺体を食べた奴か、そこから繁殖した奴か、そのどっちかだったのだ。

 蜘蛛もムシも、人間の荷物には興味を持たない。だから、ポーチとその中身はそのままに取り残された。


 手に入れた銀貨は、たったの三枚。あとは銅貨が八枚。金貨はなかった。

 この財務状況をみるに、彼もまた、ギリギリだったのだろう。一攫千金を夢見て沼地に来たはいいが、思うように稼げず、さりとて他の仕事があるでもなく、帰りの旅費にも事欠いて……

 危険を承知で、状況が好ましくなくても、奥へ奥へと先を急いだのだろう。その結果がこれだ。


 ありがたくいただく。

 教訓も込みで。


 ただ、これらの銀貨をそのまま財布に入れるわけにはいかない。汚染されて紫色になっている。持ち帰ったら、あとでよく水洗いしなくては。表面も少し磨いたほうがいいかもしれない。


 今度こそ、撤退だ。

 金貨一枚分にも届こうという収入。今日は大成功だった。この調子で稼ぎ続ければ、マルトゥラターレをピュリスに送りつける日も、そう遠くない。といっても、順調にいって一ヶ月以上はかかる。下手をすると、三ヶ月くらい……

 やっぱり、何か考えなくてはいけない。


 一歩を踏み出した時、またあのムシの穴が目に付いた。

 こいつはこいつで必死に生きているのだ。この呼吸穴がその証拠。こいつと俺と、どれだけ違うというのだろう?


 成果にもかかわらず、俺はどこか暗い気持ちで沼に背を向けた。

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