大ホール

 不気味なほど、静かだった。

 俺とソフィアは、黒い手摺りに掴まりながら、長い階段をまっすぐに登っていた。


 時計も日照も何もないので、正確な時間はまったくわからない。それでも俺がミノタウロスを殺してから、半日近くは経っているはずだ。なのに、俺達を追跡する何者かの足音が響き渡ることはなかった。

 ここから三つ下の階層にあった、サレットと頭蓋骨。やったのは、やはりさっきのミノタウロスだったのだろうか。

 戦いこそ一瞬だったが、決して侮れる相手ではなかったと思う。下手なオーガとは比べ物にならないし、まともに相手取るなら上級冒険者の集団が必要なくらいの強さはあった。充分に実力を発揮する機会があったなら、あれくらいの破壊はできそうだった。

 とすると、この地下における最大の脅威は、既に除去されたことになるが……


 仮眠から目覚めたソフィアを連れて、俺は上に向かう階段を探し続けた。最初のエントランスまで戻らなければいけないのかと思ったが、そうなる前に長大な階段が見つかった。二階部分に登る程度の長さではない。まるで地下鉄のエスカレーターのような造りになっていた。もちろん、動いてくれたりはしないが。

 途中で足を止める。運動不足のお嬢様では、階段を登り続けるだけでも消耗する。無視してどんどん先に行きたい衝動に駆られるが、意識して押さえ込まなくてはならない。

 約束、そう、約束したのだから。ピュリスに連れて行ってやると。俺が、俺が自分で決めた。とにかく、そういうことにしなくては。


 時間をかけ、やっとのことで上まで登りきる。

 やや薄暗い中に、また毛色の違う扉があった。銀の縁取りに、黒い表面。素材はよくわからない。合成皮革みたいに見える。


 引き開けた。

 ふっと冷たい風が吹き込んでくる。

 足下には銀色のタイルが敷き詰められているが、そこに照明はなかった。


「ファルス様」

「頼む」


 いちいち言われなくても、ソフィアは役目を承知していた。

 戦えるだけの力がない以上、せめて視界の確保くらいは引き受けねばならない。それで俺の両手が自由になる。


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 ソフィア・システィン・ノベリク (9)


・マテリアル ヒューマン・フォーム(ランク6、女性、9歳)

・スキル ルイン語   5レベル

・スキル フォレス語  2レベル

・スキル サハリア語  2レベル

・スキル 光魔術    2レベル

・スキル 治癒魔術   1レベル

・スキル 薬調合    1レベル

・スキル 医術     1レベル


 空き(2)

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 顔立ちこそ美しいものの、肉体のランクがそれに比例していない。子供のくせに、遊んでないからだ。走ったり暴れたりせず、ひたすらお勉強をしていた結果がこれだ。

 その代わり、いろんな能力に恵まれてはいる。特筆すべきは光魔術だ。三年以上の経験にも相当する熟練に達している。おかげで、触媒なしでも何とか光を発することができる。ただ、本人が自己申告したところによれば、長時間続けると疲れ果ててしまうとのことだったが。

 なお、治癒魔術については、正直、ないも同然と思ったほうがいい。習熟度が低いのもあるが、ここには触媒がない。そしてこの触媒は、他のどの魔術のそれにも増して、稀少で高価なのだ。


 世の中にはいろいろな魔術がある。

 珍しさでいえば、アネロスやクレーヴェの用いた火魔術、キースの操る水魔術などは、中程度と言える。実用の際にはもちろんだが、習得にも値の張る触媒が必要で、貴族や大商人のバックアップがなければ難しい。ただ、存在自体はそれなりに知られている。現象が目に見えて、わかりやすいからだ。

 精神操作魔術などは、世間の認知度も低い。どんな術があるのかさえ、はっきりしていないのだ。現に、経験豊富なイフロースですら、『強制使役』の術の存在自体を知らなかった。一方、身体操作魔術の『行動阻害』くらいであれば、熟練の戦士なら、それなりに知識や経験があったりする。

 逆にもっともメジャーな魔術は、となると、これが光魔術だったりする。触媒がありふれていて、比較的安価に入手できるのが大きい。また、教会や神殿が知識を保持しているので、普通に入信して修行させてもらえば、身につけることができる。もちろん、武器にもなる技術なので、いろんな制約がついてまわりはするが。


 そして、存在自体はよく知られているのに、使い手が極端に少ないのが、治癒魔術なのだ。

 魔術を用いるには触媒が必要。これが大前提なのだが、治癒魔術の触媒だけは、とにかく決定的に数が足りていない。

 昔はそうではなかった。少なくとも、諸国戦争の前までは、もっともありふれた魔術だったのだ。だが、一度戦争になると、触媒となる素材は徹底的に収奪され、回収できない分は廃棄された。特に治癒魔術の効果は無視できるものではなかったらしく、材料となる薬草の群生地が、片っ端から焼け野原にされてしまった。

 魔術書自体の希少性もさることながら、何より練習の機会自体が失われたために、指導者も僅かとなり、術者がほとんどいなくなってしまったのだ。


 つまり、現状のソフィアは、歩く松明でしかない。

 そして、俺の内心の混乱は息を潜めているだけでなくなってはいない。ついついこの事実を嘲りたくなってしまう。そうではない。彼女は必要だ。視界を保ち、行動の自由を確保する。役に立っている。何度自分に言い聞かせたことか。

 一方、彼女も能天気な少女ではない。物心ついてからずっと、親の顔色を窺いながら数年間を過ごしてきたのだ。当然、俺の感情にも気付いている。そして、あろうことか、自分の無能に罪悪感すら抱いている。

 この非常時だ。協力しようとしない奴に対してであれば、普段の俺であっても怒りをぶつけたことだろう。だが、ソフィアは協力的で、従順でさえある。なのに俺は、彼女を苛めたくて仕方ないのだ。それを、ずっと遠くにいるもう一人の俺が、冷静な目で見つめている。


 短いモノクロの回廊を抜けた向こうは、また暗黒の領域だった。

 しかし、下の階層とは微妙に何かが違った。それは……臭いがあることだ。形容しがたいが、腐敗と湿気を感じさせる。


 少し幅広になった通路は、ゆったりとした曲線を描いていた。コンクリートのような灰色の壁、天井。だが、少し進むと汚れが目立ち始めた。

 灰色や褐色の液体が、壁にこびりついている。天井にもだ。粘液のようなものが、上から滴ってきている場所もある。それと小さな破片が、ソフィアの光魔術を反射した。


 俺は足を止めた。


「これは……」


 虫の足? あの、もっと下で見た、巨大ゴキブリのものに似ているような……


「あっ」


 背後でソフィアが声を漏らした。

 いったいなんだ、そう問おうとして顔を後ろに向けかけた瞬間、すぐ頭上でぺちょりという気持ち悪い水音が聞こえた。


「くっ!?」

「きゃあっ!」


 倒れそうになるのも構わず、反射的に後ろに飛び退く。案の定、背後に立っていたソフィアにぶつかったが、構っていられない。

 バシャッ、と飛沫を撒き散らしながら落ちてきた半透明のそれは、何かを探るようにピクピクと震えた。


「……くそったれ」


 すぐさま剣を突き立てた。ぬるっとした手応え。だが、確かに表面を突き破っているのに、そいつはまだ、ぬらぬらと動き続けていた。

 ダメだ。あまり効いてない。ならば。


 鋭く後ろに下がると、剣を左手に預けて手短に詠唱する。威力より早さだ。指先が、少年の肌色から、黒ずんだ消し炭のようになり、すぐそこから熾火のような暗い赤色になった。人差し指を突き出し、そいつを指差す。短くボウッと赤い火が吹き付けられた。

 ジュウッ、と音がして、それきりだった。表面が一気に溶けたせいか、内側の体液を周辺に垂れ流して、そいつは完全に平べったくなっていた。ピアシング・ハンドで見ても何も表示されないので、間違いなく死んでいる。


「スライムとは」

「ファッ、ファルス様、お怪我は」

「……ふん」


 心配してくれた相手に「ああ、大事ないよ」と一言返すのさえ、難しい。そうしたいのだが、口を開こうとすると、黒い靄のようなものが俺の意識を埋め尽くす。本当にどうしてしまったんだろう。


「ここも危険らしい」


 この役立たずが、という罵声は飲み込んだ。そんなの、理不尽だ。彼女は戦士ではない。ただの少女なのだ。

 けれども、ソフィアは口に出されなかった言葉も聞き取っていた。


「気、気をつけます、済みません」

「剣より、魔術が役に立つかもしれない。片っ端から焼く」


 少し先に進むと、だんだんとこの汚れの正体が明らかになってきた。


「こいつは……」


 すぐ横にいるソフィアは、声を出すこともできずにいた。光魔術で照らされた範囲には、この上なく不潔な景色が広がっていたからだ。


 廊下が途切れ、ちょっとした広間があるのだが、床も見えないほど数多くの死骸が転がっていたのだ。そのほとんどは、灰色の虫だった。もちろん、この場所だけあってサイズは特大。ズタズタに切り刻まれているので、正確な形はわからない。ただ、恐らくこれは蜘蛛ではないかと思われる。あの、アイドゥスと二度目に出かけた先にあった村で遭遇したのと、同じ種類ではないか。なぜなら、あちこちに白い糸の切れ端がぶら下がっているからだ。

 その中に、あの巨大ゴキブリの仲間と思しき死骸も混ざっている。そして、そうした大量の死骸の上にたかっているのが、半透明のスライムどもだった。

 そうした死骸は、部屋の奥にある何かの装置のようなもの……金属光沢のある箱状の何か……の近くに、うずたかく積み上げられていた。


 俺は何も言わず、右手を掲げて、通り道にいるスライムと死骸を焼き払った。鼻腔にじっとりした臭いが纏わりつく。


「うっ……」


 あまりに汚らわしい光景ゆえにか、ついにソフィアは耐えられなくなった。


「うっぷ」


 俺のすぐ後ろで、吐瀉物をぶちまけている。

 無理もないが、汚い部屋をもっと汚くしてどうするんだ、という思いが拭えない。まぁ、吐くといっても、たっぷり食べたわけでもない。胃液しか出てこないだろう。


「す、すびば」

「うるさい」


 後ろも見ずに言った。


「お前の胃の中だって、これと大差ない」

「ぞ、ぞんな」

「命ってのは、こういうものだ」


 これを不潔と思うのは、人間だからだ。スライムは、なんとも思っていない。ゴキブリだって、自分を汚いなんて思ったことはないはずだ。


「お前だって、これまでいろんなものを食べたろう。肉を喰らえば獣が断末魔の叫びをあげる。卵を食らえば生まれる前の魂がすすり泣く。野菜でも、小麦でも、何でも一緒だ。そしてお前も、死ねば餌になる」


 本当に。

 この世界は、なんて忌々しいんだろう。殺生、というが、生きることには必ず死がついてまわる。

 なら、いっそ生まれなければいいじゃないか。この世界からあらゆる命が消え去れば、争いも悲劇もなくなる。それが正義というものではないか。


 呼吸を整えたソフィアは、それでも納得しなかった。


「ですが、私は生まれてしまいました。今も生きております。どうしてそれを投げ出せましょう」

「ふん、まだそんなものをありがたがっているのか」


 背後に立つ彼女をねめつけながら、俺は……いや、俺の中に潜む白い仮面が、言い放った。


「教えてやる! 人が犯す三つの過ちとは何か。一つ、生まれたこと。二つ、自殺しなかったこと。三つ、なんとかしようとしたこと。これだ!」


 そうだ。

 これが、俺の過ちだった。


「さっき、ファルス様はそんな人じゃないとか、なんかわけのわからないことを言っていたな」


 目の前に広がるのは、汚らしい死骸だらけの空間。これが俺の世界だった。忘れたのか? あの時、俺は何を喰らって生き延びた?


「俺は、そういう人間だ。父を殺し、母を殺して、村を出てきた。その後も、数え切れないくらい殺した。そうやって生きてきたんだ。いずれ、どこかに辿り着けると、そう思って……」


 こみ上げる憎悪に、俺はそっと手を握り締める。


 現実には、俺はどんどん汚れる一方だった。

 今思えば、ピュリスであれだけ頑張って働いていたのも、人間ゴッコをしたかったからではないかと思う。だが、それはただの夢幻でしかなかった。

 俺は、違う。月の光の下で、手を繋ぎあって微笑んで生きる……そんな人々の中の一人には、なれなかった。


 ソフィアは、何も言わなかった。

 目を見開いて、ただ俺を見つめていた。


 視線に気付いて、俺は意識を他に向けた。


「こんなところに突っ立っていても仕方ない。先へ行こう」


 不快な水音をたてつつ、その部屋を通り過ぎると、やがて崩落した壁に行き当たった。


「おや?」


 今までとは少し様子が違った。

 下の階層にも、破壊の形跡はあったのだが、それは建造物の一部が砕け散っているだけのことだった。しかし、ここは。


「見ろ、これは」

「は、はい?」

「土だ。土が見えている!」


 ソフィアが、掌の上の光球を向けると、それはより一層、はっきりした。

 人間より一回り大きな何かが通れる程度の、大きな横穴。それが壁を突き破って、土中を通り抜けるトンネルになっていたらしい。だが、それは破壊され、埋め立てられている。しかし、俺の注意を引いたのは、その真新しさだった。これは何十年も前の穴ではない。一年も経ってないだろう。そしてそれを、誰かが意図的に塞いだのだ。


 ということは、ここを掘り返せば、いつかは外に出られる?

 ただ、それにどれほどの労力がかかるかは、まるでわからない。また、ここにいる虫達が虐殺されているのを見てもわかる通り、誰かがそれを好ましく思っていないのは、明らかだ。もっともそれが、さっきのミノタウロスだったのかもしれないが。


 とにかく、ここから先には進めない。

 さっきの死骸だらけの部屋に戻り、別の道を探さなければいけなかった。

 ややあって、上に向かう階段を見つけた時には、心底ほっとした。この真っ暗な、そして不潔なエリアには、長居したくなかったからだ。


 入った時と同じような銀色の縁取りの黒い扉、そして、その間の銀色のタイルの領域を抜けると……


 再び、燦然と輝く無数の照明の下に立っていた。

 一言で言い表すなら、そこは大ホールだった。地下によくもこれほどの、と言いたくなるほどの、広大な空間。東京ドームだってここよりは狭いだろう。但し、ここで野球はできない。

 なぜなら、グラウンドがないからだ。今、俺が立っているのは、丸い大ホールの縁だった。そこにはなるほど、通路としては充分以上に広々と幅が取られているのだが、その向こう側は、がらんどうの大きな穴だった。白い手摺りのすぐ傍までいって下を見下ろすと、すぐ下には斜め下に傾く白い石の壁があった。

 その漏斗状の斜面は、すぐ途切れる。なぜなら、ホールの中心には、巨大な構造物が存在していたからだ。

 中心に陣取っているのは、一見すると、巨大な槍の穂先だった。よく、クリスマスパーティーでかぶるような、先の尖った帽子。あれをいぶし銀で作って、樹木の天辺に被せたような見栄えといえば、わかりやすいだろうか。

 樹木、そう、樹木だ。しかし、こいつには見覚えがあった。青紫色の小さな葉っぱもどきが見える。樹皮は気持ち悪い肉色だ。ずっと下の方で見かけた奴の、頂上の部分がこれなのだ。

 そこだけは気色悪い印象があるものの、あとは美しいといっていい出来栄えだった。すぐ後ろの壁は真っ白だったが、その上にはオレンジ色のタイルが並び、たまに宝石のアクセントが輝いている。足元の床も、モノトーンとはいえ、三角形を中心として様々な形の石を組み合わせたセリパシア風のデザインをなぞっており、見事なものだ。

 高い位置には、円周に沿って電灯のようなものが並んでいる。この空間を輪切りにしてみるなら、底の抜けたフラスコみたいな形になっているはずだ。その球体の部分に沿って、俺が今立っているような通路があり、その各所に一段上の通路に繋がる階段がある。それはフラスコの首のところまで、ずっと続いている。首の上のところには、何か不揃いな形の巨大な岩みたいなものがあって、それが黄色い光を放っていた。

 それと、何に使うのかわからないが、壁から三箇所ほど巨大な白い台のようなものが突き出ている。割と高い位置、ちょうどホールの横っ腹を囲むように、均等な間隔をおいて。


「すごい……」


 壮大さは、それだけで人の心を奪う。

 ソフィアは我を忘れて見入っていた。


 俺はと言うと、また登らなきゃいけないのか、と内心、溜息をついていたが。階段はすぐ近くにない。ぐるりと回りこまないと、上にはいけない構造になっている。

 とはいえ、さすがにこれだけ上ってきたのだ。ここを抜けさえすれば、きっと地上は近いはず。少しだけ、気持ちが明るくなった。


 その時だった。

 音もなく、しかし視界に黒い影がちらついた。最初、目の錯覚かとさえ思った。


 違和感の正体は、すぐわかった。

 すぐ目の前にある、向かいの壁の白い台座。

 そこに何者かの姿があったのだ。

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