彼女にとっての奇跡
離れたところから、水音が聞こえる。ちょろちょろと流れ続けるその音が、耳障りで仕方なかった。
ここはどういう場所だろう。途切れがちな思考の中で、ぼんやりと考える。グレムリンどもに追い立てられた、あの俺が最初に辿り着いた階層より、一つ下。手近な階段から駆け降りた先が、ここだった。
天井は高いが、通路は狭い。さっきのグレムリン程度の大きさなら何ら不便なく通れそうだが、ミノタウロスは無理だろう。そして、両脇には無数の部屋があった。ただ、その構造は独特だった。
分厚い金属の扉があり、しかも二重になっている。つまり、俺が今、寝転がっている空間に至るためには、通路側から最初の扉を開け、間の小部屋を通って、更にもう一つの扉を開けなければいけない。
他に出口らしきものはないが、部屋の中には外から物を持ち込むためのギミックがいろいろあったようだ。例えば、扉と反対側の壁に沿って、溝が掘られている。どう見ても水を流すためのものだ。しかも、そこから虫けら一匹通すまいと、隣の部屋からの水路の継ぎ目には、きっちりと金属製の網が取り付けられている。もっとも、それが目詰まりしているらしく、今は水など流れてきていないのだが。
この溝の上、壁際には、いくつか金属の筒が突き出ている。通気孔だろうか?
頭上には、薄暗い照明があり、こちらは今でも機能している。もっとも、部屋によっては完全に壊れていたりもするようだが。
何かを閉じ込めるための場所。それは間違いない。なぜなら、閂が通路側にあったからだ。もっとも、勝手に開閉されては困るらしく、外側の扉には錠前もついている。いくつかの部屋は、施錠されたままの状態だった。
もっとマシな場所に隠れたかったが、これといった部屋がなかった。どれもこれも似たような作りだったからだ。ただ、ここは内側の扉が壊れていて、外側も閂の部分が外れてしまっている。袋のネズミではあるものの、力ずくで突破すれば逃げられる。
もっとも、その余力がどれほどあるか……
「う、うう、うう」
騒いではいけないことくらい、わかっている。
それでも涙をこらえられないらしい。
「済みません、済みません、役立たずで」
「あ……あぁ、い……い……」
声がかすれる。
力を絞りつくした結果だ。
ソフィアは、片足をひどく捻挫したらしい。痛みもかなりのものらしく、ほとんど歩けない。
あとは全身、あちこちに打撲くらいはあるのだろうが、とりたてて致命的なものではない。
問題は俺だった。
これまでの人生で、何度も死にかけている。その経験から、なんとなくわかってしまう。
アルジャラードの尻尾の一撃。まともに受けていたら、それこそ腹から背骨まで、一撃で貫通して終わりだったろう。或いは体が上下に千切れてしまっていたかもしれない。そういった最悪の事態は免れたものの、ちょっとかすっただけで、それこそ交通事故にでも遭ったかのようなダメージが残ったようだ。
恐らくだが、内臓がやられている。前世でもよくある話だったが、自動車事故を起こした人がシートベルトをつけていて、ぶつけた直後はピンピンしていたのに、家に帰ってから倒れたりとか。瞬間的に強く圧迫されたせいで臓器が傷つき、出血や炎症が起きてしまう。そうして腸が壊死したりして、結果、本人も死んでしまう。
腹痛の他、軽い吐き気も始まっている。出血点がどこなのかわからないが、口元にもまだ生臭さが残っている。
このままでは。
しかし、ピアシング・ハンドを最後に使用してから、まだ一日は過ぎていないだろう。肉体の乗り換えはできない。
ここまで予想できていれば、せめてその辺の魔物の肉体を取り置きしておいたものを。とはいえ、後から考えても、意味はない。
早急な治療が望まれるが……
「私に、もう少し力があれば」
レベル1の治癒魔術、触媒もなしでは、効果もへったくれもない。
薬も、すべてあの背負い袋の中に入っていた。手元に残っているのは、このミスリル製の剣と、ポーチの中の品々だけだ。
本当に、力尽きた。
無茶な魔術の行使のせいで、最後に残っていた体力も使い果たしてしまった。もし今、グレムリンが追いかけてきたら。一匹しかいなくても、追い払うことさえできないだろう。
となると、選択肢はもう、一つしかない。
俺の意識を苛んでいた、あの黒い霧のような悪意は、今は随分と薄らいでいる。
おかげで、全身の苦痛にもかかわらず、割と明瞭な思考が可能になっていた。
今の俺の状態は……
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(自分自身) (12)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力
(ランク6)
・アビリティ マナ・コア・火の魔力
(ランク4)
・マテリアル プルシャ・フォーム
(ランク9+、男性、10歳、アクティブ)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル ルイン語 4レベル
・スキル 身体操作魔術 7レベル
・スキル 火魔術 7レベル
・スキル 料理 6レベル
・スキル 剣術 8レベル
・スキル 格闘術 5レベル
・スキル 治癒魔術 7レベル
空き(1)
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治癒魔術が、手元にあるのだ。
これをソフィアに移し変え、もう一度、治療を試みてもらう。触媒はないが、これだけレベルが高ければ、何らかの改善を期待できる。
今まで、それを躊躇っていた理由だが、いくつもある。
一つ。俺の秘密を知られかねない。ただの少女が、いきなり何十年もの修行に相当するだけの技量を身につけるのだ。口止めしたところで、俺がずっと傍で見張るなどできない。
二つ。彼女は脆い。簡単に死ぬ。守りきれなかった場合、せっかくアイドゥスから入手したこの能力が、無になってしまう。治癒魔術の稀少性を考えると、うっかりなくしてしまうわけにはいかない。
三つ。それだけのリスクを冒すのにもかかわらず、能力が未知数であること。触媒なしで、いったいどこまで効き目があるのだろうか。
これに加えて、あとで能力を回収する件とか、例の謎の嫌悪感とか、諸々の事情があった。
しかし、今は四の五の言っている場合ではない。
「女神様」
手を組み、膝をついたまま、ソフィアは祈り始めた。
「なぜでしょうか。どうしてお見捨てになるのですか」
俺にとっては、当たり前すぎること。
だが、彼女には受け入れられない。
「見捨てまいと手を差し伸べる者を、なぜ虐げられるのですか」
俺のことか、と思ったが、それだけではなかった。
アイドゥスだ。彼は、自分の目の届く限り、いつでも一番の弱者に心を向けていた。その結果が火刑だった。
女神は、介入しなかった。彼の善行には見向きもせず、死んでいくにまかせた。
「かようにも正しくあることは、難いのでしょうか」
それは「その通り」だ。
善人として生まれ、善人として生き、善人として死んでいく。そんな理想的な人生は、なかなか得られるものではない。
本人の努力だけでは、どうにもならない。貧しいスラムに生まれ、周囲がみんな犯罪者か、麻薬中毒者で、盗まなければ生きていけない環境で……そういう境遇に生まれた人間が、自分の力だけで善人になれるだろうか。
しかも、まっとうな環境に生まれたからといって、レールからこぼれ落ちない保証もない。誘惑も、突然の不運も、予想の外から姿を現す。そうやって道から外れたらもう、やり直す機会などないのが普通だ。
「女神様、私は愚かで、罪深い娘でございました」
けれども、ここだけは褒めてやりたい。
一番手に負えないのは、自分を善人だと信じている馬鹿者なのだから。善を追い求める者は、常に畏れる。
神が見守ってくれているから大丈夫だ、というのは、半分嘘だ。周囲の人にはそう言うのが正解だ。なぜなら、それで人々は安心するから。しかし、自分自身に向けていい言葉ではない。常に見られているということは、いつなんどきたりとも、過ちに踏み込んではならないという厳しさを伴っている。
「けれども、けれども」
身を折り、苦しみを吐き出しながら、彼女は何もない空に向かって訴え続ける。
「たとえ今日この日に息絶える身の上だとしても。せめて最後に一度だけでも、善を為すことをお許しください。女神様、せめて……」
そこから先は、声がかすれて言葉にならなかった。
奇跡など、ない。
祈っても嘆いても、女神は手を差し伸べない。この、冷たい石の牢獄の中では、特にそうだ。
何より大切なもの、最後の願いすら、運命は容易く踏みにじる。傷つけば傷ついただけ、そこに塩さえ擦り込まれる。この世界はそんな風にできている。それは、誰より俺がよく知っていることだ。
だから……だからこそ、許せない。
こんな世界、認めてたまるか。
長い沈黙の後。
俺は声を絞り出した。
「も……」
「ファルス様!」
「もう……一度……」
これ以上、言葉が出なかった。
それでも、ソフィアは理解した。何もしなければ、多分俺が死ぬ。なら、やるしかないのだと。
目を見開く。これまでにない、強い光が宿っていた。
両の掌で円を作ってそっと添え、静かに詠唱を始める。その声色に澱みはなく、斉整として、しかも力強くさえあった。
やがて、青白い光がその手に宿り始める。
むず痒いような、それでいてどこか心地よい、奇妙な感覚が体の中を駆け抜ける。
長いようで、短いような。
どれほどの時間が経ったかはわからない。やがて光は収まった。
全身の傷が治りきったわけではない。だが、手の届かない体の奥にあった苦痛は、取り除かれていた。引き攣っていた腹部も、今は安らかだ。じんわりとした温もり、血の巡りを感じる。
俺の横で、ソフィアは信じられないというような顔をしていた。
女神への感謝の祈りさえ忘れていた。自分の手を見つめ、今起きた出来事を反芻するだけで、精一杯のようだった。
これでいい。
所詮、もらい物の力だ。それに俺の秘密も守られた。
そして彼女は今、女神の奇跡を目の当たりにしたのだ。
俺とソフィアが再び動き出したのは、この数時間後のことだった。
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