大木の部屋

 波間にたゆたう。目に映るのは灰色の空。音もなく波打つのは、ミルクのように白い海。

 ふと、手をかざしてみると、腕が真っ白だった。周囲の白い水に濡れて染まったのではない。衣服も何もつけていないこの腕、皮膚の生命感などまるでなく、シリコンのようだった。となれば、俺の体は全身、同じように真っ白なのだろう。


 ここだ。ここがいるべき場所なのだ。

 これが俺だ。時間も空間もなく、虚無の狭間に漂い続ける。


 うっすらと気付いた。これは夢だと。

 いつもの仮面の夢。この白い水と、あの仮面は同じ。そんな気がした。


 ……ゆっくりと目蓋を開く。


 周囲は真っ暗だった。

 根元近くまで燃え尽きていた松明は、いまや完全に灰になっていた。体をまさぐり、次の松明を取り出す。短い詠唱の後、指先に小さな火が点る。やがて橙色の光が、この狭い室内を照らし出した。

 すぐ隣には、俺と同じようにリラックスした姿勢のままで横たわるコーザがいた。もちろん、白骨死体だ。


 時間の感覚は、既にない。ただ、俺は少し考えた。休むなら、ここがいい。ここは割合、安全な場所ではないか、と。

 もし、人肉を喰らうような動物や魔物がいる場所であるなら、コーザが五体満足のまま、ここに転がっていられるはずがない。また、ヨルギズが彼のためにメモを残せたりもしない。彼を死なせた危険に、まさに追いかけられていたのであれば、仲間を庇って必死に応戦するか、いっそ見捨てて逃げるかするしかない。


 つまり、こういう状況だったと推察される。

 コーザは別の場所で負傷した。それをヨルギズ、そして、いればだが他の仲間達は、守りながらこの場所までやってきた。可能な限りの手当てもしたのではなかろうか。しかし、努力も空しくコーザは息を引き取った。状況は依然として厳しい。重い死体を運んでここから出るのは難しい。だから、ヨルギズはメモを残し、タグに挟んでそれを保存した。一方、コーザが所持していた装備や食料などは、自分達が使うために持ち去った。

 この場所に捨て置かれたコーザの遺体は、時間と共に腐り落ちていった。もしかしたら、小さな虫けらがやってきて、食い散らかしたかもしれない。だとしても、下の階層で見かけたような巨大ゴキブリなんかには狙われなかった。もしそうであれば、こんなにきれいな状態では残っていないはずだからだ。


 そういうわけで、俺は死体の横で仮眠をとることにしたのだ。この先、何があるかわからない。なら、疲れきってしまう前に、少しでも休める時、休める場所で休んでおく。気分的にはまったく好ましいとはいえないが、状況的には、ここがベストなのだから。


 さて、目が覚めたら、今度は食事だ。といっても、この場所で煮炊きをするわけにはいかない。

 幸い、俺にはシーラのゴブレットがある。これさえあれば、最悪の状況でも飢餓に陥ることはない。ポーチから取り出して、一口飲もうとした。


「……うっ?」


 味がしない?

 まさか、腐ったとか。いや、そういう感じではない。ただ、不思議と味がない。おいしく感じない。こんなことは初めてだった。

 何かおかしい。俺はまた、蓋を閉じた。


 もちろん、それですぐに困るわけではない。背負い袋の中には、ちゃんと干し肉に塩漬け野菜、水筒もある。小さな革袋の中に密封してあったので、あのプールの水にも浸されていない。安心して食べられる。

 一口、含んでみる。問題ない。普通の塩味だ。はて、ではなぜゴブレットのほうは……


 考えてもわからない。

 とにかく、俺の味覚がおかしいわけではないらしい。


 ただ、不思議と元気ではある。むしろ、多少気分が高揚しているくらいだ。

 状況は最悪といえる。現在位置がまるでわからない。出口も見当がつかない。もしゴブレットが役立たずになっていたら、間もなく食料も枯渇する。下の階の破壊の形跡から判断するに、巨大ゴキブリ以外の脅威もきっと存在する。

 だが、いい面もある。もし、教会から正式に廟堂に立ち入る許可をもらっていたら、どうだったか。聖女の柩の前までは行けたかもしれない。しかし、開けて中を検めるなんて許されなかっただろうし、こんな横穴の向こうにまで入り込むこともなかった。真実を見逃していた可能性が高い。


 論理的に考えると、このような利点があるのだが、どうもそういう理屈はあまり関係ない気がする。

 説明しがたい何かのスイッチが入って、どんどんアグレッシブになってきている。


 どうしよう。何をしよう。

 出口を探す。これが第一だ。ここを出てから、もう一度探索してもいい。或いは、こんな空間あったけど、どういう場所? と尋ねてもいい。正直に答えないと、世界中に言いふらすぞ、と。

 けれども、それでは味気ない。もっと中を調べたい。見たい。教会を脅しても、本当のことを言ってくれるとは限らないし、もう一度立ち入る機会がある保証もない。なら、もうちょっと調べてから……


 違う。

 そうじゃない。

 なんとなく、体がムズムズする。それだけ。それだけだ。


 荷物をまとめて、立ち上がる。

 片手にトーチを持ちながら、左右を見回した。右手にはすぐ下り階段、左手には通路が続いている。それに、いくつもの小部屋が、口をあけていた。

 歩きながら左右を見回すが、どれも空き部屋だった。


 十字路に出た。深く考えず、俺は右を向いた。

 少し歩くと、付近の小部屋に変化が見て取れた。中に何かある。


 立ち入ってみた。

 突っ張りラックみたいな棚がたくさん立ち並んでいる。そこに掛けられていたのは、刀剣だった。反りのある片刃のもの。サイズはやや小さめだが、片手で振り回すには悪くなさそうだ。

 取っ手のところをよく観察して、問題なさそうと判断したので、一つ掴んでみる。軽い。出来栄えは悪くない。実際に使ってみなければわからないが、品質はそこそこよさそうに思えた。

 気になるのは、材質だ。刀身が暗い緑色なのだ。金属光沢があること、錆がついているわけでもない点を考慮すると、何かの合金で、これが正常な状態なのだろうが、まったく俺の知識にはない。

 結局、俺はそれを取らずに棚に戻した。予備の武器として持っておいてもいいのだが、これには鞘がない。既に荷物も多いし、使い慣れない道具のせいで、自分が傷つく可能性もある。


 いくつかの部屋に、こういう武器の類が大量に納められていた。

 どれも小ぶりで、緑色の刃先を持っていた。


 ここだけ見て、この建造物の目的を決め付けることはできないが……

 すると、やはり軍事施設? これは武器庫なのだろうか。


 少し先に、また別の部屋があった。

 ここにも武器? と思って覗いてみると。


「なんだ、これは?」


 武器には違いない。だが、さっきまでのとは全然違う。

 歪な刃先の戦斧。銀色の兇悪な輝きが目に付く。だが、何より異質なのはその大きさだ。柄の太さが腕くらいある。これは、人間の大人が握り締めて戦うサイズではない。こんな道具を使える奴がいるとすれば、たとえばトロールとか、オーガといった、人型の巨大な魔物だけだ。

 とすると、さっきの小ぶりな武器も、人間が使うためのものではない?


 では、ここは怪物の巣なのか?

 しかし、それも納得しがたい。


 俺は今まで、いろいろな魔物と戦ってきた。ゴブリン、劣化種のトロール、それにオーガ。どれもこれもそれなりに手強くはあったが、文化水準は低かった。多様な魔術を使いこなした、あのチュタンでさえ、所持していた槍はといえば、木の柄に骨の刃を取り付けた代物でしかなかった。オーガは簡単な木の棍棒を持っていることはあったが、それだけだ。トロールも、自分の手足だけで戦う方が多かった。

 ここに収められている武器の数々は、どれも高度な加工を施されたものばかりだ。これをゴブリンが作った、と言われて信じる人など、いないだろう。


 また十字路。今度は左に曲がった。

 ややあって目に付いたのは、やはり同じような小部屋の中身だった。


 武器ではなく、なにやら小瓶がたくさん棚に積まれている。

 中には色とりどりの薬品が詰まっているようだが、どれもこれも見たことのない種類のものだ。地上で薬品商をしていた頃にも、こんなのは目にする機会はなかった。或いは、既知の薬品なのかもしれないが、それが時間の経過で変質しただけなのか。いずれにせよ、判別できない。


 どうあれ、これだけの品物がある。誰かが作って、ここに納めている。

 ではやはり、生産施設……


 いや、待て。

 材料はどこから? 職人はどこに?

 何より、これだけの量の物資だ。どこから搬入して、どこへ搬出する?


 この地下空間への出入口が廟堂以外にないのだとすれば、これはまず成り立たない。あそこは普通の人の出入りは厳しく制限されている。大量の荷物が持ち込まれたら、どうしたって目立ってしまうだろう。とすると、やはり他に出入口があると考えるべきか。これだけの物資を積み上げておいても、使わなければ意味がない。使うには、運び出さなければならない。

 しかし、そう考えると、下の階層の大通りにも意味が出てくる。馬車でもすれ違えそうな道幅だった。では、案外出口は下にあるとか?


 まだ結論を出すには早すぎる。もう少し探索を続けたほうがよさそうだ。


「おや?」


 この暗黒の地下空間では珍しく、通路の向こうにかすかな光が見えた。

 何があってもいいよう、松明を左手に持ち替え、剣を構えてゆっくりとそちらに向かう。


 通路の突き当たりにあったのは、広大な部屋だった。


 形としてはほぼ正方形、辺の長さは少なく見積もっても三十メートル以上。出入口は、東西南北すべての方向に一つずつ。

 床がない。足場となる通路はあるが、それ以外の場所は、底の見えない深さになっている。多分、この大穴は、他の階層を貫く形に作られているのだろう。

 そして、部屋のほとんどを埋め尽くしていたのが、円筒形の何かだった。


 形だけを見て、何かに似ているとするなら、それは樹木のようだった。部屋の下から上まで、木の幹のようなものが突き抜けているのだから、そう形容するしかない。場所によっては、枝のようなものも突き出ている。

 ただ、これを樹木とするには、あまりにおどろおどろしかった。何より、質感が全然違う。なんというか、皮膚のない肉の塊のような。ところどころ、粘膜のような材質の部分があって、そこに開口部があった。だいたい例外なく、そうした口のところには枝があるのだが、その枝は風呂桶ほどの大きさのある窪みを伴っていて、そこは何かの液体に満たされていた。色はものによって異なっている。

 光っているのは、短い枝の先にある、葉っぱの集合体みたいな部分だった。そこが淡い青紫色に輝いていた。よく見ると、葉っぱの一つ一つ、その中心に小さな光の球があって、それが明滅しているのだとわかった。

 そして、上を見ても下を見ても、どこまで続いているのか、よくわからなかった。無数の枝が横に張り出しているので、視界が遮られてしまうのだ。


 あまりの異質さに、一瞬、我を失った。

 だが、すぐに気持ちを切り替えた。


「誰だっ!」


 鋭く振り返る。

 背後に気配を感じたからだ。


 暗がりに立っていたのは……


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 パングライジェン (45)


・マテリアル ミュータント・フォーム

 (ランク4、男性、15歳)

・アビリティ 高速成長

・アビリティ 降伏者の血脈

・アビリティ 機構操作

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 無光源強化

・アビリティ マナ・コア・風の魔力

 (ランク4)

・マテリアル 神通力・念動

 (ランク3)

・スキル ルー語     3レベル

・スキル アブ・クラン語 5レベル

・スキル 薬調合     5レベル

・スキル 剣術      3レベル

・スキル 風魔術     3レベル

・スキル 軽業      3レベル

・スキル 隠密      3レベル

・スキル 罠       3レベル


 空き(30)

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 こんな場所で。落ちたら死ぬようなところで、後ろをとられるなんて。


「ゴブリン!?」


 だと思ったが、よく見ると少し違う。


 肌の色は緑ではなく、暗い藍色だ。頭の形も、丸みがない。後頭部が斜め上に突き出ている。何より、灰色の前髪がある。

 背の高さは俺より少し低い程度、体も痩せている。腰には白い布を巻きつけているが、他に衣服らしきものはない。右手にはあの、緑色の曲刀がある。


 考えている暇はない。

 仲間もいるかもしれない。これ以上、不利になる前に、一気にこいつを……


 だが、この小鬼は、まるで俺に興味がなかった。


「えっ? お、おい」


 ぷいっと後ろを向くと、また暗がりに消えていく。

 走って仲間を呼ぶとか、そういう動きではない。なぁんだ、と言わんばかりの、のんびりした歩み。


 敵意がなかった?

 しかし、俺を確認にはきた。この樹木もどきを守るためだろうか。


 なんにせよ……

 これはまだ、この場所の秘密の一端でしかないのだ。


 俺は改めて、背後に聳える謎の大木に視線を向けた。

 おぞましい肉の大樹は、変わらず青紫色の光に包まれていた。

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