白の夜明け
聖地を囲む山の端から、橙色の光が差し込んだ。
足下は一面の雪。薄暗い中に、濁った色の長い影が落ちる。
晴れ渡るのはもっと後、完全に陽が昇りきってからのことだろう。今はまだ、夜の名残を残した鈍色の雲が切れ切れに浮かんでいる。それでも合間から見える空は、黒から藍、藍から青へと……世界は色彩を取り戻しつつある。
足を止めて、振り返る。
まだ雪をかぶったままのディノブルーム山に、小さな影が差した。
珍しいこともあるものだ。まだ冬が終わったわけでもないのに、鳥が舞うとは。案外、春は近いのかもしれない。
山の下に佇む聖都。その薄い灰色の影が、朝の赤みを帯びた光に照らされ、浮かび上がる。
白くはあっても、純白などとは、とてもいえない。けれども、不思議とそれが美しく見えた。
白色、黒色、灰色、橙色、赤色、藍色、青色……いろいろ交じり合った中の、濁った景色。
それなのに。
そうだ。俺は今、初めて聖都を美しいと思った。
それは、金銀財宝のような煌びやかな美しさではない。
それは、紅おしろいに着飾ったような華やかな美しさではない。
またそれは、生い茂る緑や滔々と流れる大河のような、歓喜に満ち溢れた美しさでもない。
それは、無言で待つ人だ。
風が吹き、雪が積もる。そんな中、顔に深い皺を刻んだ誰かが、黙って立ち尽くす。
それは、使い込まれた金槌だ。
幾度となく役目を果たし、その表面は傷だらけ。黒い部分がはげてきて、いぶし銀の色合いが滲み出る。
最果ての都は、どこより厳しい冬に耐える。
信仰だけを拠り所に、いつまでも、いつまでもそこに居続ける。
笑うとしても、わかりやすく口をあけてなんて、できはしない。
不器用に口元を緩め、そっと微笑むだけ。
その、なんと好ましいことか。
白い山、濁った空、かろうじて白い都……
目の前の景色は、まるで銀の鉱石のようだった。
私達は確かにここにいるのだと、静かに、静かに呟いていた。
また前を向き、歩き出す。
少し離れたところに、幹線道路の起点が見える。まともに日差しを浴びた白い馬車は眩しすぎて、その輪郭もはっきりしない。
そこに小さな影が映った。
脇に立つのは、誰だろう。
すぐにわかった。
白い僧帽に流れるような金色の髪。ソフィアだ。
「……ファルス様」
透き通るような微笑だった。
彼女がどうしてここにいるのか。
考えるまでもないだろう。俺のことはドーミルから伝えられているはずだ。この馬車に同乗するマルトゥラターレと一緒にここまでやってきたに違いない。
俺は言葉を探した。なんと声をかけたらいいのだろう。
魔宮に落ちる前、彼女の人生は既に閉ざされていた。あの時、彼女がなくすまいとしていたものは、今なお取り戻せていないはずだ。
けれども、なぜか彼女は微笑んでいた。それは晴れた日の空のようで、絶望の闇は既に追い払われていた。
俺は、尋ねた。
「これで……よかったのですか」
ソフィアは今後とも、この国に居残る。そして表向きは神学生として、裏ではドーミルを助けて魔宮の問題に取り組むことになる。
「ふふっ」
けれども、この問いかけに彼女は笑い出してしまった。
「変ですわ。ファルス様、そんな作ったような話し方なんて」
危険な場所は既に脱した。俺がソフィアに対して権力を誇示する必要なんてない。
表の世界では、彼女は相変わらず旧貴族の令嬢で、俺は貧農の息子、奴隷出身の成り上がり者でしかないのだ。
「ここはもう、魔宮の中じゃない」
俺は一言ずつ、言葉を絞り出した。
「僕もあなたも、すれ違っただけ。今まで通りの道を歩くだけだ。そうじゃないか」
彼女は、静かに首を振った。
「来た道を振り返ることはできません。昨日までの道は、今日からの道とも限りません」
そう答えた彼女は、どこか大人びて見えた。
導きと救いを求めて嘆き悲しむソフィアは、ただの子供だった。その、子供だった彼女はもう、ここにはいない。
いったい何が彼女を変えたのだろう。その答えは、わからないようで、わかるような気もした。
「あれから、どうしていた」
「一度、家には帰りました。でも今は、教皇の預かりの身となっています。春になったら、神学校の寮に入ることになるでしょう」
あれほど欲していた、父母の愛は?
割り切ったようには見えない。なのに、彼女は満たされていた。
俺の疑問に答えるように、彼女は言葉を添えた。
「私の中には、消えることのない信仰があるのですから」
「この世界に、あなたが思っているような女神はいない。それでも?」
魔宮とモーン・ナーの真実は、今のところ闇に葬られることになっている。だから、彼女が神学校の生徒になるのは、別におかしなことではない。それがこの社会における常識だから。
だが、それはそれとして。ではなぜ、いまだにこの世界に対する信頼を抱き続けるのだろう。
「そうですね……」
朝の光の中を、彼女はゆったりと歩きながら、俺に近付いた。
「女神様はいないかもしれません」
俺のすぐ前で、彼女は歩みを止めた。
「聖女様も、偽者だったのかもしれません」
「では、なぜ?」
「それでも。良く在ることは良いことなのです。ファルス様」
その眼差しには、力が宿っていた。
「もし、女神様が見ていてくださらなくても、聖女様が聞き届けてくださらなくても。お父様やお母様が私を忘れ去ろうとも……どなたかは私を見てくださいます。耳を傾けてくださいます。そして、決して見捨てはしません」
そこには、確固たる信頼があった。
「それでも……それでも、ソフィア、僕はたくさんの悲劇を見てきた」
だが、俺はまだ、闇の中にいる。
「どんなに望んでも、地の底から這い上がれないこともある。一人で死んでいくしかないかもしれない。それでも、それでも信じるのか」
「はい」
彼女は、迷いなく言い切った。
「私はもう、既に奇跡を目の当たりにしました」
そう言うと、その白い手を太陽にかざした。
「私は願いました。お父様に、お母様に愛して欲しいと。それは聞き届けられませんでした。私は望みました。温もりと導きが欲しいと。それは一度は与えられましたが、すぐに奪い取られてしまいました。私は求めました。せめて、清く正しい裁きの下に身を置きたいと。それすら拒まれました。ですけれど」
俺に振り返る。
「この手で人を救いたい……この願いだけは、かなえていただきました」
それを聞いた時、俺は自分の中の見えざる手を引っ込めた。
ピアシング・ハンドで彼女に与えた力。それはアイドゥスが長年磨き上げた癒しの奇跡。どれほど望んでも、きっと二度と手に入らない宝だ。
だが、それを所有すべきは誰なのか。
アイドゥスは、夢で見たはずなのだ。
ミディアによる逮捕を逃れて東に向かえば、雪原の中でソフィアが命を落とす。
だが、俺の提案に従って牢獄の中に自分の遺体を残せば……やはり、絶望したソフィアは、一人で廟堂の中に忍び込む。そしてその時、そこに俺はいない。
だからこれは、彼が望んだ未来なのだ。
彼女は消えることのない光を見出した。
ならば、それでいいのではないか。
かつての彼の夢と希望は、今、ソフィアの中で輝いている。
「たまたまあなたの努力が実った。それだけだろう」
だから、俺はそれを回収しない。
これからも人を慈しみ救い続ける道を歩めばいい。本当のことを知る必要なんてない。女神の奇跡、それでいいじゃないか。
「いいえ」
だが、彼女は何かに気付いていた。
「それでもこれは、誰かの、何かの思し召しなのです」
「そう思いたければ、思えばいい」
これはこれで、一つの幸せなおとぎ話だ。
不幸のどん底に突き落とされた哀れな少女が、奇跡に出遭って、愛の世界に立ち返る……そんな、どこにでもありふれた物語。
俺は一歩を踏み出した。
「行かれるのですね」
「僕の旅は、まだ終わってない」
彼女はここで、大勢の人を愛し、愛されて生涯を終えるのだろう。けれども、聖女の不死が否定された今、俺がこの地に戻ってくることは、きっとない。
ならば、これが別れだ。
「だから、行かなきゃ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「ああ、ありがとう。さようなら」
俺は背を向けて馬車に向かおうとした。
その時、彼女は呟いた。小さな声で。
「ファルス様、あなたは……」
足が止まる。
「……真夜中の太陽だったのですね」
振り返った。
「きっとまた、お目にかかると思います」
何事もなかったかのように、彼女は微笑み、小さく手を振った。
俺もまた、前を向き、馬車の扉を開けて飛び乗った。
御者はすぐに鞭を入れ、車輪が回りだす。
馬車の窓からは、木々の隙間から差し込む朝の光が見えた。
風景が流れ去っていく。
長い、本当に長い旅路だった。
それで得られたのは、たった一つの事実だけ。聖女の不死は、まがいものだった。
無駄な努力だったのか? だが、どこかで俺は安堵していた。
何はともあれ、一つの探求が終わったのだ。
今はそれを喜び、安らぎの中で一休みしよう。
いずれまた、新たな荷を負うのだから。
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