水中トンネルでの問答

「ここが?」

「そう」


 マルトゥラターレが指し示すのは、とある貯水池だった。ここ、といっても、上からではまったく見分けがつかない。


「他の階段は」

「近くにあったけど、降りないほうがいい」

「一応、見たい」


 俺はここより一つ上の階層に落とされ、後は上しか見ていない。一方、彼女はこの階層に落ちてから、ここから下を調べていた。

 これは、必要性の違いからだった。俺やソフィアは、人間社会に復帰することが目的となっている。秘密を守りたい教会に付け狙われる可能性はあるものの、やりようによってはそれも沈黙させられるし、ずっと穴倉で暮らしたいとも思わない。だから上を目指した。

 だが、マルトゥラターレにしてみれば、外は人間の世界で、それは常に危険な場所だった。理想を言えば、故郷の南方大陸、大森林の奥地に帰りたいのかもしれないが、いくらなんでも西方大陸の北端から、人間に見咎められずにそこまで行けるはずもない。よって彼女の関心は、目先の生存にあった。つまり、安全と食料が最優先だったのだ。そのため、人間に遭遇する可能性の高い上層を探索するメリットが薄かった。また、視力がないため、そもそも探索範囲を選びにくいのもある。


「それはこちら」


 驚くべきことに、まったく視界がないにもかかわらず、彼女はまっすぐ通路の上を歩いた。


「あの」


 その澱みない歩調に、ソフィアが抗議するかのような声をあげた。


「あなた、本当に眼が見えないんですか?」

「それが何か?」

「じゃあ、どうしてそんなに歩けるんですか」


 当然ながら、いきなり痛めつけられたソフィアが、マルトゥラターレをすんなり受け入れるはずもなかった。まして相手が人ならぬ魔物となれば。

 その上、マルトゥラターレは飢えていた。俺が残り少ないシーラの飲料を与えたのも、影響しているのかもしれない。三人分を賄うとなると、今のゴブレットの能力を超えている。


「何度も行き来すれば、覚える」

「信じられません」


 マルトゥラターレは、返事をせず、また前を向き、歩き続けた。


「ここ」


 確かにそこには、下り階段があった。

 巨大な貯水池の広がる向こう、行き当たった壁のところ。


「なぜ降りなかった」

「何かがいたから」

「何かって、どんな」

「わからない」


 そうだった。

 見えないんだから、判断つかないか。


「だったら、少し見てくる」


 俺はソフィアに目配せした。彼女も早足で俺の後に続き、二人で階段を降りる。

 だが、踊り場に足を踏み入れ、折り返しの階段を見下ろした時点で、俺は溜息をついた。


「戻ろう」

「え、ええ」


 広がっていたのは、最低の空間だった。少し離れたここからでも、ネチョネチョと絡み合う音が聞こえる。

 階段の下を埋め尽くしていたのは、半透明のスライムの大群だった。互いに重なり合い、粘液を浴びせあい、或いは捕食しあっている。どこまで続いているかはわからないが、上から確認できる範囲では、大部屋の向こうすべてがこんな感じみたいだった。

 スライムに視力はないようだ。もしあれば、こちらに気付かないはずがない。どちらかというと、物音により強く反応するのだろう。俺とソフィアは目を見合わせて、足音を殺しつつ、ゆっくりと上に引き返した。


「進めなかった」

「でも、水の中を通るしかないんですか」


 マルトゥラターレへの不信感が拭えないソフィアは、あからさまに嫌がった。


「他の道があるとしても、そこにはきっとグレムリンがいる」


 俺も、完全に信用しているわけではない。ただ、今なら最悪の場合への備えがある。


「俺から行く。送り届けて欲しい」

「わかった」


 見た目がかっこ悪いが、俺はマルトゥラターレの背中に取り付いた。見れば、身につけていた紺色のメイド服も皺だらけになっている。いきなり連れ込まれて、いきなり放り込まれたのだろうとわかる。


「お気をつけて」


 本当に気が気でないという顔で、ソフィアが言う。だが、俺はそれほど心配していなかった。

 なぜなら、もう間違いなくピアシング・ハンドのクールタイムが終了しているだろうからだ。それに、いくらなんでもこの位置取り、後ろから抱きかかえる状況で、そうそう簡単に不覚を取ったりはしない。


 マルトゥラターレが一歩を踏み出す。水の中に。

 俺も慌てて前に体重をかけた。


 水音がした、と思った。

 しかし、それは気のせいだったのか。服の中に水が沁みこんでくる感触がない。

 目を開ける。周囲は真っ暗で、何も見えない。水中の、あの変に反響する物音に包まれていた。時折、水を掻き分けるようなザーッという音が混じる。

 普通に呼吸もできる。ということは、俺と彼女は大きな気泡の中にいる?


「空気?」

「濡れないように空気で包んだ。このまま壁の向こうの部屋に送る」


 やはり、彼女に害意はない。

 安心はしたが、しかし、この素直さはどうだろう。俺が食料を与えたから、というのもあるのだろうが……


「なぜ」


 だが、疑問の声を発したのは、俺ではなかった。


「なぜ、知っていた?」

「えっ?」

「ジェゴスは知らない。私の名前を」


 ハッとした。

 やはり。フルネームを伝えてなどいなかったのだ。買い取った時から、ずっと彼女は「マルトゥラ」だった。

 だが、あの場では頷いてみせた。俺の力を警戒していたから。しかし、水中なら……


 誘いこまれた、か。

 だとしても、慌てることはない。


「言えない、と言ったら?」


 この回答に、返事はなかった。

 黙ったまま、彼女は水の底に進んでいるようだった。


「……ワノノマの戦士?」

「は?」

「この上、霊樹を切り倒すつもりなら、道連れにする」


 何のことだ?

 いや、いや、待て。

 回答次第では殺すと。彼女はそう言っている。それだけではない。その結果、自分が死んでも構わないと宣言しているのだ。


「誤解だ」

「水の民の言葉を、なぜ知っている」

「知らない。なんだ、それは」

「スヴァーパのことを、誰に聞いた。知っているのは、水の民の仲間だけ」


 わけがわからない。だが、一つだけわかっている。言葉は選ばなければいけない。さもないと、彼女は捨て身の特攻を選ぶ。


「俺はフォレス人だ。ジェゴスが言っていただろう。タンディラール王の子飼いの騎士だ。ワノノマの戦士じゃない」


 まずは、彼女が知っている事実から述べる。


「霊樹が何のことかも知らない。水の民もだ」

「なら、なぜスヴァーパを知っている」

「お前の名前だろう」

「違う」


 違う?

 そんな、まさか。姓とか、氏族名とか、そういうものかと思ったのに。


「あの時、スヴァーパが騒いだ」

「あの時?」

「お前が私を助け起こした時」


 あの時に、何かがあった?

 しかし、あそこには俺とジェゴスとミディア、そしてマルトゥラターレ本人しかいなかった。


「あそこには、四人しかいなかった。スヴァーパってのはどこに隠れていたんだ」

「正直に言わないと」

「待て!」


 とにかく。この敵意をなんとかしないと。


「わかった。言う。俺には、人の名前がわかる力があるんだ」


 これは事実だ。しかし、証拠を示せない。


「それともう一つ。条件が整うと、俺は人間や動物、魔物を一瞬で消し去ることができる」


 言いたくはなかったのだが、仕方がない。


「このことは、世界で五人も知らない。嗅ぎつけた奴は、ほとんど殺してきた」


 いつの間にか、マルトゥラターレは動きを止めていた。


「霊樹も、水の民も、何のことかわからない。お前達の言葉というのは、もしかしてルー語というのか?」

「ルーの種族のことを知っていて、なぜ霊樹のことを知らない」

「だから、名前しかわからないんだ」


 彼女は、しばらく考えているようだった。

 だが、やがて浮上し始めたらしい。


 無言のまま、やがて水面に出た。

 最初に言っていた、別の部屋に行くというのは、本当だった。空気の臭いが違った。なんとなく埃っぽい。気泡の中が温かかったのもあって、急に冷やされた気がする。


 水面から出た彼女は、しばらくじっと俺を見つめていた。まっすぐ立ったまま、身動きもせずに。どういうつもりだろうか。


「あの場所に、少女を長く待たせると危ない」


 それだけ言うと、また彼女は水の中に戻った。


 一人になって、気付いた。

 やっと彼女は俺を信用したのか、と。


 俺の「名前だけわかる」「即死させる力がある」という説明は、到底、理解が及ばない話だ。俺だって、いきなりそんなことを言われても信じられないだろう。

 しかし、名前がわかる件はともかく、いきなり殺されたのではたまらない。といって、俺がもし、彼女の恐れるワノノマの戦士とか、その仲間だったら、それはそれで捨て置くわけにもいかない。

 即死能力の件がハッタリかどうか。俺が敵かどうかを判別するには、どうすればいいだろう?

 もし、ただのブラフなら……水中という不利がなくなった瞬間、俺は彼女を攻撃するはずだ。それをしなかったということは、俺には本当に即死能力があるかもしれず、かつワノノマの戦士でもないと判断できる。


 よく考えている。しかも、覚悟を伴っている。ついでに、理性も良識もある。

 亜人は魔物……という割には、随分とまともではないか。


 しかし、これは貴重な機会かもしれない。

 新たに浮かびあがった疑問を、どこかで彼女にぶつけなくてはなるまい。普通、亜人は人間の敵で、まともなコミュニケーションが取れない。言葉こそ通じても、協力的な態度を取る理由がないからだ。また、そうでなくても稀少で、そもそも遭遇する可能性も低い。探して見つかるものではないのだ。


 ややあって、足下で水を掻き分ける音がした。

 水中に半身を埋めたマルトゥラターレが、下からソフィアを押し上げている。光魔術を維持している彼女のおかげで、何が起きているかを見ることができた。なんと、周囲の水が押しのけられて、壁みたいになっている。

 ソフィアが這い上がると、続いてマルトゥラターレも続いた。


「ああ、ご無事だったのですね」


 顔に恐怖を浮かべながら、ソフィアが縋りついてくる。


「ソフィア」

「はい」

「マルトゥラターレは大丈夫だ。信用できる」

「は、はい」


 俺は、はっきり宣言した。

 マルトゥラターレは表情を変えなかった。


 光魔術のおかげで、室内の状況が把握できた。

 そう広い部屋ではない。隅に下り階段がある。


「行こう」


 俺を先頭に、続いてソフィア、その肩にマルトゥラターレが手を置きながら。

 階段を降りていった。


 降りた先にあったのも、同じような狭い部屋だった。

 但し、窓がある。しかも、ガラスだかなんだかわからないが、透明な仕切りが入っていた。


「うわぁ……」


 そこからの光景を眺めたソフィアが、嫌悪の情を漏らした。

 光魔術に照らされた範囲には、やはりというか、大量のスライムが映っていた。床のみならず、壁、天井までビッシリとへばりついている。どこかから水や栄養を供給されているのだろうか。

 いくら大した戦闘力のない魔物とはいえ、これだけ数がいると。マルトゥラターレに出会わなかった場合、下を調べようと思ったら、ここを突破しなければならなかったのだ。考えただけでゾッとする。


 部屋の中には、また同じ場所に下に向かう階段があった。


「それで、この下は?」


 尋ねられて、マルトゥラターレはそっけなく答えた。


「知らない」

「なぜ?」


 見えないから、でもなさそうだが……


「何かがいたから」


 またか……


「じゃ、ちょっと見てくる」

「私も行きます」


 来てくれないと灯りがないから、何も見えない。

 それで、二人で階段を降りた。


 だが、すぐ足を止めた。二人揃って。


 足下を揺るがす衝撃を感じたからだ。

 そっと足音を殺しながら、身をかがめて、階段の下の様子を探ろうとした。


 そこも真っ暗な空間だった。天井はかなり高い。六メートルくらいはある。だだっ広い大部屋だ。

 そして、何者かの気配がある。誰かが歩いている。普通の大きさではない。ミノタウロスかと思ったが、ちらと見えた足で、そうではないとわかった。


 人間そっくりの素足。但し、肌の色が灰色だ。

 ピンときた。


 俺はソフィアに合図して、すぐ上に引き返した。

 あれは……


「冗談じゃない。なんなんだ、あれは」

「何がいた」

「トロール。原種の」


 劣化種と呼ばれるトロールなら、俺も今まで、何度も倒してきている。全身が黄色ないし黄緑色の皮膚に覆われていて、身長は成体で三メートルから四メートルほど。縦長の、特に額から上が長い歪な頭部を持っていて、体毛はほとんどない。また、体全体のバランスとしては、人間より腕が長く、手が大きい。

 彼らが劣化種と呼ばれる理由は、その身体能力にある。人間より遥かに大きな肉体、そして優れた筋力を誇る劣化種トロールではあるが、原種とされるトロールと比べると、まさに人間並みとしか言いようがなくなる。

 身長は成体で四メートルから五メートル。肌の色は灰色だ。体毛がないのは劣化種と同様だが、体格全体のバランスは人間に近い。顔立ちはむしろ端正だったりする。なお、劣化種と違って、オスしか発見されたことがない。この辺からすると、本当に原種なのかという疑問もわくのだが、とにかく世間ではそういうものとされている。

 原種のトロールは、巨人系の魔物の中でも、最強の一角を占めている。途方もない怪力は、もはや人間が支えられる限度を超えている。タリフ・オリムの冒険者達がオーガを狩る時にやるような大盾での防御では、とてもではないが、トロールの拳を受け止めるなどできない。

 また、傷を受けた場合の再生能力も、尋常ではない。あくまで伝聞だが、傷口が開いた傍から閉じていくという。凶暴性も凄まじく、いったん殺戮を始めたが最後、動くものすべてを潰さない限り止まらない。劣化種も気が荒いのだが、まだ彼らは、食べるものを手に入れれば逃げたりもする。原種にそんな甘さはない。

 生まれついての破壊兵器である原種トロールだが、唯一、絶対的な弱点がある。それは太陽の光だ。直射日光にさらされたトロールは、夜間にみせる無尽蔵の力もどこに消えたのか、まるで病人のように弱ってしまう。その状態であれば、戦闘経験のない一般人でも簡単に打ち殺せるくらいだ。


 知名度の高い怪物ではあるが、こういった特徴もあって、今では目撃されるのも稀だ。人が歩き回る領域で発見された場合は、冒険者や軍隊が追いかけ回して、犠牲を払ってでも討伐する。時間をかけさえすれば、必ず日が昇るので退治はできるし、放置することによって生じる被害も桁違いだからだ。

 仮に一匹、原種のトロールがうろつきまわったとしたら、小さな田舎の村などは、一晩で消えてなくなる。それほどの存在なのだ。


「……あれが、少なく見積もっても十匹以上いるとなると」


 一つだけ救いがあるとすれば、ここの階段の通路は狭く、トロールには入り込めない、ということくらいか。


「どうするんですか?」

「少し休もう」

「えっ」

「慌てて動いても、いいことなんてない」


 腰を下ろし、壁に身を預けた。


 ヨルギズ達が出くわした脅威というのも、案外このトロール達のことかもしれない、と思いながら。

 俺は体の力を抜いて、目を閉じた。

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