闇の中に燃える

 よろめきながら歩く。体中が軋んでいる感じがする。たった一発、それもかすっただけで。

 きっと全身、打撲に擦り傷だらけだ。口の中に生臭さが残り続けている。どこかから出血が続いている証拠だ。


「肩を」


 よっぽどひどい状態に見えるのか。見えるどころか、実際にそうなのだろうが。

 だが、俺はソフィアの気遣いを身振りで断った。彼女には、光を点すという大事な仕事がある。それだって体力を要するのだ。第一、ソフィア自身、無傷ではない。さっきの転倒で捻挫でもしたのだろうか。


「ここは、大丈夫でしょうか」


 彼女は、暗い大広間より下の階層に降りたことがない。だから、うろつきまわる青いゴブリン……彼女が言うところのグレムリンがどれほど危険か、実際に襲ってくるのかどうかを判断できない。

 安全ではないか、というのが俺の判断だった。ミノタウロスは最初から襲いかかってきた。アルジャラードもそうだ。グレムリンは違う。俺を見ても興味を示さなかったし、警戒して身構える様子もなかった。なら、やり過ごせるのではないか。


 だが、返事をしてやりたくても、口の中は血の混じった痰でいっぱいだ。


 どこまで引き下がればいいのだろう。とにかく追っ手がかからない場所。いっそ、ここのもう一つ下、あのゴキブリの涌くあたりに腰を据えようか。あの階層には、ほとんど何もいなかった。弱った俺達を見たら襲おうとするかもしれないが、それでもあいつらを焼くくらいなら、今でもできる。

 傷の程度は、どれくらいだろうか。表面の擦り傷はそのうち何とかなるとして。背負い袋の中には、少しだけ傷薬がある。といっても、ゲームの世界ではないのだから、塗りつければハイ治りました、とはいかない。それでも、傷口の化膿を抑える役には立ってくれる。

 だが、もし骨折とか、内臓の挫傷なんかがあったりすると、もうお手上げだ。他にも、筋肉や靭帯が切れたり、捩れたりすると。


 横を見る。さっきの階段で、ソフィアも少なからず負傷したようだ。歩き方がおかしい。やっぱり片足を引き摺っているように見える。

 やはり、どこかで落ち着かなければ。このままでは、長くはもたない。


 暗がりから、ペタペタという軽い足音が聞こえてくる。軽い警戒心が呼び起こされた。


 ああ、これはグレムリンの足音だ、なら安全……

 のんびりしていたあいつらが走っている、まさか俺達を追跡……


 ピン、と意識が覚醒した。

 何を呆けていたんだ。攻撃される「かもしれない」なら、身を守らなくては。


 間近に迫った足音が、急に止まる。

 ソフィアの光が届く数メートル先。うっすらと小人達のシルエットが浮かび上がる。歪な後頭部、寒気を催す藍色の肌。そして、眼球の見えない虚ろな目。


「ひっ」


 ソフィアは恐れて足を止める。

 俺も立ち止まった。


「ギィギ」

「ギビッ」


 何事かを話し合っているようだが……


「ギィー」


 一匹、いや一人が、ソフィアを指差した。そして、剣を構え始める。


「ええっ」


 なぜ自分が、と彼女は戸惑い始めた。俺は黙って剣を抜く。だが、まだ飛びかかったりはしない。というより、そんな体力がないからだが、目力だけは強く保つ。もし俺達と戦えば、無傷では済まないぞ、というメッセージだ。

 すると、グレムリンの中の一匹が、俺に向かってジェスチャーを始めた。左手をパッと広げ、また握り、それを繰り返す。その左拳を右手で隠す。なんだ?


 剣は向けているものの、彼らは襲いかかってはこない。そして、真ん中の一匹がずっとそれを繰り返しては、俺の顔色を窺っている。その横に立つグレムリンは、何事か喚きながら、ひたすら非難がましくソフィアを指差している。

 もしかして……


 俺は、意図的に一歩を踏み出し、ソフィアの前に立った。光を遮るために。

 すると、グレムリン達は大きな身振りで頷き始めた。


 確か、こいつらの能力は……


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 ケボホンガン (32)


・マテリアル ミュータント・フォーム

 (ランク5、男性、14歳)

・アビリティ 高速成長

・アビリティ 降伏者の血脈

・アビリティ 機構操作

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 無光源強化

・アビリティ マナ・コア・風の魔力

 (ランク4)

・マテリアル 神通力・念動

 (ランク3)

・スキル ルー語     3レベル

・スキル アブ・クラン語 5レベル

・スキル 鍛冶      5レベル

・スキル 剣術      4レベル

・スキル 風魔術     4レベル

・スキル 軽業      4レベル

・スキル 隠密      4レベル

・スキル 罠       3レベル


 空き(27)

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 無光源強化。これが何を意味するか。

 正確なところはわからない。ただ、光源がなければ、恐らく能力が強化される。言い換えると、光を嫌うということが考えられる。


「ソフィア」

「はい」

「グレムリンは、光を嫌うのか?」

「ええと……闇の中にしかいない、とは書いてあったかと思います」


 つまり、灯りを消してくれ、と言っている。この照明がどれだけ彼らにとって不快なのかはわからないが、武器を構えなければいけないくらい、嫌なものだということらしい。

 なら……


「光魔術を解除してくれ」

「ええっ」

「こいつらは、そう言っているみたいだ」

「で、ですが」

「わかってる。いざとなったら、またすぐ頼む。俺が剣を鞘に戻して、両手をあげたら、三秒待って消してくれ」


 そう言ってから、俺は剣を納めた。そして、片手をあげて戦う意志がないことを示す。すると彼らも、剣を下ろした。だが、代わりに後ろのソフィアを指差しては騒ぎ出す。

 俺は両腕をあげた。


 一、二、三……


「キッキー」

「ギィ」


 照明が消えた瞬間、またペタペタという足音が近付いてくる。

 一瞬の逡巡の後、俺は剣を抜き放っていた。


「つけろ!」


 手応えあり。振り抜いた剣は、受け止められていた。想像以上の力強さで。

 これで判断は間違いない。

 だいたい、武器を向けるほど緊張があったのに、灯りを消した瞬間にいきなり距離を詰めるなんて。まさかハグしにきたわけでもなかろうに。


 確定だ。こいつらは、敵にまわった。

 しかし、相手にはこちらが見えるのに、こちらは何も見えない。いかにも不利だ。


 勘だけで動き回る。横薙ぎに剣を振るえば、すぐには近寄れまい。間合いに大差はないし、ずっと続けられるやり口でもないが、今はこれで時間を稼ぐ。


「グブォア!」


 というつもりだったが、それは甘かったようだ。

 いきなりのボディーブロー。体がくの字に折れる。なんだ? 誰がいったい。


 耳が、かすかな音を聞きつける。

 まさか。


「避け……ぐあっ!」

「ギッキィ」


 風魔術だ。昔、イフロースが使っていたのと同じ、空気の拳。しかし、これが思いの他、強烈だった。何発も喰らったら、立てなくなりそうだ。

 くそっ、ダメだ。俺が避けてはいけない。こいつらが狙っているのは、後ろのソフィアだ。もう一度灯りを点すのを妨害しなければならないから。


 パッ、と明るくなる。


「つきました!」

「よぉし!」


 俺は、ない力を振り絞って、グレムリンどもの中に身を躍らせた。


「フギィ!」

「ギィア!」


 なんと、戦意に乏しい連中だこと。

 不利になったと悟るや、一目散に逃げていく。


 だが、助かった。ざっと見て、五匹はいた。あれ全部をきれいに倒しきるとなると、体力が続いたかどうか。


「あ、危なかったですね」

「悪かった。判断ミスだ」

「い、いいえ!」


 疑ってよかった。

 理屈はわからない。だが、想像ならつく。


 アルジャラードは、この地下の領域に君臨する支配者だ。そして、ミノタウロスもグレムリンも服従している。どんな感情を抱いているかまではわからない。とにかく逆らえない。

 俺が最初にここを通った時、攻撃される気配はまるでなかった。なぜか。ここが通行可能な場所とされているからだ。宮殿のあるフロアでは、ミノタウロスに襲撃された。或いは、排除される前に警告を受けた。あそこは通行禁止の場所なのだろう。

 そして、あの大ホール。あそこは最終関門だ。あれより上には、絶対に行ってはならない。だからこそ、アルジャラード自身がわざわざ出向いて、下に降りろと命令してきたのだ。


 アルジャラードの目的はなんだろう? 正確なところはわからない。だが、当面の目標なら理解できる。

 とにかく、この地下領域にいる何者をも、外に出さない。理由も事情も出自も、すべて関係ない。


「降りよう。もっと深いところに」


 今回は引き下がったが、こちらが弱りきっているのは、さすがにわかったはずだ。

 そのうちにまた、仕掛けてくる。隠れなければ。


 この先は、道筋がうろ覚えだ。区画がきれいに真四角になっているので、どこにアクセスするにも迷うということがない。一方で、目印らしいものもあまりなく、どこも同じような通路なので、見間違えやすい。

 だが、室内の品物には見覚えがある。


「薬の瓶……確か、ここで右」


 もう少しで、左に大木、まっすぐで武器の保管されているエリアに入る。そうすれば、あとはほぼ一本道で下の階層に行きつける。最後に一回左折で、コーザの白骨死体のある部屋を拝めるはずだ。


 ソフィアはなんとかついてきていた。だが、ふと見ると、随分と顔色が悪かった。

 俺はまだ、修羅場に慣れているからいい。つらくないわけではないが、苦痛に悶えるのも一度や二度ではなかった。だが、彼女にとってはほとんど初めての経験であるはずで、しかもその危険度たるや。

 俺にも余裕はないが、彼女も口をきく余裕などなかった。


 それでも幸運なことに、不思議なほど妨害はなかった。

 胸を撫で下ろしながら、俺達は先に進む。


 コーザの遺体のある部屋を右手に見ながら、俺達は階段を降りた。

 すぐ水音が聞こえる。この階層には、水路がいくつも走っていた。まっすぐ行けば、すぐ橋があるはずだ。その向こう側に、更なる下り階段がある、が……


「あ、あれっ」


 ソフィアの光魔術にもかかわらず、目の前が真っ暗なまま。

 ちょうど橋の上だ。


「……やられた」


 何もしてこないと思ったら。

 積み上げられているのは、ガラクタの山。金属の固まりもあれば、グチャグチャした生ゴミも、その他木材のように見える何かもある。それが山を成していて、通り道をすっかり塞いでいた。

 這い上がれば、通れなくはない。だが、こんなものを用意しておいて、黙って見過ごしてくれるなんて、あるわけがなかった。


 すぐ間近の上の階層から、左から、右から。数え切れないくらいの足音が響き渡る。


 俺は、脇に立つソフィアに振り返った。


「お、おい。急げ。這い上がるんだ」


 彼女の目からは、光が失われていた。


「何をしてるっ! 足音が聞こえないのか!」

「ファルス様」


 一度、二度、深呼吸。肩を震わせながら。

 目尻には涙が溜まっている。


「ここまでありがとうございました」

「なっ、なに」

「ピュリスに連れて行ってくださるというお話、嬉しかったです」


 涙をこぼしながら、口元だけ笑おうとして、顔が引き攣っている。


「私はもう、歩けません。まして、ここを這い上がるなんて」

「それでもやらなければ、死ぬだけだ」

「もっ、もしかしたら」


 息を詰まらせながら、ソフィアはなんとか言葉にした。


「私だけでもっ、捕まえれば、満足して引き上げてくれる、かも」


 生きる意欲がない、ということか。

 何かの熱が、すっと冷めていった。戦い抜く気がないのなら、知ったことか。


「勝手にしろ」

「はい、ありがとうございました」


 俺は背を向けた。

 彼女はその場にしゃがみこんだ。


 橋の手前に、藍色の影が蠢く。

 どこまで逃げ切れるか。後のことなど構ってなどいられない。急いでここを登って、降りなくては。体力がもつ限り、走って、隠れて……


「……ごめんなさい」


 小さな呟きが聞こえる。


「お父様、お母様、先立つ不孝な娘を、お許しください」


 そうだ。

 俺は生きなければいけない。なんとしても。どんなに見苦しくても。


「聖女様、行いの至らない私をお咎めなさいませんように。善良であることは、あまりに難しゅうございました」


 抵抗らしい抵抗が予期できないので、グレムリン達は徐々に警戒を解き始めた。

 ソフィアが光魔術を解除していないので、近寄るのを躊躇ってはいる。それでも、俺は背を向けて逃げようとしているし、彼女は跪いて祈っている。これを好機と思わない奴はいないだろう。


「女神様、もうすぐ裁きを受けに参ります。罪をお清めくださいますよう」


 馬鹿な奴だ。

 正義の女神が、聞いて呆れる。年端もいかない少女を追い詰めて、死なせるのが正義か。そんな世界を見過ごす奴なんかに祈って、何のご利益があるというんだ。

 死ぬ前に両親に謝っていた。やっぱり馬鹿だ。ここまでお前を苦しめたのは、いったい誰だ。


「せめて、せめて一度だけでも……う、ううっ……」


 身を折って、ソフィアは嗚咽を漏らした。


 ひたひたと、控えめな足音が背後に聞こえる。


「ギィ」

「ギヒヒッ」


 言葉はわからなくても、感情なら読み取れる。

 あれは笑っているのだ。獲物をいたぶって殺す時の、残忍な気持ちに浸る喜び。


 だからどうした。

 俺は生きる。


 生き延びなければ……


『生きてね』


 ふと、なぜか脳裏にあの瞬間が甦る。

 陽光の差しこむグルービーの居室。儚げな微笑を浮かべた、彼女の最期の姿。


 俺は……


『やらなきゃいけない、こと? ですか?』

『うん。探し物がね。だから、いつか世界中を歩き回らなきゃいけない』


 すべてを捨てた。

 情を捨て、義理を捨て、誇りも捨てて。永遠に眠るために、苦しみを終わらせるために。

 よく知りもしない私生児の少女一人、なんだというんだ。


『それって、そんなに大事なものなんですか?』

『僕は、そのためだけに生きている』


 そうだ。

 そのために。それだけのために……


『きっと、うまくいきませんよ』

『なんで?』

『ただの勘ですね。でも、悪い意味ではなくて……きっともっとずっといいものを……』


 手が震える。

 胸が熱い。

 体中の擦り傷が、燃え上がるようだ。


 なのに。力尽きたはずの体なのに、後から後から何かが溢れ出てくる。


「キィーッ」

「うっ、きゃっ」

「ギーア」


 何かが、弾けた。

 生きるってなんだ。何をすれば生きたことになるんだ。今の俺のどこが『生きている』んだ。


「うわああああ!」


 足下を見さえしなかった。高所から、考えもなしに飛び降りる。体ごと、ぶつかっていく。


「ギァ!」

「キッ」

「うおあああ!」


 引き抜いた剣を、滅茶苦茶に振り回す。

 今にも枯れ果てそうなこの体、この命で。


 一歩下がったグレムリン達は、それでも引き下がらず、距離を置いて切っ先を向けてくる。構うものか。

 剣を左手に持ち替え、大急ぎで詠唱する。手順をすっ飛ばせば、その分の負担は体にいく。だからなんだ。


 危険を察知した一匹が、剣を掲げて合図する。群れがこちらに殺到する。

 俺も前に出た。


「あああ!」


 掌に出現した火球。それを二メートルと離れていない群れの真ん中に叩き込む。

 一瞬、閃光が走った。

 気付くと、自分自身、爆風に吹き飛ばされて、バリケードのすぐ下に転がっていた。


 動けない。

 いや、動け。まだ指は動く。膝を曲げると痛い。痛いのなら、動けるはずだ。

 剣を杖に、立ち上がる。


 右手の火魔術は、無理な行使の影響で、また黒ずんできている。だが、もっと無理をする。

 念じ、詠唱する。また赤い光が宿り始める。


 後も先もない。

 もう一発。


 今度は距離をおいて、オレンジ色の火球が炸裂した。

 意志だけあっても、手順も余力もない。必然、威力は低い。それでも、数匹が巻き添えになって、水路に落ちた。


 駄目だ。

 これでは食い止められない。ならば……


 最後の力を振り絞って、俺は橋の手前に火を点した。途端にそれは燃え上がり、炎の壁となった。

 少しだけ。数分間でいい。

 けれども、ここまで無理をした。もう、しばらく魔術は使えそうにない。立っているだけで気が遠くなりそうだった。


 しゃがんでしまいたくなる。でも、今だけは。

 俺は、脇に座り込んだままのソフィアを見下ろした。


「……どうして」


 黙ってリュックを下ろした。両方は無理だから。


「きゃっ!? え、ええ?」


 人一人、かなりの重さだ。特に、今みたいな状態では。

 それでも、そうすると決めたのなら。


 もう一度、バリケードに手をかける。

 力が入らない。


「……畜生」


 喉の奥に何かが詰まった。

 吐き出す。なんてことはなかった。ただの血の塊だ。


「畜生」


 死ねない。まだ、死ねない。

 なら、どうすれば死ねる? 何を見つければ死を受け入れられる?


「畜生……」


 呻きながら。

 悶えながら。

 死にかけた虫けらのように、見苦しい姿をさらしながら。


 今更、人一人救って何になる? あれだけ殺しておいて。

 なぜ助けた? わかっている。よく知っている苦しみだったから。所詮は自分のことか。俺は、なんて小さい人間なんだろう。

 心の奥で、黒い炎が俺を呪う。


 燃え上がるような熱を感じながら、同時に世界は凍てついていた。

 底なしの暗闇の中に手を伸ばすたび、指先は冷たくなっていく。

 それでも、這い上がる。


 どんなに頑張っても、駄目かもしれない。

 救いなど、どこにもないのかもしれない。

 だとしても。


 絶対に。

 絶対に、俺は……


 諦めない。

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