地下の支配者

 宮殿の一角。

 正面と左に口が開いているが、あとは壁。身を隠すなら、左斜め前の角のところがいい。遠くから見ただけでは俺達がいるとはわからないし、ノコノコやってきた相手に奇襲をしかけることもできる。


 白い壁には、やはりというか、絵が飾ってあった。中央には剣らしきものを右手に、左手には丸い何かをぶら提げた女性のようなシルエットが見える。彼女を中心に、無数の人々の影が半円を形作って立ち並んでいる。そして地面には、王冠を被った誰かが突っ伏していた。首と胴体は、既に泣き別れになっていた。

 最初にギウナの絵を見た時には、セリパス教の歴史が描かれているのかと思ったが、その他を見る限り、まったく歴史上の出来事とは関係のないものが多い気がした。この女性にしても、聖女リントではないはずだ。彼女が直接、剣を手に戦ったという記録はないし、王と呼べる存在を討ったこともない。千五百年前には、セリパシア北部には王国など存在していなかったのだから。

 セリパシア帝国が初めて外国の王を屈服させたのは……プレッサンの講義を思い出す……五代ヨーセ帝の時代だったか。当時のサハリア西部にいた王もどきを倒したのが最初だ。次代の皇帝は、フォレスティアを従属国にしたが、王を殺してはいない。いずれにせよ、聖女の時代から百年くらいは経っている。

 ならば、これは何を意味するのか。事実ではなく、あくまでイメージか。戦ったのは当時の皇帝とその配下だが、勝利をもたらしたのはモーン・ナーへの信仰である、とか。しかし、それでは説明がつかない。あの、服を着たゴブリンの絵などはそれでいいが、では、あのまんまるなボディの魚とか、三つ目の全裸男の絵などは、どう説明するのか。


 こんなことを考える余裕があるのも、とりあえずは逃げ切れたからだ。

 あのミノタウロス、暗視能力をもつようだが、聴覚や嗅覚は人間並みらしい。見えなければ追跡できないのだ。おかげで今は、周囲を警戒しつつも、ちょっとした休憩時間になっている。


「ファルス様」


 ポツリとソフィアが呟く。

 俺は返事をする前に、左右を見回した。どちらの通路からも、ミノタウロスはやってきていない。


「どうしたらいいのでしょう」


 何をわかりきったことを。


「上を目指す」

「そんな、だって、あの」

「あの黒いのは、邪魔をするなら殺す」


 でなければ、俺達はこの穴倉の中で死んでいくしかない。それが嫌なら、戦う以外にないのだ。

 それは議論の余地のない、単純な事実であるはずだ。だが、思い出しただけで恐怖が甦ってきたのだろう。彼女は肩をすぼめた。


「無理です」

「無理かもな」


 ピアシング・ハンドで肉体を奪う。普通はそれだけで、どんな強敵も死ぬ。

 だが、あいつには通用しないかもしれない。何が奪えて、何が奪えないのか。俺はヘミュービを殺せなかった。いや、殺せたのかもしれないが、とにかくうまくいかなかった。ならば、アルジャラードも倒せないかもしれない。


「じゃあ、どうする。ここで暮らすのか」

「それは……」

「ここに留まるのも嫌、戦うのも怖い……話し合う? お願いして、許してもらう? さっきやった。結果があれだ」


 と言ってから、まだソフィアには理解できていないだろうことに思い至った。


「気をつけたほうがいい。あのバケモノ、とんでもない魔法を使う」

「魔法? ですか?」

「見えなかっただろう。あれは、目に見えない矢を飛ばす魔法だ。当たるとまず確実に死ぬ」

「ええっ!」


 恐怖に震えていた彼女だ。じっくり観察しろというのは無茶な話だろう。

 実際、その恐怖は正しい。あれだけの怪物を相手にする場合、どれだけの戦力があれば足りるのか。


 過去に出会った一流の戦士達を心に浮かべてみる。アネロス、キース、イフロース、マオ・フー、それにノーゼン……だが、彼らをまとめて奴にぶつけたとしても、予備情報でもない限り、無駄な死者が出る。凄腕の戦士は勘もいいから、そう簡単にはやられないし、一人が死ねばすぐ警戒はするだろうが。

 それより格の落ちる冒険者達ではどうか。話にならない。一方的に蹂躙されて終わりだ。逃げ帰ることができれば御の字。近衛兵の軍団一つを送り込んでも、しとめるのは難しい気がする。


 恐怖に頭の中が占領されてしまっているのだろう。小刻みに震えながら、ソフィアは独り言を漏らした。


「悪魔……」

「えっ?」

「ファルス様は、ご存じないですか。あれは伝説に語られる悪魔そのものです」


 悪魔。魔王の眷属。

 その姿はさまざまだが、例外なく人間離れした能力を備えており、見る者の精神を恐怖で染める。竜と並んで、この世界では最強の魔物の一種とされている。

 但し、竜のほうが世界の各地に散らばって居残っているのに対し、悪魔はほぼ目撃されなくなっている。一千年前の世界統一戦争の時期を最後に、滅ぼし尽くされたはずだった。


「だとしても、やるしかない」

「そんな」


 唇まで青紫色にして。そんなに恐ろしかったのか。無理もないが。


「できるわけがありません」

「じゃあ、どうすればいい」


 どんなに難しくても、やるしかない。

 理不尽な話だ。それでも。


「できても、できなくても、やるしかない。やらなければ、ここで死ぬ。それでいいのか」


 だが……


 ソフィアは俯いてしまった。

 そうだった。彼女は、生きる意味を失っている。この穴倉に監禁される生活から脱しても、お次は自宅に幽閉される暮らしが待っているのだ。


「俺は絶対にここを出る。こんなところでは死ねない」


 思い出す。

 イフロースが言っていた。不老不死を得るより、それを探し求める冒険のほうで早死にする確率のが高い、と。その通りだ。

 だとしても、俺は死ねない。死んではいけないのだ。もし死ぬのだとしても、こんなところでは。


「私は……」

「死んでいいってか? じゃあ訊くが、今までお前は何枚パンを食べた?」

「えっ」

「肉は? 野菜は? どれだけの命を奪ってきた?」

「そ、それは」

「俺は人殺しだ。たくさん殺して今がある。だが、俺だけか。お前だって誰だって、殺しまくって生きてるんじゃないか」


 一度、この世を呪う言葉を口にすると、もう止まれなかった。


「俺は外道だ。最低最悪のゴミクズだ。だけどそれなら、お前だって誰だってそうだ。どれだけきれいごとを口にしたって、俺達はみんな血塗れなんだ。それがただ、汚らしく生きて、汚らわしく死ぬしかないのか。それで、どうやって……」


 こみ上げる怒りに、俺は喉を詰まらせた。


「……出るぞ」

「えっ?」

「ここを出る。お前も連れ出す。こんなところで死ぬなんて、絶対に認めない」


 追跡は続いた。

 だが、宮殿の階層から更に下、ソフィアと出会ったがらんどうの広間に下りると、急に静かになった。隠れる場所もないから、ここに来たくはなかったのだが、探しに来ないのなら、かえって安全だ。

 上の階層より少し肌寒い。それでも、毛布を被れば仮眠くらいは取れる。


「起きろ」


 すぐ横で毛布に包まれ転がっていたソフィアの肩を揺らす。

 時計がないので、賭けにはなる。それでも、これだけ時間が経てば。これ以上眠れないくらい寝た。にしても、見張りも務まらないのか。交代制で何かあったら起こせと言ったのに、そのまま眠り込んでしまうとは。


「あっ……」

「いい。いきなり冒険者の真似事をしろと言われても、無理だったか」

「済みません」


 自分で自分がいやになる。

 言葉こそ寛大だが、俺の中に潜む原因不明の悪意が、口調に滲んでいる。それを彼女が敏感に受け取ってしまっていることもわかる。


 だが、その辛抱もあとちょっと。

 ピアシング・ハンドで奴を殺す。さすがにあれを越える怪物がまだまだいるとは思えない。


 宮殿の階層に上がってみたが、静まり返っていた。怪物といえども所詮は生き物、ミノタウロスどもとて、不眠不休で働けるわけではないらしい。

 うっすら記憶に残る道筋を辿って、上を目指す。


「さっきも説明したが、もう一度言う」

「はい」

「あの怪物を一撃で消し去れるかもしれない魔法を、俺が使う」

「は、はい」

「だが、失敗するかもしれない。そうなったら、走って下まで降りる。いいな?」

「はいっ」


 ピアシング・ハンドのことは話せないので、そう説明した。

 悪魔祓いの秘密の魔法、ということにしてある。いきなり肉体ごと消える超常現象を見せるので、心の準備をさせておかねばならない。

 なお、失敗した場合はどうするか? プランがないでもない。とにかく、生き延びさえすれば活路は見える。


 宮殿の階層をこっそり通り抜け、汚い死骸だらけの一角に入る。

 ふと、汚物まみれの銀色の箱が気になった。どうしてあそこに虫がたかっていたのだろう?


「あの? どうかしましたか?」


 ちょっとした興味だ。

 まるで前世の工業製品みたいに真四角だったから。回り込んで見てみる。


 銀色の箱の横には、穴が開いていた。その穴の下の部分、よく見るとベルトのようなものが……

 箱の表面には、何かのスイッチみたいなものがある。押してみた。何も起きなかった。壊れてしまっているのかもしれない。


「もしかして、これは」

「何かおわかりになったのですか」


 銀色の箱のすぐ後ろは壁だが、何かに繋がっているはずだ。その何かから供給されたもの。それがここの虫達には役立った。


「食糧供給装置、か」

「えっ」

「もう壊れているみたいだが」


 ここに迷い込んだ巨大ゴキブリが、何かの偶然でスイッチを押した。そうしたら、次から次へと食料が出てきた。自然と数が増えた。

 するとそこに、あの白い蜘蛛がやってきた。そいつらはゴキブリを餌に数を増やした。

 壁の崩落が虫達によるものか、それ以前からあったのかは不明だ。しかし、増えすぎた虫達は、出口を求めた。体格も大きく、力も強い彼らは、意図せず横穴を掘った。だがそれを誰かが見咎めた……


 その「誰か」が誰であるかは、もはや確認するまでもない。実際の後始末に動いたのは、ミノタウロスどもかもしれないが。

 アルジャラードは、どんな理由によるものかはわからないが、誰であってもここから出ることを許さない。


 階段を登る。扉を開けると、何時間か前に駆け抜けた、銀色のタイルがうっすらと光を照り返す。

 俺は自分の状態を確認した。


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳、アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 7レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 治癒魔術   7レベル


 空き(1)

------------------------------------------------------


 大丈夫、ちゃんと枠を空けてある。

 使えるはずだ。


「……行くぞ」

「はい」


 扉を開けた。

 何もなかった白い台座の上。瞬く間に、あの黒い影が降り立った。


 見えさえすれば、距離は関係ない。

 まずは、レッサーディバインコア。あれの奪取を試みる。


 その瞬間、奇妙な感覚が俺を包んだ。

 あの時と似ている。ヘミュービからディバインコアを奪い取ろうとしたのと、そっくりだ。高所から突き落とされるような不安が胸に広がる。

 だが、幻視した光景がまったく違った。


 途方もない広さの暗がり。そんな中に、小さな小さな白い四角形がある。俺は、遠くからそれを見つめている。

 四角形はどんどん小さく縮んでいく。狭い、狭い、あまりに狭い世界。あの中に閉じ込められる。

 これは監獄だ。何年も、何十年も、何百年も、いや、永遠に……ここに捕らわれ続ける。


「うぐっ!?」

「大丈夫ですか!」

「まだだ!」


 我に返る。

 既にアルジャラードは翼を広げ、こちらに接近し始めている。


 やっぱりディバインコアはダメか。

 だが、ヘミュービの時とは違う。ここでは吹雪が視界を奪うことはない。もう一度。

 今度は……プロヴィジョナルアストラル、こいつだ。肉体があるとするなら、これ以外にあるまい。


「消えろ!」


 今度は、手応えがあった。

 何かを奪い取る時に感じる、奇妙な浮遊感。いつもよりは強い。


 そして、ちょうど樹木の天辺、あの金属の三角帽子の近くに浮かんでいたアルジャラードは、フッと消えた。


「やった!」


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳、アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 7レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 治癒魔術   7レベル

・プロヴィジョナルアストラル


 空き(0)

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 主を失った巨大な斧が、その場で落下して三角帽子に弾かれる。そして遥か地下へと落ちていく。

 なんだ、なんてことなかった。

 一発で片付い……


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳、アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 7レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 治癒魔術   7レベル


 空き(1)

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「はぁっ!?」


 なんだ? 何が起きた?

 今、確かに奪ったのに。どうして枠が空いている?


「ファルス様! あ、悪魔が!」


 ソフィアの声に、俺は前を見た。

 翼を広げたアルジャラードが、あの三角帽子に掴まっている。急な衝撃に驚いたのか、体を預けたままだ。


 そんな……

 ピアシング・ハンドが効かない?


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 アルジャラード・ニザック・ナー  (1596)


・レッサーディバインコア

・ディーティ:ジェイラー

・プロヴィジョナルアストラル

・ユニークアビリティ エリアドミネーター

・ユニークアビリティ フィアーロア

・アビリティ 剛力無双

・アビリティ 超回復

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・力の魔力

 (ランク7)

・スキル 身体操作魔術  9レベル

・スキル 力魔術     7レベル

・スキル 戦斧術     9レベル

・スキル 格闘術     9レベル

・スキル クラン語    9レベル

・スキル アブ・クラン語 9レベル

・スキル ルイン語    2レベル


 空き(--)

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 まさかの無傷とは。


 いや、いや。

 一度は奪えたのだ。

 さっきのは錯覚……


 ……しかし、もう一度念じても、何かを奪えそうな気配はない。


 俺の能力が通用しない相手。

 これが初めてだ。


「くっ! 撤退! 逃げるぞ!」

「は、わかりました!」


 考えるのは後だ。

 逃げ切る。大丈夫、宮殿の階層では、またミノタウロスに追い回されるだろうが、そこを駆け抜ければ。


 もう何度も通った道だ。俺もソフィアも迷わなかった。

 ミノタウロスと接近戦を演じるつもりはない。剣は鞘に納めたまま、火魔術の準備だけして、走り抜ける。


 背後で金の縁取りをした扉が閉まった時、俺とソフィアは、安堵の息をついた。


「まさか、まるっきり効かないとは」


 フラフラと、俺は階段を降りた。

 目の前には、広大な地下空間が広がっている。


「どうしますか? これから」

「大丈夫、少し休もう。そうしたら……」


 はたと足が止まる。


 ソフィアの光魔術が周囲を照らしている。なのに、そこだけは黒ずんで見えた。

 巨大な人型のシルエットが往く手を塞いでいたのだ。


「ああっ、あっ」


 ソフィアは既に、圧倒的な恐怖に呑まれていた。

 俺の頭の中では、疑問の声がこだましていた。やっぱり、何かおかしい。どうやってこいつは先回りした? いつの間に斧と腕輪を回収した?


 これも、考えている余裕はない。

 この体格差で接近戦は、さすがに自殺行為だ。なら、ダメでもともと、火魔術でしとめる。倒すことに執着もしない。隙を作って逃げ切る。


「走れ!」

「は……」

「まっすぐ行けば、下の階層に降りられる! 狭いから、こいつは」


 指示は途切れた。それどころではなくなったからだ。

 巨大な斧を片手に、突っ込んでくる。無我夢中で横に飛び退いた。小石の欠片が飛び散って、カラカラと軽い音をたてた。

 あの巨体、そして能力からすれば、こんな床などバターと違いがないのだ。当たれば即死。飛行中でもなければ、わざわざ魔術に頼るまでもない。


 だが、俺のほうでも右手に熱が宿りつつある。暗い赤色。もう少しだ。

 前を見る。ソフィアは言われた通り、全速力で前へと走っている。光が遠ざかっていく。恐怖で硬直するよりずっといい。上出来だ。


 俺も後を追うべく、走り出す。その直後、俺はまた地に伏した。

 頭上を黒い風が通り抜けていった。一瞬で体の向きを変えたアルジャラードが、斧を横薙ぎに振るったのだ。


「このっ……」


 立ち上がりながら、右手をかざす。

 まだオレンジ色、熱量が足りない。それでも、指先にゴルフボール大の火球が浮かぶ。


「失せろ!」


 それが潰れた卵のように歪んで、後に炎の帯を残しながら、奴の目元めがけて飛んでいく。

 爆発すれば……


 パシュン、と情けない音がして、火が消えた。

 何のことはない。アルジャラードが、手にした斧を横に構えて、受け止めただけ。目潰しにもならないとは。


 俺は瞬時に理解した。

 あれは、少なくとも一部は、アダマンタイトでできている。

 あの斧は、幅広の盾の役目も兼ねているのだ。魔術による攻撃は、ほぼ届くまい。


 どうする? なら、魔法は無駄……いや。

 逃げ切ればいい。既に俺の右手は白熱している。あと一発くらいなら、大きいのをぶつけられる。


 ソフィアのいるほうへと走り出した。

 すぐ後ろで、俺を追う足音が響く。今だ。


 急に振り返り、右手を向ける。

 拳大の白熱した火球が、勢いよく飛んだ。


 奴自身に当てようとすれば、斧で防がれる。狙ったのは、足下だった。

 爆発音、そして火柱が立ち、弾ける炎がいくつも球を生した。


 この程度では倒しきれまい。

 だが、この隙に逃げ……


 ……ヒュッ、と何かが光の狭間を縫って迫ってきた。

 反射的に後ろに飛び退く。だが、避けきれなかった。


「ごぶっ!?」


 瞬間、体が宙に浮いた。

 直撃しなくても、それは致命的と言えるほどの威力を伴っていた。


 一度、二度、石の床の上に叩きつけられ、転がった。

 かすっただけで、これか。


 冷静な思考の直後に、全身を激痛が襲った。


「ぐは」


 尻尾、か。

 横目で盗み見る。ああ、やっぱり。

 ほぼ無傷。直撃もしない火魔術だ。爆発の余波くらい、簡単に防ぐか。あとはトドメと言わんばかりに、のっそりと近付いてくる。


 口元に何かが流れている。ヨダレ? 違うな。どこを切ったんだろう。口の中か、或いは鼻でも打ったのか。

 逃げなくては。起き上がれない。体が痺れて……


 頭上にかすかな光が差す。


「ファルス様!」


 馬鹿な、どうして戻ってきた。


「立てますかっ! 今、支えます!」


 そんなことをしている場合では。死にかけの人間に構っていたら、巻き添えになるだけだ。

 ソフィアは、俺の視線に気付いた。さっきの銀のブローチを手に取り、何事かを唱え始める。


「ば、か……」


 声が出ない。

 彼女は、全力でそれを投擲した。パシン、と光が弾ける。それだけだった。


 奴にその程度の攻撃が通じるはずもないのに。

 だが、彼女は必死で俺を引き摺る。


 そこで気付いた。

 すぐ近くが、下り階段だったのだ。


「きゃあ!」


 足を踏み外した彼女と俺は、そのまま転げ落ちた。

 再度、全身を襲う激痛に、しかし、もはやかすれた声すら出せなかった。


「うっ……」


 ソフィアがうずくまったまま、呻き声をあげている。

 転がった距離はさほどでもなく、階段の手摺りに体を打ちつけただけで済んだ。

 ここは狭い。この階段には、あの巨体では踏み込んでは来られない。だが、斧で破壊すれば、関係ないか。このまま、俺と彼女は生き埋めだ。

 ぼんやりそう思った。


 奴は、来なかった。

 代わりに、血も凍る咆哮を轟かせるばかりだった。

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