囚人達の会議

「今、戻りました」


 階段を登りきったところに、カディムが立っていた。俺達の姿を認めると、頬を緩めた。笑顔なのだろうが、それで尖った牙が垣間見えるので、別のニュアンスにも受け取れる表情だ。


「無事で何よりだ」

「二人は」

「変わりはない。男のほうも、さっき見た限りでは死んではおらん」


 憔悴したソフィアだったが、ヘルの容態を聞くと、また表情を引き締めた。

 不思議なものだ。女神と聖女の恩恵を信じ、それに縋ることで生きてきたはずなのに。今、彼女を支えるものがあるとすれば、それはどこかから与えられる救いの手などではなく、自分が為すべき使命に他ならないのだ。


「食料は見つかったか」

「この通りです」


 ポーチの中が、灰白色の食品のクズでいっぱいになってしまった。それでも大半は形も崩れず、そのままになっている。

 なお、下の階層に向かう前に、中身は既に抜いてある。持ち歩いたのは、シーラのゴブレットだけだ。


「上出来だ。それだけあれば、しばらく持つな」

「これ、本当に食べても平気なんですか」

「心配ない。ちゃんと実績があるからな」


 とすると、やはりヨルギズ達は、ここまでやってきた?


「そのことも、これから話してやるつもりだ。だが、まずは先に」

「ええ」


 案内された先は、さっきの大部屋ではなかった。

 同じように苔に覆われた、輪っかの光る草が茂る部屋だったが、もっと狭かった。ちょっと広めのマンションの一室、といった感じか。

 部屋の入口から手前には、横たわるヘルと、その傍らに座るマルトゥラターレが。奥には、盛り上がった土に、突き立てられた剣があった。壁際には、黒髪の男が凭れる格好で立っていた。

 自然、その見知らぬ男に注意が向いた。黒髪は長く、肩にかかってなお余りあった。肌も浅黒いが、顔立ちは端正で、背が高く、手足も長くて線の細い体つきに見えた。カーキ色の半袖のジャケットを羽織り、同じ色の長ズボンを履いている。


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 ラドクルス (24)


・マテリアル ミュータント・フォーム

 (ランク6、男性、96歳)

・アビリティ 反逆者の血脈

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク5)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク5)

・アビリティ 風の魔力耐性

 (ランク7)

・アビリティ 精神操作の魔力耐性

 (ランク5)

・マテリアル 神通力・鋭敏感覚

 (ランク5)

・マテリアル 神通力・暗視

 (ランク5)

・マテリアル 神通力・俊敏

 (ランク3)

・マテリアル 神通力・念話

 (ランク3)

・マテリアル 神通力・探知

 (ランク3)

・スキル アブ・クラン語 5レベル

・スキル ルー語     4レベル

・スキル ルイン語    3レベル

・スキル 身体操作魔術  5レベル

・スキル 火魔術     5レベル

・スキル 格闘術     5レベル

・スキル 剣術      6レベル


 空き(6)

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 そして、やはり耳が尖っていた。


「紹介しよう」


 やや芝居がかった口調で、カディムは言った。大仰に体を広げ、彼を指し示しながら。


「ラドクルス、風の民の末裔だ」

「……ああ」


 彼は俺達をじろりと見て声を漏らし、それっきりだった。

 せっかくの美男子なのに、どうにも陰気な印象がある。


「まずは彼の傷の手当の続きと、食事を済ませるのだな。そうしたら、ようやく君らの質問に答えることができそうだ」


 俺達が落ち着くまでに、しばらく時間を要した。

 持ち帰った灰白色の塊は、決して美味とはいえなかったが、これだけであらゆる栄養を満たしてくれるとのことで、大変便利な食品らしい。ただ、俺は口に出しはしなかったものの、あまり食べたくはなかった。何が材料となっているかを考えると。

 ヘルの容態は、安定していた。但し、ソフィアには初級の治癒魔術の知識しかなかった。幸い、部位の欠損など、取り返しのつかない傷はなかったが、それでも完治までに早くて一週間以上を要する見通しだった。

 肌寒さもあって、火を点したかったが、燃え広がる可能性が問題となった。特に吸血鬼達が火を嫌うというのもあって、結局、ラドクルスが古びた金属製の兜を持ち込んで、それを逆さにしてから、中に火魔術を用いた。


 そうやって一通りの始末がついたところで、俺達は思い思いの場所に腰を下ろした。


「これからどうするかを話し合う前に」


 一人だけ、カディムは立ったまま、話を仕切り始めた。


「我々が何者で、ここがどこなのかを説明したいと思う。いいな、ラドクルス」

「こちらは、知らせること自体には反対していない。勝手にしろ」

「ではまず」


 相方の投げやりな返答にも表情を変えずに、カディムは語りだした。


「我々が何者か、ということからにしよう。といっても、さっき話したが」

「吸血鬼と言ったが」


 ヘルが口を挟んだ。


「カディム、お前は魔物には見えない。吸血鬼というのは、出会った時に俺達を襲っていた、あれのことを言うのではないのか」

「いい質問だな」


 頷くと、彼は俺達全員を見回した。


「この説明が通じるのは、今のところマルトゥラターレだけではないかな。我々の祖先は水の民であり、ラドクルスの祖先は風の民、つまりルーの種族だ」

「ルーの種族というのは」


 今度は俺が口を挟んだ。


「以前に彼女から聞きました。人間の世界では魔王とされている生命神イーヴォ・ルーの生み出した種族のことだと」

「そうだ。しかし、今の我々は、既にルーの種族とは呼べない」

「なぜですか」

「話は千五百年前に遡る……といっても、又聞きの話でしかないが」


 その昔、南方大陸に本拠を置いたイーヴォ・ルーの意志に従って、ルーの種族は西方大陸にも移り住んだ。彼らは霊樹の苗を持ち歩き、それを各地に植えながら、それぞれの土地で栄えた。

 だが、彼らを憎むものがいた。それがモーン・ナーだった。


「戦となった。大勢が討たれ、残りは捕虜となった。各種族の霊樹は刈り倒され、奪われた」


 そして彼らは、地下深くの牢獄に閉じ込められた。

 モーン・ナーは、捕虜達が逃げ出すのを防ぐだけでは満足しなかった。しかし、処刑もしなかった。利用するという道を選んだのだ。


「女達は根こそぎ殺された。残った男達に、サキュバスと交わるよう、強制した」


 捕虜達は、生涯この魔宮から出られなかった。

 そして、彼らの子孫が生まれた。しかし……


「マルトゥラターレなら知っていよう。ルーの種族は、霊樹なしではまともに生きられん」

「それなのですが、どういうことなんですか? 聞いた限りでは、子供が産めないとか」

「それは水の民、風の民の場合だ。他の種族は、別の何かを失う。ペルィなら、愛情とか安らぎといった精神の落ち着きの部分を、アジョユブなら思考力を、それぞれ霊樹や内なる魂と分かち合っている」


 モーン・ナーは、ルーの種族の特性を理解していた。彼らは霊樹によらねば生きられず、まともに機能しない。

 そこで、ちょっとした改造を施すことにした。


「ファルス、君がここに至るまで見てきたこの迷宮の大樹は、霊樹の成れの果て、死んでから作りかえられたものなのだ」

「そして、あなた方の魂は、これと紐付けられている?」

「だいたいそういうことだな、だが……」


 モーン・ナーの計画は、ルーの種族の特長を活用しつつ、更に新たな能力を付け足した上で、自分の手駒にするというものだったらしい。

 それはある程度、うまくいった。


 まず、人間の女達を変質させ、サキュバスを創造した。あの外見からして、素材にコウモリでも使ったのだろうか。とにかく、サキュバスは捕虜となったルーの種族と交わり、新たな種族を生み出した。彼らはもはやイーヴォ・ルーの霊樹とは結びついておらず、モーン・ナーが仮初の命を与えた大樹の力と結合した。

 こうして生まれた新種族は、モーン・ナーとその下位神の命令に絶対服従する、都合のいい道具となった。


「かつての特長は、むしろ呪詛となった。我々は水を苦手としている。特に水に力がある場合、流れを越えるのに、並々ならぬ努力を要する。これは、かつてイーヴォ・ルーから与えられた祝福が足枷となったためだという」

「だから水が張ってあったのですね」

「そうだ。あれは我らに対する封印なのだ。まぁ、魔術で空を飛べば……あの大樹の横からなら抜けて行けるのだが、それをするとアルジャラードが黙っていない。それと、他にも不都合なことがある」


 するとカディムは歯を剥き出しにしてみせた。


「我々は、あの忌まわしいサキュバスどもとの合いの子だ。ゆえに、奴らの性質の一部を受け継いでいる。あれらは男の精を吸わずにはおれぬのだが、我らは……血液を欲する。人の血こそ、最高の美味であろうな。正直に言うが、今もその手の衝動を感じてはいる」


 この一言に、ソフィアは腰を浮かしかけた。


「だが、ここの外にいるコウモリどもと一緒にされては困るぞ? 普段は大樹の供する血のようなものを飲んで、それで済ませておるのだ。欲に負けて人を襲ったりなどはせん」

「風の民の末裔も、さほど状況に違いはない」


 ラドクルスが口添えした。


「水の民と違って、こちらは結局、今に至るまで奴らに溶け込むことはなかった。だがその分、数が少ない。ただ、やはり祝福は呪いになった」

「具体的には、どんな変化が?」

「祖先が受けた風の力の祝福が呪いになった。我らは風の魔力を失った。それどころか、近くにいるだけでその力を阻害してしまう」

「それは、でも、グレムリン達の魔法も効かないとか」

「そうだ。他にサキュバス達の魔術にもかかりにくい」


 いくらか弱点も生まれたものの、生まれた新種族は、それなりに有能な魔物になってくれた。

 しかし、ここで問題が生じた。


 他の種族は、まだ問題が小さかった。霊樹との繋がりを失ったところで、失われる機能は生存に直結するものではなかったからだ。だからグレムリン……つまり壊れたペルィは、ゴブリン同様の残忍さを身に備えているが、普通に生きる分には不自由がなかった。

 トロールについては、少し厄介だった。知能の低下が甚だしい上に、ひどく狂暴にもなった。それでも最低限、モーン・ナーに従う戦士となった。

 なお余談ながら、一般にトロールというと、ここで見かける灰色の巨人が「原種」ということになっている。対するに、黄色い肌の不恰好なほうが「劣化種」と呼ばれているが、この説明によると、これは間違った認識ということになる。劣化といえば確かに、霊樹の導きを失ったルーの種族なので劣化で間違いではないのだが、原種のほうは完全に人間の勘違いだ。どちらかというと、変異種とすべきだろう。


 しかし、水の民と風の民については、どうしてもうまくいかなかった。それは、彼らが霊樹に預けていた機能が、生殖能力そのものだったからだ。

 ゆえに、生まれてきたのは、どれもこれも中途半端な存在ばかりだった。外見的には水の民や風の民にそっくりで、モーン・ナーへの自動的かつ絶対的な服従心もない。能力こそ変質しているものの、このままでは使い物になりそうになかった。

 では、どうしたか。そうして生まれた半端な新種族に対しても、サキュバス達と交わることを強制したのだ。そして、世代を重ねた。


「水の民の一部から、お前達が吸血鬼と呼ぶ、あれらが生まれた。あれはモーン・ナーに従うようできている魔物だ」

「それが外に出た、と」

「出たのではない。出したのだ。魔物達を率いる悪魔がいた。キーアダーという。また、他にテカサールという悪魔もいた。だが、我々の中で目にした者はいない」


 ずっと上の階層にあった、広大な空間。各階層から集めた魔物を整列させて、外に出撃させるための金属製のゲート。あそこの開閉を自由に制御していたのが、キーアダーだったのだろう。

 だが、そうした悪魔達は、既に見当たらない。ただ、アルジャラードだけは、今もこの魔宮にいる。


「ともあれ、我らはそうして生まれた存在なのだ。とはいえ、当時のことはわからん。それに、かつての悪魔達のことも、今では伝えられた話でしか知られておらん。というのも、どうやらここ千年ほど、何の命令もないからだ」

「命令が? ない?」


 そんな馬鹿な。

 俺達はグレムリンやミノタウロスに、散々追いかけられたというのに。


「ここにいるのは虜囚とその子孫だ。ゆえに、獄卒たるアルジャラードには逆らえん。だが、奴の役割は一つだけだ。誰であれ、ここから出ようとしない限りは、何の危害も加えない」

「他の悪魔には、他の仕事があったと」

「サキュバス達と交わるように命じたのは、テカサールだったという」


 これで、疑問の一つが消えた。

 どうしてこの施設のあちこちが無人なのか。つまり、魔物達の管理が行き届かず、空き家になっている箇所がやけに多いのはなぜなのか。

 サキュバスは長命だが、その供給が絶たれてしまっている。人間の男と交わるか、人間の女を作り変えるか、何か材料がなければ数が増えない。結果、彼女らは少しずつ数を減らしていっている。それは魔物達の母がいなくなるのと同義で、だから多くの空間が、がらんどうのままになっていたのだ。


「この、我々が身につけている衣服などは」


 そう言いながら、カディムは服の裾を引っ張ってみせた。


「ずっと上にいる変質したペルィ……君らのいうグレムリン達が拵えたものだ。上の階層から、時折、管を通して送られてくる」

「それもテカサールの命令だと」

「そうらしい。だが、我らはもちろん、我らの親ですら、キーアダーもテカサールも見たことがないのでな」


 ヘルが、珍しく遠慮がちに尋ねた。


「じゃあ、お前らは……どうやって生きている? 親がと言ったな。魔物の母親はサキュバスどもらしいが。で、お前の父親は水の民とかいう奴らの子孫なんだろう。じゃあ、母親は誰だ」


 結局は増えるためにサキュバスと交わってきたのか、という質問だ。


「ごく僅かだが、女が生まれることがある。だが、十人に一人か、それ以下だ」

「ここに出てこないのは」

「悪く思うな。万一があってはならんので、奥にいてもらっておる。女達が失われれば、我々はまたサキュバスどもと交わるほかなくなる」


 苦々しげに、カディムはそう呻いた。

 だが、ラドクルスが容赦なく言った。


「カディム、正直に言ってしまおう。もう血が近過ぎて、誰とも子を生せないのが、サキュバスを選ぶ。だが、大抵は失敗作になる。でなければ、ここの外の吸血鬼どもが、あれだけの数になるはずもないだろう」


 地下深く、仕事もなく、悠々自適の生活と思いきや。

 緩やかに絶滅への道を辿っている最中ということか。


「続けて、ここがどこかということだが……君達は、ここを『魔宮モー』と呼んでいるらしいな」

「そうだ」

「我々はその名前を知らなかった。どういう場所かといえば、既に説明した通り、捕虜とその子孫を閉じ込めておくための牢獄、ということになるが……今では、ここが君らの言うところの迷宮というもので、しかもそれが、女神モーン・ナーの大事な神殿の真下にあることも知っている」


 そしてカディムは、部屋の奥に突き立てられた古い剣を指差した。


「彼らが教えてくれたからだ」


 いよいよ話題はヨルギズ達のことになった。


「あれはどなたの墓ですか」

「ここにやってきた男達二人のうち、ドスティムの墓だ。知っているのか?」

「彼らの手記を見つけました。では、もう一人はヨルギズという人ですか」

「そうだ」


 カディムは腕を組み、溜息をついた。


「ごく珍しいことだが、この場所に人が迷い込むことがある。だが、上を目指さない限り、魔物達は人を襲わない。まぁ、虫けらどもとか、あとは狂暴なトロールは別だが。そして、君らを除けば、最近ここを訪れた人間は、ヨルギズ達が最後だった」

「彼らはどうなったのですか。ドスティムが死んだのは、なぜですか」

「慌てるな。今、順を追って説明しよう」


 トロールに追い回されたヨルギズとドスティムの二人は、命からがら、この階層に転がり込んだ。それを救ったのが、カディム達だった。

 彼らは互いの情報を交換した。ヨルギズ達はセリパス教の知識と、ここが廟堂の地下にあるのではないかという推測を、カディム達は千五百年前からの伝承を、それぞれ語った。ここの虜囚にとってはさほどの驚きもなかった一方、人間側の反応は激烈だった。

 今まで信仰を捧げてきた女神が、こんな魔物達を飼っていたなどと、受け入れられるはずもなかったのだ。

 ただ、一方で二人は疲労困憊していたし、目の前で起きていることの理非を判断する力もあった。カディム達は危害を加えようとはせず、精神操作魔術の影響を受けにくい風の民の末裔が、苦労して地下から食料を運んでくれた。こうなっては、彼らも吸血鬼達のことを信用するしかなかった。


 傷が癒えた頃、二人の男の意見は割れていた。

 ヨルギズの方針は変わらなかった。アルジャラードの脅威は聞かされていたが、それでも彼は地上を目指すべきだと考えた。

 ドスティムは違った。彼はもう生還を諦めていた。なぜなら、ここに至るまでの戦いで、片腕を失っていたからだ。それに片足も不自由になっていた。


 結果、ドスティムはここに定住した。カディム達は、ともすれば衝動的になりがちなサキュバスを相手に粘り強く交渉して、ドスティムの通行を認めさせた。無論、それには対価が必要だった。そしてサキュバスが求めるものは、一つしかなかった。

 そうして彼は、恐らく十年以上は、ここで生きた。だが、ついに息を引き取った。その間、人間の世界の話を、彼ら虜囚に伝え続けた。


 ヨルギズは、一人で上を目指さなくてはいけなかった。とはいえ、闇雲に戦いを挑むつもりはなかった。

 彼は辛抱強く学ぶことにしたのだ。モーン・ナーが虜囚達に与えた言語、アブ・クラン語を学び、魔物との意志疎通を可能にした。トロールだけは話し合いが通じなかったが、あとは彼を狙わなくなった。ただ、それも、アルジャラードの命令で覆る平和ではあったが。


「こんな言い方はしたくないのだが」


 忌々しげにラドクルスが吐き捨てた。


「ヨルギズのやったことは、我々にとって迷惑でしかなかった」

「迷惑?」

「アルジャラードは、ここから誰かが外に出るのを許さない。そして、我らは彼を死から救った。脱出を手伝ったことになる」


 確かにそうだ。

 その場合、共犯者ということで、彼らが懲罰を受ける可能性もあった。


「何か起きたんですか」

「わからん」


 カディムは首を振った。


「その後の消息は不明だ。もちろん我らは、いつ戻ってきてもいいと言った。だが、彼は戻ってこなかった」


 しかし、ヨルギズが脱出できたかどうかは、わからない。

 少なくとも、ウティスの扉を突き破って外に出たはずはない。それならヘル達暗部が知っているはずだからだ。

 一番ありそうな結果としては、やはりアルジャラードに殺されたというものだが、それ以外でどんな可能性があるだろう? 例えば、蜘蛛が掘った横穴から無事、外部に出られたとして。俺がヨルギズならどうするか?

 何も言わずに故郷に帰るか、それすらせず、遠い土地に一人で旅立つだろう。なぜなら、魔宮の真実を語れば、無事では済まないと理解しているからだ。また、故郷に帰る場合、同行者達が死んだことを報告しなくてはならない。もちろん、魔宮のせいではなく、村人に依頼された蜘蛛退治で不覚を取ったことにする。

 とにかく、そういう決着になるので、彼が魔宮から逃れた記録は、どこにも残らない。ただ、もし俺達がここから脱出できたら、或いは彼の痕跡を追うことで、何かが見つかるかもしれないが。つまり、彼の残したこの手記より後に、彼が外の世界で活動した記録が見つかれば。

 いずれにせよ、今の俺達にとっては、さほどの意味もないか。


「では……要するに、ここから出た人はいない、と」

「そういうことになるが」


 カディムは腕組みし、首を傾けて難しい顔をした。


「何事にも例外があってな。まぁ、これが外に出た人、というのに当てはまるかはわからんが」

「いるんですか?」

「まず、さっきも言ったように……変質した種族、グレムリンやトロール、それに吸血鬼どもは、かなり昔には、キーアダーの命令で、何度も外に出ている」


 しかし、これは脱出したうちには入らない。

 そもそも彼らには、モーン・ナーに絶対服従する本能が植えつけられている。その意味では、どこに出ようが、脱出したことにならないのだ。


「だが、それ以外に、我らの知る中で一人、水の民が外に出た」

「本当!?」


 反応したのは、マルトゥラターレだ。

 水の民、それも「女は皆殺しにされた」のだから、貴重な男だ。彼と、あとは霊樹があれば、彼女の宿願が叶うのだから。ただ、どうせ大昔の話だろうが。


「落ち着け。また落胆することになるぞ」

「というのは」

「さっき言ったように、捕虜となった水の民は全員、この下層に押し込められた。だが、中の一人が、仲間を裏切った」

「裏切った?」


 不穏な言葉だ。

 この一言で、マルトゥラターレが目に見えて顔色を変えた。


「既に我らの祖先とサキュバスとの間には、変質した水の民が生まれ始めていたが……その男、トゥラカムは、自らモーン・ナーの祝福を願ったという」

「そんな、それでどうなったんですか」

「トゥラカムは、水の民として生まれながら、そのままに変質した。今の我らと同じように、血を求めるようにもなったという。また、たまに衝動に駆られて狂暴な振る舞いに出ることもあったとか」


 トゥラカムは、モーン・ナーの祝福を受けてから、また仲間達のところに戻された。つまり、虜囚となった他の同族にも、裏切りを勧めるためだ。しかし、結果は散々だった。


「結局、奴は一人で外に出された。それからはモーン・ナーのために働いたのだろうが、先のことは知らん」

「そう……」


 言われた通り、マルトゥラターレはがっかりして、下を向いていた。


「だいたいのところ、これが我らの知っていることだ。そして、今」


 カディムは、ラドクルスと目を見合わせてから、続きを口にした。


「我々の間で、意見の対立がある」


 ラドクルスが立ち上がり、俺達の輪の中の真ん中に進み出た。


「風の民の側としては、お前達に、ここから出ないことを勧めたい。それはあまりに危険だ。だが、ここでもなるべく不自由なく暮らしていけるよう、可能な限り援助する」

「そんな」


 ソフィアが顔を歪ませた。


「不満があるのはわかる。だが、我らは既にお前達を助けてしまった。これでもし、この上アルジャラードを怒らせたら、どうなるか……こちら側は、もうほとんど数がいない。子供もほとんど生まれない。危険は冒したくない」

「というのが、彼の側の意見だ。しかし、私はまた、別の立場で考えている」


 カディムが反対の意見を述べた。


「思い切って、私が君達の脱出を支援しようと……そう考えているのだ」

「正気か! カディム!」


 反射的にラドクルスが噛み付いた。


「正気だから言っているのだ。考えてもみろ。既に数え切れないほどの年月、我らはここに閉じ込められてきた。だが、いったい何の罪で? 他の何物でもない、ここで生まれたこと、それそのものが罪だと……これを受け入れろと、そう言うのか」

「気持ちの問題で済むのか。いいか、しくじれば次はどうなるか。皆殺しにされてもおかしくないんだぞ」

「殺されなくとも、我らは既に、死に絶えつつあるではないか。お前もわかっているはずだ。ここから出られなければ、やがては滅ぶだけだと」

「だからといって」


 興奮する彼とは対照的に、カディムは落ち着き払っていた。

 そして俺達に向き直り、言った。


「これが、我らの間の意見の相違だ」


 沈黙が広がった。

 俺達は外に出たい。だが、それはもう、俺達だけの問題ではなくなりつつあったのだ。


「彼……ヘルの傷が癒えるまで、まだ時間もあるだろう。その間、じっくり考えることだ」

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