もう一人の遭難者と開かずの扉

 青白い壁が、ほのかな朱に染まる。松明を間近に突きつけられても、通路の壁面は、うんともすんとも言わなかった。傷一つない、それどころか継ぎ目すら見えない、まるで無表情な壁。

 絡み付くような闇の中。手元の輝きだけが救いだ。しかし、片っ端から光を吸い取るこの空間では、それはあまりに頼りなかった。


「……おっ」


 順調、と言っていいのか。

 奇妙な大樹を見つけた階層では、下からの階段の近くに昇り階段がなかった。それでも、あちこち歩き回るうちに、ようやく新たな階段が見つかった。

 二つ下のフロアで巨大ゴキブリに襲撃されたのが、今のところ、唯一体験した危険だった。あとは安全そのもの、あの青みがかったゴブリンもどきは、俺が何かしようとしない限り、まったく無関心だったのだ。

 おかげで、さほどの苦労もなく、ここまで歩いてくることができた。


 してみると、あのコーザの遺体はどういうことだろう。周りの魔物を見て、反射的に攻撃でも仕掛けてしまったのではないか。そうとしか説明がつかない。となると、ヨルギズなる仲間の冒険者も、無事ではないかもしれない。

 いや、しかし、では、最初に見つけた鉄の兜は? 丈夫そうな円柱が砕けていた。やはり別口で大きな脅威が残っていると見るべきか。


 なんにせよ、事件現場からは遠ざかりつつある。一歩一歩、俺は安全に近付いているのだ。


 階段を登りきったところで、しんと冷える空気を感じた。

 広い。遮るもののない空間に、僅かな空気の動きがある。松明を振り回しても、映りこむのは床と頭上高くにうっすら見える天井だけ。ここはどういう場所だろう?


 少し歩き回って、ここがやたらと幅広な通路だとわかった。ざっと見て、横幅二十メートル以上。さすがに天井を支える支柱も必要なのか、それくらいの間隔を空けて巨大な円柱が立ち並んでいる。

 その合間に、部屋がある。どれも相当な広さだ。ひたすらガランとしている。ただ、ここには今までにない特徴があった。


 床に、巨大な文字が刻まれている。俺には読めないが、何かの標識なのだろうか?

 それで気付いたのだが、通路には、やはり何かの文字と、矢印が刻まれていた。これは、順路?


 せっかくだし、これに沿って歩いてみよう……


「んっ?」


 ……と思った矢先、かすかな衣擦れの音が耳を撫でた。


 気のせいか?

 いや……


 なるべく小さな声で、詠唱する。『鋭敏感覚』だ。

 ここには、他に音の発生源がない。もし、誰かがいるのなら……


 聞こえた。

 呼吸音。こっちだ。


 視界はほとんどない。だが、聞こえたほうへと歩いていく。

 呼吸音はやや大きくなった。接近に気付いて、怯えている? だが、隠れたまま、動こうとしない。好都合だ。


 もう間近だ。

 そっと剣を抜き放つ。


 息を呑むのが聞こえた。

 しまった。


 走り出した。

 俺も音のするほうへと駆け出していく。逃がすか。


 どうすれば……

 物を投げる、いや、それよりは火球をぶつけたほうが。


 剣を鞘に戻しつつ、右手を自由にして詠唱を始める。右手が赤く、そしてオレンジ色に染まっていく。


「止まれ!」


 最初は威嚇兼、視界確保のため。

 物音とは少し離れた場所に、威力の低い火球を投げつける。ゴルフボール大の赤い球体が、真っ暗な空間に吸い込まれ、すぐ後にパァンと弾ける。


 見えた。

 俺より少し背の低い、白い衣服。

 爆発に怯え、体を縮めたのが。


 今だ。


「きゃあっ!?」


 目標さえ見えれば。手加減なしに、大急ぎの『行動阻害』を浴びせてやった。激痛に仰け反って、その場で膝をついたらしい。もう逃げられまい。

 駆け寄って、俺は改めて剣を抜いた。


「動くな。誰だ」

「ひっ」


 間違いない。人間、それも少女だ。

 そして彼女は……


 松明の先端を近づける。そこに浮かび上がったのは。


「……えっ?」

「な、なんでこんなところに」


 俺は目を丸くした。それは彼女も同じだった。


「ファルス様? どうしてこのようなところに? よもや、助けを寄越していただけるとは」


 驚愕は安堵に取って代わられた。

 しかし、救助とは。


「いえ、ソフィア……様」


 こんな場所に身分とか、何の意味があるんだろう、と一瞬思った。


「なぜここに」

「えっ」

「どうしてこんなところにいるんですか」

「そ、それは」


 ソフィアは、俺が彼女の救助に駆り出されたと思っている。ということは、俺の希望は一つ潰えた。

 つまり、彼女がまともな出入口を知っていて、そこから歩いて入り込んだ可能性がなくなったからだ。


「穴から落ちた?」

「う」

「いや、落とされた。そうですね?」

「は、はいぃ……」


 目に見えて、彼女はしおれてしまった。

 では、彼女も廟堂の地下に踏み込んだ?


「いったい、何をしでかしたんですか」


 すると彼女は俯いた。


「……しを」

「し? はい?」

「聖女の許しを得たくて、参りました」


 それだけ言うと、座り込んだ格好のまま、しゃくりあげ始めた。

 ポロポロ涙を流し、感情的になりながらも、ソフィアの説明は端的で、理解にそれほど手間取ることはなかった。


 少し想像してみればわかりそうなものだが、アイドゥス捕縛後の状況というのは、最悪そのものだった。取調べを受けた後、神殿騎士の手によって自宅に帰された彼女だが、トリエリクは深い溜息をついただけで、あとは徹底的に彼女を無視した。先のエロ本騒動もかなりの問題だったが、今回はその比でない。何しろ性犯罪者と朝帰りだ。無論、その犯罪者を娘の家庭教師に選んだのは彼自身なのだが、この際、そんな事情はどうでもよかった。

 旧貴族への配慮からか、それともトリエリクがいち早くジェゴスに膝を屈したのか、とにかく彼女とシスティン家が罪に問われることはなかった。しかし、それで娘の不行跡がチャラになるわけではない。


 それからの数日間、彼女はとにかく無視された。父も母も、娘などいないことにしていた。子供は、帝都に留学中の長男と、寄宿舎にいる次男だけ。

 まず、部屋が変わった。物置小屋みたいなところにベッドだけ。三度の食事の際にも、声がかかることはない。といっても餓死させるつもりもないようで、部屋にトレイが持ち込まれ、彼女はその上にあるものを食べた。

 勉学の自由はなくなった。かつての自室には棚いっぱいの本があったのだが、読むことも、取りに行くのも許されなくなった。彼女が自由に出歩けるのは、新たな自室と、その付近にあるトイレや水浴び場までの狭い範囲に限定された。敷地の北側の、薄暗い一角だ。

 使用人の目も冷たくなった。話しかけても最低限、必要な受け答えがあるだけ。もちろん、命令なんてできない。


 彼女は、部屋住みになったのだ。といっても、例えばフォンケーノ侯の次男であるグディオのような、可能性のある身分ではない。

 二人の兄のスペアですらない。完全に存在を抹消された人物としての部屋住み。狂人と同じ扱い。もう、学ぶこともなければ働くことも、結婚することさえもない。死ぬまでこの一角で過ごせと。そういう立場になってしまったのだ。


 彼女は逆らわなかった。

 しかし、あることが気にかかっていた。その事実について、使用人の一人がうっかり口を滑らせた。それがソフィアを行動に駆り立てた。


「アイドゥス様が、処罰されたと」

「ええ」

「何かの間違いです!」


 間違いも何も。目の前で彼は燃え尽きた。

 或いは罪状がおかしいと、そういうことか? だが、彼がやったこともまた事実。おかしいのは、それを罪に問うことくらいか。


「では、何が悪かったと思うんですか」

「それは……」


 彼女には難しすぎる問題だった。

 狂っているのは教会組織なのだが、教義がおかしい、教会が悪い、という答えは、どうしても思いつけないのだ。


「ですから私は、女神様と聖女様に、正しい導きを願うために、廟堂に詣でたのです」


 とは言うものの。何の意味があるのだろう? 意味などなくても、そうするしかなかったのかもしれない。

 いくら女神でも、焼き殺されたアイドゥスを復活させたりはできないし、しないだろう。少なくとも、シーラであってさえ、不死を与えたりはできなかったのだから。

 だが、彼女にはもう、女神に縋る以外の選択肢がなかった。一種の思考停止と言ってしまえばそれまでだが、だからといって、今のソフィアに自力で状況を打開する方法など残されていなかったのだから。


 周囲の監視の目を盗んで、彼女は真夜中に抜け出した。おりしも年末、セリパス教徒には新年を祝う習慣などないが、そこはそれ、旧貴族の邸宅の使用人達だ。少しは仲間内で酒を飲んだり、遊んだりもする。それがチャンスになった。

 廟堂の警備体制は、まったく甘かった。数人の神殿騎士が、気の抜けた状態で突っ立っているだけ。それでも、一人が彼女の接近に気付いた。


「じゃあ、あの火災は……」

「火をつけるつもりなんてなかったんです。ただ、見張りの騎士の方のランタンを叩き落してしまって」


 それが燃え広がって、ああなった。だが、ソフィアは必死だった。ここで捕まったら、何しに出てきたかわからなくなってしまう。父の監視も、より一層厳しくなるだけだ。振り返らずに走った。


「本当に……私は悪い子です」

「はい?」

「少しでも悪いことを直そうと、そう思って何かするたび、もっと悪いことを……」


 自身を省みるうち、だんだんとその所業を思い出し、耐えられなくなってきたのだろう。ポツリと涙が落ちた。


「ごめんなさい」


 誰に向けてでもなく。

 言わずにはいられなかったのだろうか。


「ごめんなさい」


 ひとしきり落ち込んで、謝罪を繰り返す。

 そうすれば、誰かが聞き届けてくれて、赦免を与えてくれるとでも思っているのだろうか。


 それでも理路整然と話を進めるうち、彼女は泣き止んだ。

 ただ、やらかしたことの重大さはわかっているようで、肩を落としてはいたが。


「どうやって廟堂に」

「いつもの南側の扉から入りました」

「鍵は」

「かかっていませんでしたが?」


 つまり、いつも利用している南の扉だけは、通行可能だった。わざわざ突き破る必要などなかったのだ。

 にしても、いい迷惑だったのか。それとも、俺にとってはありがたい側面支援になったのか。廟堂の中を巡回していた聖職者達が言っていた「侵入者」とは、俺ではなく、ソフィアのことだったのだ。


「そこから、まっすぐ大広間に向かおうとしたのですが、どなたかの声が聞こえたので、左に」

「それで?」

「地下への階段があったので、隠れるつもりで降りたのですが、そうしたら、見たこともない廊下が……」


 あとは俺と同じだ。


「藍色の服を着た連中に捕まって、穴に放り込まれた、と」

「はい……」


 しかし、それでは、どうやって今まで彼女は生き延びてきたのか。


「それは、あちらから落ちてきました。ええと」


 すると彼女は、手を組んで何がしか、詠唱らしきものを口の中で呟いた。

 途端に青白い光が、彼女を中心に広がった。両手の間に包み込まれていたのは、光の球だった。輝きの強さはそれほどでもないのだが、広い範囲を照らしている。

 さすがというか、旧貴族の家柄に生まれた幸運ありきというべきか。早い時期から、魔術の訓練を受ける機会があった。それが今は、彼女の助けになっている。


「あ……こちらでした」


 暗闇の中で、方向感覚を失っていたらしい。


 このフロアは、ほとんど部屋らしきものがなかった。壁はあったが、天井には届いていない。仕切り板みたいなものだった。上のほうでは、すべて繋がっている。

 彼女が指差した先には、銀色の筒が見えた。要するに、あそこから落ちてきたのだ。


「どうやって? 床に叩きつけられたのでは」

「これ……」


 すると彼女は、破れた袖を見せた。


「蜘蛛の巣のようなものがありました。そこに引っかかって」

「どれ」


 実物を見たい。

 俺が歩き出すと、彼女は先に立って案内してくれた。


 果たして、蜘蛛の巣だった。但し、途方もなく大きい。

 ロープほどの太さのある白い糸が、縦横に張り巡らされていた。天井と、左右の柱、それに銀色のトンネルを取り巻くように、広い範囲をカバーしている。その一部には、まだ粘着力があって、それが落下する彼女を捕らえたのだ。

 しかし、幸運なことに、巣の主はいなかった。ソフィアは糸にくっついたまま、長い時間を過ごした。だが、意を決して衣服を引きちぎり、なんとか地面に降り立った。


 当然ながら、ソフィアは多少勉強ができ、ちょっと魔法が使えるだけの少女でしかない。この状況に恐怖しないはずがなかった。

 それでも、周囲を調べようと歩き回り、下に降りる階段を見つけた。


「見てしまったのです」


 彼女は、自分で自分を抱きかかえるようにしながら、言った。


「徘徊するグレムリンの姿を」

「グレムリン? あの青いゴブリンのことですか?」

「あれはゴブリンではありません! 事典に載っていました」


 確かに、外見もそうだが、能力にも微妙な違いがあった気がする。

 なんだったかな、そうだ、肉体がデミヒューマン・フォームじゃなくて、ミュータント・フォームになっていたっけ。何か意味があるんだろうか。


「それで、ずっとここでウロウロしていたと」

「はい……」

「灯りも消して」

「魔術を使い続けると、少しずつですが疲れもありますし、見つかりやすくなるかと思いまして」


 多分、それは無意味な配慮だ。

 あのグレムリンとかいう奴は、暗闇の中でも視界が利くか、見えなくても行動できる。


「出口は? 心当たりは」

「見つかりませんでした。というより、怖くてあまり歩き回っていないのです」

「では、この床に刻まれた文字とか、矢印は」

「ああ、それは」


 なんと、読めるらしい。


「第一世代の古代ルイン語です。といっても、少ししかわからないのですが」

「なんて書いてありました?」

「あまり意味のあることは……『前進』とか『右折』とか、それだけです」

「矢印の向こうには、何がありますか。見ましたか」

「見ました……が……こちらです」


 説明するより、見せるほうが早いと判断したのだろう。彼女は、また先に立って歩き始めた。

 右に曲がり、左に曲がって、ほぼ遮るもののない大広間の中央に立つ。そこからまっすぐ進むと、暗がりの中に、大きな長方形が見えてきた。ソフィアの発する弱々しい光を照り返しているのだ。


「あれは……扉?」

「そう見えます」


 近付いてみた。

 横幅三十メートル以上はあるだろう。高さは天井から床まではある。つまり、優に六、七メートルはあるということだ。

 錆一つない、銀色の金属板。傷やひび割れどころか、汚れすら付着していない。

 コンコン、と叩いてみる。ほとんど響かない。剣の柄で、力を込めて殴ってみた。低いゴンという音が、短く鳴った。


「頑丈そうだ」

「まさか、打ち破るおつもりだったのですか?」

「いや……」


 金属は、たわむ。本来なら、曲がるものだ。

 この長さ、広さの金属板なら、尚更簡単に座屈を起こす。だが、どうやらかなりの強度と、相当な分厚さがあるようだ。

 となると……全身全霊の火魔術を叩きつけても、打ち破れない可能性が高い。


「足下にはなんと書いてありますか」

「翻訳すると『出発』といった感じでしょうか」


 なら、これは出口なのだ。

 しかし、ここを開けるためのスイッチは?


「もう探しましたが、それらしいものは何も」


 確かに、あとは白い壁があるばかり。となれば、このゲートを開けるからくりは、別の場所にあると考えるべきか。


「他は?」

「他、と申しますと」

「上に行く階段とかは」


 すると、彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。


「あ……実は、探していなかったのです」

「なぜですか」

「下に行く階段に、魔物が見えたので……動くと危ないかと思いまして」


 だからといって、ここで動かずにいても助からないと思うのだが。


 つまり、彼女が提供できる情報は、これがすべてということだ。

 そう思うと、なぜか急速に興味が失せた。


 自分でも不思議だった。

 けれども、頭の中に浮かんでくるのは、彼女の使い道についてばかりだった。


 光魔術が使えるのなら、松明を節約できる。

 治癒魔術については、あまり期待できないか。

 古代ルイン文字を読めるなら、連れ歩く値打ちくらいはありそうだ。


 道中、ワンワン泣き喚いて足手纏いになったりはしないか。

 体力があるわけでもない。動けなくなったら捨てていこう。

 苦労して上まで連れ帰っても、システィン家は喜ばないだろう。


「あ、どちらへ?」

「上に……上を目指します」


 説明するのも面倒だった。

 とにかく、わけもなく苛立った。


 自分の中の理性が、おかしいと訴える。

 確かに、ソフィアの生存の優先順位は高くない。俺自身の生存が第一で、ピアシング・ハンドの秘密保持、不死という目的が優先。だいたい、彼女は俺にとって何者でもない。それはそうなのだが、だからといって、こんな危険な場所に紛れ込んだ少女に対して、ここまで冷淡になるなんて。

 今の受け答えにしても、わざわざ丁寧語で返事をするのさえ、面倒に思えた。


「あ、あの……」


 ソフィアは遠慮がちに呟いた。


「なんですか」


 立ち止まり、苛立ちを撒き散らしながら、俺はきつい口調で応えた。


「も、申し訳ありません。その、ここに来てから、まだ何も食べていなくて、あの、もし……」


 多分、丸一日は経っている。なら、さぞ空腹だろう。

 ふと、口からあの言葉が漏れそうになった。人はパンのみに生きるにあらずですよ、と。


 思いついて、俺はポーチからゴブレットを取り出した。


「これを飲んでみてください」

「ああ、ありがとうございます」


 両手で受け取り、彼女は深々と頭を下げてから、蓋を開けた。中は真っ白な液体で満たされていた。


「んっ」


 口をつけた。

 ここでも、俺の中の感情は、どこか奇妙だった。一人の少女を飢えから救った、という安心感ではなく、嗜虐的な思いしか浮かばなかった。そのゴブレット、俺が散々口をつけて飲んできたのに、これじゃあ戒律違反だな、とか。


「う、あああ!」


 あっという間に飲み干した彼女は、目をまんまるにしていた。

 なんだ、味がしないだけじゃないのか?


「なんという甘露でしょう! こんなにおいしいものがあるなんて! この前、ファルス様が飲ませてくださったスープにも劣りません!」


 感動のあまり、彼女は叫んでしまった。

 俺は黙って冷たい視線を向ける。


「あ、つい……」

「ここが危険だと思っているなら、騒がないでください」

「ごめんなさい」


 それからまた、すぐ彼女は気付いた。


「あ、ああっ」

「今度はなんですか」

「申し訳ありません。あまりにおいしくて……全部飲み干してしまいました。大切な食料でしたのに」


 問題ない。

 こんなものは、蓋を被せてまた開ければ。俺は容器を引っ手繰り、閉じた。それからまた開ける……


「ん?」

「あの、ファルス様?」


 増えてない。注がれていない。

 まさか、本当に枯渇した?


 いや、変なことは他にもある。

 さっき、ソフィアは「おいしい」と言った。だが確かに、俺が飲もうとした時には、味すらしなかったのだ。


 とりあえず、結論は保留して、ゴブレットをポーチに戻す。


「行きましょう」

「えっ?」

「上です」


 そう言うと、俺は歩き出した。慌ててソフィアが後を追う。俺は歩幅を広げた。


 ……この、うざったい、勝手に踏み込みやがって……『余所者』のくせに……


 自分でも理解できない怒りのようなものが、胸の奥から煙をあげていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る