愚者の遺言
階段を登りきったところで、水音が聞こえてきた。
ここはどういう場所だろうか?
人間用ではあっても、やや幅広の廊下が一本道になっていた。
右側に見えるのは、太い金属製の筒だった。
「これ……私達が落ちてきたのと同じものでしょうか」
手を触れながら、ソフィアが言う。
「いや」
ヘルが耳を当てた。
「何かが流れている。造りは同じかもしれないが、これは水を流すための管だな」
「どうしてそんなものが」
「いちいち疑問に思うことか? 地下にどれだけの魔物が暮らしていると思う。途中、大きなプールもあったな。あれらに水を供給していたのが、こいつだったということだ」
恐らくは、トーリアの地下の広い範囲に水の取得口があるのだろう。
その巨大な設備は、今も稼動し続けている。
「あちらにかすかな光が見えるが」
「外か?」
カディムの指摘に、ヘルが振り返る。
俺達は道なりに歩いた。
「あそこだ」
角を曲がったところで、脇に開いた戸口から光が漏れているのが見えた。
だが、そこは出口などではなかった。
「事務……室?」
そう評価するしかなかった。
壁紙は無機質な白。内向きの扉はあるが、開けっ放しだった。
入口から見て、すぐ右手には机と椅子が。左側には、何かの装置のようなものがあり、その表面にはボタンとランプが並んでいた。正面方向には、丈の低いパーテーションが並べられていた。
「誰か、いるのか?」
人間がいてもおかしくない。そんな景色に、ヘルはそう呟いた。
「中を探ろう」
俺は剣を片手に、前に出た。
パーテーションの向こう側は、生活領域だった。右手には、あの食糧供給用の装置と、水を得るための蛇口、流し台があった。食器も一人分だが残されており、それらは洗った後なのか、籠の中に伏せて置かれていた。
正面と左手には、扉がある。まず、正面から開けた。
「うっ!」
反射的に剣を振るう。それだけで巨大ゴキブリは息絶えた。
下の階層で見かけたのよりは、サイズが小さい。
「なんだ」
「どうした」
中は浴室だった。ワンルームマンションのユニットバス、そう説明されればしっくりくる造りだった。
見つかったゴキブリはこれ一匹で、他にはいないようだ。思うに、小さいうちに配水管を辿ってここまでやってきたのが育ったのだろう。
「机に、食料に、水道に、浴室……ということは」
浴室の扉を閉じて、左側の扉を開けた。すぐ右手に繋がる廊下があった。一人分の幅しかない中を進んだ。
「お……おお!」
カディムが嘆息した。
突き当たりから見て右に、部屋があった。ベッドとサイドテーブル。テーブルの上には、水を吸ってゴワゴワになった日記帳があった。
そして、ベッドの上には。
「こんなところで……なぜだ、ヨルギズよ!」
白いシーツを被った男の遺体。何年前に死んだのか、見当もつかない。既に腐臭すら放っておらず、完全に乾燥している。
ソフィアは、胸の前に手を組んで祈りの言葉を漏らした。
「女神に仕えし敬虔なる者、どうか天幻仙境に招かれんことを」
モーン・ナーの存在自体にいろいろな疑惑がある今であってさえも、習慣というのはなかなか抜けないものだ。
俺としては、まず驚きがあった。どうやってヨルギズはここまで登ってきたのだろう。あのアルジャラードを出し抜いた? とすれば、相当なものだ。そしてもう一つ。ここまで脱出できたのなら、どうして地上を目指さなかった? 見た限り、食料や水には不自由しそうにない場所だ。ここを中継基地にして、出口へのアタックに挑んでもよさそうなものなのに。
「何か書いてあるかもしれん」
ヘルが脇に残された手記を手に取ると、全員がそれに注目した。
「愚者ヨルギズの遺言」
「なんと」
またカディムが嘆息した。
「読み上げるぞ」
ヘルの宣言に、俺達は頷いた。
“まず、感謝と謝罪から述べておきたい。
私にとって第二の故郷となったショルの信徒達へ。
伝道の志に生きた日々は、本当に輝いていた。
あなたがたの笑顔を思うと、この惨めな境遇にあってさえも、心は温もりに満たされる。
私は、私が心より信じていた素晴らしいものを贈った。
それはこの世で最も尊い喜びであったはずだ。
だが、今となっては、己の愚かさを呪うことしかできない。
ショルの人々よ、あなたがたはなおも無垢である。
女神ならずとも、何者かがあなたがたの行く手を照らしたもうことを切に願う。
ポロクスよ。
言葉を伝えることは、もはやままならぬ。
せめて、私に代わってショルの人々に平和を。
それがほんの一時の安らぎに過ぎないとしても。
歳の離れた友人達へ。
誰より仲間思いだったコーザ。
勇ましさではヴェイグにも引けを取らなかったシアバル。
お前達には何の落ち度もなかったが、私の愚かさゆえに命を落とした。
もしお前達が私を恨んでいようとも、私はお前達を愛し、尊敬し、感謝する。
ドスティムよ、お前はまだ生きているだろうか。
けれども、その双眸が太陽の光を仰ぎ見る日は、きっと来ないであろう。
この救いのない地下で、私達の力になってくれたカディム。
あなたが古の言葉を教えてくれていなければ、今、私はここにはいない。
長い時を生きるあなたであれば、この手記を見ることがあるかもしれない。
旅立つ時にも申し上げたが、ここで今一度、感謝の言葉を述べたい。
また、手間を惜しまず、地下より我々のための食料を取りに行ってくれたラドクルス。
彼にもまた、特別な感謝を捧げる。
私は、真実を知った。
それは、常ならば叶わぬことだった。
廟堂の地下であろうこの場所で、恐るべき悪魔を目にした時の絶望たるや、どれほどか。
それまでの勇気や覚悟など、一度に吹き飛んでしまった。
けれども、私には信仰があった。
私は死を受け入れた。
いかなる責め苦、罰さえも忌避しない。
せめて本当のことを教えて欲しい。
自らの命を担保に、私は悪魔にそう願い出た。
驚くべきことに、悪魔はそれを許した。
条件はただ一つ……地上に出てはならない。
そのために、彼は私に呪いをかけた。
許しを得て、私は上を目指した。
だが、おお、愚かな者よ。
お前は志半ばで死んでおけばよかったのだ!
悪魔は言った。
誰にも知らせてはならぬと。
それを条件に彼は、私に真実を教えた。
すべてを知った私には、もはや地上に出る理由すらなくなった。
悪魔を裏切って真実を伝え、そのせいで死のうとも構わない。
だが、それはそもそも不可能だし、誰も私の言うことなど信じないだろう。
できることなど、何もない。
私は、見てはならないものを見た。
女神とは、モーン・ナーとは何者だったのか。
そこには誰も知らない神話があった。
知られざる王よ。
神々の主、ウィーバルよ。
お前の正義はあまりに苛烈だった。
悲嘆に暮れる者どもの嗚咽が聞こえなかったのか。
許されざる者達の怨嗟の声は、女神の耳に届いてしまった。
今なお無数の手が復讐を願って、彼女の裾に縋っているではないか。
気高い宣教の時代よ。
その、なんと欺瞞に満ちたことか。
信徒の長、サースよ。
虚偽と怯懦と汚穢の主よ。
かつてトゥラカムと呼ばれたお前が何をしてきたか。
罪悪に染まりながら、いまだに生を貪っているのだろうか。
或いはどこかで裁きに服したのか。
招福の女神よ。
あなたをして災厄たらしめたのは、ひとえに人々の貪欲と愚劣さであった。
私は知ってしまった。
まだ、終わったのではない。
かつての英雄は、ただ雑草の葉と茎を切り伏せたに過ぎない。
その根は、今も夏の雨を待ち侘びている。
そうだ。
最後にして最大の災厄が、色なき色の破壊者が、なおも身を潜めて刻が満ちるのを待っているのだ。
その時、モーン・ナーの憎悪は、地を焼く炎となる。
束の間の平和でしかなかった。
私達の世界は、短い陽だまりの時間を楽しんだに過ぎない。
真の救済に至るには、何が足りない?
我が身を貫く刃に微笑み、魂を焼く炎に接吻する。
誰か解き明かしてくれ。
この苦しみは、どうすれば終わるのか。
さもなければ、間もなくすべてが無に帰すだろう。
滅びの刻は近い。”
そこまで読んで、ヘルは手記を閉じた。
誰も何も言わなかった。
ヨルギズがここで死を迎えた理由は、判明した。
彼はアルジャラードを出し抜いたのではない。屈服したのだ。そして、この上に向かった。
なぜそんな決断をしたのか。恐らくは信仰がその理由だったのだろう。ここが廟堂の地下であるという事実、それが我慢ならなかった。本当は違うのだという証拠を見つけたかったのかもしれない。
だが、そこで目にしたものは、逆に彼を絶望のどん底に突き落とした。
彼が見たものに対して、アルジャラードは知識を補完してやったのかもしれない。
その上で、命令したのだ。誰にも知らせてはいけないと。
だが、ヨルギズは手がかりだけでも残したかった。
少なくとも、ここで手記を目にする可能性のある者達……カディムやその仲間達のために、かつての水の民の裏切り者、トゥラカムの行く末については、それとなく書き残した。
滅びの刻は近い、か。
そうかもしれない。
シーラも俺にこう伝えた。
『それは恐るべき戦いを惹き起こし、或いはこの世界を破滅の淵に追いやることになるかもしれません』
だが、希望がないわけではない。
シーラが俺を送り出したこともそうだし、ヨルギズも「解き明かしてくれ」と懇願している。
か細い道しかないにせよ、そこには救済の可能性が残されているのだ。
俺達は、ヨルギズの部屋を後にした。
通路に戻ると、すぐに階段が見つかった。
短い階段を登り、少し進むと通路は左に曲がった。
幅が広くなっており、天井もずっと高くなった。壁は陰気な灰色ながらも、そこに消えることのない照明が点々と輝いていた。
まっすぐ進むと、やがて十字路に出た。
左手には、更に幅の広い通路があり、その向こう側には、いくつもの石の橋が架けられていた。
「まるで神殿の参道だな」
ヘルがそう呟く。
確かに、そんな雰囲気はある。橋に手すりはないが、小さな欄干のようなものがあり、それにはちょっとした装飾が刻まれていた。
その向こう側には、登り階段がある。
まっすぐの方向は突き当たりになっているが、どうも左右にまた、それぞれの部屋があるように見える。
そして右手には……
巨大な扉が聳えていた。
金色の縁取りに、赤い下地。そこに金属でセリパス教のマークが形作られていた。
「出るだけなら、すぐそこだが」
俺はすぐ後ろに目をやりながら、言った。
「これを見ないで帰るわけにはいかないな」
誰も何も言わなかったが、確かに同意ならあった。
そうして俺達は、この扉を押し開けたのだ。
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