罪の娘
目を閉じて休むには、明るすぎた。
上質な木の寝台と、布団。その上にかけられた真っ白なシーツと、臙脂色のベッドスロー。奥まった場所に、二人用の部屋があった。とりあえず、ここでいったん休憩をとることにしたのだ。
ミノタウロスらしき魔物を倒したところから、俺達は急いで遠ざかった。他にもまだ、いるかもしれなかったからだ。出てくるのが一匹なら、どうということはない。だが、地下の保管庫には大量の武器があった。まだまだ大勢いると考えるのが自然だ。
しかし、上に繋がる階段は、なかなか見つからなかった。そうこうするうち、ソフィアが息切れした。
考えてみれば、魔術抜きでも俺とは基礎体力が違いすぎた。ピアシング・ハンドで奪った能力を別としても、ピュリスにいた頃、なんだかんだで下働きをしていたおかげで体力もついた。加えて、春先のティンティナブリアからセリパシアの西の端まで、ひたすら歩き通したことも大きい。一方の彼女は、聖都から出ることもなく、暑さからも寒さからも守られた旧貴族の邸宅の中で暮らしていた。
俺は努めて理性を働かせた。彼女を死なせてはならない。今すぐは不要でも、光の供給源にもなるし、古代ルイン語の文字も読める。使い道があるのだ。そう自分に言い聞かせなくてはならなかった。
ゆえに、この休憩は、彼女の肉体と、俺の精神を休めるためにある。
ふと、足音がした。剣に手を添えて身を起こすが、やってきたのはソフィアだった。
「ああ」
緊張を緩めて、またベッドにひっくり返る。
この先、休める場所がどれだけあるかわからない。だから彼女には、いろいろな問題を片付けてきてもらうことにした。
早い話が、トイレとか入浴とか。俺は同行しなかった。何かあったらそれまでのこと。だが、やけに人気のないこの場所では、あまり問題にならなかった。こうして無事、戻ってきた以上、魔物に遭遇したりはしなかったのだ。
「ファルス様は」
「ん?」
「お風呂ですとか」
「ああ、今はいらないから」
もしかしたら、かなり汚いかもしれないが、そんなことを気にかけている場合ではない。
箱入り娘のソフィアには、充分に快適な環境が必要だ。そうでないと消耗してしまうのだろうが、俺は違う。
なお、丁寧語はやめた。
正体不明の怒りとストレスを悪化させるから、というのもあるが、合理的な必要にもよっている。
俺と彼女の間には、上下関係が必要だ。今だけのことでいい。ここを出たら恨まれたり嫌われたりするかもしれないし、尊大な人だと思われるかもわからないが、それでもいい。怖いのは、いざ危険が迫った時、無用な配慮で判断が遅れることだ。
いちいち考えるまでもないが、例えば登山とか、或いは戦争とか……危険に直面した集団が、友愛と民主主義でことを決めるなんて、あり得ない。納得できるまで話し合っていたら、何より貴重な時間と機会を失う。
そして彼女には、この手の困難についての経験がない。なら、俺が命令しなければならない。外の社会における身分では、彼女が上でもだ。
あとは、俺自身がどこまで正気を保てるか、だが……
「今のうちに、一眠りしておいて欲しい。次はいつ休めるかわからない」
「は、はい」
たまたま居住に適した場所があったから、こうして休憩をとったのだが、これが続くとは思っていない。ここのすぐ上が廟堂のあの領域、という可能性だが……どうも、あまりなさそうな気がしてきている。まだ地上は遠い。
なぜそう思うかと言われれば、理由は簡単だ。さっきの魔物。あれが廟堂地下の忍者どもと共闘している可能性は、ほとんどない。なぜというに、奴には人間の言語の知識がなかったからだ。アブ・クラン語とかいう、わけのわからない言語しか知らなかった。ろくに意思疎通もできないのに、共通の目的のために働くなんて、あり得ない。
つまり、これだけ人間にとって過ごしやすい場所があるにもかかわらず、あの忍者どもはここまでやってきたりはしていないのだ。少なくとも、日常的には。
ソフィアにとっては、今は休む時間だが、俺にとっては考えをまとめるべき時間だ。
ここに突き落とされてから、数々の異変があった。まず、それを整理しなくてはならない。
一番気にかかっているのは、俺自身の混乱だ。
何か歯車が狂っている気がする。戦うことはできるし、この危機的状況に萎縮もしていない。だが、たまに理性を保てなくなる。
思考に何かノイズが混じる。まるで他人が俺の頭の中で喋っているみたいに。それで異様に興奮したり、攻撃的になったりする。これはなぜだろうか?
精神操作魔術の影響、というのは、一番ありそうな話だ。或いは、似たような神通力か。それで俺を攻撃している、という仮説だ。
しかし、今まで遭遇した魔物に、そういう能力を有したものはいなかった。それに、そもそも俺には、その手の力に対して強力な耐性があるらしい。とすると、やはりそれ以外の原因があると考えなくてはならない。
「あ、あの」
もう一つ、おかしいのは、シーラのゴブレットから得られる神の飲料だ。
味がしないなんて初めてだった。しかし、ソフィアは美味だと言った。つまり、飲み物そのものには問題がない可能性が高い。これまた、俺が狂っているのだ。
あと、飲料の補充速度がやたらと遅い。今までなら、蓋を閉じれば一瞬で中身が満たされていた。それがここでは、相当な時間をかけないと元通りにならない。
これが意味するところは、シンプルだ。
この場所には、シーラの加護が及ばない。まったくというわけではないが、ほぼ力を失ってしまう。要するに、リント平原でヘミュービに襲われた時のような救いの手は、期待できないということだ。
「……ファルス様」
それと、魔物の挙動についても、よく考えておきたい。
最初に俺を取り囲んだゴキブリどもは、ただ食欲に従っただけだろう。これはいいとして。
青いゴブリンもどき……ソフィアが言うところのグレムリンは、俺に関心がなかった。見かけても、攻撃する素振りさえなかったのだ。
だが、この階層で遭遇したミノタウロスは、最初に威嚇するような声をあげてから、襲いかかってきた。
この理由は?
下の階層はいいけど、上に行ってはいけないとか? なぜ?
ここは誰か、尊い身分の誰かのためにあるとか……もしかして、聖女?
聖女といえば、廟堂のすぐ下にあった、あの柩の中のモノはなんだったんだろう。
腕のところが、なんかグネグネと縮んでいたし、あれはミイラというか、宇宙人じみているというか……
「もうお休み……ですよね」
「うん? あ、いや」
俺は身を起こした。
二つほど下の階層で、仮眠を取ったのもあって、体のほうはそこまで疲れているわけではない。
「なにか」
「い、いえ」
申し訳なさそうに、彼女は俯いていた。
「……さっきの」
「あ、あー……さっきは、その、自分でもわからないけど、気が立っていて、その」
「いえ、いいんです。そうではなくて」
スカートの裾をぎゅっと握り締めて、彼女は言った。
「おっしゃる通りだな、と」
「はい?」
「ファルス様がおっしゃった通り、私には……行くところがありません。生き延びる意味も」
まだ九歳の少女に、俺はなんと言ったんだっけ。どうせここを生きて脱出しても、実家はお前の生還なんか望んでいないぞ、とか。
事実ではあると思うが、随分ひどいことを言ったものだ。
「あれは悪かった。忘れて欲しい。今は、ここを生きて出ることだけ考えてくれればいい」
どの口が、と自分で思う。
しかし、何のために生きるのか、というのは、思考の毒だ。アイドゥスは理由こそが大切だと言ったが、今、この状況でやられると厳しい。
そもそも、生きる意味を考える状況というのは、自明であるべきその意味自体が、根幹から揺さぶられていることを示している。だから、そこから「そうか、私の生きる意味はこれだ、なら絶対に生き延びてやる!」と心を入れ替えられるような大逆転は、まず起こらない。あるとすれば奇跡だし、この状況では大変ドラマチックでもあり、それはきっと素晴らしい体験になるだろうが、そんなのは多分、創作物の中にしか出てこない。
現実には、悩んでいる人は悩み続けて、やがて力尽きて死ぬ。そういうものだ。結局、生き延びるのは、とにかく常に行動し続けている人なのだ。
「でも」
「本当に悪かった。責任は取る」
「えっ? 責任、ですか」
もちろん、アテがあって言っている。
ピュリスに帰れば、金だけはあるのだ。
「あー、トリエリク様がおっしゃっていたような縁談とかではなくて……一生、部屋住みでなくてもいいようにはできる」
「そんな、どうやって」
「難しくはない。出国の許可くらいはなんとでもなる」
言うことを聞かないなら、肉体奪って好き勝手やれば済むし、難しくはない。本当に。
「そうしたら、シャハーマイトまで出て、そこから船でピュリスに行けばいい」
「ピュリス、ですか?」
「頼れる人達が、一応、いる」
エンバイオ家はもう、王都に召還されてしまっているが、まだあそこにはリンがいる。幼女好きの彼女のことだ。こんな美少女の世話なら、頼まれなくても引き受けるだろう。
もしそれがダメでも、まともな大人が他にいる。例えば、マオ・フーとか。彼ならまず安心だ。
それすら頼れなくても、俺の家にはノーラがいる。スケベなジョイスあたりはちょっと不安だが、それでも最低限の良識ならあると思っている。金には不自由しないのだから、少女一人増えたところで、さほどの困難もないはずだ。
「まぁ、聖典派の幹部になる道は用意できないが……出世したいのなら、そちらの方面では役に立てない」
「いえ、それはいいのです、が」
「その代わり、大人になるまで、勉学や鍛錬の機会は充分に用意する。神学、語学、医術、武術、魔術、商売……もちろん、生活上の不便も一切ない」
法螺話のように聞こえたのだろう。
彼女は眉を顰めた。
「他はいいとして……魔術? ですか? ファルス様は、貴族ではないようですが」
「貴族じゃない……貧農の息子で、孤児で、元奴隷だけど」
「それが、なぜ」
「とにかく、機会があったとしか言えない。今も手元に一冊あるが、だいたい三種類ほど……身体操作魔術、精神操作魔術、火魔術なら、うちで学べる」
「そんなに!?」
これだけ一度に学べる場所など、貴族の家でも滅多にあるまい。
「あと、ピュリスの司祭は知り合いで、付き合いもある。人柄はちょっとアレだが、非常に優秀ではある。彼女から光魔術も教えてもらえるはずだ」
「すごい……」
光魔術は、教会でも女神神殿でも教えているから、あまりマイナーではない。
しかし、俺が知っている三つの魔術は珍しい。それでも火魔術ならまだ秘伝書も多いだろうが、特に精神操作魔術なんて、使い手はごく僅かしかいないはずだ。
「それと、ピュリスのギルドマスターは、知り合いだ。棒術と格闘術では一流の人だから、体を鍛えたいなら、そちらも紹介できる」
「でも、そんな、私にはお支払いできるものが」
「それはいらない。責任を取ると言ったのはこちらだから……ただ、要するに、ここを出てもまだ未来はある、と言いたいだけだ」
俺が本気でバックアップすれば、いくらでも栄光への道は開かれている。それは、ピアシング・ハンドの秘密を明かさなくても、だ。さすがに貴族相当の身分に返り咲くとなると、これは殺人か幸運抜きには実現不可能だが、尊敬される裕福な騎士身分でよければ、さほどの困難もない。
「ピュリスは……今まであちこち旅をしてきたが、あれほど美しい街は、なかなかない。アヴァディリクと違って温かいし、明るく輝く海を毎日でも眺めることができる。治安もいいし、自由もある。食べ物もうまい。修行の旅に出るのでなければ、あの街を離れる理由なんてないくらいだ」
……と、欲念を煽ってみる。
案の定、ソフィアは目を輝かせた。いまだ見ぬ美しい街並みを思い浮かべたのだろう。
だが、すぐに顔を伏せてしまった。
「どうした」
「いえ」
口元は微笑んでいる。だが、すぐ目尻に涙が溜まり、溢れてきた。
「……ごめんなさい」
手で顔を覆う。
またその言葉か。
「何が」
声色に苛立ちが混じったのを敏感に悟って、彼女は肩を縮めた。
「いえっ、す、すみま」
「いいから」
「その……」
再び悲しみにその身を乗っ取られた彼女は、握り拳を作って背を丸めた。
「……やっぱり私は、穢れていたのですね」
「どうしてそうなる」
「認めて欲しかったのです」
それだけ言うと、彼女は息を詰まらせ、嗚咽を漏らした。
「私は、穢れてなんかいない、清く正しい娘だと」
「中庭の話か」
それを持ち出すと、彼女はガバッと顔をあげて、けれどもすぐ首を振った。
「禁書の件ですね。違います」
「まだ他に?」
すると、彼女は唇を震わせた。二度、三度、口に出そうとして躊躇して、やっと言った。
「私は……生まれてはいけなかったんです」
いやな表現だった。
生まれてはいけない人間。
俺自身がそうだった。
この世界では、茶髪の両親から生まれた黒髪の子供だった。母の不義密通はほぼ確実で、だから存在自体が嫌悪された。
前世でも、大差なかった。母にはいろんな愛人がいた。今となっても、自分の父親が誰だったかなんて、はっきりとはわからない。
俺は、そのことを謝り続けていた。自分が何かしたわけではなくても、自分は罪そのものなのだ。その罪悪感からだろうか。母が胃癌に倒れた時も、そして父が認知症になった時も、一人で世話を引き受けた。俺が確かに二人の実子で、なんの後ろめたいところもない人間であることを証明したかったのかもしれない。
「お父様には、弟が二人、いらっしゃいまして……下の方、クラング様は、今では枢機卿の一人となられましたが」
まさか、という思いと、やはり、という考えとが同時に湧き上がってくる。
聞いていい話ではなかった。
「小さい頃から、なぜかお父様がよそよそしくて、寂しかった思い出があります。使用人は、男親とはそういうものだと教えてくれましたが……ある日、中庭で立ち聞きしてしまったのです」
「ちょ、ちょっと」
「本当のお父様は……」
そこまでで、彼女は言葉を切った。
とても続けられなかったのだ。
セリパシアの旧貴族は、生まれた順番で役目が変わる。
長男はニートで血筋を繋ぎ、次男は神殿騎士のエリートになる。そして三男は、聖職者になって利権を貪る。
上と真ん中はいいが、下は子供を持つことができない。性欲だけなら、或いはジェゴスのように振舞えば、なんとでもなるのかもしれないが、実子ばかりはどうにもならない。
だが、やはりそれでは納得できない人も出てくる。では、どうすればいい?
『親になってもおかしくない誰かの子供として産んでもらう』
母親が実際に体を貸したのか、それともまた、別の女が産んだのを引き取っただけなのか、それはわからない。トリエリクの了解があったのか、なかったのか。それさえも。
だが、いずれにしても、まだ幼かったソフィアには、耐え難い現実だった。
「認めて欲しかったのです」
手を握り、開き、握って。
喉の奥からか細い声を漏らす。
「ソフィアは真面目にやっていると。これだけ清く正しい娘なら、そんなことはあるはずがないと。そう認めて欲しかった……!」
つまり、俺の提案は無意味だった。
なるほど、未来なら、いくらでも提供できる。富も名誉も与えてやれる。
だが、これだけは……
「なぜですか? 私は、私は間違ったことをしないようにと、正しいことをできるようにと、頑張ってきたのに、どうして……」
答えられるはずもない。
慰めの言葉さえ、紡ぎだすことはできない。それは全部、嘘になってしまうからだ。
「他は全部捨ててきました。何もかも。ただただ、それだけを……なのに……」
その、ぽっかり空いた心の傷口を満たしてくれていたのが、アイドゥスだった。だが、そんな仮初の喜びも、無残に踏みにじられてしまった。
もはや、この世界には女神以外の救いなどなかったのだ。
「私は……どうすれば……」
「とりあえずは寝てくれ。後のことは後で考えろ」
俺はあえて冷たい声でそう言い放った。
考えれば考えるほど、力は奪われていく。今は、生きてここを出なければならないのだから。
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