咆哮

 俺が、その存在に気付いた。

 続いてソフィアも、動かない俺に気付いて、そちらを向いた。


 白い台座の上にうずくまっていたそいつは、やおら立ち上がると、俺達を見下ろした。


 目測で、高さおよそ五メートルか、六メートルほど。全身、黒い体毛に覆われている。おおまかには人型なのだが、違和感のあるパーツがその肉体を飾っていた。

 羊のそれのように曲がりくねった黒い角。赤い光を放つ目。鋭い犬歯を潜ませる狼のような顎。大型の類人猿を思わせる発達した胸部と肩。野獣のような足の爪。蝙蝠のものを借りてきたような黒い翼。ライオンのような長い尻尾。そしてその左の手首には黒い腕輪が、右手には兇悪さを滲ませる、歪な形の黒い斧が握られていた。


 それだけ。それだけだ。

 思考が追いつかない。動きが止まる。これは、これは……


 そいつは、その場に立ち尽くす俺とソフィアをじっくりと見た。

 そして……


 轟音が一切を塗り潰した。


 翼を広げ、胸を開いて。

 その咆哮に、空気が震えた。足下まで揺れた。

 遠く離れたそいつは、小さな小さな黒い染みでしかないはずなのに。なぜか眼前にいるかのような、途轍もないプレッシャーを感じた。


「あっ……あっ……」


 そこで気付いた。

 すぐ後ろに立っていたソフィアが、膝をついていた。顔が真っ青だ。

 立ち向かうどころか、逃げ出すことさえできない。恐怖のあまり、何も考えられないのだ。


 そいつが唸り声をあげる前と後で、世界が違ってしまったようだった。

 それまでは美しく感じた、この大ホールの造形。温かみのあるオレンジ色のタイル、輝く照明、白い壁。無数の黒い線に装飾された床。どれもこれも、人の世界に属するもの。

 それらはいまだ変わらず眼前にある。なのに、急に何もかもが縁遠くなってしまったように感じる。


 落ち着け。

 もしあれが俺達に敵意を抱いているのだとしても。俺にはピアシング・ハンドが……

 いや、さっきのミノタウロスを殺してから、どれだけ経った? まだ一日過ぎていないのではないか。こんなことになるくらいなら……


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 アルジャラード・ニザック・ナー  (1596)


・レッサーディバインコア

・ディーティ:ジェイラー

・プロヴィジョナルアストラル

・ユニークアビリティ エリアドミネーター

・ユニークアビリティ フィアーロア

・アビリティ 剛力無双

・アビリティ 超回復

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・力の魔力

 (ランク7)

・スキル 身体操作魔術  9レベル

・スキル 力魔術     7レベル

・スキル 戦斧術     9レベル

・スキル 格闘術     9レベル

・スキル クラン語    9レベル

・スキル アブ・クラン語 9レベル

・スキル ルイン語    2レベル


 空き(--)

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 見るんじゃなかった。気が遠くなる。


 よくわからないが、滅茶苦茶な奴だというのはわかった。

 まず、あれは通常の肉体ではない。なんとかアストラルって、確かシーラとかヘミュービにもなかったか? ただ、微妙に名前が違うが。

 ディバインコアにもレッサーってついている。つまり、それらよりは劣る何かということか。

 ディーティ……この前のヘミュービの能力、挙動から判断すると……


 ……神として有している何らかの権限、能力。


 アビリティを持っている奴は今までもたくさんいたが、一部にユニークがついている。特別な力なんだろう。

 もっとも、そんなところを見るまでもなく、有している魔法の力、戦闘技術だけでも、どれだけ規格外な相手か、わかろうものだ。


 左手に、何かがぶつかった。また。小さな振動が。

 視線は動かせない。それで、手だけを持ち上げた。俺の頬から滴った、汗だった。


 いつの間にか、音さえたてずにそいつは空中に舞い上がっていた。背中に翼はあるが、あの巨体を支えられる面積ではない。それでもどういうわけか、広げてはいた。

 徐々に近付いてくる。


 戦いは、可能なら回避すべきだ。

 はっきり言って、勝ち目がない。

 唯一、取り得る選択肢としては、この場で火魔術の一撃を……しかし、その程度で本当に倒しきれるのか。少々のダメージでは、すぐに立ち直ってしまうのではないか。のんびり詠唱なんて。力を溜める隙を与えてくれるとも思えない。

 ならば。


「お待ちください」


 もう、アルジャラードとの距離は、二十メートルもなかった。中空に浮くそいつは、手摺りの手前で停止した。

 よかった。話が通じるのか。


「私達はここに迷い込んだもの。ご迷惑をおかけしたことはお詫び致します。どうか立ち去る許可を」


 すると、そいつは黙って左手の指を突き立て、それをゆっくりと下に向けた。


「えっ?」


 これは、どういう意味……


「わっ、私達は! 外に出たいのです!」


 体の構造上、人間の言語は理解こそ可能でも、思ったように話せないのかもしれない。だが、その意味するところは明白だった。

 下に降りろと、そういうことか。でも、俺達は外から落とされてきたのに。


 気色ばむ俺を一瞥すると、アルジャラードは、左手を持ち上げ、掌を開いたまま、何事かを呟いた。

 そして、こともなげに俺を指差した。


「……えあっ?」


 緊張で硬直していたのだろう。それは不意討ちになった。

 暗い紺色の半透明の鏃が、小刻みに回転しながら飛び込んできた。それは俺の胸に吸い込まれる。


「うぐっ!?」


 胸に激痛が走る。呼吸できないわけでもないのに、窒息しそうな苦しさだ。急に全身から冷や汗が噴き出て、吐き気がこみ上げてくる。

 ドキン、と胸が脈打つも、それを押さえ込もうとするかのような力が、俺の心臓を鷲掴みにする。


「かはぁっ」


 全身から力が抜け、膝をついてしまう。

 無防備だ、危ない、と頭は警告するが、意識がゆっくりと遠のいていく。


 死ぬ……


 そう感じた瞬間、もう一度ドクン、と胸が鼓動する。

 一度は凍りついた全身に、温かい血が巡る。


「ぷはぁっ、はぁっ、はぁっ」


 手をついたまま、そっとアルジャラードを仰ぎ見た。

 中空に浮いたまま、そいつは黙って俺を見下ろしていた。表情はまるで読み取れない。


 ガバッと立ち上がり、走り出そうとする。

 ソフィアはまだ、膝をついたまま、小刻みに震えていた。俺は容赦なく頬をはたいた。


「逃げるぞ。立て!」


 それでやっと我に返った彼女だが、まだ膝が揺れている。

 構わず襟を掴んで、無理やり立たせた。そして、数メートル先にあるさっきの扉に向かって、突き飛ばす。そうして、大急ぎで走り出した。


 冗談じゃない。

 さっきのあれは。


 知らない術ではあった。それでも体感すればわかる。あれは、名付けるとすれば『即死』の魔法だ。

 心臓その他不随意運動をする器官を強制停止して、対象を死に至らしめる。身体操作魔術の究極奥義に間違いない。通常の肉体を持たない相手には無効だろうが、そんなの気にならないくらい、兇悪な攻撃手段だ。

 なぜなら、あの魔術の矢は見えないからだ。身体操作魔術に熟達しているか、何かその他の方法によるのでもない限り、視認すらできない。当然、音もない。高速で飛来する小さな透明の矢を避けるなんて、そうそうできるものではない。敵対者は、何が起きたかわからないまま死ぬ。

 にしても、あの威力の魔法を、あんな僅かな詠唱で即座に使用するなんて。高いスキルと触媒になり得る魔術核だけでは、説明しきれない。或いはあの斧か、腕輪が魔術行使を補助する道具なのかもしれない。


 銀色のタイルを踏みしだき、扉を蹴飛ばし、下り階段に身を投げ出す。転がるようにして走る。ソフィアに追いつき、追い越し、襟を掴んだまま、強引に引き摺りながら。

 乱暴と言われようがなんだろうが、この際、仕方がない。あの魔法をもう一度喰らったら。あの手の術が効き難い体質の俺でも、どうなるか。今度は死ぬかもしれない。ましてやソフィアなんか、一発でコロリだ。

 いや、あのバケモノなら、そんな迂遠なやり方など不要なのだ。ただ斧を手に飛びかかれば、大抵の相手はすぐ肉塊になる。


 とにかく遠ざかる。今すぐはダメだ。せめて、ピアシング・ハンドが使えるまでは。

 汚い死骸や体液も、とりあえずは無視して走り抜ける。汚れようがどうなろうが、捕まったらおしまいだ。


「あっ……はぁっ……」


 後ろでソフィアが立ち止まる。


「走れ!」

「も、もう、走れま……」

「走れなくても走れ! くそっ……」


 足を止めたくはないのに。熱くなった頭を冷ましながら、俺は必死で詠唱する。『活力』だ。


「どうだ、少しは動けるだろう」

「あ、はい」

「急げ!」


 とはいえ、彼女の場合、元の体力が貧弱すぎる。そう長くはもつまい。


 宮殿のあったフロアに繋がる長い下り階段にまで引き返した。

 とりあえずは、ここのどこかに身を潜める。


「ファ、ファルス様」

「何だ」

「どっ、どうしますか!」

「隠れる」


 あんな強敵と真っ向から戦うなんて、考えられない。第一、俺の知らない能力をいくつも備えていそうだ。どこから俺達のことを見ていた? どうやってあの台座まで移動した?

 かといって話し合いにも期待はもてない。奴は自分が強者であることを自覚している。粘り強い交渉などせず、要求に従わないとみるや、即座に殺しにかかってきた。

 つまり、俺にとっての最適解は、同じく即座に殺すという選択だ。ピアシング・ハンドで始末できる状態になるまで、時間を稼ぐ。アルジャラードも、さすがに俺の持つ力についてまでは、知るはずもない。


「とりあえずは、もう一度、どこかで休もう」


 階段を降りて、あの大きな部屋が連なる宮殿の一室に踏み入った。廊下なのか部屋なのか、とにかく四角いブロックが続く。

 だが、すぐに左から迫ってくる影に気付いた。


「くそっ!」


 出入口に扉がなく、どこも大きな穴が開いている。そして曲がりくねった通路もないとなれば、視界も通ってしまう。

 遠くから、俺達を見つけたミノタウロスが迫ってきているのだ。


「そ、そんな!」

「黙ってろ!」


 剣を左手に持ち替え、急いで詠唱する。距離がある。それが救いだ。

 詠唱のあちこちを端折って、とにかく急いで右手に熱を集める。無理な術の行使に、体が軋む。


「吹っ飛べ!」


 蛇のように身をくねらせながら、炎の槍が突き抜けていく。

 一つ手前のブロックのところで、そいつの腹にまともに刺さった。すぐさま爆発し、赤い火球がいくつも弾ける。


 だが、同時に俺の右手にも、激痛が走った。思わず膝をつく。

 慌て過ぎたらしい。赤熱していた手が、急速に黒ずんで、すぐ肌の色に戻った。


「うっ、くっ」

「あああ」

「なんだ」

「あちらからも!」


 痛む腕を庇っている余裕はない。剣を持ち、右手からやってくるそいつに目を向けた。もう火球をぶつけられる距離にはない。

 こんな目前に迫るまで気付けないなんて。


「下がってろ!」

「ブモーッ!」


 右に身を翻す。

 同時に足元の床が砕かれた。


「はっ!」


 大振りの一撃は、不用意だった。その隙を狙って、鋭く踏み込む。

 俺の剣は、そのままではこいつの胸より上には届かない。頭の高さで横ざまに構えた剣を脇腹に突き刺して、すぐ飛び退いた。

 高速治癒の神通力があるとはいえ、ランクはそう高くない。深い刺し傷は確実にダメージになる。痛みは感じていないようだが……


 しかし、そこで想定していなかった変化が起きた。


「グゥ……グォオ!」


 俺の一撃は、存外な深手になったらしい。剣を抜かれて間もなく、真っ赤な血が断続的に撒き散らされた。

 これで弱るか、怯えるかしてくれればと思いきや。ミノタウロスは、聞いたこともないような唸り声をあげて、いきりたった。


「グゥオォーッ!」


 燃え上がるかのように、肌がいきなり上気して、真っ赤になった。

 そうなると、もはや技もへったくれもなく、そいつは斧を振り上げ、俺に圧し掛かってくる。単純に体が大きいせいで、回りこむのも難しい。必然、身を投げ出すほどの勢いで、大きく横に逃れるしかない。


「ゴアアア!」

「きゃあ!」


 俺が避けると、腹立たしくてたまらなくなったらしい。

 天井の高さと頭の位置がほぼ変わらない狭さだというのに、そいつは滅茶苦茶に斧を振り回し始めた。狙いも何もあったものではない。天井や壁の破片が辺りに飛び散る。それで怯んだソフィアが悲鳴をあげたのだ。

 口から泡を噴きながら、そいつはもう一度、俺に向き直った。


「グォ!」


 パン、と弾けるような音がして、すぐ足下が割れた。

 斧を振り下ろしただけだが、さっきより威力も速度も上がっている。こんなもの、普通の盾で受けたら真っ二つだろう。


 なるほど、これが『狂化』の効果か。

 傷を受け、血を見ることで発動する。攻撃衝動に駆られ、思考力は低下するが、筋力が爆発的に増大する。これは、ちょっとした罠だ。

 普通の戦士なら、大型の魔物を相手取る場合、手足など末端に少しずつダメージを与えて、弱らせてからトドメを刺そうとするだろう。だが、大したことのない傷なら、こいつは勝手に治癒してしまう。痛みも感じない。おまけにとんでもなく凶暴になって、手がつけられなくなる。何も知らずに戦ったら、まず間違いなくひどい目に遭う。


 では、どうする?


「……チッ」


 こうなると、思ったほど俺には手札がない。

 一番やりやすいのは、距離を取っての火魔術だが、ここは見通しのいい閉鎖空間。逃げるにも方向が制限され、隠れるのも難しい。相手の身体能力がここまで跳ね上がっていると、走って逃げても追いつかれる恐れがある。

 かといって、接近戦を続けながら火魔術をというのは、危険度が高すぎる。集中力が削がれるし、何より相手を一撃で倒しきれるほどの火球を放つとなると、爆風でこちらまで傷を負いかねない。その他、奇策に頼るにせよ、もう少し起伏のある場所とか、逆にいっそ何の障害物もない空間であれば、もっとやりやすかった。

 こういう場合、身体操作魔術には便利な技がいくつかある。『行動阻害』『弱体化』『四肢麻痺』……だが、今回は使えない。痛覚がない上に、相手にも身体操作魔術の知識と経験がある以上、あまり効果をあげられないだろう。

 そうなると後は、剣の技量にものを言わせて相手を翻弄し、隙を狙うしかない。できなくはないが、複数の敵が俺達を追いかけているらしい現状、手間と時間のかかる方法は選びたくない。

 だからといって、中途半端に傷をつけても、ますます興奮させるだけ。これでは……


 横合いから、ソフィアの叫び声が聞こえた。なお、ミノタウロスは彼女にまったく注意を払っていない。


「ファルス様!」


 こんな時に、気が散る。なんだ?


「目を閉じてください!」


 彼女が手にした何かを投げようとしている。それで察した。


「グワオッ!?」


 バシン、と弾ける音がした。

 白い光が室内を埋め尽くす。それを予期していなかったミノタウロスは、一瞬、動きを止めた。


 身をかがめ、溜めた力を振り絞って伸び上がり、一気に突き上げた。


「グブォ」


 短い呻き声を漏らし、目を白黒させながら。

 そいつはゆっくりとへたりこんだ。


「で、できた……」


 肩を震わせながら、ソフィアが安堵の息を漏らす。

 危なっかしい。ギャンブルだったわけか。とすると今の『閃光』、もし不発だったら、逆に俺が追い詰められていたんだが。


 光源はどれだったのか、と思って足下を見ると、透明な宝石を銀の檻の中に包んだブローチが転がっていた。


「あっ、それは」


 駆け寄ったソフィアが、俺の手から取り上げる。


「師からいただいたものです。護身用にと」

「もしかして、何度も使えるとか?」

「魔石で作られたものだとおっしゃっていました。あと二、三回は」


 それでも、確実に発動しないのなら、そうそう使って欲しくはない。アテが外れた場合の代償は小さくないのだ。

 だが、説教は後にしなければ。


「急ごう。追われている」


 周囲を見回してから、俺達はまた、走り出した。

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