灰白色の脅威

 遠くから迫ってくる足音。距離はあとどれくらい開いているのか。

 通路の影から様子を窺うも、視界はほぼない。


 後ろを振り返る。通路の奥に横たわるヘル。その横で、ソフィアが治癒魔術を行使している。青白い光が小さく見えるが、それだけだ。

 このまま戦闘になるのはまずい。こちらはほとんど何も見えていない。逆に相手は、真っ暗な空間にいるおかげで、最大限に能力を発揮できる。得られる光の量が僅かとしても、火を点さなくては。


「気付かれた」


 小さな声で、マルトゥラターレが告げた。

 なら、遠慮していても仕方がない。構わず詠唱を始める。右手がどんどん赤熱していく。


「マルトゥラターレ、あちらの手伝いは」

「まだやることがない」

「なら……トロールに話しかけることはできるか。もしかしたら」

「やってみる」


 ルー語を話せるのは彼女だけだ。それでトロールが敵意を解くなら、或いは交渉を受け入れてくれるなら、戦わずに済む。

 しかし、それだけに期待するわけにはいかない。指を左右の壁際にそれぞれ押し付ける。ボッ、と小さな音がして、燃え始める。赤く頼りない光だが、ないよりずっといい。


 その時、一際大きな足音が響いた。


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 クルァング (27)


・マテリアル ミュータント・フォーム

 (ランク5、男性、27歳)

・アビリティ 降伏者の血脈

・アビリティ 定向成長促進

・アビリティ 狂化

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 生命力過剰

・アビリティ 無光源超強化

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク7)

・スキル アブ・クラン語 3レベル

・スキル ルー語     2レベル

・スキル 戦槌術     6レベル

・スキル 格闘術     7レベル


 空き(16)

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 五メートルという高さが、どれほどのものか、想像できるだろうか。距離にしてみれば一瞬、だが、高さとなると。

 家屋のすぐ前に立ち、その二階の天井に視線を向ける。或いは、子供になったつもりで、自分の三倍近い身長の大人を見上げる。


 その高さに頭があるのだ。

 立つというより聳え立つ。灰色の壁に押し潰されるような圧迫感。


 クルァングには、体毛がなかった。筋肉質で均整の取れた肉体。だが、全身灰色一色だ。その眼差しからは、何の感情も読み取れなかった。

 俺もマルトゥラターレも、棒を飲み込んだように動けなくなった。それほど、こいつの視線は、いや、存在自体が無機質だった。


 一瞬のようで、長い時間だった。俺とクルァングは、視線を重ねていた。

 後ろで、マルトゥラターレが話しかける。すると、そちらに目を向ける。不意にそいつは、狭い通路に体を割り込ませた。また、彼女が声をあげる。叫んだ。


「だめ。止まらない」

「やるしかないか!」


 クルァングは一言も応えない。だが、足元の俺を見て、無表情のまま、拳を振り下ろした。


 間一髪。

 予め身構えていたから、その大きな拳は俺の体一つ分、横を打ったに過ぎなかった。だが、その風圧たるや。

 最強の巨人種。そう呼ばれるだけのことはある。


 既に右手は白熱していた。


「足を!」


 そう言いながら飛びずさる。

 意味が通じた。突然、パキパキと耳を打つ高い音が聞こえたからだ。

 トロールの前進が止まる。


 マルトゥラターレが、水魔術で足下を氷結させたのだ。

 そして、距離が開いている今を逃す手はなかった。


「いけっ!」


 万全の態勢から放った火球。渦巻きながら、黄色い軌道を残して突き刺さる。


「ボゥア!」


 その一撃に仰け反る。

 吹き飛び、後ろに押されたせいで、足下の拘束が解けてしまう。


 逃がさない。


「ゲグ!」


 大急ぎでもう一撃。

 爆発音が響いた。


 やったか?


 まだだった。

 壁際で尻餅をついたままの格好で、クルァングは腕で胸と顔をガードしていたのだ。


「あれ、は」


 後ろでマルトゥラターレが指を指す。俺もわかっている。

 炎のかすかな光に照らされていたのは、おぞましいほどの自己治癒能力だった。たった今、火球で穴が開いたばかりのところに、まるで灰色の粘液が寄せ集まって、蠢いているかのようだった。いや、実際に動いている。目で追えるくらいはっきりと。

 冗談じゃない。


「くそっ!」


 威力が足りていないのは承知の上。

 もう一発、火球を急いで投げつける。


 今ほど爆発音が耳障りなことはないだろう。早くトドメを刺さないと、他のトロールが気付いて駆けつけてくる。

 だが、ここまでされてなお、クルァングは死んでいなかった。


「グ、ギ?」


 火球の破裂が収まった後に見えたその様子に、俺は目を疑った。

 二度目の火球をガードした腕は、傷ついていた。そのせいで、三度目の爆発の威力を抑えきれず、それは胸に空いた穴にめり込んだ。その、傷ついた胸と腕とが、癒着し始めている。


「このっ!」


 結局、急所を潰さない限り、こいつは死なないのか。

 俺は剣を手に、前に出た。


「ガァ!」


 無造作に残った腕を振るってくる。

 身を沈めてかいくぐり、灰色の体を踏みしめて、一息に延髄を刺し貫く。


「ア、ガ」

「死ね!」

「ガ、ガガグ」


 頭をガタガタ左右に揺らしながら、腕を叩きつけようとしてきた。その瞬間、いきなりスイッチが切れたみたいに脱力した。

 やっと殺せた。


 なんて耐久力だ。

 傷つけた傍からどんどん回復してしまう。近くに傷ついた部位があったら、それまで巻き込んでしまうとは。

 しかも、規格外の怪力だ。最後は危なかった。こっちは一発でも喰らったら確実に死ぬ。だが、中途半端な攻撃ではあまり効果がない。ここまでやるしかなかった。


「マルトゥラターレ、助かった」


 振り返る。

 だが、彼女は所在無さげに立っていた。


「どうした」

「少し、無理をした」


 それもそうか。いきなり氷を実体化させて、トロールの足を止めたのだ。周囲には水がない。空気中の水分が少なければ、消耗も小さくなかったはずだ。一方、俺も火魔術を使いすぎた。

 となると、今みたいなやり方を続けるのは無理、か。


「まだ少しはやれる。ただ、また足音」

「なんだって」

「今ので気付かれた。今度は……二人」


 しゃれにならない。

 いくらなんでも、これを同時に複数捌くのは……


「ソフィア!」

「は、はい」

「もう時間がない! そいつを無理やりでもいいから、立たせろ!」


 どうしようもない。ここで戦い続けたら、絶対に殺される。

 どこでもいいから、トロールが入り込めない場所まで逃げ延びなくては。


「水魔術はもういい。ソフィアだけじゃ奴は支えられない」

「わかった」


 どうする? どう戦う?

 いや、まだ手札はある。


 トロールにも痛覚無効の能力がある。痛みを感じない。ということは『行動阻害』の激痛は意味をなさない。

 ただ、ミノタウロスと違って、トロールには身体操作魔術の能力がない。してみると、『四肢麻痺』『弱体化』などは効果がある。即効性が要求されるだろうから、後者の出番はあまりなさそうだが。


 距離が開いているうちがチャンスだ。

 少なくとも、片方はそれで無力化できる。もちろん、いちいちトドメを刺す余裕なんてない。足止めしておいて、先に進むのだ。


「さぁ、立ってください」

「ぐっ」

「ここにいると死ぬ。急いで」


 後ろでは、少女と亜人に支えられて、よろめきながら立ち上がるヘルの姿があった。


「両手に花だな」

「くっ、貴様」


 俺は急いで詠唱した。『活力』だ。できれば『苦痛軽減』もと思ったが、時間がない。とにかく、これで歩けなければ、もうヘルは置いていく。


「トロールは足止めする。ただ、もう一匹は防げない。急げ!」


 脇の通路から飛び出す。

 ソフィアの光魔術のおかげで、離れたところにいるトロールの影が見えた。目測で三十メートル近く離れている。だが、体の大きさを考慮すれば、奴らにとってのこの距離は、俺達にとっての十メートル程度に過ぎない。


 何も言わなくても、マルトゥラターレは勝手に判断してくれた。ヘルを肩で支えながら、どちらに向かって逃げるべきかを探っている。逃げ道を探すのと、戦うのは同時にこなせない。


「グァ」

「アゥフ」


 二匹のトロールは、俺達と、横たわるクルァングの死体を見て、歩調を速めた。急ぐくらいなのだから、思うところはあるはずなのだが、やはり表情に変化はない。仲間の死に憤っているのか、それとも、俺達に対する食欲が理由なのか。

 長い詠唱が終わる頃には、もう十メートルもなかった。効いてくれ、と半ば祈るような気持ちで、そっと手を前に突き出す。その先端から、黄緑色の鏃が小刻みに回転しながら飛んでいった。


「ウ?」


 一歩、飛び退く。

 先を歩くトロールが、いきなりつんのめった。後ろから押されて、盛大に転倒する。後ろのも、それに巻き込まれて膝をついた。足下が軽く震動し、床から立ち上った細かな塵が舞う。

 背後を盗み見る。マルトゥラターレが、ヘルを見つけたのとは反対側の脇道に姿を消すところだった。その後ろでソフィアが立ち止まっている。


「グルァア!」


 後を追う前に。

 足をやられていないこいつだけは、無力化しなくては。


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 ザラル (29)


・マテリアル ミュータント・フォーム

 (ランク5、男性、29歳)

・アビリティ 降伏者の血脈

・アビリティ 定向成長促進

・アビリティ 狂化

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 生命力過剰

・アビリティ 無光源超強化

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク7)

・スキル アブ・クラン語 3レベル

・スキル ルー語     1レベル

・スキル 戦槌術     6レベル

・スキル 格闘術     7レベル


 空き(18)

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 さっきのクルァングとほとんど同じような能力だ。

 それもそうか。同じ穴倉の中で、同じような暮らしを営んでいたはずだから。


 もう間合いがない。

 接近戦になる。だが、トロールは巨体ながら、決して鈍重ではない。

 それに長引かせたくない。気配で、背後のソフィアが迷っているのがわかる。光源のない状態で置いていくことになるからだ。


 幸い、ザラルも武器を持っていない。それなら。


「ウォア」


 力任せの拳が叩きつけられる。

 だが、俺はそれを軽々避けた。もちろん、その巨体も筋力も脅威ではある。だがもう、それだけだ。


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳、アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 7レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    7レベル


 空き(2)

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 格闘術の経験を奪い取った。もうこいつは素人同然だ。

 もっとも、もともと前かがみになって、低い位置を殴らなければならない状況だった。やりやすいとはいえなかったのではないか。


 これで隙ができた。

 しかし、トドメを刺す……いや。それでは手間がかかりすぎる。


 振り返り、マルトゥラターレの後を追う。ソフィアの背中を押しながら。

 身を起こしたザラルが、すぐ俺達を追いかける。


 先を進むマルトゥラターレとヘルの背中が、ぼんやり見える。


「走れ!」

「えっ、でも」

「俺はいい! 行け!」


 少しだけ。

 詠唱を終えるまでの時間を稼げば、逃げ切れる。


 ソフィアを突き飛ばし、俺は前を向いた。その頭上に、影が差す。

 鉄球がコンクリートの壁を砕くような。そんな衝撃が、目の前に走る。


 やっていることは単純だ。奴から見れば赤ん坊サイズの俺を、踏んだり蹴ったりしようとしている。技も何もない。だが、巻き込まれれば間違いなく全身の骨を粉砕される。


 剣術だけでは、今は倒せない。ミノタウロスより一回り大きいこの体格。前屈みになったタイミングを狙って、かつ身体強化を施していても、首を狙うのは簡単ではない。

 要するに、結局はまた魔法に頼るしかない。


「ウォ?」


 やった。

 明らかに反応が変わった。


 これで逃げられる。『目潰し』の魔法だ。あまり今まで使うことがなかったが、これはこれで使い勝手がいい。

 音でこちらの居場所はわかってしまうが、正確な攻撃はもう難しいはず。


「今行く!」


 少し前を進む光源に向かって声をかけ、俺は全力で走り出した。


 運がよかったというより、必然だったのだろう。

 結局、あのスロープの近くに、下り階段があった。上層階への直通道路がそういくつもあるはずもない。利便性を考えれば、自然とそうなる。

 ただ、階段のサイズが尋常ではなかった。


「トロールには少し狭いくらいだが」

「普通の倍くらいあります」


 つまり、この下にいるのも巨大な何かということだ。考えても仕方ない。

 両手で掴まりながら、巨大な階段を一歩ずつ降りていく。


 周囲を見回した。

 正面には、長い通路が続いている。少し行った先に壁が見えるが、わかるのはそこまでだ。

 ただ、右手に脇道がある。その通路の出入口は、黒い金属の柵で仕切られていた。柵の向こうを覗き見ると、すぐ行き止まりになっていた。但し、床が途切れ、プールになっている。


「どちらに進むか」


 脱出の手がかりを掴むために、敢えて下層階を調べると言い出したのは俺だ。しかし、既にして俺達は消耗している。リスクは取りたくない。


「あの、これは」


 ソフィアが何かに気付いたらしい。足下に茶色い体毛らしきものが落ちていた。

 そう長くはない。


「もしかして、あの牛のものでは」


 ミノタウロス、か。

 とすると、この階層も上と大差ない。上の宮殿フロアにもいたが、あれは巡回していただけで、住んでいるのはここなのだろう。


「奥に行くより、この柵を越えたほうが、何か見つかるかもな」


 だが、どうやら施錠されているらしい。

 火魔術で溶かすか? しかし、このところ、魔法を多用しているせいか、体調も微妙によくない。


「……どけ」


 マルトゥラターレに寄りかかっていたヘルが、おぼつかない足取りで前に出た。


「外してやる」


 腰にぶら提げた小さなポーチから、針金のような道具を取り出し、鍵穴らしきところに突っ込み始めた。

 どれくらいの時間が経ったのか。薄暗い廊下に、金属の擦れる音が断続的に響いた。その音が気になって仕方なかった。もし、魔物が聞きつけたら。

 不意にガチャッ、と大きな音が響いた。


「で? 開けてどうする」


 このプールを見た時、思い当たるところがあった。


「悪いけど、もう一度みんなを水の向こうに」

「向こうだと?」


 漠然とした想像のようなものでしかないのだが。この水は「通行を制限する」ためにあるのではないか。そんな気がしていた。

 あの、スライムまみれのフロアは、多分、行き止まりだったと思う。もっと下に降りたければ、脇のプールの中を潜っていくしかなかった。

 それ以外のルートとなると、さっき見つけたスロープがある。あれがミノタウロスどもの出勤ルートになっているわけだ。しかし、とすれば、あそこを登っていった先にはきっと、見張りがいる。当然だ。でなければ、最初に俺が投げ出されたフロアとか、その二つ上にあった、がらんどうの大広間でトロールに遭遇していなければならない。

 正直、水で遮ったくらいで何の役に立つのかとは思う。だが、そう考えるのでもなければ、辻褄が合わない。単純に不便なだけだからだ。


「多分、まだ下がある」

「そんなもの、確かめてどうする」

「わからない。だが、上にはとんでもないのがいる。さっきのトロールなんか、ただの雑魚だ。何も調べず、考えもなしに上を目指す気になれないだけだ」


 マルトゥラターレが頷いた。

 ここに長居するのはまずい。どうあれ、先に進むしかなかった。

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