火刑
夜が明けても、頭上の雲が晴れることはなかった。微風さえない冬の朝。冷え切った空気が肌に吸い付くばかりだ。
同じく灰色に染まった地上では、色のない服を身に纏った人々が列をなしていた。誰もが無表情で、一言も漏らさずに。全員が、虚無そのもののように口を開けた南門を目指して歩いている。
門を抜けた向こうには、遠くに山々の白い頂が見える他は、汚れた雪が敷き詰められているだけだった。その上を人々が踏みしめるせいで、足下はますます汚れた。
街から少し離れた場所に、一際澱んだ空気が漂っていた。灰色の集団が、間に合わせの舞台の前に佇んでいる。
特別な用事があるか、病気であるか、さもなければ、一定以上の身分や職務があるか……その他何か当局に認められるような理由がない限りは、たとえ巡礼であろうと立ち会わねばならない。
聖都アヴァディリクで執行される刑罰とは、そういうものだ。これはただの裁きではない。国家としての意思表示でもある。ゆえに聖都の住民のみならず、徒歩で駆けつけられる範囲の近隣の村にも動員がかけられていた。
背中に籠を背負った小男が、卑屈そうな笑顔をを浮かべて、人々の間を行ったりきたりしている。配っているのは小石だ。
黒い覆面の恰幅のいい男達。執行人だろう。脇の階段から、四人がかりで金属の台を運び込んでいる。ほぼ正方形の形をした、底の浅いプールのようなもの。それに脚がついている。木の舞台の上に据えられた時、遮るもののないこの平野に、内にこもるような陰鬱な震動が響き渡った。
舞台のすぐ下から、枯れた柴や薪が持ち上げられ、それが金属の台の中に詰め込まれていく。この空間で活発に動いているのは、彼らだけだった。
こうしているうちにも、時間が過ぎていく。
なのに俺は、決断できなかった。
どうすべきだろうか。
彼は、死を受け入れている。そしてもう、目立たない形で彼を救い出す手段はない。
既に取り込んでいる鳥の肉体を使えば、彼を束縛から解き放つことができる。だが、それだけだ。彼の同意なしに彼を鳥に変えるためには、彼自身の肉体を奪取する他ない。しかし、そうなると、二つの問題が残る。
肉体を交換されたばかりのアイドゥスが、あえて逃亡を選択しない可能性。これが一つ。
逃亡を選択した場合でも、事前の打ち合わせがあるわけではない。そのため、あとで俺の近くに戻ってきてくれる可能性は限りなく低い。なにしろ、時間経過でどんどん知性が低下する。やがては記憶も薄れて、最終的には、この冬のセリパシアの寒さで凍え死ぬだけではないか。
結局のところ、彼が俺の提案を拒否した時点で、彼を救出する作戦は成り立たなくなっていた。
なぜなら、早い段階で彼に代わりの人間の肉体を与えねばならないからだ。長期間、動物になったままでは人間に戻るのが難しくなる。また、彼自身の肉体をとっておけるにせよ、そのままの外見では教国から脱出できない。つまり、どうあがいても殺人なしには助からない。であれば彼は絶対に受け入れない。
どうにもできない。
薄々はわかっている。わかっているが、なんとかしたい。できるのでは、とも思う。
しかし、だとしても。やっていいのか。やるべきなのか。
それがまた、別の問題になっている。
誰もが沈黙を守る中、粗末な黒塗りの馬車が騒がしく音をたてながら、駆けつけてきた。
胸の奥が締め付けられる気がした。
他に何があるはずでもないのに。馬車から想定された人物が出てこなければいいと思った。
執行人が無造作に馬車の幌をめくり上げると、昨夜見かけたままの姿で、アイドゥスが現れた。
馬車の荷台から地面までは間が開いているので、片手で掴まりながら、慎重に足を下ろす。
なんでもない一幕に見えなくもない。しかし。
誰一人声をあげたりはしないが、周囲の人々が驚きに目を見開いているのはわかる。
まったく縛られていないのだ。
粗末な灰色の僧衣、そして足下が雪であるにもかかわらず裸足のまま。これだけでも囚人として扱われているのは明らかだ。だとしても、首枷もない。腕すら縛っていない。では、逃走の可能性を考慮していない?
老いたりとはいえ、彼には魔術の力がある。触媒などは取り上げられてしまっているので、できることに限度はあるだろうが、それでも目くらましくらいは可能なはずだ。抵抗されるとは思わないのか。
だが、徐々に理解が追いついてくる。抵抗できないのではなく、しない。するつもりがない。
拘束されていてもいなくても、彼は逃げようとしない。なら、わざわざ重い刑具を引き摺って歩くなど、無駄なだけだ。しかし、常識的には、それでも執行人は拘束しようとするだろう。万が一の事故が起きては、責任問題だからだ。
だからこれは、むしろ積極的に拘束しないことを選んだ、とするべきだ。理由は?
アイドゥス本人が、あくまでも自発的に刑罰に臨んでいるのだと。これは、そういうメッセージだ。
そして、これには執行人側の利益も織り込まれている。
アイドゥスは、今の教国の上層部でこそ窓際族だったが、一般市民からの人気は高かった指導者だ。短かったトゥリル教皇時代には規制緩和で庶民の生活を改善し、その後も許された範囲でボランティア活動を繰り広げてきた。人々は、その事実を忘れてなどいない。
つまり、誰かが刑の執行を妨害しようとするのでは……その危険分子の中には、まず彼の弟子達、それと命を救われた患者達、ついでに俺も含まれている……そういうテロリスト達に、間違った目的を捨てさせるために。受刑者は、助命を求める哀れな犠牲者ではなく、自ら裁きを受け入れているのだ、だから救助など無用なのだと、そう伝えるために。
いくら手足を拘束されていないにせよ、アイドゥスが一人で大勢の群衆の前から逃げおおせるなど、さすがにあり得ない。怖いのは、むしろ第三者の介入ではないか。執行人とて人間だ。変に恨まれたり、暴動に巻き込まれて死んだりなんて、したくない。彼はその点を説明したのだろう。
その目的とするところはもちろん、「自分のせいで罪に問われる人が増えてはならない」という一事に尽きる。
執行人の一人が、角笛を吹き鳴らした。
始まってしまう。
答えは出ない。俺の中では。それでも。
顎で指図されると、アイドゥスはいつも通りの微笑を浮かべて、おとなしく頷いた。そして舞台の脇から階段を踏んで、中央に立った。背筋をまっすぐに伸ばして。
そのすぐ足下から、声がする。
「耳ある者は聞け」
白い衣服に身を包んだ太った司祭が、手にした書状の中身を読み上げる。妙に甲高い声で、そして早口に。
「これなる大罪人、アイドゥス・ハイブは、聖女の遺命も忘れ、穢れを穢れとも思わず、悪事を為す者どもに手を貸した。のみならず、その強情な心根ゆえに、反省をも拒んだ。聖典を軽んじ、女神を侮った。その罪は極めて重く、聖火をもって清めることの他に、道はない」
この陰鬱な空間の中で、この司祭だけが興奮していた。
「唱和せよ! 罪穢れに染まった者の、なんと醜いこと!」
さっさと殺して終わり、とはいかない。これは見せしめなのだ。
誰であろうと、今の教会に逆らうなど許されない。秩序には、それを定めるものと、従うものとがいる。間違えてはならないのだと。
「なんと醜いこと」
「道を踏み外した者は、悪臭芬々たり!」
「悪臭芬々たり」
「邪悪の誘惑に屈した魂は、清められねばならぬ!」
「清められねばならぬ」
頭上の濁った空を、そのまま音にしたような声。
誰が望んで彼を罵倒しようか。
一方の司祭は明らかに陶酔していた。そしてその陶酔を、聴衆にも強いていた。声を張り上げなければ届かないから、というだけではないようだ。
彼の興奮を支えるものは何か? 庶民に愛される男を公衆の面前で処刑する役……普通なら、誰もがやりたがらない仕事だ。それを敢えて請け負ったとすれば。きっと素晴らしい報酬が約束されているのだろう。
だが、それは彼の個人的な都合でしかない。
唱和の後は……藁の婚礼で見た通り。人々は口々に罪人を罵る。司祭はそれを求めた。
「おお人々よ、彼の過ちを訴えよ! 怒りの声を女神の御許にまで届かせよ!」
その時、小さな奇跡が起こった。
誰も何も言い出さなかった。
互いに目配せするばかり。顔を伏せ、だらりと腕を下ろして。それは、抵抗なき抵抗だった。
本当の罪がどこにあるのか。ただの農民とて、そこまで愚かではない。搾取に搾取を重ね、ついに奪えるものがなくなっても。なおも欲する支配者達は、ついに自由を対価にし始めた。夫の、妻の、息子の、娘の手を握ることさえ許されない。そんなものが、本当に女神の求める正義なのか。
隠れ娼婦達を産んだのも、元はといえば当局の収奪だ。そして彼女らを鞭打つのも、やはり教会なのだ。その仕組みに背いた善意の人が、こうして罰を受ける。なのに、表立っては逆らうことさえできない。
「こっ……こっここ、声を! 声をあげよ! 無辜の人々よ!」
反応を求めて、司祭は声を張り上げる。
声ならもう、届いている。聞こえない声こそ、怒りの声だ。
「ええい! 石もて打て!」
一向にアイドゥスを非難する声があがらないことに苛立った司祭は、そう喚き散らした。
人々は、逆らわない。やがて、バラバラと石が何かに跳ね返る音が響き始めた。
「いっ!? だっ!」
弁護のために、一言添えておかねばなるまい。石を投げるのは、意外と難しいのだ。特に、狙った場所に当てるとなれば。
ほとんどの石は、舞台の上に落ちた。いくつかは、アイドゥスの横に立つ執行人達に命中した。彼らはすぐに腕で顔を覆って、左右に下がった。そしてごく僅かな石が、物凄い勢いでとんでもないところに飛んでいった。
「どっ、どこに投げっ……あだっ!」
一際大きな石が、鋭く回転しながら司祭の頭に突き刺さり、白い僧帽を弾き飛ばした。司祭は思わず頭を抑え、その場にへたりこんでしまう。
なぜか不思議なことに、肝心の的には、ほとんど当たっていないようだった。
石の雨が収まると、ようやく司祭は目を開けて、立ち上がろうとした。だが、額から血が流れ落ち、白い僧衣を汚すと、跳び上がって叫んだ。
「お、おお……だ、誰だ! 私に石をぶつけたのは! お、お前達は女神の裁きが恐ろしくないのか! ええ?」
言い終わると、また彼は頭を押さえた。血が止まらないらしい。
それと見て取ったアイドゥスは、執行人に一礼すると、足音もたてずに雪の上に降りた。そして、後ろから司祭の肩に触れる。
「なっ」
そのまま、何事かを唱えながら、指先が傷ついた額に触れる。小さな光が灯り、彼の傷は癒された。
「何をするっ! 罪びとは裁きの場に戻れっ!」
感謝の言葉もなく、司祭はアイドゥスの手を振り払った。彼も逆らわず、穏やかな笑みを浮かべたまま、また壇上に戻った。
その落ち着きぶりが癪に障ったのだろう。屈辱に顔を紅潮させながら、司祭は彼を指差し、怒鳴りつけた。
「おのれ……罪びとよ、悔悟せよ! 既にお前は死の裁きを避けられぬ! せめて、罪を悔い改めよ!」
本来、罪人に話す自由を与えるのは、危険なことだ。
なぜなら、死を前に、とんでもないことを言い出す可能性があるからだ。しかし、正義の裁きを下そうというのであれば、その自由を封じてはいけない。真実を闇に葬ってはならないからだ。
要するに、これも処刑における手続きの一つだ。罪人は、当局による処罰を肯定しながら死ななければならない。なぜなら執行されるのはただの刑罰ではなく正義であり、正義であるからには罪人自身にとっても好ましいものであるはずだからだ。言い換えると、本人が「冤罪だ」「不当だ」と訴える場合、正義に傷がつくので、やすやすとは執行できなくなる。
だが、大抵の死刑囚は、女神を褒め称え、正義を願いながら死んでいく。なぜか。家族や友人が、とばっちりを食らうからだ。
では、巻き添えになる知人のいない、強情な囚人はどうするのか。無論、それなりの待遇が待っているのだろう。たっぷり拷問してから、終わりにしたければ……と迫ったり。難しいことは何もない。
つまり、これは罪人に対する精神的レイプなのだ。これから自分を殺そうとする悪意そのものに、進んで屈服しなければならない。どれほど悔しかろうとも、そうするしかない。殺されるのに、殺してくれてありがとう、と……その惨めさは、見物する人々にも伝わる。それがまた、人々の恐怖を煽る。
だが、今回のアイドゥスに限っては、意味がなかった。
血縁者はおらず、今更巻き添えにする人もいない。とっくに死を覚悟しているし、あまりのスピード裁判のせいで、事前の拷問による脅迫も効いていない。その事実を、彼はすっかり忘れてしまっているようだった。
彼は、司祭の命令に頷いた。
「皆様」
静まり返った聴衆を前に、彼は端的に告げた。
「女神はすべてをご存知です」
これは聖職者も否定できない一言だ。そして、まったく別の意味にも解釈できる。
地上の僧侶達が、誤った裁きを下したことを、その罪を。女神はよく知っているし、決して忘れもしないのだ。
「女神は、この世界に昼と夜とを創られました。皆様はご存知でしょう、冬の夜の冷たさを、その長さを」
「何を言っておるのだ! 罪を悔いよ! 罪を!」
「その苦しさゆえに、女神を恨まずにはいられないこともあったでしょう。けれども」
恨み、という単語に、司祭は動きを止めた。どう解釈すべきか。
女神を恨むのは罪だ。しかし、アイドゥスは「けれども」と否定の意志を示した。
「もう一度だけ、信仰に立ち返ってください。あと一度だけでも、信じてみてください。私にはわかります。女神は決してあなた方を見捨てはしません。凍えるあなた方の頭上に、きっと輝く陽光を恵んでくださいます」
……アイドゥスは、やはり。
死に臨んでも、自分の使命を果たそうとしている。月の道を往く人々のために、命をなげうつつもりなのだ。それがこの世界にとって、必要不可欠なものであると、信じているから。
なら、俺は……
冷たい空気の中で、汗ばむ掌を開き、また握る。
もう時間がない。
正義とは、いったい何だ?
ただ生きることが正しいのか? 生かすことだけが正しいのか?
では、死を受け入れるのは、間違いなのか? そもそも、何のために生きるのだ?
「あなた方すべてに、祝福がありますように」
結局、アイドゥスは一言も罪について語ろうとはせず、そのまま口を閉じた。
「このっ! もういい、やれ! 火の裁きを下せ!」
司祭の怒号が響き渡る。
執行人の一人が、種火を片手に、壇上に登った。そして既に上にいた二人が、いよいよアイドゥスを刑に服させるべく、近寄った。
それを彼は、静かに手で遮った。
舞台の真ん中に据えられた金属の台の上。敷き詰められた薪の上に、自ら膝をついた。
すぐ下からは、重い鎖を抱えて運び込もうとしている執行人がいたが、彼は途中で足を止めた。
「何をしている! さっさとしろ!」
灼熱の炎で罪人を焼くのだ。その苦しみは筆舌に尽くしがたい。そのつもりがなくても、また助かる術などないと承知していても、激痛ゆえに反射的に逃げようとしてしまう。人とはそういうものだ。
だからこその鉄鎖なのだ。重い鎖で全身を束縛されれば、身動きなどできようもない。余計な手間もかからず、また受刑者本人にとっても、恐怖が増すばかりの無意味な時間を短縮してやれる。
だが、既に台座の上で膝をついたアイドゥスは、それを不要として首を振った。
執行人の一人も、首を振った。それで鎖はまた下に戻された。代わりに、慌しく桶が持ち込まれた。あの中にあるのは、黒い油だった。
これは慈悲なのか、それとも悪意なのか。あんなものを浴びせられたのでは、あとはもう燃え上がるほかない。苦痛は増そうとも、死は近くなる。
……どうする?
今。今なら、まだ。
まだ、救える。何もかもを滅茶苦茶にすることにはなる。それでも、彼だけは。
何度も何度も、掌を握り、また閉じて。
だが、やろうと思うたび、心の中に正当性を問う声を聞いた。俺はそれに答えることができなかった。
木の棒の先に点る小さな火種が、すっと台座に投げ込まれた。
汚れた銀色の台座の奥に、橙色の光が映った。
だめだ。
救えないなら仕方ない。だが、俺はできるのだ。少なくとも、可能性なら。であれば、やらずにいるのが正しいなんて、思えない。
理由なんか後でいい。今は、彼を。
人込みを掻き分け、前に出る。下から台座の上のアイドゥスをはっきり視認した。
あとは肉体を与えて、奪う……
……彼と目が合った。
跪き、胸の前で手を組んで。
膝から下を焼く激痛にもかかわらず、彼は表情を崩してさえいなかった。
彼は、祈っていた。
これまで、どこでも目にしたことのないほど熱心に。
呪わしい炎が風を呼んだのか。
赤い火の粉が吹き散らされた。
敷き詰められた薪の上で、波打つ炎の舌が、踊っては身を伏せた。次第に遠慮を忘れ、観衆を挑発するかのように、祈る者を嘲るかのように、おのが身をくねらせる。
彼は、動かなかった。
一歩踏み出せば、そこは火のない舞台の上。生者の世界なのに。
水音がした。
いつの間にか、左右に立つ執行人が、桶の中の油をぶちまけていたのだ。
周囲の人々が息を飲む。
炎の悪魔は居場所を与えられて、やっと誇らしげに胸を張る。
死ぬ。
死んでしまう。
もう、助けられない。鳥になっても、あの炎に呑まれるだけだ。
彼の善行が。学識が。努力が。
無になる。
何もかもが失われる。
そんな……
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(自分自身) (12)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力
(ランク6)
・アビリティ マナ・コア・火の魔力
(ランク4)
・マテリアル プルシャ・フォーム
(ランク9+、男性、10歳、アクティブ)
・マテリアル ラプター・フォーム
(ランク7、オス、14歳)
・スキル ルイン語 4レベル
・スキル 身体操作魔術 6レベル
・スキル 火魔術 7レベル
・スキル 料理 6レベル
・スキル 剣術 8レベル
・スキル 格闘術 5レベル
・スキル 隠密 5レベル
・スキル 治癒魔術 7レベル
空き(0)
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……こんな時に何をやっているんだ。
自分で自分にそう思った。
またとない、貴重な能力だから。ただの燃えカスにするくらいなら。
だからって、奪い取って何になる? 知識も経験も、教本もない、触媒もない。
俺はなんだ? 火事場泥棒か? 違いない。
ただ、これは、アイドゥスにとってよいことだったのか。
無になるのを見過ごすより、少しでも何かを受け取っておくべきではなかったのか。それも自分の中の言い訳のように思える。俺は浅ましい人間でしかなかった。
もう、彼はここにいない。
祈ったままの姿で黒い消し炭になってしまった。なのに炎はなお高く、容赦なく彼の亡骸を苛んでいた。
宿舎に戻ったのは、昼過ぎだった。
朝から何も食べていないのに、まったく食欲がなかった。ただただ体が冷え切っていて、力がわいてこない。なのに、不思議と昂ぶっていて、休めそうにもない。それで俺は、ただ一人、談話室のソファに座り込んでいた。
俺のせい、なんだろうか。
わからない。助けることができなかった。能力がなかったのではない。助ける理由を見つけられなかった。
何より、彼自身がそれを望んでいなかった。だからといって、それなら自業自得、俺の責任ではないのだと、そんな理屈で済ませる気にはなれなかった。
意味は、あったのか。
意味などない。
だが、意味のないところにこそ、意味が宿り得るのだ。
堂々巡りの思考に沈む俺の視界の隅に、白い僧衣がちらついた。
「……あの、ファルス様」
プレッサンだった。
顔をあげる。
「その、今日はお疲れ様でした」
心なしか、彼の顔色もすぐれなかった。
「なにか」
「は、はい」
どんな用事があるのか。さしたる興味もなく、尋ねた。
すると彼は、懐から慌しく一通の書状を取り出した。
「そ、その」
「なんですか」
「……教会より、在留期限超過の通知と、退去勧告が」
言葉の意味を飲み込むのに、一秒くらいかかった。
当然だ。
俺の在留期間延長は、アイドゥスの推薦状によるものだった。ならば、彼の処刑によって、その有効性は立ち消える。
「いつまでですか」
「信仰告白の月、一日の午前中までの滞在が……改めて認められましたが、その」
要は明日の朝、聖都を出て行け、と。
それだけのこと。
「あ、あの」
「まだ何か」
「わ、私も、その、ファルス様の担当は外れまして、その……今後の見学計画はないということで、まぁその」
もう関わりたくない、だから逃げます、と。
どうでもいい。彼の身分と肉体にはもう、利用価値がない。
「お、お、あの、お元気で」
「プレッサン」
自分でも驚くほど、暗い声が漏れて出た。
「は」
「……命拾いしたな」
本当に。
彼は運がよかった。
「し、失礼します!」
身を翻すと、彼はバタバタと走り去り、それから二度と戻ってこなかった。
何もかも。
すべてが無になった。この聖都に身を置いた一ヶ月のすべてが。
俺は追放される。何一つ手にできないままに。
……だが、そうはいくか。
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