人の審判

 薄暗い中、唯一の灯火はソフィアの両手の間に点るばかり。

 踏みしめる靴音に、不快な水音が混じる。腐敗した虫けらの死骸が、白い壁と銀色の箱にへばりつく。俺達以外に、生きて動いている者はいない。それでも、時間が経てば或いは、またここをスライム達が嗅ぎつけるかもしれない。

 誰も何も言わなかった。最初は、見たこともない景色にカディムもヘルも興味を示したが、次第に彼らもおとなしくなっていった。


 最後の階段が、目の前に聳え立っていた。

 俺もまた、無言で頷く。

 ここを出たら、必ずアルジャラードが出現する。奴は、脱走者を許さない。三度目の脱出に挑んだ俺達を見逃すなど、あり得ないだろう。

 だからこれは……最終確認であると同時に、最後の挨拶でもある。生きていたら、また。


 俺は先頭を切って、階段を踏みしめた。


 扉に手をかける。あとは体重を乗せて、押すだけだ。

 何も難しいことはないのに、俺はまるで初めてそれをするかのような気がしていた。掌に触れる取っ手の感触が、やけに生々しい。

 運命は、最初に決まってしまう。もし、やっぱりピアシング・ハンドが通用しなかったら。その先のプランは、ない。またもし、それが成功しても、勝てる保証はない。失敗すれば、ここにいるみんなが、死ぬ。


 俺のせいで……


 すっと冷たく心地よい感触が右手の甲に触れた。

 いつの間にか隣に立っていたソフィアの小さな手だった。気付いて振り返る。闇の中に青白い顔が浮かび上がった。それはうっすらとした微笑みのような……けれども、そこに滲む感情は、たぶんもっと透明な何かだった。


 左の肩に手が触れた。マルトゥラターレだ。

 俺の肩越しに、男の腕が伸びる。扉の取っ手の上の部分をカディムが掴む。反対側を、ヘルが。


 力を込めたわけでもないのに、自然と扉が開いた。


 途端に眩い光が辺りを包んだ。大ホールだ。

 壁を彩るのはオレンジ色のタイル。濃さの違う灰色の石材が様々に組み合わされた床。手摺りの向こうに見えるのは、槍の穂先のような大樹の頂点。左右を見渡せば、回廊と階段が、美しい曲線を描いて広がっていた。

 頭上に輝くのは、歪な形の巨石だ。よく見ると、その脇に出入口らしきものがある。あそこが上への出口なのだ。

 この出口の向かいには、白い台座があった。今はまだ、誰もいない。


 なんという華やかさだろう。壮麗。その一語に尽きる。力強さと繊細さを兼ね備えた空間。どんな王者も羨まずにはいられないだろう。

 まるで宮殿の舞踏会に招かれたかのようだ。その美しさは、否が応でも人間の世界を思い起こさせた。


 その幻想は、すぐに中断された。


 黒い影が、白い台座の上に舞い降りる。音もなく。

 ここから見れば小さな影でしかない。それでも、奴は圧倒的な存在感を放っていた。


 意識が、追いつかない。

 いや。しっかりしろ。今だ!


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 アルジャラード・ニザック・ナー  (1596)


・レッサーディバインコア

・ディーティ:ジェイラー

・プロヴィジョナルアストラル

・ユニークアビリティ エリアドミネーター

・ユニークアビリティ フィアーロア

・アビリティ 剛力無双

・アビリティ 超回復

・アビリティ マナ・コア・力の魔力

 (ランク7)

・スキル 身体操作魔術  9レベル

・スキル 力魔術     7レベル

・スキル 戦斧術     9レベル

・スキル 格闘術     9レベル

・スキル クラン語    9レベル

・スキル アブ・クラン語 9レベル

・スキル ルイン語    2レベル


 空き(--)

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 奪った。

 そして、俺は……


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・精神操作の魔力

 (ランク7)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル 神通力・暗視

 (ランク5)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳、アクティブ)

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 9レベル+

・スキル 精神操作魔術 9レベル+

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     9レベル+

・スキル 格闘術    9レベル+


 空き(0)

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 消えて……いない……

 消えていない!


 直後、ホールを揺るがす咆哮が響き渡った。


「散れ!」


 これも予期していた。

 アルジャラードは、唸り声をあげる。それはどういうわけか、耳にした者の自由を奪う。勇気も判断力も、何もかもが萎えてしまう。

 だが、俺には通用しない。


 立ち上がるためには、きっかけがあればいい。前もってかけておいた『暗示』のおかげで、他の四人はすぐさま起き上がった。

 ソフィアとマルトゥラターレが左に駆け出す。間をおいて、ヘルが後を追う。カディムは右。その後を俺が追いかけた。


 これが俺の作戦だ。


 今、奴から身体操作魔術の力を奪った。技量だけあっても、触媒がない以上、現在行使できる術には限りがある。少なくとも『即死』は使えない。

 力魔術は? 以前に一度見た。だが、ここには凶器になりそうなものは落ちていない。あの戦斧は飛んでこない。アダマンタイトを含んでいるからだ。よって、チュタンのように剣を飛ばそうにも、道具がないのだ。

 つまり、奴はもう、俺達を倒すためには接近戦を挑むしかない。だが、こちらは遠距離攻撃が可能だ。


 しかし、奴には巨大な斧がある。ただの火球をぶつけても、簡単に防がれてしまうだろう。

 だからこそ、散開したのだ。


 俺がアルジャラードを引きつけて……

 背後から、マルトゥラターレが狙い撃つ。


 彼女は盲目だ。そして、ここには水がない。キースみたいに魔術の補助となる道具を持っているわけでもない。大魔法は一度きり。

 ソフィアが彼女の目になれなければ、そこで終わる。


 俺は、カディムが先に行ったのを見届けて、別の階段を駆け上がった。

 アルジャラードは、高所に人が向かうのを嫌う。この牢獄から囚人を出さないこと、それが存在意義だから。そんな奴からすれば、バラバラにあちこちから上を目指すのがいるというのは、最悪そのものだろう。


 奴はどちらを……


「……しまった!」


 四方を見渡したアルジャラードは、意外にも冷静だった。五人が四つの塊になって、別々の階段から、このホールを囲む回廊を駆け上がろうとしている。そのうち、二人が固まっている。

 なら、最初に狙うのは。


「こっちを向け!」


 手早く詠唱し、できそこないの火球を投げつける。赤い光がか細い曲線を描いて、ホールの中央に吸い込まれていく。

 パシッ、と小さな音がしただけだ。黒い斧に易々と弾かれた。


 もっと俺が急がなくては。

 しかし、奴を迎え撃つには、まず身体強化を済ませなくては……


 アルジャラードの視線が、別の方向に向けられた。俺ではない。

 斜め上、そこにはカディムがいた。


 彼の役割は、ほぼ俺と同じだ。但し、奴にトドメを刺す仕事はしなくていい。

 一方で、彼には俺にない、三つの特性がある。一つ、痛みを感じない。二つ、銀かミスリルで傷つけられない限り、徐々に治癒する。三つ……


「はっははは! 走るまでもないな!」


 ……高度な力魔術を行使できる。

 彼はそれで自分にかかる重力を制御する。体が浮かび上がり、手摺りを越えてホールの中空を上昇していく。

 階段というルートの制約を受けない移動方法。これにアルジャラードが反応しないはずがなかった。


「グォアアァ!」


 怒りの咆哮が、再度こだまする。

 瞬間、恐怖と不安が胸に忍び込む。だが、駄目だ。

 カディムが稼いでくれる時間を無駄にはできない。


 既にホールの中央、樹木の頂点付近に達していたアルジャラードは、カディムに焦点を定める。

 そして左手の指を突き立て……だが、『即死』の魔法は発動しない。


「ガァア?!」


 思い通りに魔法を使えないことに、奴は明らかに混乱し、苛立っていた。

 前に一度喰らったとはいえ、それでピアシング・ハンドの正体がわかるはずもない。いずれにせよ、こうなれば獲物を直接八つ裂きにするしかないのだ。


 翼を広げて、一気に上空へと迫る。

 飛んでいるように見えるが、あれは飛行ではない。恐らくは力魔術だ。なぜなら、アルジャラードには飛行能力に関する直接的なアビリティがなかったから。言い換えると、あの動作を邪魔できれば、飛翔力を損なうことができる。


 意味不明な能力の固まりに見えて、実のところ、奴の実力は、かなりの部分が丸裸にされている。


 レッサーディバインコアは、奴を下位神たらしめている何か。恐らくは魂の代わりだ。本当の意味での生者ではない。あれがあるからこの世界に存在できる。

 プロヴィジョナルアストラル。神霊にとってのとりあえずの依り代。肉体の代用品だ。

 ジェイラーというディーティ。奴の神性なら、既に明らかになっている。この迷宮に住まう降伏者達に対する絶対命令権だ。なぜなら、奴はここの看守だから。

 フィアーロア。あの咆哮だ。魂をも揺るがす、根源的な恐怖。並大抵の相手なら、あの威圧だけで抵抗できなくなる。

 エリアドミネーター。以前、下の階にいきなり出現できたのは、多分これがあったから。移動と監視の力なのだろう。だが、有用なテレポート能力ではあるものの、それには制約がある。好きな場所に好きなだけ移動できるのなら、今、やっているように空を飛んでカディムを追いかけるはずがない。


「……できた」


 最高の技量と、最上の魔術核でもって施された身体強化。

 階段を駆け上がるが、走るというより、滑るようだ。だが、なおアルジャラードには及ぶまい。肉体そのものの強度がまるで違う。


 登り終えたところで、破砕音が響いた。

 黒い影が床に転がる。カディムだ。幸いにも、まだ傷を負ったわけではない。だが、全力で飛び退いたせいで転倒してしまった。アルジャラードの猛烈な一撃を避けるだけで、精一杯だったのだ。

 少し離れたところに、黒い影が聳え立っていた。二段目のテラスの床に、大きな窪みができていた。さっきの斧の一撃で、抉り取られたのだ。


「ファルス! カディム!」


 その背後から、追いついたヘルが短剣を投げる。アルジャラードの肩が軽く揺れたが、それだけだった。次の瞬間には、ナイフは床に落ちて小さな音をたてた。灰色の体液が僅かにこぼれる。それで終わりだった。

 予想はしていた。『剛力無双』と『超回復』……桁違いの膂力と、少々の傷などものともしない耐久力。肉弾戦ともなれば、なお彼我の差は隔絶していた。


 だが、それならこちらに有利な方法で戦えばいい。うまく逃げ回りながら、今度こそ火球を……


「ぐっ!?」


 いきなり、体を揺らされた。誰かに押されたわけではない。なのに、前へ前へとつんのめる。いや、まるで落ちていく。斜面を滑るかのように。

 横でカディムが叫ぶ。


「こ、これは! ファルス! 魔術だ! 引っ張られる!」


 目の前でアルジャラードは、左腕を掲げ、拳を握り締めている。

 奴の背後では、同じようにヘルまで吸い寄せられている。


 ……これも力魔術か!


 確かに、賢明な選択だ。カディムの重力魔法を上回る出力で、俺達を無理やり引き寄せる。こうすれば逃げられないし、離れた場所から火球をぶつけられる心配もない。

 ざっと周囲を見回す。離れた場所にいるソフィア達には影響が及んでいない。引き寄せられる速度が大きいのはヘルだが、彼とは距離自体が離れている。すぐ隣のカディムには力魔術の心得があるが、抵抗し切れていない。

 俺は?


 いったん術の存在を意識すると、急に圧力を感じなくなった。これくらいなら、耐えられる気がする。他の魔術と同じ。直接俺に行使するものは、なぜか効果が薄いのだ。

 ならば、踏みとどまって……いや。


 このままでは、ヘルが危ない。


 一応、仲間を守るために手は打った。

 彼には『魔導治癒』の能力を付与してある。だが、即死するほどの大怪我をしても回復するとは考えにくい。アルジャラードが相手では、気休めだ。

 だから俺自身には付与しなかった。それに、奴の咆哮で硬直した仲間を動かすには、どうしても精神操作魔術が必要で、能力の枠も足りなかった。

 防御を考えても、どうしようもないのだ。相手が強すぎる。そもそも戦いとは、そういうものではない。安全な場所などない。勝機を見つけたら、たとえ危険でも、飛び込んでいかなくてはいけない。


 俺はあえて、そのまま前に転がった。つんのめりながら、前へ、前へ。


「ファルスッ!」


 すぐ前から、アルジャラードの背中越しにヘルの絶叫が聞こえた。

 奴は左手を下ろし、口角をあげて牙を剥き、大斧をゆっくりと振り上げた。


「はぁっ!」


 その瞬間、俺は力を溜めたバネのように伸び上がった。


「ゴアッ」


 咄嗟に左腕を盾にしたか。

 銀色の刃が切り裂いたのは、奴の前腕だった。灰色の体液が盛大に撒き散らされる。


 次の瞬間、すぐ背後に破砕音。

 奴の両足の間を転がって潜り抜ける。俺の優位は、この小ささだけだ。


 その眼前に、黒い帯がぼやけて映った。

 それが灰色に染まる。


 これも読んでいた。背後の敵を打つのに、こいつが尻尾を活用しないはずがない。

 だから、身を翻して刃先を走らせた。


「グォァ……」


 奴の注意が完全に俺に向いた。

 尻尾が半ば千切れかけている。左腕の傷も浅くはない。ただ、こちらは既にくっつき始めている。


 今のは、相手の攻撃を予想していたから対処できた。だが、特に力量で俺が勝っているということはない。このままやり合えば、そのうちに身体能力の差で押し潰されてしまう。


「二人とも! 上だ!」


 顔を見合わせると、ヘルもカディムも、それぞれ反対方向に駆け出した。

 アルジャラードに接近してはいけない。あまりに近付かれると、またあの重力魔法で引き寄せられる。予定通り、散開して上を目指す。そうやって奴を撹乱する。


「グルゥァ!」


 その狙いを理解したのだろう。傍目にも、怒りの色がありありと見えた。

 苛立ってはいる。だが、的を絞りきれない。厄介なのは俺だ。しかし、俺を片付けているうちに、他の囚人が上に抜けてしまっては。


 一瞬の躊躇を見せたアルジャラードだったが、後退りながら浮遊した。あくまで上に行くほうを先に片付けたいらしい。

 だが、それならそれで、やりようはある。焦りを押し殺しつつ、剣を左手に預け、詠唱を始めた。


 奴の狙いは、やはりカディムだった。力魔術を使えば、階段を無視して上を目指すことができる。最初に始末すべき相手だ。

 俺はあえて立ち止まったまま、照準を合わせる。手の中には既に、火球がある。熱を帯びて、それは赤から橙に変色しながら、力を増している。

 まだだ。闇雲に撃っても当たらない。可能な限り威力を高めて待つ。奴が斧を振るうその瞬間を見定める。それは、仲間が危険にさらされる瞬間でもある。


 さっき、切り結んだ時に確信した。

 奴の弱点は人間と変わらない。途方もない再生能力を有してはいるが、首や頭、それに心臓。急所を突かれれば、致命傷になる。だからこそ、腕で庇った。


「こっちだ! こい!」


 ホールの上層で、カディムが叫んだのが響いて聞こえた。


「ゴアァ!」


 焦りか、怒りか。その両方か。

 これまで、本気で逆らう相手と向き合ったことがなかったのかもしれない。生まれながらの強者であるアルジャラードだが、実戦の経験がどれほどあったのか。命懸けの挑発に、ついに耐え切れなくなった。

 黒い戦斧が唸りをあげる。


「喰らえ!」


 限りなく白に近い黄色の火球が、目を焼く光の帯を描きながら斜めに突き刺さる。轟音が鳴り響き、その爆発は幾多もの光球を生した。

 だが。


「うぉぁあ!」


 耳を疑った。

 続いて聞こえたのは、カディムの絶叫だったのだ。


 彼は痛みを感じない。だから、苦痛のあまり声が出たのではない。ただ、避けきれない一撃を前に、思わず叫んでしまったのだ。

 バシッ、と乾いた音がしたかと思うと、何か潰れた羽虫のような姿がゆっくりと宙を舞った。


「くそっ!」


 俺の一撃は、確かに命中していた。

 そのせいで、アルジャラードは斧を取り落としたのだ。それが今、遥か下の何かにぶつかって、遠く物音を響かせている。


 体の右側、脇腹から右肩にかけて大きな凹みができ、そこからとめどなく灰色の血液が漏れ出ている。そんな状態で、奴はカディムを蹴飛ばしたのだ。

 たったそれだけで、彼は吹き飛んだ。一度、奥の壁にぶつかって、そこから跳ね返されて宙を舞ったのだ。


 甘かった。これほどとは。

 武器を落としたくらいでは、傷を負ったくらいでは、奴の力は損なわれない。やはり、急所を突き通すしかない。

 全力で階段を駆け上がる。残ったのがヘルだけでは、長くはもたない。


 頭上で破壊音が響き渡る。床が割れ、手摺りが砕かれて、破片が俺の横に降り注ぐ。

 間に合え。間に合ってくれ。


「ヘル!」


 最後の階段を駆け上がった時、俺の目に映ったのは、壁に背中を預けたヘルの姿だった。

 どこか傷を負ったのか、膝をついたまま、立ち上がろうともしない。死んではいないのに、なぜ治癒しない? よほどの痛手を負ったのか?

 周囲は既に破壊されつくしていた。床の敷石は割れ、或いは瓦礫となって転がっていた。


 ひん曲がった手摺りの向こう、空中には、アルジャラードが浮かんでいた。

 右腕は千切れかけていた。右の翼も、半ば折れていた。右側の肋骨が剥き出しになっていて、そこから灰色の体液がとめどなく流れ落ちている。脇腹は深く抉られていた。

 目は赤く、爛々と輝いていた。それはこれ以上ないくらい明瞭に、奴の憤怒を表現していた。


「来い!」


 ならば、俺が戦う。

 これだけの深手なら。白兵戦でも渡り合えるかもしれない。


「ゴァアッ!」


 俺のいるテラスに勢いをつけて降り立ったアルジャラードは、衝動のままに拳を振り下ろす。格闘というより、聳え立つ建造物がのしかかってくるようなものだ。事実、それは腕というより、落下する鉄骨だった。


「フッ!」


 違うのは、刃が通るということ。

 身を翻し、紙一重で避けながら、切っ先を走らせる。力を込めた一撃を繰り出せるのは、左腕だけ。それもこうして傷つける。

 既に大きな傷口があるのだ。いくら再生能力に優れるといっても、限度がある。やがて決定的な隙をみせるはず。


「ゴォッ!」


 左右の乱打が、床を砕く。

 そのたびに、俺は小刻みに身を避けた。こちらの攻撃はなかなか決定打にならないが、相手の一発でこちらは死ぬのだ。


「だ、だめだ……ファルス!」


 横でヘルが叫ぶ。なんだ?

 その時、アルジャラードが不気味な笑みを浮かべた。咄嗟に身構える。

 だが、意に反して、奴は真後ろに飛び退いた。


「はっ!?」


 不意に重力を感じた。前につんのめる。

 目の前に手摺りはない。だが、これはもう、わかっている。意識すれば、俺は自分にかけられた魔法を撥ね退けることができる。


 踏みとどまった。

 だが、むしろその先こそが奴の狙いだったのだ。


「うっ!」


 砕かれた瓦礫の数々。唐突に、それらが宙に浮き上がる。前後左右、どこにも隙間なく。

 まさか。


 風切り音と同時に、それらが一斉に降り注いだ。


「ぐああ!」


 避けようにも、隙間がない。そして、体重の軽い俺は、この程度の打撃で簡単に立ち止まってしまう。飛来する瓦礫は俺自身の肉体ではない。つまり、魔法の効果を打ち消すことはできないのだ。

 目の前に、黒い大きな影がよぎる。考えるまでもなく、それはトドメの一撃だった。


 敗北が、死が。脳裏によぎる。


「ちっくしょぉおおぉっ!」


 ヘルの叫びが、それを遮った。

 飛び交う瓦礫が床に落ちる。


 目の前には、信じられない光景が広がっていた。

 ホールに浮かぶアルジャラード。その首に、ヘルが縋りついている。ナイフを突き立てながら。


「ソフィア! ここだ! 聞こえるか! ここを撃てっ!」


 馬鹿な。

 標的に掴まったまま、水魔術を浴びたら、自分まで巻き添えになる。

 わかっているはずだ。


「急げっ! 早くっ!」


 ヘルのナイフなど、奴にはなんでもない。だが、奴の手は簡単にヘルの命を奪う。

 腕が伸び、彼を掴む……


「待てぇっ!」


 俺が身構えた時。

 アルジャラードが仰け反った。


 背後から氷の槍が降り注いだのだ。それは奴の左の翼と、左腕を巻き込んだ。

 掴みかけていたヘルを抛り出しただけでは済まなかった。両翼を傷つけられ、左腕まで千切れかけて。魔術道具であろう腕輪が機能しなくなったのか、力なく空中に漂うばかりだった。

 その向こう、反対側の手摺りに横たわる人影が見えた。全身全霊を絞り尽くしたマルトゥラターレが、床に伏していた。


「グォ……」


 誰が自分を狙ったのか。

 振り返った先には動けなくなった女と、彼女の肩を揺さぶるソフィアがいた。


 やらせるか。

 もう、誰も傷つけるな。俺を狙え。俺だけを。


 ……本当の罪人は、俺だけだから。


 正義が人を裁くにせよ。

 今は、今だけは。

 人が正義を裁くのだ。


「おおおっ!」


 何も考えられなかった。

 ただただ、全力で駆けるだけ。手摺りのなくなったテラスを踏み切って、跳躍する。


「ゴォァ!」

「おぉぁああぁっ!」


 足場も何もない、ホール中央の上空。

 逆手に持った剣を、ただ真下に向ける。

 千切れかけた黒い右腕が頭上をかすめる。


 一瞬の交叉。

 視界が黒に染まる。


 右手に感じる抵抗。それが不意に軽くなる。


 俺の剣が、奴の喉を斜めに刺し貫いていた。そこに左手を添える。ただ、力を込める。全体重を乗せる。

 急に浮遊感が襲ってきた。


 落ちる。もがき苦しむアルジャラードは、それでも息絶えなかった。

 中空を掻き毟りながら、俺と共に落ちていく。


 衝撃が全身を、脳を揺らした。

 バキン、と両腕を痺れさせる振動が伝わってくる。衝突で剣が折れたのだ。


 俺のすぐ右側には、巨大な槍の穂先が突き出ていた。

 落下した先にあったのは、大樹の先端だったのだ。それは、アルジャラードの左の胸を、確かに刺し貫いていた。


「グ……ォ……」


 死に切れないアルジャラードは、なおも戦意を失ってはいなかった。

 喉の奥へと折れた剣を捻じ込む俺に、右手をかざす。そして俺には、逃げ場などなかった。


 黒く大きな掌が、俺を包み込んだ。そして握り潰す……


 ……その指が、緩んだ。


 するっと腕が伸び、俺は解放された。

 急な脱力で、奴の全身が一段深く沈みこんだ。


 ピアシング・ハンドは、既に何者の魂も映し出してはいなかった。

 赤く燃える眼差しも、今は何もない中空を見つめるばかりだ。


 千五百年に渡って聖地の地下に君臨した悪魔、アルジャラード。

 その支配がたった今、終わりを告げたのだ。

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