冒涜の焼印
「今、確かに遠くに行った」
「どうやら時間で決まっているみたいだな」
ほのかな光を囲んで、俺達は意見交換をしていた。
既にマルトゥラターレにも、上層の危険については伝えてある。脱出経路を探すためにも、いったん下層を調査しようという方向で、同意を取った。
しかし、これ以上降りていこうにも、階段の下はトロールどもの棲家になっている。一匹だけなら始末もできるが、一度に多数が向かってきたら、とてもではないが、対処しきれない。
いわば上下に挟まれて、どこにも出られない状況になってしまったわけだ。但し、あの大ホールに陣取るアルジャラードにはピアシング・ハンドが効かなかったが、ここにいるのはただのトロールだ。危険極まりないとはいえ、絶対に勝てない相手ではない。
そこで、しばらく観察することにしたのだ。
すると、一定の時間をおいて、急に彼らがいなくなることがあった。理由はわからないが、これは好機だ。
「何しに出かけているのでしょうか」
「さあ……食事か何かじゃないのか」
「こんな場所で、どうやって」
「それも、考えても仕方がない。ただ、可能性としては……」
マルトゥラターレの顔をちらと見て、言った。
「あの樹木もどきが、供給してくれているのかもな」
あれが彼女のいう霊樹と同じかどうかはわからない。ただ、そういうものがあると説明したところ、彼女は強い興味を示した。
もしここに霊樹があるのなら。水の民のための霊樹ではないかもしれないが、だとしても貴重極まりないものと言える。同じルーの種族にとっては、希望の光なのだから。
「俺達も、ずっとこうしているわけにはいかない」
明らかにゴブレットの供給する飲料は少なかった。ここにいてもジリ貧なのだ。
「食べるものがあるのなら、奪うくらいでないと、生き残れない」
「でも、トロールですよ?」
「あれくらいなら倒せる。囲まれなければ……あとは、光を絶やさなければ」
「光?」
「グレムリンもそうだったが、トロールも光には弱い」
つまり、ここに揃った三人、誰一人欠けても、ここを突破するのは難しい。
ソフィアが死ねば、光源を失う。それで一番影響を受けるのは俺だが、グレムリンやトロールにとっては、自分を弱体化させる光がなくなるので、有利になる。
マルトゥラターレがいなくなった場合、敵の接近に気付きにくくなる。生まれ持った神通力で周囲の物音を聞き分けられる彼女は、安全を確保する上で、いないではすまない。また、上に戻ろうと思ったら、あの水の中を抜けなければいけない。俺はなんとでもなっても、ソフィアは水魔術で守ってもらえなければ、とても通り抜けられないだろう。
失敗はできない。
だが、これ以上、無駄に時間を浪費するのもまずい。
「次、いなくなった時に行こう」
ソフィアは緊張した面持ちで頷いた。
数時間後、すきっ腹を抱えた俺達は、静かになった大広間に降り立った。
何もかもが大きい。通路も部屋みたいだ。遠くの灰色の壁が、うっすらと光を照り返して浮かび上がる。
「こんなに照らして……」
「シッ」
多分だが、光は彼らの視界にとって大きな意味を持たない。むしろ、遮るのではないか。じゃあ何を見るんだということになるのだが、それはわからない。科学的に考えれば、眼球は光を集めるための装置に過ぎないのだが、魔法が実在するこの世界では、まったく別の何かが機能している可能性もある。考えても仕方ない。
それより、連中は物音に敏感に反応する。
作戦目標は、下層階への通路の発見だ。それ以外にも、多数に囲まれない狭い空間、逃げ込める場所を見つけられれば。ここにどれだけのトロールがいるのかは、わからない。逃げ道は多いほうがいいに決まっているのだ。
しかし、俺達には地図も何もない。だから、闇雲に探索するしかない。
大広間には、まっすぐと左に通路があった。どちらから行こうと一歩を踏み出したところ、マルトゥラターレに肩を掴まれた。振り返ると、首を横に振る。左には行くなということか。
それでまっすぐ進む。
しばらく進んだところで、大きな十字路に出た。
「これは」
頭上にあったのは、あの銀色のチューブ。こんな場所にも突き出ていたのか。
もしやと思い、俺は足下を指差した。察したソフィアが、そこに光源を近付ける。
「血……」
まだ比較的新しい。
誰かがここに落ちた。とはいえ、いつ頃のことかはわからないが。
ソフィアは例によって青ざめているが、俺の中では「もしかして」という思いがあった。
それより今は、通路を発見するほうが先だ。
「あちらに空気の流れがある」
マルトゥラターレの指摘に従って、俺達は右に曲がった。
果たして、そこにあったのは、巨大なスロープだった。斜め上に向かって、曲がりくねっているのがわかる。これはどこに通じているのか。
ずっと上の階層にあった、あのがらんどうの領域を思い出す。
宮殿のフロアの手前の、あの広い空間だ。
あの時ソフィアは、第一世代のルイン語の文字で『前進』『右折』などと書いてあった、と言っていた。つまり、昔はあの標識を見て、誰かが順路に従って歩いていたのだ。しかし、あの広さ、あの大きさを必要とするほどの存在がいるとは、あの時点では考えもしなかった。だが、ミノタウロスやトロールなら、あれくらいの道幅、天井の高さが必要になる。
現実的に考えて、ここのトロールどもが上に出るとすれば、さっきのスライムまみれの領域を通過するはずがない。つまり、ショートカットするための別のルートがあってしかるべきなのだ。それはどこに繋がっているのか。直接、あの大広間に出られるのではない気がする。
ここより三つ上の階層、つまり俺が最初に落とされた場所にも、大通りがあった。多分、あそこに繋がる道なのだろう。
少し見えてきた気がする。
どういう理由によるものかはわからないが、とにかくここを作った誰かは、やはり魔物を培養していたのだ。恐らくは戦力として活用するために。グレムリンどもに武器や薬品を作らせ、トロールを育てて……こんな魔物の集団が外に放出されたら、どんな事態に陥るか。国一つが吹き飛んでもおかしくない。
ただ、トロールの戦力は素晴らしいものの、問題がいくつかある。そもそも、誰が彼らに命令できるというのだろうか。これが一つ。トロールをはじめ、この迷宮にいる怪物は、どうも光に弱いのが多い。つまり、長距離の行軍には耐えられない。これが二つ目。
しかし、これがかつてのセリパシア神聖帝国の中心地に存在するという事実は、ある可能性を浮上させる。
聖女とその信徒達の奇跡の快進撃。あっという間に北方の雄となったサース帝。彼らの勝利と栄光の背後には、もしかして……
「上に行けるのですか」
「多分」
「は、早く行きましょう」
「探してるのは下への道だ」
とはいえ、この近くにある気がする。
ここが最下層でない限り、その他の誰かもこのルートを利用するだろうからだ。
「あっ」
珍しく、マルトゥラターレが声をあげた。
「どうした」
「近くで、物音が」
瞬時に俺とソフィアは緊張し、周囲を見回した。
「小さな呻き声。聞こえる」
「なんだって」
「どうする」
俺は頷いた。
スロープの少し手前に、一回り幅の狭い脇道があった。これならトロール一匹分くらいしか通れない。
その突き当たり。暗がりの中に、横たわる影が見えた。
「こいつか」
悪運の強い奴もいたものだ。
その藍色の上着は、前の部分が破れていた。あちこちが血に染まっている。もはや動く余力もないらしく、俺達の到着にもかかわらず、身動ぎ一つしなかった。
「怪我人ですか?」
「ソフィア、こいつは……連中の仲間じゃなかったか? お前を突き落とした」
「ああっ」
間違いない。
俺が落とした奴だ。こんなところに落ちるとは。生き残ったのはさすがだが、もう長くはないだろう。
さて、どうするか。
敵意が首をもたげた瞬間、またあの黒い靄のような感情が胸に満ちてきた。情報を抜き取ったら……
そんな思いに気付いて、慌てて蓋をする。
「おい」
俺は声をかけた。
距離を空けたまま。まだ襲いかかってくるかもしれない。
「答えろ。お前は教皇の手下だな」
返事はない。だが、こちらに首だけ向けている。
「宿舎にいた俺を見張っていたのも、お前か、お前の仲間だ。そうだろう?」
やはり黙ったままだ。
「ここはどういう場所だ。知っている限りのことを話せ」
「ファルス様、無理ですよ。この方は、大怪我をしています」
そう言うと、ソフィアは駆け寄った。
「大丈夫ですか? 今、手当て致します」
「待て。危険だ!」
だが、遅かった。ソフィアはすぐ横に駆け寄り、膝をつく。そして詠唱を開始しようとした。
「きゃあ!」
その彼女を、ヘルは抱きかかえた。
右手にはナイフが握られている。
「無駄な抵抗だな。ソフィアを殺してみろ。お前は八つ裂きだ」
「……もとより捨てた命」
「そうだろうな? もし、こんなダンジョンが廟堂の地下にあるなんて知れたら、神聖教国はおしまいだ。だが残念だったな。もう俺達は秘密を知っている。ここから出る方法だって、ほぼ突き止めた」
半分はハッタリだが、とにかく彼には諦めてもらわねばならない。
「もう一度言う。ソフィアを殺せば、お前も死ぬ。俺達は外に出て、何もかもを言いふらす。命懸けで頑張ったのに、残念な結果で終わるだけだ」
「ハ、ハハッ」
だが、ヘルは俺の脅迫を笑って受け流した。
「侵入者、を……見逃せば、どの道」
「始末されるってか」
この国らしいクソっぷりだ。
「まあいい。それなら今すぐ楽にしてやる」
ピアシング・ハンドがある。肉体ごと消してやれば……
「お待ちください」
異を唱えたのは、捕まっていたソフィア自身だった。
「今、この方の傷を」
「何を言っている。お前は今、こいつに人質にされているんだぞ」
「お言葉ですが。この方がどんな悪事を働こうとも、私が善行をやめる理由にはなり得ません」
これだからカチコチの宗教人間は……だが、アイドゥスでも、同じことを言いそうな気がした。
ソフィアは首を向けてヘルに言った。
「その刃物は、私に向けたままで構いません。これから傷を癒しますから、じっとしていてください」
ソフィアはそっと手を伸ばし、俺の火魔術で焼け焦げた藍色の上着を脱がせにかかる。
「傷口を見せてくださいね」
何を思ったのか、ヘルは動こうとしない。
「これはひどい……他には」
彼女は、ヘルの頭巾に触れ、そっと引っ張った。
「……ひぁっ!?」
「ハッ、ハハハ」
尻餅をついたソフィア。それをあざ笑うヘル。
「どうだ、この顔は」
「えっ、いえっ、それは、傷……」
「生まれつき、この顔だ」
唇が、おかしなことになっている。いわゆる兎唇というやつで、上唇がめくれ上がったような形状になっている。しかも、片側だけ頬がない。歯が剥き出しだ。
「どうだ、醜いだろう」
ソフィアは言葉もなかった。
「なるほどな」
すぐに俺は理解した。
「お前がそうなのか。いわゆる『生まれ変わった子供』というのは」
「察しがいいな。そういうことだ」
憎悪に嗤いながら、ヘルはさも面白いというように、説明を続けた。
「生まれながらに罪を刻まれた肉体……もしそういう子供が生まれたら、この国では……教会に捨てる。教会は、それをこの国の裏側にまわす。生き延びる力のある人間だけが、この国の影に生きることができる」
「ふん……何がもとより捨てた命、だ。捨てられた命なんじゃないか」
俺も鼻で笑った。
「ソフィア」
「は、はい」
「確か、廟堂で清めの儀式を受けて、正義のために生まれ変わるんだったな」
「あっ……」
「何のことはない。生まれながらに障害のある子、不倫の子、その他厄介払いされたのが、都合よく利用される。そうやって、表の社会で生きられなくなった連中を、この国の闇の部分で利用する。なるほど、教皇に忠誠を誓うしか、道なんてなかったわけだ」
俺は静かに歩み寄った。
上着を半分脱がされたヘルの胸には、何かの焼印が見えた。丸い……これは。
「なんだ、この印は」
「この国でそれを尋ねるか? ハッハハ」
なんだろう、丸い、何かのマーク……
「これは」
ソフィアが息を詰まらせる。
「聖印を逆さまにしたもの……なんて罰当たりな」
「暗部の人間には、みんなこれがある」
見分けがつくように、か。
しかし、俺には見覚えがあった。
「スナーキー」
昨年、いや一昨年か。
王都の内紛の際に、傭兵のスナーキーと戦った。彼の上半身には、これと同じ焼印があった。
「おい、ヘル」
「……なんだ」
「お前達の仲間をやめた奴は、どうなる」
「知れたことよ」
「俺は一人見たことがある。スナーキーという奴だ。とっくに死んだがな」
「ふん」
恐らく、スナーキーはセリパシアの暗部出身だった。しかし、あまりに希望のない暮らしゆえに、すべてを捨てて逃走し、傭兵になった。
あとは俺が知っている通りだ。ドゥーイの傭兵団に参加して、そこで頭角を現した。というより、彼みたいな男の横でなければ、生きられなかったのだろう。ドゥーイもそうだが、スナーキーも相当に残忍な性質だった。それは、この報われない暗部の一員としての人生ゆえに形成された人格だったのだ。
俺に焼印を見られた時、あれほど取り乱したのは、恐らくは追っ手を恐れてのことだったのだろう。
「まったく、素敵過ぎて言葉も出ないな、神聖教国ってのは」
「そこまで」
沈黙を守っていたマルトゥラターレが、初めて口を挟んだ。
「近付いてくる」
「トロールか」
彼女は頷いた。
「ソフィア。もう時間がない。そいつは餌にする」
「いけません!」
そう言うと思った。
「おい、ヘル」
「……なぜ、俺の名前を」
「うるさい。今すぐ選べ。ここでトロールどもの餌になるか、俺達と来るか」
返事がない。
「時間がない。もしお前が、自分を助けようとするそいつを、まだ殺そうというのなら。もう構ってはおれん。今すぐ始末する」
一瞬の間をおいて、ヘルは答えた。
「条件が」
「後にしろ」
俺はマルトゥラターレに振り返った。
「トロールの数は」
「今のところ、一匹。もう近い」
「わかった」
剣を抜き放つ。
「そいつは俺が片付ける。ソフィア、歩けさえすればいい。大急ぎでそいつを治せ。マルトゥラターレ、悪いが手伝ってやってほしい」
どうやら、血路を開くことになりそうだ。
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