猊下の秘密の小部屋にて

「まったく……大願成就と思いきや……」


 目の前では、白髪の老人が頭をガリガリ掻き毟りながら、悪態をついている。教皇に就任するからといっても、すぐさま公邸に引っ越さねばならないわけではないらしく、俺が呼び出されたのも彼の私邸だった。


「面倒ごとがこんなにあるとわかっておれば、別の道を考えたものを」


 初めて面会した時と同じ、あの部屋だ。

 背後には出口の扉、正面にはセリパス教の聖印を描いた布が吊り下げられている。天井は三階建てくらいの高さにあり、丈の高い本棚が聳え立っている。

 ドーミルは、俺を立たせたまま、椅子に座ってグチグチと恨み節を吐き散らしていた。


「今日はハッシさんはおいでではないのですか」


 これでは話が進まない。

 狂人のふりをしなくても、要介護なんじゃないか。


「奴には別の仕事がある。それにわしの腹心じゃからな。これから枢機卿の一人になってもらわねばならん」


 ギョロリと俺をねめつけると、彼は忌々しげに呻いた。


「忙しいのは、わしも同じじゃからな」

「であれば、さっさと本題に入りませんか」

「失礼な奴じゃ。年寄りの長話には付き合うのが礼儀じゃろうに」


 自分で忙しいと言っておいて。

 まぁ、彼なりの冗談と受け止めることにしよう。


 結局、あれから二日。

 俺は宿舎を新たに割り当てられ、そこに閉じ込められていた。判断を下すのはドーミル一人、その彼が教皇就任に伴ういろんな仕事に追われていて、時間がなかった。

 ヘル達暗部から、魔宮の話も聞いたのだろう。ヨルギズの手記にも目を通したはずだ。


「先に結論を言うとな」


 長い溜息をつきながら、彼は言った。


「まだ、魔宮モーの事実は、明らかにはできん」


 それはそうだろうと思った。

 だが、こうなってしまっては、いつかは漏れる。


「暗部の存在は、枢機卿に知られてしまったが、これはこれでよいと思う。ただ、今はよいが、先々を考えると不安じゃの」

「というのは?」

「わからんか? 神聖教国はこれまで、聖都に戦力をおいてこなかった。ギシアン・チーレムの命令が残っているから、という表向きの理由はあったが、別の面での利点もあったのじゃ。つまり、武力で国の長が決まることはなかった。暗部は秘密の存在であったがゆえに、逆に力を誇示する機能を有しておらなんだからの」


 ここまで言われて、やっと理解できた。

 教皇直属の武力組織、といえば便利そうに聞こえるが、そういう親衛隊のようなものは、時と場合によっては暴走する。存在が公になった、といっても知っているのは枢機卿達くらいなものだが、とにかく知られた以上は、その力が威嚇に使える。

 武力をちらつかせて、次の教皇選出に介入するようになったら? 政治的に無色透明だったものが、実力を持つようになる。これはいいことではない。

 しかし、暗部の台頭のきっかけを作ったのは、他ならぬジェゴスだ。長きに渡るゼニット教皇の時代に、支配の空白が生じた。暗部の面々に、自分達の存在理由について考えさせる余地を作ってしまった。ウティスの扉が開かれたことが、その最後のダメ押しとなった。


「わしとしては、お前にいろいろ言いたいことがあるが……まずは本音で話をできる場所に移ろうかの」

「は? はい」

「どれ、ちょっと待っておれ」


 すると彼は立ち上がり、さっきまで座っていた椅子と、その下の絨毯を乱暴に押しのけた。そうしてから、真後ろにあった聖印の描かれた布を引っ掴み、まくりあげる。そこには、レバーのようなものがあった。

 彼がそれを引き下げると、どんな仕掛けによるものか、さっきまで座っていた場所に窪みができた。いや、これは地下室だ。


「それ。ついてこい」


 そう言うと、ドーミルはさっさと梯子を降りていく。俺は一瞬、あっけにとられたが、後に続いた。

 下に降りると、ほぼ真っ暗闇なのに、彼は慣れた手付きでランタンに火を点した。


 そこは狭い狭い書庫だった。

 人が立てる場所は二畳もない。小さなテーブルと椅子が一つずつあるだけ。六角形の部屋の壁は、一面を除いてすべて本棚だった。そこにみっしりと何かの冊子とか、紙切れなどが挟まっている。


「ここがわしの天幻仙境じゃて。まだこの床の下に、大きな倉庫もあるんじゃが」

「は、はぁ」


 壁のレバーを引くと、天井が閉じた。


「これで話を盗み聞きされる心配もあるまい」

「窒息の心配はありますが」

「安心せい。丸一日ここに篭っても平気じゃった」


 換気対策はされている空間か。なら、いいが。

 彼は身振りで俺に椅子を勧めた。


「やっと本音が言えるわい」

「本音?」


 すうっ、と息を吸い込むと、ドーミルはカッと目を見開いた。


「ファルス、このバカモノめが!」

「は?」

「わしを困らせよって」


 記憶をまさぐる。

 しかし、俺が何をした?


「い、いや……そんなこと言われても。魔宮の件は、仕方ないでしょう。脱出しなきゃ、死んでたんですから」

「そのことではないわ」

「じゃあ、あれですか。ついでに聖女の像を吹っ飛ばした……まぁ、悪いとは思いますけどね、あんまり僧侶どもが汚いもんで、キレちゃったんですよ」

「それでもない。とはいえ、あれも尻拭いさせられて、頭にはきとるがな」

「なら、そもそも勝手に廟堂に忍び込んだ件」

「立派な犯罪じゃな。だがそれは、あえて見逃してやる」


 なんと?

 じゃあ、あとは何がある?


「お前の軽はずみな振る舞いのせいで、わしは破滅するところだったんじゃぞ!」

「は、破滅? 僕が何をしたって言うんですか」

「わからんか、わからんか、このたわけめが」


 掴みかかってきそうな仕草を見せつつ、彼は喉の奥から呪いの言葉を吐き散らした。


「考えてもみい。わしが気狂いのふりをしておったのは、何のためじゃ」

「それは、教皇に選ばれるためでしょう?」

「そうじゃ。それに、ジェゴスのアホに睨まれたくなかったのもあるな」

「僕はあなたが正気かどうかなんて、知りませんでしたが」


 すると彼は、横を向いて、いかにもうんざりしてます、と言わんばかりの顔をしてみせた。


「かーっ、このクソガキめが。よいか、お前が前にここまで来た、あの訪問でさえ、邪魔で邪魔でならんかった。さっさと諦めて帰ってくれればいいものを、しつこく食い下がりよって……それでしょうがないから、お前の望みに沿ってやって、おとなしくさせようと思ったのが、いかんかった」

「望み?」

「廟堂に入りたいとか、ほざいておったではないか」

「あ」


 俺の宿舎に紛れ込んでいた怪文書。

 シャルク神学校に三年通えとか。


「あの紙を差し入れたのは」

「そうじゃ! ハッシに手回しさせた」

「そうだったんですね。ありがとうございます」

「ありがとうではないわ!」


 頭を掻き毟りながら、彼はなおも言い募る。


「貴様、あの紙のことを、他所で喋りよったな」

「えっ」

「口の軽いクソタワケめが。あれでわしは脅されたんじゃぞ!」


 なんと。

 でも、それは誰に……あっ。


「アイドゥス師?」

「そうじゃっ!」


 そんなことがあったのか。


「元々、察しのいい男じゃからな。お前がわしの家までやってきたことから、すぐ見抜きよったわ。まぁ、お前が会った枢機卿というのが、ミディアとジェゴスと、あとはわしだけじゃから、こんなのは簡単にわかる」

「それで、彼はなんと」

「奴がなんと言ったと思う?」

「さぁ……」


 彼は正体不明の怒りを滲ませた。


「支援させてください、とほざきよったのよ」

「支援? 手助け?」

「このすぐ上でな。わしはいつものようにボケたふりをしておった。なのに奴は、構わず話し続けよって」


 一度目のボランティアと、二度目の間に、アイドゥスは既に行動していた。恐らくは、自分の死を予期していたのだろう。

 しかし、支援とは。それのどこが脅迫なのだ?


『あなたの計画は、私の支援なしではうまくいきません。あなたが望みを果たすためには、ゼニット教皇が亡くなられてちょうど八日後に、聖教会議に出席なさるのがよろしい。廟堂の外には、私を支持する若い聖職者と騎士達を呼び集めておきましょう。彼らは呼ばれればすぐに駆けつけますから、あなたが一方的に亡き者にされる危険をなくせます』


 そこまで説明して、ドーミルは首を振った。


「バレておる。その時わしが考えたのは、アイドゥスをどう始末するかじゃった」

「あなたが手を下したのですか」

「違うわ。やったのはジェゴスじゃ。それに、奴はこうも言いよった。その日であれば、女神の思し召しがあればですが、恐らくたった一日で政敵を葬ることができます、とな。その時は、わけがわからんかったが……切れ者の奴のことじゃ、何か手回ししてあったのだろうとは思ったが」


 確かにそうだ。

 いきなり姿を見せた俺、そしてマルトゥラターレに驚愕したジェゴスは、自分の罪を隠すことすら忘れてしまった。あれがなければ、奴はもっとしぶとく抵抗しただろう。

 聖教会議で教皇になったからといって、いきなり実権を掴めるわけではない。旧来の利権にメスを入れ、再構築するというのは、どんな統治者にとっても難事なのだ。


 すると彼は、予知夢で俺達が這い出てくる姿を見ていた?

 魔宮から脱出する日を、彼がコントロールすることはできない。ゆえに、他に辻褄の合う説明がない。


 ただ、俺の成功を確約できるほどでもなかった。女神の思し召しがあれば。事実、俺達がアルジャラードに敗北する可能性は、小さくなかった。のるかそるかの部分もあったのだ。

 だから、か。最期に彼が俺になんと言ったか。あなたを信じます、というのは……

 もし俺が、ソフィアやマルトゥラターレ、それにヘル、彼らのうち、誰か一人でも見捨てていたら。アイドゥスの予知能力は、俺の運命には手が届かない。信じるしかなかったのだ。


「でも、それだと脅しになっていませんよね?」


 なぜなら、これだとアイドゥスが一方的にドーミルを支援しただけで終わるからだ。

 結局、彼自身は死ぬのだし、いったん教皇になってしまえば、狂人のふりをしていたことは弱みにならない。アイドゥスがどんな交換条件を持ち出したにせよ、そんなもの、いくらでも反故にできる。


「いったい彼は、何をあなたに要求したんですか」

「民を解放せよと。厳しすぎる解釈を改め、戒律による負担を軽減し、以前のように、もう少し暮らしやすい国にしてくれと、そうぬかしよった」

「結構じゃないですか」

「ふん……わしにはどうでもいいことじゃがな」


 ドーミル自身、旧貴族だ。つまり、利権のど真ん中にいる人物でもある。庶民の生活など、気にならない立場なのだ。


「じゃが、それをしないなら奴は……」


 目を閉じ、若干の躊躇をみせてから、やっと言った。


「……わしの魂、わしの喜び、わしの生き様そのものを焼き尽くすと言いよったわ」

「そんな恐ろしいことを? 彼が?」

「殺すと言われても屈したりはせんが、これだけは……しかも、奴が死んでも、この脅しに終わりはない。ならば、仕方ないではないか」


 つまり、自分の死後であっても、なおもドーミルを動かせる脅迫の材料があったということになる。


「いったい、それはどんな」

「この部屋じゃ」

「この? 部屋?」

「見るがいい。わしの至高の宝を」


 彼は無造作に一冊の本を抜き取り、俺の目の前で広げた。

 そこには……


「ふぁっ!?」

「美しいじゃろう? 余計な穢れなど、どこにもない……これこそ女神じゃ! あ、これ、唾を飛ばすな。指紋もつけるでないぞ」


 ……女性のあられもない姿が描かれていた。


 というかこれ、春画だ。エロ本だ。

 それも、なんかデフォルメされている。こう、アニメ調というか。

 こっちの世界にもいたんだ。二次元愛好者ってやつが。


 口をポカンと開けて呆けている俺を尻目に、彼は熱弁し始めた。


「わしに言わせれば、現実の女なんぞクソじゃ! クソもクソ、クソクソじゃっ! 考えてもみぃ、生身の女はメシも食えばクソもする。ワーワー喚くし、あれもこれも欲しがる。歳を取れば見た目まで醜くなる。それがどうじゃ、この絵の素晴らしいこと……醜いところは消し去られ、美しいところだけが残されておる! 余計なワガママも言わず、誰より清らかで……ああ、まさに女神、女神じゃっ!」


 どう反応したらいいか、わからない。


「ジェゴスなんか、わしからすれば、女のよさのオの字もわかっておらんわ。何を好き好んで汗臭い生身の女なんぞを抱くのか。それが歪み歪んで今度は亜人……いや、亜人の女の絵であれば、わしも大好物じゃがの、本物なんぞ、何がありがたいんじゃ。クラングのアホに至っては、妊娠させるのが好きとかぬかしておったが、わしにはまったく理解できん。あやつらは変態じゃ、変態!」


 そう主張するドーミルも変態だと思う。理解できない。


「わしの長年の夢はな、南方大陸のどこかにある『百族百家閨門交媾図』をなんとしても見つけ、この手に収めることじゃ! あれこそ聖典、聖典の中の真の聖典じゃ! 教皇になるのも宿願ではあったが、それが叶った今、目指すべき夢はもう、それしかない! だというのにアイドゥスのバカタレは、もし民を慈しまないなら、ここの存在をバラすと言うんじゃ! ひどいとは思わんか!」


 そういうことか。

 狂人のふりをしているのはわかってるぞ、という脅迫が通じるのは、彼が教皇になる前まで。だが、その後のネタもちゃんとあった。

 教皇になってからでも、ここの「秘宝」の存在が知れたらどうなるか。隠し切れないなら、処分するしかない。だが、我が身のためとはいえ、愛する「美少女」達を、彼がこの手で焼き払えるだろうか?

 もしドーミルが無道の統治者になろうものなら、秘密が彼を背中から刺す。そういう脅しなのだ。


 いろいろ納得できた。


 まず、俺が口を滑らせた件のおかげで、アイドゥスは予知夢を見たのだ。

 ドーミルが狂気を装っている事実を言いふらしたらどうなるか。彼自身も断罪されるが、彼の秘宝も暴かれ、焼き捨てられる。それを見たから、逆にそちらを取引の材料に使えるようになった。


 それと、ドーミルはジェゴスやクラングを変態と言ったが、そもそもセリパス教自体が変態であると言える。なぜなら、自然な性的接触を不健全と看做し、やたらと抑圧しているからだ。となれば、そんな教義を抱える集団の中で長年過ごした人間は、歪んだ性的嗜好を育むのが必然。過剰な禁欲は、変態の素なのだ。その意味では、ドーミルもまた、純粋培養されたエリート変態なのだ。

 彼に限らず、セリパス教圏で俺が出遭った様々な問題には、少なからず性的な逸脱が絡んでいたように思う。テンタクが養っていたのは、いずれも出自が問題となる子供達だった。タリフ・オリムでは、ツルハシで女性を襲う変態に出くわした。そしてここ、総本山たる聖都では、ジェゴス、クラング、ドーミルと、居並ぶ枢機卿の多くが偏った性的嗜好の持ち主だった。そういえば、エンバイオ家に仕えていたランもセリパス教徒だったが、フリュミーとの結婚前にこさえたルードは不義の子だった。

 逆説的だが、性的に自由であれば、ここまでにはならなかったのではないか。むしろ抑圧が逸脱を再生産しているのかもしれない。


 もう一つ。どうしてリンの紹介した有力者がドーミルだったのか。

 彼女は、クララやミディアと同じく、アイドゥスの弟子だったはず。それがどうして、彼を選んだか。何のことはない、同類だったからだ。現世的で欲望に忠実な人間だからこそ、交渉の余地もあり、信用もできる。そのことを知り抜いていたからだ。

 現に、アイドゥスは常に善意に満ちていたが、それだけにいかなる誘惑や脅迫にも屈しなかった。不死を追求する俺は、ときに無茶な横車も押し通さねばならない。その際の協力者として、彼は適していなかった。


「お話はわかりました」


 溜息一つ。

 とにかく、納得はした。ドーミルは、善良な統治者にならざるを得ない。そこはいい。


「余談ですが、ミディアさんはどうなります?」

「うん? あの小娘か。一応、アイドゥスに一言頼まれてはおるな。再教育してやってくれと。枢機卿から下ろして底辺からやり直させるのが、まぁ、妥当な気がするが……あえてあのままの地位に据えておくというのも、面白いかも知れん。針の筵じゃろうて」


 その辺は、もう俺の考えることでもないか。ただ……


「では、クララさんは?」

「クララ? クララ・ラシヴィアかの」

「はい」

「そうさな。とりあえず、拘束しておく理由もない。折を見て、教会にとって邪魔にならないようなら、自由にしてやろうかとは思うがな。こちらも様子を見ながらじゃ」


 ミディアはともかく、クララにはちょっとだけとはいえ、助けてもらった。こちらには是非、自由を得て欲しい。


「わかりました」


 それで、俺の処遇はどうなる?


「……わかったのなら、後始末について、説明するぞ」


 愛すべき永遠の美少女を棚に戻すと、彼も落ち着きを取り戻した。


「まず、魔宮からじゃ。これはもう、しばらくは暗部に頑張ってもらう。当面は地下にいる吸血鬼どもと協力するしかないのなら、そこは我慢じゃな。まだ掃討作戦を始めるには、時期尚早じゃ」

「はい」

「サース帝の残虐行為も、世に知らしめるわけにはいかん。ましてや吸血鬼だったなどと……」


 しかし、今気付いたが、そうなるとウティス帝は誰の子だろうか?

 サース帝、即ち裏切り者トゥラカムは、本来は水の民だ。マルトゥラターレがそうであるように、人間と彼らの間には、子供が産まれない。ならば、モーン・ナーの祝福によって変質したトゥラカムもまた、人間の女……ヴェイグの娘との間に、嫡男を儲けたなどとは考えられない。

 彼の治世は長かった。後継者がいなくては不自然でもあり、もしかすると誰か適当な男を自分の身代わりに使ったのかもしれない。


「セリパス教はいまだ世界中に広く信者を抱える大宗教じゃ。これが悪魔や吸血鬼と繋がっておったと知れてみよ。大混乱になるぞ」

「そうですね」

「ゆえに、口止めせねばならん」


 関係者は……四人。

 暗部のヘルは問題ない。もともと彼らは魔宮の存在自体は知っていた。

 残りが問題だ。一人がシスティン家の令嬢で、もう一人が亜人、そして最後の一人が外国の騎士。厄介だろう。


「どうするつもりですか」

「どうにもできんな」


 彼は苦笑いを浮かべた。


「ヘルの報告は聞いた。どうやら貴様はバケモノらしい」

「人間ですよ」

「だから脅す。もし魔宮の秘密が世に知られたら、わしはお前ではなく、お前の周りの人間を暗殺させる」


 そうきたか。

 直接、俺を殺すのが難しいから。


「ヘルと暗部は、引き続きわしの下で働いてもらう」

「他はどうするんですか」

「ソフィア嬢は、今となっては大事なパイプ役じゃ。安全は保証しよう。わしの命令で、神学校に入ってもらう。それがもっとも不自然でない進路であろう。その裏で、廟堂地下の調査を手伝ってもらう」

「マルトゥラターレは」


 すると彼は腕組みをして、呻いた。


「本当は……殺してしまいたいのじゃがな」

「僕が認めるとでも」

「ふふっ、アイドゥスの言っておった通りじゃ」


 ドーミルは、毒のある笑みを浮かべた。


「智慧はあるのに愚か。愚かなくせに、なぜか道を心得ておる」


 口角を吊り上げて、彼は言った。


「これも聞いておる。マルトゥラターレなる亜人の望みは、仲間の亜人の集落を見つけること、じゃったな?」

「その通りです」

「さすがに教国が、見えるところで魔物の手助けをするわけにはいかん。よってファルス」


 彼は顎をしゃくりながら言い放った。


「お前に預ける」

「はい?」

「亜人から魔宮の秘密が漏れた場合には、お前が言いふらしたと看做す。しっかり管理せい。あとは自由じゃ。お前の所有物ということにしてやろう。但し、なるべく人目に触れないようにせよ」


 なるほど、そういう始末か。

 冷静に考えて、これはかなり温情ある措置だ。本音では、俺やマルトゥラターレは殺処分したいだろうから。


「よくそこまでしてくださいますね?」


 寛大すぎる扱いに、俺は思わず問わずにはいられなかった。


「どうしてそんなにまで」

「なに」


 鼻で笑うと、彼はまた、棚の中からカードのようなものを引っ張り出した。


「もらうものをもらっておいて、何の見返りもなしでは、わしも立つ瀬がないということよ」


 テーブルの上に置かれたのは、二枚のカードだった。


「こ、れ、は?」

「なんじゃ、見ておらんかったのか。拍子抜けじゃな。リンが寄越した紹介状の中にあった報酬じゃ。先払いされては、仕方あるまい」


 それは、どことなく見覚えのあるカードだった。

 どちらも武装した、スケスケでエロエロな美少女の絵。しかし、下の解説の部分には、男の名前が書いてある。片方はギシアン・チーレムで、もう片方はアルティ・マイトだ。

 というか、これ……


「ラスプ・グルービーのコレクション?」

「ほう、わかるか! ファルス、お前が目利きとは思わなんだぞ。たかがカードゲームでも、女抜きではやっておられんかったのじゃろう。いや、さすがはグルービー、奴はわかっておるな」


 ……俺がグルービーの歓待を受けていた時、昼食を食べながらカードで遊んだ時に目にしたものだ。


 懐かしい。

 そうか、彼が死んだから。遺品の一部が売却されて、市場に流出したのか。で、それをリンが入手した、と。

 そんな貴重なものを手放した? いや、彼女はゲーマーだが、好色家ではない。せっかく手に入れたものの、エロ過ぎて使えなかったから、欲しがる人のところに送りつけたのだ。

 更に言えば、これは二つの機能を有していた。一つは賄賂。もう一つは、脅迫状だ。アメとムチといってもいい。つまり、ドーミルは自分の秘密を知っている人間を相手にしていると思っていた。だからこそ、リスクを冒してでも俺に協力せざるを得ないと、そう思い込んでいたのだ。


「ということで、の」


 大事なカードをまた棚に戻し、彼は続けた。


「これ以上、国内でお前に動かれたくはない」

「あ、はい」

「特に……ベレハン男爵か。タンディラールにこの件が漏れるのが、一番まずい。主従関係があろうがなかろうが、こればっかりは口を滑らせてもらっては困る。今度こそ頼むぞ」


 確かにそうだ。

 こんな弱みを握られたら、大変なことになる。


「理解しました」

「なら、出て行ってくれ。専用の馬車を用意した。明朝一番に、トーリアの外れから出発する。そのまま南部の国境まで送り届けさせる。あとはシャハーマイトから船で帰国するでもなんでもいい」

「わかりました」


 これで話は終わりか。

 俺は席を立った。彼もレバーを引いた。からくりが動いて、天井が開く。


「では、改めて。教皇就任、おめでとうございます」


 深い意味のない、ただの別れの挨拶のつもりでそう言った。

 だが、彼は憮然とした顔で俺を睨んできた。


「……何がめでたいものか」

「はい?」

「ファルスよ、どう思う。この国の指導者として相応しかったのは、誰だと思う」


 過去形で尋ねてきた。

 ジェゴスでもゼニットでもない。無論、ミディアでもない。


「アイドゥス師だと、そうおっしゃるのですか」

「とんでもない。あんな男に一国の指導者など務まるか!」


 その声には、恨みさえこもっていた。


「わからんか、あの男はな、一番大事なことをわかっておらんかった。人間には欲がある、自分さえよければいいという欲が」

「それくらいはご存知だったかと」

「いいや! 理屈では知っておっても、奴自身にはそれがなかった! なかったからこそ、トゥリル教皇が死んでから、自分の身を守りきる術を思いつけなかったんじゃ。あんなのはな、政治家としては二流、いや三流よ」


 そう吐き捨てた。


「だったら、ちゃんと欲のあるあなたが教皇になったのは、やっぱりいいことじゃないですか。何が不満なんですか」

「そうよ、そうともよ。もしわしが教皇になる邪魔をするのなら、どうせ殺しておっただろうよ。じゃが、じゃがな」


 肩を震わせ、両の手を握り締め、また開き。


「ここは女神に仕える善男善女の生きる国じゃ。他所では建前でしかない正義が、ここでは、ここでなら、本物になれるのじゃ。ならば、本当の意味で指導者たるべき人物は……あやつしかおらんかった! それが、それが死に急ぎよって」


 テーブルを乱暴に叩く。


「無念……なんという無念じゃ……」


 顔を伏せ、ドーミルは苦しげに呻くばかりだった。


 それを見て「ああ」と納得した。

 だからアイドゥスは彼に託すことにしたのだと。ドーミルは善人ではない。欲の深い俗人だ。だが、善と理想のなんたるかを知っている。


 俺は悟った。

 ようやく長い夜が明けようとしているのだと。

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