暗がりの水怪

 次はどこを目指すべきだろうか。

 一番いいのは、虫達が掘った穴を見つけることだ。開通した直後であれば、アルジャラードも気付かない。但し、俺達が先んじて発見できる可能性は低い。恐らくだが、奴は支配下にあるグレムリンやミノタウロスを動員して、迷宮の綻びを修復させている。単純に人手が多いのだ。偶然次第というのも、なかなか厳しい。

 となると次善の策は「この迷宮を調べる」となる。そして上の階層については、進めるだけ進んだ。ならば、下はどこまであるのか。ひょっとして、脱出に役立つ何かが見つかるかもしれない。或いは新たな脅威を発見するだけかもしれないが、知らずにいるよりはいい。

 一応、第三の案もあるのだが……


 俺とソフィアは、暗い貯水池の上の、格子状の通路を歩いていた。探しているのは、下り階段だ。

 大木付近については、今もグレムリンが活動している一角を除けば、一通り見終えている。すべての部屋をチェックしたわけではないものの、ざっと見る限り、階段はなかった。

 では、ここが最下層なのか。そうではない。ヨルギズの記録によれば、ここより更に下があるはずだ。今は崩落したとか、改築されたとか、あり得なくはないが、だとしてもその痕跡くらいは見つけなければいけない。


「あっ」

「どうした」

「足下を見てください」


 俺はどうしてもグレムリンの襲撃を恐れているので、そちらに気を配っている。探索だけ考えればいいわけではない。その点、身近な変化にはソフィアが気付いてくれる。

 視線を下に向けると、石で舗装された平坦な通路に、何か光を反射するものが見えた。


「これは」


 通路はそんなに広くない。うっかり水中に身を投げることのないよう、ゆっくりと腰を下ろした。

 ガラスの破片だったら怪我するかも、と思って慎重に指を伸ばす。


「氷?」


 こんなところに、氷。

 確かに肌寒くはあるが、地下深くにある場所なので、この通り周囲の水も液体のままだ。地上の方がよっぽど寒いだろう。

 つまり、氷をここに落とした奴がいる。


「まだ何かいるかもしれない」


 そう言うと、俺は剣を抜いた。

 少し進むと、また光を照り返す小さな破片が通路に転がっていた。


「むっ」

「何か見つけましたか?」

「見たくもないものが……」

「えっ?」

「あれを」


 貯水池の水面に、何かが浮いている。黒い塊だ。食卓を飾る大皿にするには、少々不恰好なモノが。


「え……ひぇっ?」

「この上の階層で見つけた、巨大ゴキブリ……の死骸だな」


 どうも彼女は、虫が苦手らしい。

 無理もないか。聖都は北の果て。害虫まみれの生活なんて、経験したことがない。無論、システィン家の厨房にもゴキブリくらいいるだろうし、あの中庭の庭園にも虫がついていそうだが、目立つものがあっても、きっと彼女が散歩する前に除去されていたのだろう。

 もっとも、巨大ゴキブリが、あの腹の部分を上にしてプカプカ浮いているのは……正直、飲食店の勤務経験が長い俺にとっても、まったくもって気持ち悪かった。


 それより、注目すべき点がある。

 そのゴキブリ、透明な輝きを伴っていた。つまり、貯水池に落ちる前に氷結していたのだ。


 俺は立ち止まった。頭を整理する。

 これは多くの情報を含んでいる。まず、言えるのは「何かがゴキブリを攻撃した」ということ。それから、その「何かは移動している」、そして更にその「何かはゴキブリの捕食者ではない」、つまり「自衛のため」に行動した。


 ここは自然に氷ができるほど、寒くない。この世界に製氷機なんてないから……とはいえ、この常識外れの迷宮にないという保証はないが……自然に考えれば、水魔術か、それに相当する何かの神通力によるものだろう。

 氷をぶつける何かの罠とか、固定砲台があると考えるには、無理がある。だとしたら、こんな広範囲に氷が散らばっているはずはない。これが移動しているという根拠。

 ゴキブリを食べるために狩っているのなら、あんな風に貯水池に置き去りにはしない。

 とすると、その何者かは、ゴキブリに攻撃されるような状況にあった、と言える。


 この迷宮では、ゴキブリは決して強者ではない。ミノタウロスが蜘蛛を狩るが、その蜘蛛が捕食しているのがゴキブリだ。死肉を漁るスライムよりも、更に下かもしれない。

 そんな弱者が群がるということは、そいつは実際に弱いか、弱っているか、そう見えるかのいずれかだ。しかし、氷を実体化できるほどの術者が「弱い」はずもない。


「探そう」

「えっ」

「まさかとは思うが、俺達以外にも、ここに紛れ込んだのがいる」


 例によって、忍者どもに突き落とされたのかもしれないが。

 そうでなかったとしたら、その価値は計り知れない。虫が作った穴からここまでやってきたのかもしれないからだ。その場合には、労力もコストも度外視で、その人を支援するべきだ。助け合って、大急ぎで元の入口に向かうのだ。

 俺は歩調を速めた。


「ひっ!?」

「こいつは……たまげたな」


 無差別攻撃か。

 溜め池に浮かんでいたのは、ゴキブリの死体だけではなかった。群がるゴキブリに引き寄せられた灰色の蜘蛛が一匹、腹を上に向けて浮かんでいる。それに加えて、グレムリンも一匹、こちらは背中だけが水面に見える状態で漂っていた。恐らく、戦闘の際の物音を聞きつけて、確認しにきたのだろう。

 こうなると時間がない。急がないと、グレムリンどもに先を越される。

 ただ、注意したいのは、この術者が俺達の味方である保証はないという点、そしてもう一つ、この暗がりでは、いきなり攻撃を浴びせられる可能性もあるということか。


 しかし……


 十字路の上から、周囲を見回す。足下には氷の欠片が散らばっているものの、四方の通路に壁はなく、見通しはいい。どこにも誰の影もない。もう、ここにはいないのか。


 しかし、なぜだ?


 引っかかる。俺がこの術者なら、こんな戦いはしない。

 もちろん、邪魔者は殺す。殺すが、それより逃げる。グレムリンまでやってきたという状況は、それだけ戦闘が長引いたということを示している。

 何か大きな問題があって、こういう選択をせざるを得なかった。


 どうも奇妙……


 その時、ザバッと水音がした。


「きゃあっ!」

「しまっ」


 何かの影が水中から、それこそイルカが跳躍するかのように、飛び出てきた。

 その一瞬でソフィアが捕まり、水面下に引きずり込まれた。かろうじて前方に身を投げ出した俺は、奇襲を避けられた。


「くそっ!」


 剣を左手に持ち替え、急いで詠唱する。

 右手が赤熱し、暗い赤色に染まる。照らされる範囲はごく狭い。


 ……時間が経てば、ソフィアは氷漬けか。いや、焦るな。

 まだ俺がいる。すぐにもう一度、襲ってくるはず……


 さっき、奴は左手から飛び上がり、右側の池に飛び込んだ。ソフィアを巻き込んで。

 なら、居場所はわかっている。そこの池の中から出てくる……


 次の動きは、なかなかなかった。

 どれだけ時間が過ぎたのかはわからない。一秒過ぎるごとに、ソフィアの命も遠ざかる。

 こちらの緊張の糸が切れるのを待っているのか。既に右手は白熱している。だが、火球をぶつけるつもりはない。運が悪いと爆風で俺まで水中に転落してしまうからだ。倒しきれなかった場合、火魔術も使えず、相手のステージに引きずり込まれることになる。


 なぜ、襲ってこない……待てよ?


 もしかすると。

 俺はふと、思いついて、わざとソフィアの落ちたほうに体を向けた。敵が「いるはず」の方向だ。


「ソフィア! どこだ!」


 あえて呼びかけてみる。

 さあ、こい。


 水音。背後に。

 俺は横っ跳びに避けた。


 すぐさま右手をかざす。そこから炎の柱が噴き出した。


「あぅあっ!」


 女の悲鳴。

 その瞬間、間近な炎がそいつの姿を浮かび上がらせた。


 こいつは……


 ドボン、と水に落ちる音がした。

 だがもう、逃がしはしない。


 聞こえるはずだ。いや、聞こえるまで、名前を呼ぶ。

 俺の目的は、こいつを殺すことではない。ソフィアを取り戻すことだ。


「マルトゥラターレ!」


 剣を鞘に戻す。

 なぜジェゴスの秘密の愛人だったマルトゥラターレがこんな場所にいるのか、理由はわからない。想像はつくが……

 思った通りであればだが、交渉の余地はある。


「マルトゥラターレ! ソフィアを返せ! そうすれば殺さない! 聞こえるか!」


 だが、交渉に応じないなら、殺す。

 彼女が攻撃を仕掛けてきた理由は不明だ。それでも、同行者を殺害されてまで話し合いをするつもりはない。


 ややあって、近くの水面に頭が出てきた。

 水色の髪が濡れて、頭に貼り付いている。手元の薄暗い炎に照らされて、尖った耳の影がやけに目立った。


「出てきたか」


 間違いない。

 一度見たきりだが、確かにマルトゥラターレだった。


「ソフィアを返せ。危害は加えない」


 彼女は、声のしたほう、俺の口元をまじまじと見た。


「早くしろ! 死んだら許さん」


 催促されると、彼女はまた水中に没した。

 ほどなく、ぐったりしたソフィアが水の中から引き上げられてきた。

 ひどい状態だ。時間にして一分程度か。しかし、下半身は溶けかけた氷の繭にうっすら包まれていたし、低温にさらされていたせいで、肌が死んだ血の色に染まっている。


「ソフィア!」


 声をかけるが、右手が燃えているので引っ張りあげるわけにはいかない。


「お、おい、ここに上げろ。今、掴めない!」


 視力を失っているというのは本当らしく、マルトゥラターレは軽く泳いで壁に触れ、それからソフィアを壁に押し付けた。俺は残った左手で彼女を引っ張り上げる。

 いきなりの襲撃で、すっかりソフィアは弱っていた。急激に体を冷やされたのもあってか、なんとか薄目を開けている程度だった。寒いのだろうが、ガタガタ震える元気もない。意識はあるのか、混濁しているのか。


「しっかりしろ、もう大丈夫だ……おいっ」


 横向きに寝かせると、噎せながら水を吐き出した。

 何かが詰まって気道を塞いでしまいはしないか。少し心配したが、それはなさそうだった。ただ、全身が冷え切ってしまっている。


 だが、ソフィアには悪いが、まだマルトゥラターレへの警戒を解くわけにはいかない。


「どういうつもりだ。なぜ襲ってきた」


 彼女は相変わらず、水面から顔だけを出していた。その顔には、あのジェゴスの邸宅で見たのと同じ、死んだような表情を浮かべていた。

 俺の質問から、たっぷり間を空けて、やっと返事があった。


「……まだ、死ぬわけには……いかない」

「なんだと?」

「私は、殺されるつもりは……」


 声に生気がない。

 前もそうだったが、今は余計にそうだ。


 そのまま、泳いでゆっくりと遠ざかろうとする。

 そうか。


「待て! 俺達はお前を追ってきたんじゃない! ここに突き落とされてきたんだ!」


 マルトゥラターレは、俺達人間を敵視している。当然だ。大昔に捕まってから、散々な目に遭ってきたのだろうから。視力を奪われ、暴力を振るわれ、性的にも弄ばれて、それで恨まずにいられるはずがない。

 だが、それは俺がやったことじゃない。もちろん、ソフィアも関係ない。逆に、こちらがされたことへの仕返しをするつもりもない。


 この迷宮で、言葉が通じる相手というだけでも貴重なのだ。

 そして、こいつはどうやってここに入り込んだのか。せめて情報だけでも欲しかった。


 俺の呼びかけに、彼女は少し迷いながらも、その場に留まってくれた。


「どうしてここにいる」

「……同じ」

「落とされてきたのか。どこから?」


 すると、彼女は黙ってある方向を指差した。

 暗くてよく見えないが、多分、あの銀のチューブがあるのだろう。

 予想通りだ。ジェゴスは彼女を廃棄した。それはつまり、地上で何かが起きたことを意味する。そして引き取り手が見つからなかった以上、証拠の残らないゴミ箱があるのに、使わない手はない。


「うっ……ふぅぅ」


 足下から、苦しげな吐息が聞こえた。


「ちっ」


 両手が使えないと始まらない。

 いったん右手の火魔術を解除した。


「ソフィア、しっかりしろ」


 そうして、俺は彼女の服に手をかけた。濡れたままでは体温が下がる一方だ。

 しかし、意図に気づいたソフィアは、慌てて服の袷をしっかりと押さえ込んだ。


「は、離せ! 冷え切ってるんだぞ! 濡れた服は脱げ!」

「……い、け……」


 よく聞き取れなかったが、言われなくてもわかっている。

 男、それも父親などの血縁者でもなく、婚約者でもない男性に肌を見せ、触れさせるなど、セリパス教徒の女性からすれば論外だ。非常時でもあり、服越しに触れるのは許容してきたようだが、さすがにこれは。

 実際には、俺にやましい気持ちなどないし、ソフィア自身、これが必要な行為だと理解もできているのだが、それでもやっていることは事実上の強姦である。操を穢されるくらいなら死ぬ。それが彼女と彼女の生きる世界の価値観だ。


「くっ……おい! 手伝……手伝ってくれ! 女じゃないと駄目だ!」


 右手の火が消えたので、視界がない。だが、近くにマルトゥラターレがいるであろうとは感じていた。

 とはいえ、あまり期待はしていなかった。人間を憎む理由に事欠かない彼女だ。むしろ、攻撃してくるのでは。

 そんな切羽詰まった俺の気持ちとはまるで無関係に、軽やかな水音がしたかと思うと、続いて床が水滴を弾き返すのが聞こえた。


「助かる。頼む、任せるから、俺には見えないように……」

「脱がさなければいい」

「いっ?」

「温める準備をしたほうがいい」


 マルトゥラターレは淡々とそう言った。

 脱がさずに服の上から? 火で温めるとか? 疑問には思ったが、一歩下がって詠唱を始める。すぐ右手に赤い輝きが宿る。

 その僅かな光の中で、見てしまった。


 手探りでソフィアの頬に触れるマルトゥラターレ。その指が髪に、肌に、襟元に触れるたび、水滴が自分から彼女の手に吸い付いていく。やがてゼリーのように纏わりつく水に、その手が覆われてしまった。

 すると彼女は、さっと手を横に向ける。下にあるのは貯水池だ。するりと手についたゼリーは滑り落ち、水音を立てた。いつの間にかそれは、元通りの水に戻っていた。


 水魔術だろうか。しかし、なんと鮮やかな手並みだろう。

 そういえば、詠唱すら聞こえなかった。その調子で、彼女はソフィアの体に服の上から触れた。内側の水分まで、やすやすと吸いだしては、プールに捨てていった。残ったのは、体の冷えだけだった。


 いつの間にか見とれてしまっていたが、一通り、ソフィアの全身に纏わりついていた水気を吸い取った後、マルトゥラターレは彼女を抱き起こし、俺のほうを向かせた。

 そうだ、温めなくては。


 白熱した右手の指先を石畳の一点に押し付け、短く詠唱する。

 それで魔術の炎が燃え上がり、周囲を熱した。徐々にソフィアの顔色に生気が戻ってくる。


 ほっと一安心して、俺は息をついた。どうやら、マルトゥラターレには、今のところ俺達に対する敵意がない。

 しかし、意外な気もした。憎しみというのは、忘れがたい感情だ。言うなれば、白い布の上の染みのようなものだ。その汚れはどうしたって目に付く上に、時間が経つと、だんだん周囲にも広がっていく。ちょうど、最初は仇一人だけを恨んでいたのが、そのうちそいつの家族友人全員が憎くなるようなものだ。しかも、その怒りは決して薄まらない。

 つまり、最初に彼女が俺とソフィアを攻撃した理由が「追跡者を振り切るため」「身を守るため」であったとして。しかし、俺達には彼女を殺したり捕縛したりする意図はなかった。要するに、彼女の攻撃は必要なかったわけだが、だからといって、もののついでに俺達が死んだとしても、心を痛める理由にはなり得ない。いや、憎い人間を殺せたのだから、ちょっとした楽しみにすらなり得たはずだ。

 自分で加えた危害とはいえ、なぜ手を貸してくれたのだろう。


「ありがとう、助かった」


 それでも、俺はお礼を言った。

 釈然としない思いはある。こちらはいきなり殺されかけたのだ。しかし、今はまずい。


 ここは彼女に有利な場所だ。水魔術の使い手が、豊富な水に囲まれている。いつでも火を消せてしまうのだ。よって火魔術で対抗するのは難しい。

 では、身体操作魔術で戦う? 筋力だけ高めても意味はない。この状況で最も役立つのは『鋭敏感覚』だろう。しかし、実は身体操作魔術には、暗視能力を得る術がない。あるかもしれないが、知っている限りでは存在しない。つまり、物音だけを頼りに剣を振り回すことになる。相手の位置が正確に掴めない以上、『四肢麻痺』などの術もなかなか命中しない。また、同様の理由でピアシング・ハンドも使いにくい。

 なので、俺にとっては非常にやりにくいのだが、彼女にとっては違う。最初から視力がないマルトゥラターレは、それこそ百年くらい、物音だけで状況を察知して暮らしてきた。この差は小さくない。

 おまけに、もし不利を悟った場合、彼女の側はいつでも逃走できる。水の底に引き返せば、俺達は追跡できない。水中呼吸なる能力があるらしいから、彼女は溺れない。その上、そこから自由に反撃もできる。


 この貯水池、通路は格子状になっているが、どうもその下では繋がっているらしい。さっき、なかなか二度目の攻撃を仕掛けてこなかったので、もしやと思ったのだ。わざわざ叫んで見せたのは、俺の位置と、向いている方向を知らせて、誘い込むためだった。

 この場所、マルトゥラターレにとっては圧倒的に有利なはずなのに、戦いぶりがやけに慎重だった。それはそうだ。彼女には、水魔術以外の手札がほぼない。それだけは達人級だが、もしかすると戦い慣れておらず、自信もなかったのではないかと推測できた。

 だから、俺が充分に警戒しているうちは、襲いかかることができずにいたのだ。必ず不意討ち、または背後を取る。そう決めていたのだろう。


「ファル、ス様」


 ソフィアは、のろのろと首を後ろに回した。


「この方が、私を襲ったのに、どうし……はぁっ!?」


 言い終える前に、ソフィアは目を丸くして硬直した。


「あっ! あああ、あじ、あじん」

「ソフィア」

「ファルス様、危険です、こ、ここ、これは」

「落ち着け。もう襲ってきたりはしない」


 どうだかな、と内心では思っているが。

 まだ、彼女が友好的になった理由がわからない。


「……なぜ」


 ポツリとマルトゥラターレが尋ねた。


「あなたは私の名前を知っていた?」


 何かと思えば。

 しまったな。必死すぎてうっかりしていた。


「ジェゴスが呼んでいたじゃないか」

「あの人は、マルトゥラとしか、あの場では言わなかった」

「ああ、あの後、教えてもらったんだ。名前を。マルトゥラターレ・スヴァーパだったっけ? そう言ってたよ」


 これでごまかせればいいが。

 俺の顔色を観察されないで済むのは助かる。


 俺の言葉に、彼女は見えない目を見開いた。だが、すぐに無表情に戻った。


「……そう」


 胸を撫で下ろす。どうやら切り抜けられたようだ。

 俺は慌てる気持ちに押されるようにして、質問を返した。


「それより、こちらも尋ねていいかな」

「ええ」

「なぜ、こちらを襲うのをやめた? ソフィアを……ああ、その子のことだが、見捨てずに助けることにした?」


 少しの沈黙の後、彼女は静かに言った。


「……庇ったから」

「えっ?」

「あなただとわかったから。ジェゴスの屋敷で、あなたは私を庇おうとした。それがわかったから」


 俺は、少し記憶の引き出しを開けてみた。


「俺はそんなことはしていない。ジェゴスに危険だとは言った。亜人は異能を備えていると」

「そういう理由をつけただけ」


 見えもしないのに、彼女は俺を見据えて言った。


「なら、手を差し伸べたりはしない」


 物を映さないその瞳は、俺の心を見透かしているかのようだった。

 そうだ。俺は彼の下品な振る舞いに嫌悪感を抱いていた。人前でスカートをからげさせたり、平手打ちを浴びせたり……ただ、それに異を唱えることができる場所ではなかった。

 それでほぼ反射的に、倒れていた彼女に手を貸した。そういう心の動きを、マルトゥラターレはちゃんと捉えていたのだ。


「ソフィア」

「はい」

「マルトゥラターレはもう、敵じゃない。さっき、火魔術で傷をつけてしまった。手当を頼めるか」


 言われて彼女は、もう一度後ろを振り向き、マルトゥラターレの耳を確認した。

 それから振り返って、低い声で返事をした。


「はい」

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