沼地の掟
「ようよう、おでかけかい」
「ああ、仕事だよ」
「気をつけて行け、池は今頃獲物でいっぱい、ええものいっぱい」
俺は軽く手を振って、先を急ぐ。
長いこと雨が降って、止んだら大急ぎだ。幸い、今は曇ったまま。稼ぎ時だ。
ムーアン大沼沢は、ひどく汚染されている。モーン・ナーとギウナの争いが原因だというのが常識だが、今の俺にとっては、そうでもない。案外、古代文明の仕業かもしれないし、その後に出現したというあのマイナー魔王グラヴァイアのせいかもしれない。
とにかく重要なのは、天候次第で沼の毒気の状態が変わるということだ。
具体的には、水分が薄まるとよくない。日差しが強いと、更に悪い。どういう仕組みになっているのかはよくわからないが、水気が足りなくなってくると、沼の表面に有害な成分が滲み出てくる。更に陽光にさらされて温められると、揮発し始める。これを吸い込むと、徐々に体が毒に蝕まれる。
しかし、同時にこの毒は日差しに弱い。よって、逆に日照りが続くと、ほとんど危険がなくなる。だが、この沼地では、昼間の晴天は珍しい。逆に夜間はしばしば雲間から月が垣間見える。日中は曇天で、雨が降るのも昼間だ。
そこで、沼地の冒険者達……南方大陸と同じように、彼らは自分達のことをハンターと呼びたがるが……彼らは、天気で仕事の予定を決める。まず、大雨が降った後は、とにかくすぐ出動。毒気が収まっているので、今のうちにお宝探しに遠出する。但し、いきなり空が晴れたら、今度は大急ぎで撤退。水分がたっぷり残っているうちはいいが、そのうちに毒が発生する。
なら、雨が降っている最中に探索すればいいじゃないか、と思うのだが、それはそれであまりよくないらしい。水気が増すのはいいのだが、叩きつける雨粒は、沼の中を攪拌する。そのため、深いところに沈んでいる毒の成分が表面近いところにまで巻き上げられたりするのだとか。雨が止んで少し経てば毒は沈殿するので、彼らはそれから動く。
逆にずっと雨が降っていない場合、これはチャンスになる。表面の毒がすっかり浄化されているからだ。と思って一気に遠出してから、雨が降ったら大惨事だ。そこでちょっと降って、すぐまたカンカン照りとか……これはもう、最悪だ。
こうした事情があるために、ここでの仕事にはある種の経験と知識とが求められる。毒気は高所になれば薄まり、健康に害を及ぼさなくなる。また、熱によって揮発し、陽光によって浄化される。
これらの特性を理解しているハンター達は、沼地のあちこちにある避難所をうまく利用する。以前、俺がアイクに教えてもらったように、もし夜を明かすなら、必ず高所に陣取る。また、そうでなくても、天候の急変があれば、即座に駆け込まなくてはいけない。だから彼らは、自分の探索範囲の地理に精通している。
避難所は、天然のと人工のものとを問わず、とにかく登れる足場でなくてはいけない。大沼沢のあちこちに、古代文明の遺跡の残骸があるらしく、それらがニョッキリと突き立っていたりする。当然ながら、広い場所がそうそうあちこちにあるはずもないので、ここのルールでは早い者勝ちである。といっても、何しろ命がかかっているので、緊急時には理屈など通らない。
しかも、避難所を脅かすのは、他のハンター達ばかりではない。ここに巣を構える魔物達は、基本的に毒に耐性があるので避難の必要はないのだが、せっかく人間どもが一箇所に固まって動けずにいるのだから、これを狙わずにいるなんてできない相談だ。
こういう厄介極まりない狩場なのだ。
なるほど、腕っ節ばかり強くても、これではラズルが失敗したというのも頷ける。
「依頼はっ」
「売り切れよ。出かけるなら手続きして」
開けっ放しのギルドの入口に飛び込みながら叫ぶも、やっぱり遅すぎたらしい。
そんな俺を見て、列に並んでいたハンター達がニヤニヤと笑う。
俺は溜息をつき、室内を見渡した。
ロイエの冒険者ギルドは決して広くはない。普通の家と大きさに違いはないが、二階建ての上に陸屋根で、屋上には旗が翻っているので、街の中では目立つ。
例によって古い木造の建物で、微妙に薄汚れている。ちゃんと掃除しているのか、とは思うが、いくらモップをかけたところで、泥だらけの沼地を歩き回った冒険者が踏み荒らしていくのだから、きりがない。
他の土地のギルドと違い、ここには壁に依頼が貼ってあったりはしない。全部正面の受付のテーブルに置いてある。これには理由がある。まず、壁には別の情報が掲示されているから。そして、依頼があってもなくても、手続きなしで勝手に沼地に入るのは半ば禁止されているから。
これは、ハンター同士のトラブルを防止するためだ。つまり、壁に掲示されているのは、パーティーの目的地だ。どの方面に向かったかが、文字と簡単な図面とで示されている。特に図のほうが重要だ。多言語環境かつ識字率の高くないこの地域では。
いざ緊急時に毒を避けようにも、そこに人が集中していたのでは、どうしたって血を見ることになる。だから、依頼があってもなくても、受付のお姉さんは交通整理をしなくてはならない。この辺のルールを守らない余所者の「冒険者」は、鼻で笑われて仲間外れにされる。
で、俺が依頼の有無を尋ねたのは、行き先の確保ができるからだ。単に自前でお宝探しに出かける連中は、ギルドに寄せられた正式な依頼には道を譲らなくてはいけない。つまり、安心していい場所を取れる上に、仕事をこなせば報酬まで確保される。俺みたいな新米なら、必死になるのも自然なことなのだ。
「残念だったなぁ、陛下」
列に並んでいた一人が、皮肉たっぷりに言う。
「あとほんのちょっと早く来れば、まだあったのになぁ」
顔立ちは整っているのに、その表情に刻まれた皺には、人柄のいやらしさが滲み出ている。もちろん、こいつとも顔見知りだ。イーネレムというこの冒険者、髪の毛の色などから判断するとフォレス人っぽいが、この地域では人種などあってないようなものだ。革製のチュニックに短めの剣を携えただけの軽装。ここのハンター達としては一般的な格好だ。
「金に困ってんだろ」
俺は返事をしない。だが、彼はやめなかった。
「姉貴がいるんだろ。一晩貸せよ」
「皮膚病になってもいいのなら」
「じゃ、いっぺん見せろよ。それから判断してやるよ」
冗談じゃない。
「やめておきます」
「なんだよ? 減るもんじゃねぇだろが」
当然ながら、この治安の悪いロイエ市では、女は稀少だ。オバさんとかならともかく、若くてきれいな女性は、もっと豊かな街で夫を探すか、金持ちのお妾さんに納まるかしている。ここの受付のお姉さんはというと、少々くたびれた風情があるのだが、それでも街の顔役の愛人らしい。
「減ろうが減るまいが、お断りです」
「なんだぁ? 嫉妬か。独り占めしてぇってか?」
「顔が爛れているのに……人前に出したくないだけですよ」
「ウソだろ。なぁ、本当のこと言えよ。ヤらせてもらってんだろ、な。マセてんなぁ」
このゲスが。
けれども、この程度でいちいち怒っていたら、きりがない。ここはそういう土地なのだ。
じろりと睨みつけても、今の俺では迫力不足だった。
「はっは、さすがは陛下。その若さで女を囲い込むたぁ、大したもんだな」
言うまでもないが、この「陛下」というあだ名には、軽い侮蔑の意味合いが込められている。
陛下、即ち皇帝陛下のことだが、それはつまり、あの偽皇帝のアルティを示している。彼は若年にして沼地の黒竜を討伐し、名を馳せた。そこから転じて、若くして一攫千金を求めてやってくる未熟者のことを「皇帝陛下」と呼んで嘲っているのだ。
「けど、残念だったなぁ、依頼がなくて……そろそろフラレちまうぜぇ?」
「よさぬか」
横から嗜める声が飛んだ。
声の主は、ブカブカのローブをかぶった老人だった。紺色のそれは、もともと裾のところが白かったのだが、沼地での活動の長さゆえか、そこがもう灰色に染まってしまっている。頭にも、まるで百合の花を逆さにしたようなデザインの帽子をかぶっている。
「今朝は、最初から依頼なんぞ入っておらんかった。いちいちからかうでないわ」
「あぁん、ジジィ、うっせぇな」
イーネレムが侮蔑の笑みを浮かべたまま口答えするのと同時に、ズン、と床を衝く音が響いた。
老人の横に立つ大男。その髪の色と体躯、どう見てもルイン人だ。涼しげな瞳、豊かな金髪が印象的な美丈夫。分厚い銀色の鎧を着込んでいる。今、床に突き立てたのは、鞘に納めたままの大剣だった。
その表情は、穏やかな微笑のまま。視線もどこか中空に向けられている。だが、その意図するところは明らかだった。
「けっ」
この二人組も、もう顔見知りになっている。
老人のほうはヤシュダン、剣士のほうはマニフィス。どちらも神聖教国からやってきた。
彼らの目標は、他の連中とは少し異なっている。たまにいるのだが、二人は宗教的動機によってここに滞在している。もちろん、やっていることはお宝探しなのだが、成し遂げたいのは古代の秘密の解明と、新たな教会の設立だ。
伝説によれば、モーン・ナーがムーアンの畔に住まう人々を守るために、邪龍ギウナを討ったことになっている。ということは、そこの住民はやはりセリパス教徒だったはずで、古代の信仰の名残、何かの遺物が見つかるかもしれない。そうした歴史の解明は、それこそ千年以上も前から望まれている。
また、それが叶わなくても、もしここで大金を得ることができれば。彼らは新たな教会を設立し、そこを拠点に布教活動を開始できる。ぐるりと回りこんだムーアン南岸はワディラム王国の影響が強い。そこの宗教はまず女神教、あとはセリパス教といっても古伝派といって、聖女の権威を認めない、まったく異なる教えが主流だったりする。
ヤシュダンは本国での司祭位を返上して、マニフィスはその志に共鳴して、ここまでやってきたのだ。
彼らの、どこかこの土地に似つかわしくない外見は、そうした出自によるものだ。沼地を歩くのに適さない重武装だが、これはマニフィスが神聖騎士団出身であろうことを示している。いかにもルイン人らしい、恵まれた体躯を生かした戦い方を身上とするのだろう。
ともあれ、イーネレムは口を閉じた。
意外なことに、彼らは喧嘩をしない。できないといったほうが正しいか。誰かに禁止されてのことではない。もっと切実だ。
沼地で緊急避難する際には、最悪の場合、場所取りのために殺し合いが発生する。稀ではあるが、起き得ることと認識している。となれば、自分の腕前については秘密にしておきたい。戦い方の癖とか弱点を見抜かれるのも困るが、何より「あいつ案外大したことないな」と思われたら……
「じゃあ、南の大岩まで、五名、受け付けたわ」
「よっし」
イーネレムは受付の声を聞いて身を翻す。もう暇潰しに子供をからかっている時間はない。
「行くぞ」
「おう」
振り返りもせず、さっさと歩き去っていく。
「坊主は、どこへ行くのかの」
「空いてるところなら、どこでも」
「そうか……早く慣れるといいがの」
ヤシュダンが声をかけてくれる。だが、同行しようとは言ってくれない。
これもやむを得ない。それだけの信頼関係が、まだないのだ。それに、頭数が増えれば分け前も減る。避難の際の場所も食う。仕方がないのだ。
結局、俺に残されていたのは、南西方向のルートだけだった。一応、奥のほうに小さな一人用の足場がある。ほぼ沼地の縁に沿って歩くので、めぼしいものはない。
本当は、もっと遠くに行くルートならあった。数日間かけて往復する場所だ。だが、それは諦めた。何かアテがあってなら遠征する気にもなれるが、自宅にマルトゥラターレを残している以上、リターンを確保できない冒険は選べない。
実に競争の激しい世界だ。それを痛感させられる。
金さえあれば、こんな仕事に執着せずに済むのだ。しかし、ここにはキャッシュカードなどない。俺は貴族ではなく、騎士の腕輪こそあるものの、個人旅行者の身分でしかない。ゆえに、手にした現金以外、何の役にも立たないのだ。
ギルドの軒先から外に出た。
高台から見下ろす沼地は、灰色の渦巻きのように見えた。その周囲を、ねじくれた低木が囲んでいる。対岸は灰色に霞んで見えない。
出自も、仕事の仕方も、稼いだ金の使い道も。何もかもが異なる連中がひしめくのが、このムーアン大沼沢だ。
そんな彼らに共通するのがただ一つ。
夢だ。
いつか、古代の財宝を見つける。
または、黒竜を討伐する。
どちらでもいい。
人生一発大逆転。
そうすれば、この陰鬱な沼地を離れて、華やかな人生を始めることができる。
誰もが一攫千金のムーアン・ドリームに取り付かれている。
心ならずも、俺もまた、その中の一人になってしまったのだ。
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