聖教会議

 階段のすぐ上には、分厚い金属製の扉が聳え立っていた。

 事前に聞かされていた通り、やはり金属の棒が閂の役割を果たしている。とはいえ、こちらはモーン・ナーが拵えたものとは違うらしく、青錆がびっしりとへばりついていた。


「ウティスの扉だ」


 ヘルが言った。

 ここに至るまでが、俺達とヘルとの休戦協定の有効範囲だった。つまり、この扉を開けたら……


「この扉を開けることは、暗部への裏切りに当たる」

「ご苦労なことだな」

「お前はここから出られれば、それで済むのだろうが、俺はそうもいかん」


 ここで殺すのが、俺にとっては都合がいいのかもしれない。

 だが、なぜかそんな気にはなれなかった。


「で? どうやって決着をつける」

「ここを開けたら、俺が暗部に報告に行く。どう始末をつけるか決まったら、ここに戻って伝える」

「ふざけるな。お前ら暗部が仲間を全員集めて戻ってきたら、どうすればいい。取り囲まれて一方的に殺されるなんて、ごめんだ」

「ふっ……お前が言うと、冗談にしか聞こえないな」


 それもそうだ。

 もしそんな選択をしたらどうなるか。俺は容赦なく、最大威力の火球を叩き込む。また、マルトゥラターレも同じ選択をせざるを得ない。ここから出たら殺す、ということなのだから、おとなしくしていたのでは、仲間の水の民を探しに行くという夢が絶たれてしまう。

 ここを開けた先に何があるかはわからないが、少なくともここまでは一本道の通路が続いていた。つまり、俺達は有利なポイントを選んで全力攻撃を浴びせることができる。


「なら、こうしよう」


 ヘルは自分の首に手を当てながら提案した。


「もし、暗部がそうした判断をした場合には、俺の命をまずやる」

「いるか、そんなもの」

「他に差し出せるものがない。俺には俺の使命がある。ここまで見聞きしたことを伝えるまでは、責任のうちだ」


 闇の中で生きてきた割に、なんとも律儀な奴だ。

 いや、逆にそうであればこそ、暗部の一員でいられたのか。善も悪も、義理も筋合いも何もない男なら、スナーキーのように脱走して、我欲のままに振舞うだろうから。


「まぁ、いい。ここで押し問答しても変わらない」


 仮にここで俺がヘルを殺した場合、暗部に発見されれば即座に交戦状態となる。要するに、ヘルの報告を受けての判断が「抹殺」であった場合と大差ないのだ。


「好きにしろ。ここで待つ」

「では、そろそろ私はお暇する」


 カディムが後ろで言った。


「なに?」

「最初から決めていた。ファルスとヘル、二人の間の争いには、私は加わらない。それは君達人間の世界の話だ」

「道理だな」


 しかし、彼は外に出たかったのでは?

 だが、彼は余裕の笑みを見せた。


「なに、問題ない。そのうち、人間達のほうから、私達に協力を要請するようになる」


 なるほど、最初から計算はできていた。

 古文書の解読という問題を抜きにしても、だ。アルジャラード討伐後の魔宮がどうなるか?

 よりによって、このダンジョンは廟堂の地下にあるのだ。神聖教国として、大々的に兵力を投入して掃討、というわけにはいかない。引き続き、秘密を守り続けなくてはならないのだ。

 しかし、今まで無料で通行制限の仕事を引き受けていた悪魔はもういない。そして、地下の道案内ができ、かつ人間と意思疎通が可能な存在は、カディムとその仲間達以外には存在しない。

 ついでに言うと、アルジャラードが滅びた今、あの大樹の大穴を飛ぶルートも解禁される。つまり、吸血鬼を閉じ込める水の檻が機能しなくなる。彼らは最短距離を辿って地上を目指せるようになったのだ。逆に人間は、立ち入るなら一階層ずつ進軍するしかない。

 まぁ、当面は、あの大ホールの入口を全力で塞ぐ以上のことはできないだろうが。


「時折、上まで様子を見に来る。もし伝言があるのなら、トゥラカムの図書室にでも書置きしておいてくれたまえ」

「わかった」


 ヘルが応える。


「では、さらばだ。また会う日があればいいな」


 それだけで、カディムはもと来た道を引き返していった。


「じゃあ、こっちも片付けるとするか」


 千五百年の時の流れを経て、ついにウティスの扉が開かれた。

 その向こうにあるのは、いつか見た、横穴のある通路だった。ここから見ると、ほぼ一直線になっていて、遠くに突き当たりがある。火球を防げるような障害物などない。

 ヘルは既に奥へと駆け込んだ。俺達三人はただ、待っている。


 かなりの時間、待たされてから、見慣れた影がポツンと現れた。


「どうなった」


 油断はせず、だが声をかけた。


「こっちに来い。ちょうどいいタイミングだった」

「何のことだ。決定はどうなった」


 この場所を離れたら、いきなり包囲……あり得なくもないので、警戒を解くことができない。

 ヘルは、あえて無防備なまま、こちらに歩み寄ってきた。


「仲間に殺されるんじゃなかったのか」

「この後、拘束される。俺も抵抗しないと約束している。裁きは新たな教皇に委ねられる」

「新たな?」

「教皇は不在だ。ゼニット師が八日前に亡くなった。だから、暗部に命令できる人間がいない」

「八日も? で、だったら、どうなる」

「ちょうど今、この上の大聖堂で、聖教会議が行われている。枢機卿らによる教皇選出のために」


 ということは、その新教皇に方針を決めてもらう?


「決まるまで待て、と?」

「いいや」


 彼は凄みのある顔で笑った。


「もう、いっそのこと、すぐさま真実を知ってもらおうかと思っている」


 ピンときた。

 彼はずっと考えていたのだ。廟堂の地下にこれだけの物を見つけてしまった。今後は更なる対策が必要となる。なのに、事実を知っているのが教皇一人では、不都合がありはしないか?

 なぜなら、人員や費用を今後とも魔宮のために支払い続けなければいけない。そのための支出は、今後増えていく。その負担を枢機卿らに納得させねばならないが、この事実を知らない側からすれば、どうしてそうなるのかがわからない。無用な揉め事が増えるばかりだ。

 ことがここまで明らかになった以上、もう秘密主義では通らない。きっと彼は、そのことを暗部に伝えたのだ。


「じゃあ、俺達をどこに案内する気だ」

「決まっているだろう? 聖女の広間、まさに会議中の大広間に連れて行く」

「いいのか」

「いいさ」


 俺は振り返った。背後には、緊張した面持ちのソフィアと、無表情のマルトゥラターレが立っていた。彼女らも、特に異論はないようだった。


「ここだ」


 ヘルが案内した先には、狭い登り階段があった。


「そこの一番奥、背が立たないくらい天井が低いが、最後の石版が外れる。持ち上げれば、広間の右側の隅に出られる」

「お前は来ないのか」

「お前らが中に立ち入ったら、暗部の仲間達も姿を現す予定だ。だが、できれば教皇が決まってからにしてくれ。じゃないと、命令を受けられないからな」


 なかなかメチャクチャなことを言う。これが俺達への罠でなければ、大事件になること請け合いだ。

 だが、どうもヘルは、この状況を楽しんでいるようにも見える。


 もしかするとだが、暗部にもいろいろな思いがあったのかもしれない。それはそうだ。彼らはいつでも日陰の存在だった。だが、ついに今日、表の世界に顔を出す。

 八日間の権力の空白。だが、実のところはもっと長い間、彼らは命令を受けずに過ごしてきた。そもそもゼニットは当初から操り人形だったし、政務にも興味を示さない男だった。ここ数年はずっと病床にあり、まったく何の仕事もしていなかった。この状況に違和感をおぼえないほうが不思議だ。


 汚れ仕事の一つもせず、権力争いに夢中な聖職者どもに一泡吹かせたい……

 そんなところだろうか。


 心を魔術で読み取るという手もあったが、なんとなくそんな必要もない気がしていた。


「よし」


 俺が頷くと、ヘルは背を向けた。

 階段を登り、俺達は一番奥に詰めた。まるで背が立たない。座っていないと、頭が天井にぶつかる。

 そこでそっと蓋を持ち上げた。彼の言う通り、それは地上への出口だった。


 小さな隙間ができた。

 久方ぶりの陽光が、高窓から差し込んでくる。思わず目を細めた。


「……かるがゆえに人々の信仰心を保ち、なお高めるために」


 聞き覚えのある女の声だった。

 これは、ミディアか?


 視線を向けた。やっぱりそうだ。


「若輩ながら、至大なる聖女の使命を担わんものと望みます。未来のために、ぜひ皆様のお力添えを」


 これはあれか、選挙直前の最終演説。

 とすると、他の枢機卿も、一通りはこういう話をしたのだろうか。いいや。

 入口付近には、ドーミルがいた。相変わらずボケている。ヨダレまで垂らして。騒がないだけマシというものか。すぐ隣には、特例として認められたのか、介護担当のハッシまで立っている。

 よく出席できたものだ。もしかしたら、彼のせいかもしれない。国のトップが死んだのに、一週間以上も後継者を決めずに放置するなんて。だが、現役の枢機卿が勢揃いできないでは、聖教会議もへったくれもなかったのだろう。


「では、皆様」


 司会役の司祭が、何も書かれていない木の札を掲げた。


「聖なる法に基づきまして、これより新たに聖女の代理人を選出します。どうか信仰と良心によって、正しい選択をなされますように。女神はすべてをご存知です」


 あれに候補者の名前を書く。見ると、投票用の箱がペンと一緒に小さなテーブルの上に置いてある。


「それでは、一名ずつ」


 枢機卿の一人が、一礼して進み出た。集団から離れたところで、サラサラと何かを書き付けて、箱に札を投入する。カチャンと木の音が聞こえた。

 二人目も、同じようにした。


 じっと待っているのも退屈だ。それに……今、思いついたが、これで選出された教皇がこちらの敵にまわったら、俺はヘル達と殺しあうことになるかもしれない。

 そして俺は今、精神操作魔術を使用できる状態だ。つまり、俺にとって都合のいい人物が選ばれるよう、コントロールすればいい。もしくは、選ばれた人物を支配下におけば。


 小さな声で詠唱した。

 ソフィアがびっくりしてこちらを向いたが、この際無視だ。声で発見されるかもと思ったのだろう。

 どれ、聖職者どもの頭の中身は……


「なっ?」


 今度は、俺がびっくりする番だった。

 そうか、そういうことになっているのか。なら、とりあえずは手出しは無用だ。


「師よ、投票ですよ」


 ハッシがドーミルの背中を叩く。


「ウヒッ」

「あ、歩けますか、歩けますね、さ」


 濁った瞳でぼんやりと中空を見つめる彼を、ハッシは強引に引きずっていった。しかし、投票箱の前に立たせたところで、後ろから女の声で叱責が飛んだ。


「そこまで! 投票は本人の意志でさせなさい!」

「うっ、あ……は、はいっ」


 ミディアだ。

 確かに、ハッシが代筆したのでは筋が通らない。そこで彼は後ろに引き下がった。

 ドーミルは、何かを書いたのか、書かなかったのか、とにかく札を箱の中に投入した。


「さて、これですべての投票が済みました。これより、皆様お立会いの中で、開票させていただきます」


 司会役が箱を手に、そう宣言した。


 ミディアは緊張の面持ちだった。対するにジェゴスは、余裕の笑みを浮かべている。

 ボケ老人だったドーミルは、珍しく神妙な様子で結果を注視していた。


「では、一票目……ミディア・ピュテーレ」


 自分の名前が読み上げられるのを聞いて、彼女は目を見開いた。

 新たな教国の歴史が、ここから刻まれるのだと信じて。


「二票目……クラング・システィン」


 当然、対立候補もいる。全員がジェゴスの下僕というわけではない。ミディアの自信は揺るがなかった。


「三票目……ドーミル・ヴァコラット」


 しかし、ここに至って、彼女の表情に微妙な変化が見て取れた。

 よりによってなぜ彼が? いや、さっき、投票箱の前にいた。或いは自分の名前を書いて入れたのかもしれない。もちろん、何をしているかの自覚もなく、ただ反射的に。きっとそうだ。そうに違いない。


「四票目……ドーミル・ヴァコラット」


 その推測は、ここで打ち砕かれた。

 おかしい。何かが狂っている。本人以外にも、誰かがこのボケ老人に票を投じているのだ。だが、なぜ?


「五票目……ドーミル・ヴァコラット」


 ミディアの顔が、完全に硬直した。

 と同時に、ジェゴスがいやらしい笑みを浮かべる。それに気付いた彼女は、キッと振り返った。


 まさか。

 そう……そのまさかだ。


「二十二票目……ドーミル・ヴァコラット」


 結局、半数以上の票がドーミルに集中した。決選投票もなしで、彼は教皇に任命される。アイドゥスが処刑されてから、新たな枢機卿が任命されていないらしく、次が最後となる。


「二十三票目……これには何も書かれていません。無効とします」


 さっきドーミル自身が投入した分だ。

 やっぱり何も書いてなかったのだ。


「ドーミル・ヴァコラット、十五票の獲得により、ここに正式に聖女の代理人として……」

「待ちなさい!」


 女の金切り声が大聖堂に響き渡る。


「何を、何を言っているの! 彼を見なさい! 正気ではないわ! 字も書けなくなったお年寄りに、教皇の大任を背負わせようというの?」

「クッ……クッ、クハハハ」


 その隣に立っていたジェゴスが、こらえきれずに笑い出した。


「ワッハハハ!」

「何がおかしい!」

「ミディア君、これは正統な聖教会議における、厳正なる投票の結果だ。受け止めたまえ」

「馬鹿なっ! なぜっ、なぜこんなっ!」

「わからないのか? わからないのか? ハッ……これだから小娘は」


 彼女を嘲笑するのは、ジェゴスだけではなかった。そこかしこから、含み笑いが漏れてくる。

 その中で、ミディアは憮然として立ち尽くすほかなかった。


 勝ち誇ったジェゴスは、悠々と体を開いて、宣告した。


「君の考えなど、とうにお見通しということだよ。だいたい、君が器かね? はは、百年早い」

「くっ……こ、この……」

「おっと、殴りかかるのはやめたほうがいいぞ? 罪が一つ増える。ノヴィリンティフィリクに行くだけでは済まなくなるぞ! はは、そうだ! 君は美しい。なんなら、外国の要人の『接待役』にでもしてあげようか! そうすれば寒い思いをしないで済むぞ」

「このっ、下劣なブタめっ!」


 怒りのあまり、言葉を選ぶこともできなくなった彼女だが、もはやできることなどなかった。


「静粛に! 聖職者は、言葉を清く保つように!」


 司会役がピシャリと言い放つ。

 箱と札を脇に押しやり、彼は背後に置かれた黄金の杖を拾い上げた。長さは二メートル以上、天辺のところにセリパス教の聖印が形作られている。教皇たるものの証だ。


「ドーミル・ヴァコラット、聖女の代理人としての使命を担うのならば、この杖を取りなさい」


 その杖を手にした司会役は、大聖堂の中央、巨大な聖女像の真ん前に、あえて立った。入口付近に立つドーミルからは、かなりの距離がある。


 この司会役にも、彼なりの良心があるのかもしれない。

 心からジェゴスの下僕になりきってしまっていたのなら、自分からドーミルに手渡したはずだ。なぜなら、ドーミルはどう見ても、まともな思考力をもたない状態だからだ。

 ミディアを黙らせはしたものの、こういう形で次の指導者が決まることを、本心ではよく思っていないのだ。


 だが、ドーミルはこの声に、体を揺らした。

 よろめきながらも、確かに一歩ずつ、前に進んでいた。

 それをミディアは絶望の表情で、ジェゴスは鼻で笑いながら、見守っていた。


 ついにドーミルは、司会役のすぐ前に辿り着いた。そしてその手が、黄金の杖に伸びる。

 諦めたのか、受け入れたのか。司会役は、ドーミルの肩を掴んで前を向かせ、宣言した。


「たった今、ドーミル・ヴァコラットは聖女の代理人としての使命を引き受けました。信徒は彼の導きに従いますよう」


 その言葉が、騒音に掻き消された。


「ブワッハハハ!」


 最初、その騒音がどこから聞こえたのか、ほとんどわからなかった。誰もが耳を疑った。


「ヒーッヒヒヒ! ウワッハハハ! ハーッハハハ!」


 既にジェゴスの顔からも、気持ちの悪いニヤつきが消えている。

 こんなはずではなかった。


 そう、彼の計画は、またも判断力を有しない人物を教皇に据えることだった。そうすれば、自分の権力を維持できる。

 一番確かなのは、自ら教皇になることだが、それは嫌だった。なぜなら、生活のほとんどが公的なものとなり、周囲が注意を払うため、簡単には女を抱けなくなる。彼が欲したものは名声ではなく、あくまで実権、我欲の充足だった。

 だから、わざわざドーミルに投票するよう、根回ししておいたのだ。それがどうだ。


「ヒヒヒハハハブヒャヒャ!」


 いや、まだわからない。

 あれは気狂いだ。頭がおかしいから、ああして笑っているのだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、彼の禿げかけた頭に冷や汗が伝う。


「ヒャア、ヒャア、フウ……」


 笑いすぎて、過呼吸になったらしい。

 ドーミルはいったん、笑うのをやめて落ち着いた。そして、はっきり聞こえる声で、こう言った。


「では、次は枢機卿の任免じゃな?」


 完全にこの場が凍りついた。

 ドーミルは狂ってなどいなかった。ずっとそれを装っていただけ。


「ば、馬鹿な」


 今度はジェゴスが狼狽する番だった。


「き、貴様は」

「控えよ、ジェゴス・アフティダン。本日より、お前の枢機卿の任を解く」

「なっ」


 いきなりの宣言に、ジェゴスは顔を紅潮させた。


「そんな勝手が通ると思っているのか! 貴様、よくもわしを騙したな! それなら今すぐ、この場で」

「ハッシ!」

「はい!」


 出入口付近に控えていたハッシが、勢いよく扉を開けた。

 バタバタと人が入り込んできた。全員、武装している。神聖騎士団の戦士達だ。なんとも手回しのいいこと。


「……正義に基づいて、裁きを下そう。それなら文句もあるまい」

「面白い。わしにどんな罪咎があるのか、言ってみよ」


 しかし、ジェゴスには積み重ねたコネがある。普通にやったのでは、なかなか権力の椅子から引き摺り下ろすなど、できはしない。彼が有力者でいられたのは、そのほうが都合がいい人間がそれなりにいたからなのだ。それが汚れた関係性によるものだとしても。


 ……どうやら、ようやく俺達の出番らしい。


 力を込めて蓋を押し上げると、簡単に横にずらすことができた。そこから一歩を踏み出す。

 不思議だ。まだ建物の中なのに、外の匂いがする。やたらと清々しい。


「えっ」

「なっ、なんだ、こいつら」


 意図せず、脇から姿を現した俺達に、僧侶達は目を丸くした。


「元枢機卿ジェゴス・アフティダン・ゲパティの悪行を報告します」


 俺はぬけぬけと言ってやった。


「かの者は、ここなる亜人マルトゥラの美貌に溺れ、姦淫の罪を犯しました。証人はこの私とマルトゥラ本人、そしてそこなるミディア枢機卿です」


 彼を指差して。

 いきなりのことに、今度はジェゴスの顔は真っ青になっていた。


「クッ、ククッ……そうか、そういうことか……なるほどな」


 ドーミルは、独り言を呟きながら、そう笑った。


「そんな、な、なぜだっ、暗部は何をしていた! どうしてここにっ! 始末したのではなかったのかっ!?」


 彼の絶叫に応えるかのように、大聖堂の隅、俺とは反対側の底板が開いた。そこから、藍色尽くめの男達がぞろぞろと這い出てきた。

 広間にどよめきが広がった。次々と想定外の事態が繰り広げられるばかり。彼らの多くは混乱の極みにあった。


 だが、誰より一番戸惑っていたのが、ジェゴスその人だった。

 彼はよろめきながら、立ち尽くすマルトゥラターレに近付いた。


「な、なぜ……お前、ど、どうして……」


 半ば錯乱したまま、彼は彼女の手を取った。


「あんなにもわしに尽くしてくれたのに、なぜ」

「触らないで」


 その言葉と同時に、ジェゴスの手に白い霜のようなものが纏わりついた。


「ぐあっ!?」


 凍りついた右手を押さえたまま、彼はその場にしゃがみこんでしまう。


 都合のいいことだ。

 魔宮の地下にうち捨てておいて、今になって情けを乞うとは。だが、もうこいつはおしまいだ。


「嘆かわしいことじゃの。ジェゴスよ。今の証言により、罪状は明らかじゃ。全財産没収の上、お前にはノヴィリンティフィリクでの奉仕活動を命じるぞ。悔悟の日々を送るがよい」


 ドーミルは、金の杖を掲げながら、そう宣告した。

 風向きが変わったことをようやく悟った枢機卿達は、途端に態度を変えた。


「おぉ、ドーミル様、なんと素晴らしい裁きでしょう!」

「これこそまさに正義です。聖女の清純はまさに守られた」


 耳にへばりつく不快なへつらいの声。

 それに対して、ドーミルはというと。


「わっははは! わかっておるではないか! よしよし、それでよいのじゃ」


 結局、こいつも……!

 不潔な僧侶が不潔な僧侶の椅子を奪っただけ。何も変わりはしない。


 この国は、どこまで腐っているのか。

 聖都の地下が魔物の巣であるのと同じように。

 いもしない聖女の幻に踊らされて……


「ファッ、ファルス様?」


 横に立つソフィアが、慌てて叫ぶ。

 それも無理はない。掲げられた俺の右腕は、既に赤熱していたからだ。


「こんなものがあるからっ……!」


 掌に集まった熱が、火球を生す。

 それが渦巻きながら、赤い光の筋を引いて、聳え立つ聖女像の頭部に炸裂した。

 爆発とともに、白い石の欠片が広間に降り注ぐ。


「うわぁっ!?」

「きゃっ!」

「なんてことをっ!」


 あちこちから悲鳴があがる。知ったことか。

 こうまで堕落しきった奴らなど。こんなゴミクズどものために、アイドゥスは死んだのか。それなら俺が、ここでまとめて掃除してやる。


 だが。

 崩れ落ちる石像の真下で、ドーミルは身動ぎもしなかった。

 かすかに微笑みさえ浮かべて立っていた。


 暗部の男達が駆け寄り、ドーミルを囲んだ。

 彼らにとっては、教皇だけが主人なのだ。そのうちの一人が、何かを耳打ちしていた。


 頷くと、ドーミルは一歩、前に踏み出した。

 そして、張りのある声で、はっきりと言った。


「ファルス・リンガよ。そなたのことは追って沙汰する。あとは教会と、このわしに任せよ」


 これだけのことをしたにもかかわらず、捕縛せよなどとは言わなかった。彼はまったく冷静だったのだ。

 とりあえず、暗部との対決は……すぐにはなし、か。


 俺は立ち去ろうとして、気付いた。

 足下で震えるミディアの姿に。


「ミディアさん」


 そんな義理はない、と思いながらも、俺は声をかけた。

 話しかけられるとは思っていなかったのか、彼女は驚いて顔をあげた。


「彼の最後の言葉を伝えます」


 彼……

 アイドゥスは、なんと言った?


「信じると」

「えっ?」

「迷いに囚われているあなたを信じます、と。それだけお伝えしておきます」


 その一言に、彼女は放心したかのように目を丸くした。

 だが、やっと理解が追いついたのだろう。顔面を蒼白にしながら、床に突っ伏した。


「ファルス様」


 大聖堂に背を向けた俺に、ソフィアが穏やかな笑みを向けた。


「帰ろう」


 俺も頷いて応える。


「太陽の光の下に」

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