虚無への入口
布団を押しのける。視界には何も映らない。窓の外からも、ほとんど光が入ってこない。きっと分厚い雲が、月の光を遮っているのだろう。
耳を澄ませて気配を探る。問題ない。周囲には誰もいない。
なるべく音をたてないよう、そっと床に足をつける。爪先がひんやりした感覚に染まった。
手早くブーツを履き、縛ってしっかり固定する。背負い袋は既に収納棚から出して、転がしてある。荷物の再点検はしない。日中に済ませておいた。
準備万端整うと、俺はドアノブをそっと掴んで、ゆっくり回した。
セリパス教には、新年を祝う習慣がない。従って仕事が休みになったりもしない。
そして巡礼の宿舎の出入口には、常に人がいる。夜間でも変わらない。案内人その他の監視下にない状況で、勝手に出歩かれては困るからだ。
受付のテーブルの上に、小さなランタンの光が点っている。
その奥に、一人の男が腰掛けている。椅子の背凭れに体を預けて……だが、眠っているわけではなさそうだ。
「……んっ?」
詠唱の際の小さな声に、男は気がついた。だが、何をされたかまでは、わかっていないらしい。
俺は無言で近付いた。
「なんだ、こんな時間に……いっ?」
俺は構わず手を伸ばすと、彼の頭髪を鷲掴みにした。
「ぐっ、お」
容赦なく『行動阻害』を浴びせまくって、気絶に追い込んだ。抵抗は一切ない。手足が痺れていて、身動きできなかったからだ。そのまま彼を椅子の上に放置する。
外に出た。
はじめて誰の目にも触れられることなく、自由に聖都を歩き回れるのだ。もっとも、これで俺は犯罪者か。構うものか。
聖女がただの人間ではないらしいこと……少なくとも、何か大きな秘密の一端とかかわりがあるだろうことは、既に明らかだ。タリフ・オリムの聖女の祠の奥には、謎の碑文が残されていた。しかも、強力な魔法によって隠蔽されていた。ならば、聖女の真実を調べもせずに引き下がるのは、俺にとって許容できない損失だ。
だが翌朝には、俺は当局の手によってアヴァディリクの外に追放される。そうなったらもう、二度と戻ってこられない。廟堂の内部を調べ、聖女の不死を確認する機会は、永久に失われる。
ならもう、実力行使以外の手段がない。あとは諦めるか、諦めないか。単純な二択だ。俺は、諦めないことにした。
ダニヴィドは今も俺を見張っているのだろうか。違法行為ではある。だが、俺に恥じる気持ちはない。こんな腐りきった国家に、敬意を払う必要なんてない。
使徒はどうだろう。俺を監視しているかもしれない。だが、邪魔されるとは思えなかった。アルディニアの王宮で、奴は言ったのだ。旅を続けろ、世界の真実を知るがいい、と。
人の気配は皆無だった。夜の大通りには何もない。同じような壁や建物ばかりで、方向感覚も狂ってくる。月さえ見えない天気なので、尚更だ。
それでも、俺は足下に気をつけながら先を目指す。もうすぐ段差があるはずだ。聖都の中央部は陥没している。うっかり転落しないようにしないと。
一人で出歩くのが初めてでも、なんとかなった。
いつかプレッサンと共に廟堂を見下ろした、あの高台に辿り着けた。あとは階段を辿って降りれば、南側の幹線道路……『聖戦通り』に出られる。あとはまっすぐだ。左右に帝国時代のモニュメントを目にしながら、ただ進むだけ。
暗がりに、主を失った台座がほの白く浮かび上がる。かと思えば、反対側には白い石畳に覆われた空き地があり、その奥にはレリーフが飾られている。跪くレジャヤの王がウォドス帝に謁見する場面を描いたものだ。
セリパス教の栄光の歴史、その記録。だが俺には、廃墟の瓦礫のようにしか見えなかった。
いよいよ眼前を巨大な廟堂が覆いつくす。
だが、そこで俺は足を止めた。
様子がおかしい。
廟堂は神聖教国の中核であり、至宝でもある。だから、夜間でも神殿騎士団のエリート達が警備を受け持っている。それは当然のことなのだが……
何か異変でもあったのか。松明の光が揺れる。騎士達が殺到しているのは……彼らの行く先を目で追うと、遠く北西側の一角に、燃え上がる炎が見えた。その近くで、慌しく走り回る姿が見える。
放火?
まさか、テロか何かが……
今朝の処刑に抗議する人々が、行動を起こしたとか。しかし、それにしては。そういう理由で決起したのなら、襲うところが違う。ジェゴスの邸宅や政庁を占拠したほうがいいはずだ。或いは、本隊はそちらを狙っていて、こちらは陽動目的とか?
とにかく、これは好機だ。
一番手薄なところを見繕って、そこを突破する。
火が燃えているのとは反対方向に回り込んだ。
まばらな松明の光。だが、すべての警備兵が照明を手にしているわけではない。火災の反対側、東門の近くに立っていた男は、手ぶらで突っ立っていた。
エリートとは言うものの。聖都なんて、国内で一番安全な場所だ。本当に優秀な人材も配置される一方で、ただの家柄だけで送り込まれるのもいる。どうやら彼には、さほどの能力もなさそうだ。それはピアシング・ハンドでもわかるが、この異変に身構えていない点からしても、そう判断できる。
詠唱に続いて、俺にだけ見える黄緑色の鏃が、一直線に飛んでいく。それが彼の足に突き刺さった。いきなり力が入らなくなり、膝をつく。それでも体を支えられず、石畳の上に突っ伏してしまう。
俺は物陰から飛び出し、勢いよく駆け寄って、彼の後頭部を踏みつけて気絶させた。これでよし。
見た限り、廟堂の四つの入口は、どれも開け放たれてはいないようだ。普段は南門が使用されているが、施錠されているかもしれない。この状況ではどこから入っても大差ない気がする。
右手の袖をまくって、掌を扉に添える。火球で勢いよくぶち抜くことも可能ではあるが、さすがにそれは目立ちすぎる。扉は分厚い木材でできているのだから、焼いてしまえばいい。それも、鍵とか閂がかかっている周辺だけ。
詠唱とともに、次第に右手の先が光を発し始める。暗い赤からオレンジへと……触れている部分が黒く焦げ始め、脆くなる。そのまま指を突っ込むと、ボロッと崩れた。かき回すと、この熱量では溶かしきれない金属の錠前の部分に触れた。だが、その周りを焼いてしまえば関係ない。ほどなく、扉の向こう側にガシャンと何かが落ちるのが聞こえた。
もういいだろう。赤熱したままの手で扉を引くと、あっさり開いた。そのまま滑り込む。
内部は、当然ながら真っ暗だった。それと、やけに埃っぽい。普段の出入口として使われていないからか、空気がこもってしまっている。
俺には光魔術の知識や能力はない。だが、多少なら火でも代用できる。引き続き、右手には松明の代わりをしてもらう。左手で、剣を逆手に引き抜いた。それを持ち直して、構える。
無闇に殺すつもりはない。だが、いざとなれば躊躇はしない。
東門の内側は、まるで物置だった。もともとはここから信徒を招き入れることもあったのだろう。細長いテーブルがあり、そこに銀の燭台が居並んでいる。だが、どうやら長いこと手入れすらされていないようだ。セリパス教の聖印を描いた白い旗が、床に転がっている。他、いくつかの木箱が部屋の隅に詰まれたまま、打ち捨てられている。
目の前にもう一つ、扉がある。引き開けると、冷え冷えした真っ暗な通路が続いていた。
さほど進むまでもなく、行き止まりになった。
目の前の壁には、修復の形跡が見られる。以前はここに穴が開いていた。推測するに、このまままっすぐ進むと、あの大広間に繋がる。今は南側からしか立ち入れないので、ここは塞がれたのだろう。この壁を正面に見て、左右にそれぞれ通路が続いている。左側は、南に迂回して大広間に繋がるルートだろう。なら、ここは右に向かうべきか。
その時、俺は物音に気付いた。左側から。
誰かが近付いてきている。
まだ距離はある。どうする? 下がってやり過ごすか? 異変に気付かれては困る。
だが、どの道、東門の扉を検められたら……挟み撃ちにされる。
いや、落ち着け。まだ、どれくらいの人数か、わかっていない。一人か、二人以上か、それによって対応が変わる。それに、こんな入口付近で神殿騎士に発見されたなら、それこそもう、諦めるしかない。一人二人、片付けて強行突破。それから次のチャンスを探せばいい。
急いで引き返し、物陰に身を伏せる。
「……侵入者とは」
歳をとった男の声だ。足音は、一つではない。
「こんな一年の終わりに、なんとも物騒な」
「物騒というほどでもなかろう。聞いた限りでは、子供が一人」
子供? では、もう俺の侵入はバレている?
「子供のように見えた、というだけじゃろう、わからんぞ」
「まぁ、わしらの仕事は、書庫を確認するところまでじゃ。さっさと済ませて休もうではないか」
妙に緊張感がない。
とにかくわかったのは、彼らが行く先は『書庫』ということだけ。
老人が二人、か……
あれなら、すぐ制圧可能だ。手にしていたランタンも一つきり。あれを破壊すれば、顔を見られずに始末できる。
それに、ここに留まり続けるのは危険だ。
さっき倒した神殿騎士が、いつ目覚めないとも限らない。またもし、彼が動けないままだったとしても、戻ってきた仲間が異常に気付く可能性もある。あまり時間がない。
意を決して、足音を殺しつつ、俺は二人の後ろを行くことにした。
セリパス教の建築物は、どれも狭苦しく折れ曲がった通路を特徴としている。そういう過去に見てきた数々の教会に比べれば、廟堂内部は割とすっきりしていた。
二人の歩く道は、稲妻状に折れ曲がっていたが、基本的には一本道だった。脇にいくつも小部屋があり、それらのいくつかは扉さえついていなかった。隠れるには好都合だ。
真西に向かう通路の手前で、俺は壁際に身を寄せて、様子を窺っていた。
「よぉし、書庫……異常……なし」
「誰もおらんな? じゃ、帰ろう」
このままでは鉢合わせになる。だが、空き部屋に身を伏せればいい。もしそこで発見されたら、また気絶させるだけだ。
足音が近付いてくる。息を殺して待ち構える。
「それにしても、なんだったんじゃろうな」
「どうでもよかろう。とにかく、こっちにはおらんかった」
「もう一度、確認するか、それ、そっち」
「ああ、いらんいらん、さっき見たじゃろが……」
去っていく足音に、ようやく安堵の息を漏らした。
とにかく、互いに幸運だった。
小部屋から出て、彼らが確認した『書庫』なる場所へと向かう。途中、扉がいくつかあったが、ドアノブの下に鍵穴があるだけでなく、ものによっては壁に埋め込まれた金属の輪に鎖がかけられていて、厳重に封印されているのもあった。これはもう、ぶち壊さない限り、入り込めないだろう。とりあえずは放置して、先に進む。
不意に広い空間に出た。天井も高い。空気が余計に冷たく感じられた。
相変わらず埃っぽい。所狭しと突き立っているのは、本棚だ。そこに納められているのは、大量の羊皮紙だった。
ギシアン・チーレムの世界征服後には、羊皮紙はあまり使われなくなった。もっと安価な、植物性の紙が普及したからだ。ということは、ここにあるのは帝国時代の古文書ということになる。
歴史的価値なら、相当なものだろうが……とにかく、うっかり燃やしてしまっては大変だ。
まずは一通り、ぐるりと室内をまわった。部屋の隅に、暖炉らしきものがある。ただ、使用されている形跡はなかった。
広い空間ではあったが、とにかく障害物、つまり本棚が多い。
それで、森の中を歩くかのように、隙間から隙間へと縫うように見回ったが、あったのは本と本棚ばかりだった。たまに昔の剣や鎧などもあったが、それくらいだ。しかも、椅子も机もない。次の部屋に繋がる通路もない。となると、引き返すしかないのか?
そこでまた足音に気付いた。
なぜだ? さっきので見回りは済んだのでは。
考えても仕方がない。急いで周囲を見回した。隠れられるような場所は……
隅にある暖炉。あれがいい。少し無理をして、煙突の中に這い上がれば。
剣を鞘に戻して、大急ぎで滑り込む。幸い、竪穴は幅が広く、リュックを背負ったままでもなんとか入り込めそうだ。むしろ、ちょうどフィットするくらいのサイズだった。
しかも、暖炉の内側にいくつか出っ張りがあるようで、よじ登るのに都合がよかった。すっぽり体が隠れるところまで這い上がって、息を殺す。
しばらくして、人の気配はなくなった。
だが、安心感に一息つくと、ふと疑問を感じた。
なぜこんなところに暖炉がある?
ここは書庫らしいが、別に図書館ではない。どちらかというと、物置だ。閲覧用のテーブルもないし、椅子も見当たらなかった。なら、人が長時間、ここに滞在することを前提とはしていない。
いや、それは今の時代の話で、大昔はここに火を点していたとか……しかし、それにしては汚れらしい汚れもない。煙突の中を這い上がったのに、俺の掌は、煤で汚れてなどいなかった。当然、足下にも、焼け焦げた薪の破片なんて落ちていない。
まさか……
上へと更によじ登る。汗ばむ頬に、冷たい空気の流れを感じた。
「やっぱり」
横穴が見つかった。
つまり、これは廟堂の深部に至るための隠し通路だったのだ。
だが、恐らくさっきの二人組は、ここの存在を知らないはずだ。もし承知しているなら、ここまで確認するだろうから。
手応えあり、か。
思わず頬が緩む。やはり、この奥に秘密が隠されているのだ。
横穴から進むと、すぐ下り階段になった。結構深い。
下まで降りきった時、警戒心を呼び覚まされた。なぜなら、壁にランタンが吊るされていたからだ。それも一定間隔ごとに。それでもかなり薄暗くはあるのだが……
どうやらここは、人のいない場所ではないらしい。
大人二人が並んで歩けそうな幅の通路。壁は相変わらず白一色だ。ただ、たまに横穴がある。
覗きこんでみたが、中は真っ暗だった。人が一人、そのまま入れそうな大きさだ。斜め下方向の傾斜があり、触れてみると、壁面がやたらとツルツルしていた。
まっさらな白い壁に、何の装飾もなく、ぽっかりと開いた穴。
ふと、聖都の出入口にある、あの『虚無の門』を思い出した。あれとそっくりだ。
どこに向かって歩けばいいのか。見当もつかない。とにかく探索するしかない。
通路はどれもまっすぐか、直角に曲がっていた。帰り道を忘れないように、まずはすべて右回りに歩いてみることにする。一度曲がり、二度曲がり……
……ピィィーッ!
ハッとした。
後ろ。紺色の衣服を纏った何者かが、いつの間にか背後に立っていた。まるで忍者のように、顔まできっちり布で覆っている。そいつが口笛で仲間を呼んだのだ。
どうする? 逃げるか、それとも……
倒す!
------------------------------------------------------
ヘル (22)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク4、男性、22歳)
・スキル ルイン語 5レベル
・スキル 格闘術 5レベル
・スキル 投擲術 5レベル
・スキル 暗器 5レベル
・スキル 軽業 5レベル
・スキル 隠密 6レベル
・スキル 罠 6レベル
・スキル 水泳 5レベル
・スキル 薬調合 2レベル
空き(13)
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侮れる相手ではない。
だが、見たところ、直接戦闘の能力はさほどでもない。暗器に注意して短期決戦で倒しきれば。
逃げるのは悪手だ。地の利は相手にある。その上、さっきの口笛で仲間がここに殺到するのだ。ほどなく追いつかれてしまうだろう。となれば、なんとかやり過ごす……探索を諦めて撤退するにせよ、或いは続行するにせよ、ここはいったん追跡を振り切って、身を隠すしかない。だから、こいつは片付ける。
それにしても。もう少し、あと一日……いや、せいぜい数時間でもあれば。ピアシング・ハンドでこいつの肉体を奪い取ってやるものを。
身を伏せ、低く構えて猛然と襲い掛かる。
ヘルも、手にしたナイフを逆手に持って、迎え撃つ。
「ハッ!」
左手だけで、剣を叩きつける。それを彼は、右手のナイフの腹できれいに受け流す。
構わない。長々戦うつもりもない。
「グッ!?」
予想外の激痛に、左足の膝が揺れる。
そこで顔面に赤熱した右の拳を叩き込んだ。
片足に力の入らない状態で、それをブロックする。反応できたのはさすがだが……自然、彼の体は斜めに傾いで、壁に背を向けた。
その壁には、たまたま横穴が開いていた。
鋭いステップで立ち位置を入れ替えて、もう一度剣を叩きつける。横穴を背にしたところで、俺は手早く詠唱した。
小さな爆発音が響く。威力はそこまででもなかった。だが、破裂する空気に、俺もヘルも弾き飛ばされた。
ただ、床の上に踏みとどまった俺と違って、ヘルには掴まる場所がなかった。胸元で炸裂した一撃に体ごと浮かされて、横穴の奥へと一気に吹っ飛ばされたのだ。そして、見る間に視界から消えた。どこかに落下したのだろうか。
これでいい。
あとは急いでこの場を離れる。
闇雲に走り出し、しかし意識して冷静さを取り戻す。足音を抑えて、呼吸を整える。
大丈夫、そんなに巡回の密度も高くはないようだ。
また一つ、角を曲がったところで、異様な部屋に辿りついた。
部屋といっても、四方に通路が伸びる真ん中に、四角く広がる空間があるだけだ。ただ、そこだけはランタンもなく、やけに暗い。
その中央に立派な台座があり、その上に細長い箱……あれは、柩か?
まさか、聖女の亡骸!?
とすると、いささか残念な気はする。ここまでして、結局「聖女は死んでいた」なんて。だが、それだって成果ではある。
開けようとして、手をかける。鍵がかかっているのか? いや、鋲で留めてあるらしい。
構うものか。表面は木材だ。なら、接合部を焼いてしまえば。
ズボッと指が入る。軋む蓋を強引に押し開ける。
「なんだ、これは?」
思わず声が出た。
中に死体が入っていることは予想していた。白骨か、ミイラか……だが、その異様なことといったら。
髪の毛らしきものが、とうの昔に色素を失って、柩の底に落ちている。それはいいとして。
思った以上にツルンとしていた。白く、ブヨブヨした感じの皮膚。落ち窪んだ眼窩。なんだか、シリコン製の人形みたいだ。人間の死体が、何をどうすればこんな風になるのか。
更に奇妙なのは、手足だ。骨格らしきものが見て取れるのは、肩くらいまで。その先は、骨が抜けたみたいに関節もなく波打って、縮んでいる。
これが聖女なのだろうか? 身につけているのは簡素な貫頭衣一着のみ。他に身元のわかるものもない。判断に苦しむ。
もっとよく観察したいが、今の俺の光源は、右手の炎だけだ。うっかり燃やしてしまったら。
そこでまた、背中から口笛の音が聞こえた。
またもや新手が現れたのだ。最初の口笛を聞きつけてのことだろうか。但し今度は、少しばかり距離が開いている。俺は走り出した。
こうなっては、探索どころではなかった。ひたすら逃げ惑うばかり。もう、どこをどう通ったのか、思い出せない。
ただ、通路のあちこちから足音が殺到してきているのがわかる。前からも、後ろからも。
「くそっ」
戦うか? どれだけの敵がいるかもわからない。すべてを倒しきれればいいが、さもなければ死ぬ。この場で死なずとも、顔を見られてしまう。
やはり、逃げるのがいい。あの棺の中の奇妙な聖女もどきを見られただけでも、収穫といえば収穫だ。なんとか機会を作って、もう一度調査しに戻るというのも手か。
やむなく、自ら横穴の中に滑り込んだ。一時やり過ごしたらまた出て走ればいい。というより、他に手がない。囲まれては、さすがに生き残れない。だが、見つかったら飛び出して、可能な限り戦おう。
無数の足音がすぐ近くに迫る。全員、黒尽くめならぬ藍色尽くめだ。それが俺のいる穴の前を通り過ぎていく。
こいつらは、いったい何者なのか。
噂に聞いた、廟堂を守る秘密警察なのだろうか。
足音が消えた。
一瞬、気が抜けた。
その時、小さな黒い影が見えた。野球のボールくらいの何かが、煙を噴き出しながらトントンとバウンドしながらこちらに……
……しまった!
バン! と破裂音が響く。
衝撃でずり落ちる。それでも、なんとか斜めの床に手をついて、しがみついた。
だが、煙がひどい。目が、鼻が痛い。息ができない。
「あっ」
手が滑った。
足元の傾斜が、どんどん大きくなっていく。これは……支えられない。
「うっ……あ、あぁっ……!」
落ちる。
落ちていく。
どこへ?
どこまでも。
底知れない、虚無の中へ。
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