異貌の神々
巨大な扉を押し開けた先にあったのは、巨大な何かの像だった。
その部屋には、大聖堂といってもおかしくないくらいの広がりがあった。しかし、そこには座席のようなものはなく、ただただひたすら神々の像と思しきものが立ち並ぶばかりだった。遮られることなく歩けるのは真ん中の通路だけで、それもすぐ途切れた。
異様だったのは、足下の床も含め、すべての彫像が繋がっていることだった。色合いは錆びた青銅そっくりだが光沢があり、どう見ても金属製だったが、継ぎ目がまったく見当たらなかった。
正面に聳え立っているのは、巨大な口だった。その口の中に舌があり、その上にフードを被った一人の女が立っていた。左手には丸い何かを吊り下げ、右手には細長い何か……あれは剣だろうか? しかし、それにしては。先端に釣り針の返しみたいなものがついている。それも両側にだ。それと、鍔がない。丸い柄頭のようなものは見える。剣というよりは、銛だ。
巨大な口の上顎はほぼ垂直に開かれており、顔の全貌はわからない。ただ、下顎の側の無数の歯の上には、何やら見慣れない形の彫像が並んでいる。
舌と下顎の端との間にはかなりの距離があり、そこに一人の男が倒れている。もちろんこれも、部屋を埋め尽くす巨大彫刻の一部だ。王冠を載せた頭は、胴体と切り離されていた。
前方にあったのは、このような異様な口と神々の像だったが、それ以外の場所……左右の壁や床には、ひたすら人間の手や顔があった。ほとんどは手だ。何かを訴えるように、床から壁から天井から、思い思いの形に突き出ている。その腕の林の中に、時折浮かび上がる顔は、どれも苦悶の表情を浮かべていた。
口の下顎の手前に、丈の低い碑があった。
そこに何かの文字が刻まれている。
「ソフィア」
俺は黙ってそれを指差した。
頷いた彼女は恐る恐る近付き、ややあって震える唇で、それを読み上げた。
「こうあります……『時と運命の繰り手モーンは、法と秩序を司るウィーバルを討った』……と」
「時と運命? 正義ではなくて?」
「はい」
どういうことだ?
目の前の女神、あの巨大な口の舌の上に立っているのは、どうやらモーン・ナーらしい。しかし、それにしては。正義の女神ではなかったのか?
してみると、立ち並ぶ歯の間に横たわるこの男、王冠の主こそがウィーバルなのだろう。
振り返る。
ヘルもカディムも、驚きながら周囲を見回していた。
俺は下顎の部分によじ登り、手を差し出した。ソフィアが上までやってくると、俺は歯の上に居並ぶ神々の像を見比べた。
「こいつは?」
歯の上に居座っていたのは、フグ……ハリセンボンみたいな格好をした何かだった。
セリパス教はもちろん、女神教にも、こんな外見の神なんて出てこない。悪魔としてもだ。だからまったく記憶にないかといえば、そうでもなかった。
ずっと下、ミノタウロスが見回りをしていた宮殿のフロアに、こいつの絵があったからだ。
歯の部分が一部、四角く区切られており、そこに文字が刻んであった。
「ええと、『海神サーカー、モーンに降る』と」
「海神? モゥハじゃなくて?」
「はい、これはサーカーと読むと思います。モゥハではありません」
この世界における海の守護者は、東海の果てにいる龍神モゥハであるはずだ。
よしんばこれが悪魔の像だとしても、やはり理屈が合わない。サーカーなんて悪魔や魔王が暴れまわったなんて記録は、どこにもない。
「じゃあ、これは?」
すぐ隣の像を指し示す。
これも見覚えがあった。宮殿で見かけた、淫らな絵。長大な性器と三つ目の男。
「これは、『生殖神ダーン、モーンに降る』です」
「生殖神? イーヴォ・ルーではない?」
「違います」
サーカーと同じだ。
こんな名前の神や魔王なんていない。歴史上の人物としても、心当たりがない。
「この中に、アルジャラードとか、キーアダーとかテカサールとか……俺達が名前を知っている悪魔は、いるか」
「ちょっと待ってください」
顔色を青くしながらも、彼女は気をしっかり保って、一つ一つを見比べていった。
だが、すぐに返答があった。
「ありません」
女神教にもセリパス教にもない存在。
歴史にも残っていない。
そんな神々が、ここで祀られていた?
「さっき聞き忘れた。テミルチ・カッディンとか、ムンジャムとかは? あ、あとギウナも」
「それもなかったかと思います」
「ない、と……」
これらにどんな意味があったのか。アルジャラードは知っていた。だからヨルギズは真実を知ることができたのだ。
しかし、なんと気味の悪いことか。
何より、この位置関係だ。この神々の像は、いずれも歯の上に並んでいる。モーン・ナーも舌の上、討たれたウィーバルも口の中。もし、この顎が閉じたら、みんな飲み込まれてしまう。
それと、描かれている情景も気になる。
前世の、例えば寺院などを思い浮かべてみても、なるほど、ご本尊とそれ以外とが序列に従って配置されることはある。真ん中に一番えらい如来がいて、左右にちょっと格の落ちる菩薩が小さく侍る。でも、基本的にはどれも普通の人間からすれば偉大な存在とされている。
だが、ここの神像群は、ある特定の場面を表現するために配置されている。モーン・ナーがウィーバルなる神を殺した。どうやら、サーカーやダーンといった神々は、同意したか、させられたかして、それをただ見ている。そんな構図だ。
口の中のことが天界の事件だとすれば、この口の外、周囲に突き出る手の数々は、恐らくは地上の人間達の思いを形にしたものだ。
あちこちにある顔を見るに、彼らもまた、相当な苦しみを味わったがゆえに、この結果を是認しているようだ。ヨルギズもウィーバルの正義を「あまりに苛烈」と述べている。ならば、ここに描かれているのは人々の怨嗟の声だ。
これがすべて空想の産物ということはないだろう。
では、この惨劇はいつ、どこで起きたものなのか?
わからない。だが、少なくとも、二千五百年以上は前だ。なぜそう言えるかというと、ここにはギウナがいないからだ。
モーン・ナーが直接活躍した話で最も有名なのが、邪龍ギウナの討伐と、それに伴うムーアン大沼沢の壊滅だ。なのに、ここにはそれが描かれていない。セリパス教にとって最大の事件であるはずなのに。
ギウナを討つ様子を描いた絵も、下の宮殿には存在した。だから、あれが些細な出来事だったとされているわけではない。だが、それより遥かに重要な事件が存在した。それがこの、ウィーバルの死だったのだ。
気になるのはウィーバルの属性だ。法と秩序……つまり「正義」を担う存在だった。それを殺した。殺害者であるモーン・ナーが正義に成り代わった。
ならば、彼女の目指す正義とはなんだ?
ここの彫像群によって表現されるものは、懲罰と復讐しかない。愛とか繁栄とか、なにか幸福を生み出しそうなものが何一つ見当たらない。
聖都の門を思い出す。
無謬なるモーン・ナーを表現する唯一の方法は、何も表現しないことだった。なぜなら、この世のすべては過ちであるから。
彼女が性を否定していたところもそうだ。つまるところ、性的な交わりは、新たな命をもたらすが、それこそが誤謬の始まりだという考え方なのだ。
要するに、モーン・ナーの正義は、世界の崩壊と人類を含むあらゆる生命の死滅によってしか実現し得ない。
世界の破滅を目論むもの、それ即ち『魔王』だ。では……
ここの数々の彫像は、どこの神を描いたものだろう。
もしかしたら、シーラと同じような、外来の神々だった?
ギウナは魔王モーン・ナーに挑んで滅ぼされた? それとも、どちらも邪悪な存在だったのか?
ギシアン・チーレムはここの存在を知っていたのだろうか。訪れはしていないにしても、モーン・ナーの正体を知っていたのか。彼は魔王モーン・ナーを討つためにここまでやってきたのか。
だが、あえて真実を明らかにしようとはしなかった。当時の人々の三分の一から半数がセリパス教徒だったのだ。社会的な混乱を恐れての判断だったのかもしれない。
「他も見てみよう」
若干、気分が悪くなりながらも、俺は床に降りた。
聖堂を出て正面には橋、その向こうに登り階段があったが、俺達は右に向かった。
突き当たりで左右に進むことができたが、左側には、いくつものベッドがあるばかりだった。奥にはあの食糧供給装置と水道、それにトイレとみられる設備があった。
次は右側だ。
少し狭くなった通路を歩きながら、俺は奇妙な既視感をおぼえていた。
行き着いたのは、狭い部屋だった。
前後に細長く、左右の壁沿いに古びたクッションが整然と並べてある。そして、奥の壁には……
「うっ、うわぁあああぁっ!」
俺は、悲鳴をあげて倒れた。
「ファルス様!」
「どうしたっ!?」
震えが止まらなかった。脂汗が掌に滲む。
「かっ、かっ」
「なんだ、何があった」
「かめん」
「あぁ?」
「仮面、が……」
奥の壁のほとんどを覆っていたのは、白い仮面だった。目と口の部分は穴が開いており、そこだけ黒く見える。髪の毛その他の装飾は一切ないが、なぜか女性的な印象を与える。
普通の人にとって、これはただの仮面だ。なんてことはない。
だが、俺は……
俺は、こいつを知っている。
ピュリスにいた頃から、幾度となく夢に見た。
そうだ。この左側。部屋の出入口の手前のところ、このクッションの上に、中年女性が座っていた。服装も特徴的で、何かパッチワークで作ったような色合いとデザインだった。その彼女が、何度も何度も身を伏せて、祈りを捧げていた。
この目で見たかのように、はっきりと思い出せる。
「ソ、ソフィア」
「はい!」
「何か……ここに、文字は、残っているものは」
「それより平気ですか? お加減が悪いのなら」
「いいんだ。頼む」
「は、はい」
彼女はやむなく立ち上がり、あちこちを調べ始めた。だが、結果は芳しくなかった。めぼしいものは何一つ見つからなかったのだ。
時間が経つにつれ、俺の興奮も収まってきた。
頭の中を整理するのは後にして、俺達は上を目指した。
階段を登った先は、また一本道だった。但し、複雑に折れ曲がっている。
長い通路が途切れた。
廊下の幅が広くなる。周囲を見回すと、左側には小部屋がいくつか並んでいるのがわかった。それと右側には、大部屋が二つ。
「はっ……あ、あああ」
すぐ手前の小部屋を見たソフィアが、声を震わせた。
そこにあったのは、白骨の山だったのだ。しかし、それだけではない。
天井から吊り下げられていたのは、何かの皮……いや、はっきり言ってしまおう。これは人間の皮を剥いだものだ。
床のあちこちには、黒ずんだ血の痕跡が残されている。
次の小部屋には、見るからに恐ろしげな道具が転がっていた。
とっくに刃の部分が朽ちた鋸。だが、その黒い汚れは、その用途が何であったかを教えてくれる。木製の杭も、汚れたロープも。そしてここにもうずくまる白骨死体が転がっていた。
よく見ると、小部屋の入口には、金属製の柵が取り付けられていた。開けっ放しになっており、既に錆びてボロボロになっている。
要するにここは、古代の監獄、拷問部屋の址なのだ。
「ふん」
ヘルが皮肉たっぷりに吐き捨てた。
「ウティスが隠すわけだ。こんなものを見られたら、聖女も女神もへったくれもないからな」
「やはりこれは、サース帝がやったことだと」
「他に誰がいる? それに……カディム」
「ああ」
彼も頷いた。
「さっきのヨルギズの手記にもあった。サース帝がトゥラカムなら、辻褄は合う。あれは我らと同じ、変質した水の民であったはず。となれば、吸血衝動も……」
今度は、大部屋に向かった。
「……いやな臭いがする」
部屋に立ち入る前から、マルトゥラターレが顔を顰めた。
果たして、そこにあったのは……
「きゃぁ!」
凄惨だった。
大きな長椅子があり、そこには鎖を繋ぎとめる金具がいくつもあった。そして、その鎖の間に挟まっていたのが、無数の人の遺骸。
こちらは完全に骨にはなりきれず、そのままミイラになっていた。みんな、当時の衣服を着たままだ。男も女もいる。中には、明らかに女司祭と見られる外見の屍まで含まれている。
「見ろ」
進み出たカディムが、その女司祭の首を指差した。
「直接、牙を突きたてたらしい。穴が開いている」
つまりここは、サース帝のダイニングだった。いや、遊戯場か。両方かもしれない。
人間を捕らえ、拘束し、そして秘密裡に血をすすった。それは彼にとって、無上の快楽だったに違いない。
「もう一つ部屋があったな」
また死体だらけだったらと思うと、気が滅入るが……
立ち入ってみると、そんなことはなかった。壁一面に大き目の本棚が据えつけられていた。中にあったのは、書類の束だ。書物も数多くある。ただ、そのほとんどは読めなかった。
「これは……第二世代のルイン語と、一部は第一世代のルイン語の本ですね」
「いや」
ソフィアが広げた古書を見て、カディムが言った。
「これはルイン語ではない。恐らくクラン語だ」
「えっ?」
「第一世代の……といった、これがそうだ」
それから、ソフィアが選り分けた別の古書を拾い上げる。
「これは読めないが」
「こちらは第二世代のルイン語です」
「そうなのか」
それだけで、彼は関心をなくしたらしい。
だが、俺は無視できなかった。
「カディム」
「どうした?」
「クラン語とはなんだ?」
「ああ」
振り返ると、彼はあっさり言った。
「クラン語とは、女神モーン・ナーの言葉だ。神々が操る言語だったという。だが、変質したルーの種族には、ほとんど学ぶ機会がなかった。私も、少し文字を見たことがあるだけだ。それより、実用的な言葉を使わねばならなかった。つまり、アブ・クランだ」
「その、アブ・クランというのは」
「我々は種族による肉体の変異が激しい。よって、人間と同じような発声ができない場合が多々ある。だから、口の形で出せる発音だけでなく、韻や音の長さなどを駆使して意思疎通する言葉を使うようになった。それがアブ・クランだ」
マルトゥラターレも頷いた。
「ルーの言葉もそう。種族によってはうまく言えない表現もあるから、同じ言葉でもいろんな形がある」
人間の世界では、ほとんど知られていない知識。それを彼らが握っている。
マルトゥラターレもカディムも、自分達がどれほど重大な情報を握っているか、自覚していないのだろう。それも無理はない。ある意味、彼らは途轍もなく世間知らずなのだから。
「これを全部読んでいたら、きりがない。ざっと見て、あとは後日だな」
ヘルが打ち切った。
他の三人は頷いたが、俺はまだ、諦めきれずに棚を検めていた。
「おや?」
ふと、見慣れた文字が目に入った。
これは……魔術文字の背表紙。周囲を見回して、急いで引っこ抜く。
ルイン語で、こう書いてあった。
『身体操作魔術・秘本 ハリ・サース・トーリ編著』
もしかして。俺は背中を丸めて、大急ぎでページを繰った。
やはりそうだ。前に見た、ソウ大帝の秘伝書と同じ。女神が石版を降らせる前から、この世界には魔術が存在したのだ。
どこまでのことが書いてあるかはわからないが、チェギャラ村からくすねてきた秘伝書は、荷物ごとグレムリンどもに回収されてしまい、結局見つけられなかった。つまり、なくしてしまったのだ。
ならば、魔宮でなくしたものは、魔宮の中で取り返しても……後日、取りにくるなんて、きっとできないのだから。
俺は慌ててその本をポーチに押し込んだ。
「これも?」
すぐ隣に、もう一冊、本があった。
『腐蝕魔術・秘本 ハリ・サース・トーリ編著』
腐蝕魔術? 聞いたこともない。
だが、これもきっと貴重なものに決まっている。やっぱり押し込んだ。
「おい、ファルス! いつまで調べている!」
「あ、ああ、わかった。今、行く」
ヘルに催促され、俺はようやくその部屋を出た。
そこを出ると、また一本道となった。
曲がりくねった通路の向こうに、登り階段があった。そこを登りきった時、俺達はようやく、長い探索の終わりを知った。
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